土佐の風、昔日の君
第一部 土地の理
第一章 ビニールハウスの涙
土佐の太陽は、容赦がない。ビニールハウスの天井を白く焼き、内部の空気を湿った熱で満たしている。いきれ立つ土の匂いと、生命力に満ちた青い香りが混じり合い、深呼吸するたびに肺が重くなるようだった。
中村茜、三十五歳。彼女の世界は、このビニールハウスの中にあった。高知県が全国に誇る「園芸王国」の一翼を担う、中村家の農園。温暖な気候を利用した施設園芸は、この土地の農業の根幹だ 。茜は、汗で額に張り付いた髪を無造作にかき上げると、ずらりと並んだ茄子の畝に目をやった。艶やかな濃紫色の実が、青々とした葉陰で重そうに垂れている。高知の冬春なすは、全国出荷量の三割以上を占める、まさにこの土地の宝だった 。
「茜、そっちの列、そろそろ葉かきをせにゃいかんな」
通路の向こうから、父・正一のしわがれた声が飛んできた。茜は「わかっちゅう」と短く返し、慣れた手つきで余分な葉を摘み取り始める。彼女の指は、長年の土仕事で節くれだち、爪の間には土の色が染み付いている。しかし、その動きには無駄がなく、植物に対する深い愛情と敬意が感じられた。それはまるで、熟練の職人が道具を扱うような、静かで確かな手つきだった。ここでは、言葉よりも手の動きが雄弁に語る。この農園が、彼女の誇りであり、彼女自身の一部であることを。
中村家の農業は、ただの家業ではなかった。天敵昆虫を利用した減農薬栽培を積極的に取り入れ、環境にも消費者にも優しい農業を実践している 。それは、大学で農学を学んだ茜が主導して導入した方法だった。父も母も、初めは半信半疑だったが、今では茜の知識と技術に全幅の信頼を寄せている。彼女は、ただ親の跡を継いだ娘ではない。この農園を未来へと繋ぐ、確固たる意志を持った経営者の一人だった。
「そういや、隣の山本さんとこの息子さん、おまんのこと、えい言うてくれゆうらしいぞ。いっぺん、会うてみんかえ?」
正一が、またその話を持ち出してきた。町一番の美人で、誰にでも気さくに話しかける茜は、周囲から愛されていた。お見合いの話や紹介は、それこそひっきりなしに舞い込んでくる。だが、茜はいつも、このビニールハウスの中の植物にするのと同じ、穏やかで、しかし断固とした微笑みでそれらを断ってきた。
「お父さん、今は茄子の世話で忙しいき」
その返事も、もう何度繰り返したかわからない。正一は「そうか」とだけ言って、再び自分の作業に戻った。優しい父は、それ以上何も言わない。だが、その背中には、一人娘の将来を案じる気持ちが滲んでいた。
父の姿が見えなくなり、ハウスの中に一人きりになると、茜の表情からふっと力が抜けた。彼女が守り続けてきた陽気な仮面が、するりと剥がれ落ちる。茜は、摘み取ったばかりの茄子の実を手のひらでそっと包み込んだ。ひんやりとして、滑らかな感触。命の重み。
ふと、一滴の雫が、その紫紺の肌を濡らした。
ハウスの天井から落ちた結露か、それとも額を伝った汗か。いや、違う。それは、誰にも見せたことのない、茜自身の涙だった。
この土地に根を下ろし、土と共に生きると決めたあの日から、十年以上が過ぎた。仕事は充実している。両親も元気だ。町の皆も優しい。幸せなはずだった。だが、心の奥底には、決して癒えることのない空洞が広がっている。大学時代、東京で出会った彼、橘蓮。卒業後、海外赴任が決まった彼とは、遠距離恋愛の末に別れた。それでも二、三年間は連絡を取り合っていたのに、ある日を境に、ぷっつりと音信が途絶えた。
彼に新しい恋人ができたのだろう。そう思うしかなかった。諦めるために、忘れるために、茜は土にすべてを捧げた。植物の世話に没頭している間だけは、心の痛みを忘れられた。種を蒔き、水をやり、実りを待つ。その規則正しいサイクルが、乱れかけた心をどうにか支えてくれていた。彼女にとって農業は、単なる生業ではなく、心の拠り所であり、過去の亡霊から身を守るための聖域だったのだ。
