第1話:最強の勇者、最後の敵
どれほどの時間を、この旅に費やしただろうか。
故郷を捨て、仲間と出会い、そして別れ、数え切れぬほどの魔物を斬り伏せてきた。そのすべては、この瞬間のためにあった。
勇者リアンは、目の前にそびえる巨大な扉を見上げていた。黒曜石を削り出したかのようなその扉には、禍々しい紋様が刻まれている。世界のあらゆる悪意と絶望を練り固めたような、魔王城の玉座へと続く最後の扉だ。
ここまで辿り着くのに、多くのものを失った。背負った人々の希望は、いつしか鉛のように重い義務へと変わっていた。それでも、歩みを止めることは許されない。俺が、勇者だからだ。
「……終わらせる」
誰に言うでもなく呟き、リアンは扉に手をかけた。想像を絶する重さも、呪いの類もそこにはない。ただ、長い間開かれていなかったことを示すように、軋んだ音を立ててゆっくりと開いていく。
隙間から漏れ出すのは、淀んだ魔力と、そして――薬草を煎じたような、微かな匂い。
リアンは眉をひそめた。魔王の間に満ちているべき匂いではない。訝しみながらも、彼は躊躇なく中へと足を踏み入れた。
玉座の間は、想像していたよりもずっと静かだった。
天井は高く、ステンドグラスには歴代魔王の禍々しい姿が描かれている。しかし、床には埃が積もり、豪華であるはずの調度品は白布で覆われていた。まるで、主を失って久しい廃墟のようだ。
そして、その中央。
部屋の広さには不釣り合いなほど巨大な玉座に、それはちょこんと座っていた。
「…………子供?」
リアンの口から、思わず声が漏れた。
玉座にいたのは、世界を恐怖に陥れる魔王ではなかった。年の頃は十六か、十七か。色素の薄い金色の髪を長く伸ばした、痩せた少女が一人、そこに座っていたのだ。
着ているのは、魔王の威厳を示す豪奢なローブではなく、質素な白いワンピース。その小さな体で、あまりに巨大な玉座を持て余しているように見える。
少女は、リアンの存在に気づくと、びくりと肩を震わせた。その大きな紫色の瞳が、恐怖と、そしてどこか諦めに似た色をたたえて、まっすぐにリアンを見つめている。
「……あなたが、勇者様、ですか?」
か細く、鈴を転がすような声だった。しかし、その声には生気が感じられない。
リアンは警戒を解かず、腰の聖剣に手をかけたまま、ゆっくりと距離を詰める。
「いかにも。俺が勇者リアンだ。貴様が、この世界の災いの元凶、魔王か」
「……はい。私が、今の魔王、です」
少女はこくりと頷いた。その拍子に、ケホッ、と乾いた咳を漏らす。口元を押さえた指は、病人のように白く、細かった。
リアンは困惑していた。目の前の少女からは、確かに膨大な魔力を感じる。それは紛れもなく、世界を歪めるほどの強大な力だ。
だが、それだけだった。憎悪も、悪意も、敵意も感じられない。ただ、巨大な力の器が、中身の重さに耐えきれず、今にも壊れそうに軋んでいる。そんな印象だった。
「……何故、抵抗しない。なぜ、配下の魔物を呼ばない」
「配下なんて、もう誰もいません。みんな、私を見捨てて、どこかへ行ってしまいましたから」
少女は寂しそうに微笑む。
「それに、抵抗なんて、できません。私は……この玉座から、もう一人で立つこともできないんです」
その言葉を証明するように、少女は少しだけ身じろぎをしたが、すぐに苦痛に顔を歪めて動きを止めた。
何かがおかしい。
リアンは聖剣〈アルティウス〉を鞘から引き抜いた。黄金の輝きを放つ聖なる剣。魔を滅するために鍛えられたこの剣は、邪悪な存在を前にすれば、その輝きを増すはずだった。
しかし、聖剣は静かな光をたたえるだけだった。
目の前の少女を「悪」だと認識していない。ただ、そこにある膨大な「魔力」そのものに反応しているに過ぎない。
リアンは、初めて感じる事態に、剣を握る手に力がこもる。
「……貴様は、何者だ。なぜ、魔王になった」
問いかけると、少女は少しだけ遠い目をした。
「私の名前は、エリア。ただの村娘でした。……偶然、先代の魔王様が封印されていた遺跡に迷い込んで、それで……無理やり、この力を押し付けられたんです」
彼女の体は、魔王の力の器にされただけ。その強大すぎる力に適合できず、魂と生命力を内側から喰い荒らされている。リアンの目にも、それがはっきりと分かった。
「この力のおかげで、私の命は、あと一ヶ月くらい、だそうです」
エリアは、まるで他人事のようにそう告げた。
「だから、いいんですよ、勇者様。私を、斬ってください。それで世界が救われるのなら、その方がずっといい。もう、苦しいのは、嫌ですから」
彼女はそう言うと、そっと目を閉じた。長い睫毛が、白い頬に影を落とす。
覚悟を決めたその姿は、あまりに儚く、そして美しかった。
リアンの旅は、ここで終わるはずだった。
この少女を斬れば、世界は救われる。人々は勇者を称え、平和が訪れる。それが、リアンが背負ってきた義務であり、唯一の目的だった。
リアンは聖剣を振り上げた。
黄金の刃が、エリアの細い首筋にかかる。
あとは、振り下ろすだけ。感情を殺し、これまで幾度となく繰り返してきた行為を、ただ、実行するだけだ。
――だが。
リアンの腕は、震えていた。
剣が、重い。ただの鉄塊のように、重い。
目の前の少女を「倒すべき敵」として、どうしても認識することができなかった。
長い、長い沈黙が流れる。
やがて、目を開けたエリアが、不思議そうにリアンを見上げた。その紫色の瞳には、困惑の色が浮かんでいる。
「……勇者様?」
その声に、リアンは我に返った。
彼は、振り上げた聖剣を、ゆっくりと、鞘へと納めた。
カチン、と金属の澄んだ音が、静まり返った玉座の間に響き渡った。
「……貴様を斬るのは、やめた」
「え……?」
エリアが驚きに目を見開く。
リアンは、そんな彼女に向き直ると、静かに告げた。
「代わりに、お前の最後の願いを聞いてやる。死ぬ前に、やりたいことはあるか」
それは、勇者としてではなく、一人の人間として、リアンが初めて自分の意志で下した決断だった。
最強の勇者の旅は、この日、終わりを告げた。
そして、新たな旅が、今、始まろうとしていた。