しかし、どんなに土に塗れても、どんなに作物が豊かに実っても、心の空洞が埋まることはなかった。三十五歳。気づけば、蓮と別れた歳をとうに追い越していた。
涙を手の甲で乱暴に拭うと、茜は再び立ち上がった。感傷に浸っている暇はない。この茄子たちを、最高の状態で市場に送り出す。それが今の自分にできる、唯一のことだ。彼女は再び、あの気さくで働き者の「中村さんちの茜ちゃん」の仮面をつけ、作業に戻った。湿った熱気に満ちたビニールハウスだけが、彼女の秘めた悲しみを知っていた。
第二章 黄昏の面影
一日の終わりを告げる夕陽が、西の山稜を茜色に染め上げていた。高知県の地形は、その八割以上を森林が占めている 。幾重にも連なる山々のシルエットが、刻一刻と色を変える空を背景に、深い影絵のように浮かび上がっている。日中の猛烈な暑さが嘘のように、ひんやりとした風が吹き始め、土の匂いや遠くで薪を燃やす香りを運んでくる。
茜は、農具小屋の前で道具の手入れをしていた。鍬についた土を丁寧に洗い流し、鎌の刃を点検する。体は心地よい疲労に満たされ、心は穏やかだった。この、一日の労働を終えた後の静かな時間が、彼女は好きだった。規則正しい日々の繰り返し。それが、彼女の心を平穏に保つための、何よりの薬だった。
ふと、農道の先に人影が見えた。
農園を訪ねてくる人は珍しい。観光客が道を間違えたのだろうか。茜は訝しげに目を細めた。人影は、長い影を引きながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる。夕陽を背にしているため、顔はよく見えない。ただ、そのシルエットには、どこか見覚えがあるような気がした。
やがて、男が茜の立つ数メートル手前で足を止めた。都会的な仕立ての良いシャツにスラックス。この土と汗にまみれた風景の中では、あまりに場違いな服装だった。
逆光が和らぎ、その顔がはっきりと見えた瞬間、茜の心臓が大きく跳ねた。時が、止まった。手にしていたタオルが、音もなく地面に落ちる。
「……あかね」
呼ばれた名前に、全身の血が逆流するような衝撃が走った。忘れたことなど、一日もなかった声。記憶の中に封じ込めていたはずの、懐かしい声。
「……れん……?」
絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。「どういて……」。なぜ、ここに。土佐弁の響きが、彼女の混乱をそのまま映し出していた 。
橘蓮。大学時代、彼女のすべてだった男。昔とほとんど変わらない、少し癖のある髪。優しげな目元。ただ、昔の彼が持っていた屈託のない明るさの代わりに、今はどこか影のある、憂いを帯びた雰囲気が漂っていた。
蓮は、言葉を失ったように茜の姿と、彼女の背後に広がる広大な農園を見渡していた。彼の記憶の中の茜は、東京の小さなアパートで、未来の夢を語り合っていた華奢な女の子のままだった。目の前にいるのは、日に焼け、たくましく、大地にしっかりと根を張った一人の女性。その堂々とした立ち姿、作業着の着こなし、すべてが彼の知らない時間を物語っていた。彼はまるで、過去から迷い込んだ幽霊のようだった。そして、彼女こそが、この場所に息づく確かな現実そのものだった。
「ごめん、突然……」
蓮がようやく口を開いた。その声には、十数年分の戸惑いと後悔が滲んでいた。
「明日……明日、もう一度、ゆっくり話せないかな」
あまりに突然の再会に、茜の頭は真っ白だった。怒り、悲しみ、そして心の奥底で消えずに燻っていた愛しさ。あらゆる感情が渦を巻き、言葉にならない。彼女はただ、小さく頷くことしかできなかった。
蓮は、何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずに踵を返した。彼が去っていく姿を、茜は呆然と見送る。やがて彼の姿は夕闇に溶け、あたりには虫の音が響き渡るだけになった。
茜は、自分がずっと立っていたことに、ようやく気づいた。足元の土の感触が、やけに生々しい。彼女が十年以上かけて築き上げてきた、穏やかで揺るぎないはずだった日常。その平和は、今、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
第二部 過去を掘り起こす
第三章 仁淀川のほとりで
翌日、二人が会う場所に選んだのは、仁淀川沿いに佇む古民家を改装した茶屋だった。縁側の席からは、川の流れが一望できる。その水は、息を呑むほどに青く、澄み渡っていた。地元では「仁淀ブルー」と呼ばれる、奇跡のような色彩 。そのあまりの美しさは、かえって非現実的に感じられ、二人の間の重苦しい沈黙を際立たせた。
運ばれてきた土佐茶の湯気が、静かに立ち上る 。茜は、湯呑を両手で包み込み、その温かさに意識を集中させた。そうでもしないと、目の前の男を直視できそうになかった。
先に沈黙を破ったのは、蓮だった。
「昨日は、本当に驚かせたと思う。ごめん」
彼の声は、緊張で少し硬かった。茜は答えずに、ただ川面に視線を落とした。
蓮は、ぽつりぽつりと自分の話を始めた。海外赴任先でのこと。初めは、新しい環境と仕事への期待で胸を膨らませていた。しかし、現実は厳しかった。熾烈な競争、文化の壁、そして孤独。彼は、自分が思い描いていたような成功を掴むことができず、次第に自信を失っていった。
「君に手紙を書くのが、辛くなったんだ。成功している姿を見せたかった。でも、現実はみじめで……。格好悪い自分を、君に知られたくなかった」
連絡が途絶えたのは、別の女性ができたからではなかった。あまりの不甲斐なさに、茜に合わせる顔がない、ただそれだけの理由だった。プライドが、彼を臆病にした。手紙や電話の回数が減り、やがて彼は、完全に沈黙という殻に閉じこもった。それがどれほど茜を傷つけるかも考えずに。
「最低だったと思う。君を待たせて、裏切って……。言い訳のしようもない」
彼は、数年前に会社を辞め、日本に戻ってきたこと、そして、心身ともに疲れ果てた自分を立て直すのに、長い時間が必要だったことを話した。ようやく、過去と向き合う覚悟ができたのが、今だったのだと。
「日本に帰ってきて、真っ先に会いたいと思ったのは、君だった。謝りたかった。そして……」
蓮はそこで言葉を切り、茜の顔をまっすぐに見た。その瞳は、後悔と、そして変わらない想いで揺れていた。
茜は、静かに彼の話を聞いていた。心の奥で、長年凍りついていた何かが、少しずつ溶けていくのを感じていた。怒りはあった。なぜもっと早く、と彼を責めたい気持ちもあった。しかし、彼の憔悴しきった横顔を見ていると、それ以上に深い哀れみと、そしてどうしようもない愛しさが込み上げてくる。
「……どうして、今なの?」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「今さら、私にどうしろって言うの?」
それは、許しを求める男と、失われた時間への答えを求める女の、痛々しい対話だった。仁淀川の青だけが、まるで何もかもを見透かすように、静かに二人を見つめていた。
第四章 歳月の実り
蓮と別れ、一人で車を運転して帰る道すがら、茜の脳裏には、この十数年の歳月が走馬灯のように駆け巡っていた。彼のいなくなった世界で、自分はどう生きてきたのか。
東京から高知へ逃げるように帰ってきた当初、彼女は抜け殻のようだった。そんな娘を、両親は何も言わずに受け入れ、ただ黙って畑仕事を手伝わせた。初めは、慣れない肉体労働に音を上げそうになった。だが、土に触れ、汗を流すうちに、心の中の澱んだ感情が少しずつ浄化されていくのを感じた。
失恋の痛みを、彼女は土にぶつけた。悲しみも、怒りも、悔しさも、すべてを鍬に込めて大地を耕した。すると、大地は静かにそれを受け止め、やがて豊かな実りとして返してくれた。秋には、山間部の斜面で育てた柚子が、目に鮮やかな黄色い実をつける 。その爽やかな香りは、彼女の心を少しだけ軽くしてくれた。掘り起こした生姜の、ぴりりとした刺激的な香りは、前を向けと背中を押してくれているようだった 。
農業は、彼女に癒しと、そして新たな生きる意味を与えてくれた。作物は、手をかければかけるほど、正直に応えてくれる。天候に左右される厳しさはあったが、自分の努力が目に見える形で実を結ぶ喜びは、何物にも代えがたかった。彼女は、失った恋の代わりに、土を愛することを選んだのだ。
やがて、彼女の生活は農業を中心に回り始めた。地域の祭りにも積極的に参加した。夏のよさこい祭りでは、汗だくになって鳴子を打ち鳴らし、仲間たちと笑い合った 。彼女は、ゆっくりと、しかし着実に、この土地に再び根を下ろしていった。
時折、どうしようもなく寂しくなる夜もあった。そんな時は、決まって車を走らせ、桂浜へ向かった。太平洋の荒波が、容赦なく岸壁に打ち付ける。その轟音を聞いていると、自分の悩みなどちっぽけなものに思えた 。海に向かって叫んだことも一度や二度ではない。遠い海の向こうにいるはずの蓮を想い、涙を流した夜もあった。あの広大な海は、彼がいる世界と自分を隔てる壁のようにも、そして唯一繋がっている場所のようにも感じられた。
蓮が去ったことで生まれた空白を、茜は自らの手で、汗で、そして土で埋めてきたのだ。彼がいなくても、自分は生きていける。それどころか、彼がいた頃よりもずっと強く、たくましくなった。彼女が築き上げたこの人生は、彼の不在から生まれた、かけがえのない「実り」だった。
今、その彼が戻ってきた。
彼との未来を選ぶことは、この十数年間の自分自身を、この「実り」を、否定することになるのではないか。茜の心は、激しく揺れていた。蓮の帰還は、単なる恋の再燃ではなかった。それは、彼女が必死に築き上げてきた自己のアイデンティティそのものを揺るがす、大きな問いかけだったのだ。
第五章 町の記憶
小さな田舎町では、秘密は長続きしない。茜の農園の近くで見慣れない都会風の男が目撃されたという話は、あっという間に町中の知るところとなった。翌日、茜がJAの直売所に野菜を運び込むと、案の定、パートのおばちゃんたちの格好の標的になった。
「茜ちゃん、昨日、えらい男前の人が来ちょったらしいやいか」
「東京からのお客さんかえ? まっこと、隅に置けんねぇ」
会話には、土佐弁特有の親しみやすさと、遠慮のない好奇心が混じり合っている 。茜は「大学時代の友達よ」と曖昧に笑ってかわしたが、彼女たちの探るような視線から逃れることはできなかった。
噂は、風に乗って広がる野火のように、瞬く間に町中を駆け巡った。日曜市に出向けば、あちこちの店先でひそひそと囁かれる。そこでは、高知特産の茗荷やニラ、ししとうといった新鮮な野菜と共に、茜の恋の噂が商品のように並べられていた 。
人々の反応は様々だった。長年、茜の縁談を心配していた年配者たちは、「こりゃあ、運命の再会じゃ」とロマンチックに囃し立てた。一方で、慎重な意見もあった。「都会の男に、ここの暮らしができるもんか」「茜ちゃんを泣かせるようなことにならなえいけんど」。
この町の人々の愛情は、時に重荷になる。彼らの関心は、温かい毛布のようでもあり、同時に動きを縛る檻のようでもあった。茜の個人的な問題は、もはや彼女一人のものではなく、町全体の関心事へと姿を変えていた。
特に、両親の態度は茜を複雑な気持ちにさせた。父も母も、蓮のことについては何も聞こうとしない。だが、その沈黙には、娘の幸せを願う切実な想いと、同時に、このまま娘が手元からいなくなってしまうのではないかという不安が入り混じっていた。高齢化が進むこの地域で、茜のような若い後継者は貴重な存在だ 。彼女がこの土地を離れることは、単に中村家の問題だけでなく、地域の農業の未来にも関わる一大事だった。
町の人々の期待と心配。両親の無言の圧力。それらすべてが、茜の肩に重くのしかかる。蓮との関係をどうするのかという決断は、否応なく、この愛すべき共同体に対する答えにもなるのだ。彼女の選択は、彼女の人生だけでなく、この町の記憶にも刻まれることになるだろう。その重圧に、茜は息が詰まりそうだった。
第三部 嵐の兆し
第六章 皿鉢の味
嵐は、中村家で催された「おきゃく」の席で、その兆しを見せた。
「おきゃく」とは、高知に根付く独特の宴会文化だ 。理由は何でもいい。親戚や近所の人々が集まり、一つの食卓を囲んで酒を酌み交わす。その中心には、必ずと言っていいほど「皿鉢料理」が鎮座している 。直径数十センチはあろうかという大皿に、藁で豪快に炙った鰹のたたき、色鮮やかな田舎寿司、揚げ物、煮物などが、これでもかと盛り付けられている。それは、もてなす側の女性が何度も席を立たずに済むようにという、生活の知恵から生まれた様式だ。
茜の両親が、何を思ったか、この「おきゃく」に蓮を招待したのだ。それは、彼を家族や親しい人々に紹介するという、明確な意図を持った行為だった。蓮は、完全に「審査される側」として、その場に放り込まれた。
にぎやかな宴席で、蓮は明らかに浮いていた。都会育ちの彼にとって、見ず知らずの人間と垣根なく酒を酌み交わし、大声で笑い合うこの文化は、理解の範疇を超えていたのだろう。彼は、差し出される酒を断ることもできず、戸惑いながら杯を重ねていた。
一方の茜は、水を得た魚のようだった。親戚のおんちゃん(おじさん)たちの冗談を軽くいなし、おばちゃんたちの手伝いをし、甲斐甲斐しく立ち働く。彼女は、この共同体の中で生まれ、育ってきた。この喧騒こそが、彼女の日常だった。二人の間には、育ってきた環境の違いという、決して無視できない深い溝が横たわっていることが、誰の目にも明らかだった。
宴もたけなわになった頃、酔いの回った叔父が、大きな声で蓮に絡んだ。
「おまさん、東京のもんらしいけんど、百姓仕事はできるがか?」
その土佐弁の、あまりに直接的な問いに、座の空気が一瞬、凍りついた 。叔父に悪気はない。ただ、この土地で生きる人間にとって、それは最も本質的な問いだった。あんたは、俺たちの世界で生きていけるのか? 茜を幸せにできるだけの覚悟があるのか?
蓮は、言葉に詰まった。彼の生きてきた世界では、農業は遠い存在だった。彼は、何も答えることができなかった。
その瞬間、茜は、この恋の行方に吹き荒れるであろう嵐の激しさを、はっきりと予感した。これは、ただの恋愛ではない。二つの異なる文化と価値観の衝突なのだ。そして、その嵐の中心に、自分は立っている。
第七章 沈下橋の誓い
「おきゃく」の喧騒が嘘のように静まり返った夜、茜は蓮を車に乗せ、四万十川へと向かった。日本最後の清流と呼ばれるその川には、増水時に水の中に沈むように設計された、欄干のない「沈下橋」がいくつも架かっている 。
二人は、そのうちの一つの橋の真ん中に車を停めた。エンジンを切ると、聞こえるのは川のせせらぎと虫の声だけ。満天の星が、まるで手の届きそうなほど近くに見えた。
この沈下橋は、自然の力に抗うのではなく、それを受け入れてやり過ごすという、この土地の人々の知恵の象徴だ 。逆らえない力の前では、一度身を沈め、そしてまた姿を現す。その姿が、今の自分たちの状況と重なって見えた。
車から降り、橋の上に立つと、足元を流れる水の気配が直接伝わってくる。美しく、同時にどこか心もとない、不思議な感覚だった。
ここで、茜は蓮に正面から向き合った。
「今日の、叔父さんの言葉、あれがここのすべてよ」
彼女の声は、夜の静寂に凛と響いた。
「私は、この土地で生きていくと決めた。この土が、私の十年を作ってきた。私の歴史は、ここにある。……あなたの歴史は、どこにあるの?」
それは、彼の覚悟を問う、鋭い刃のような言葉だった。
蓮は、しばらく黙って川の闇を見つめていた。やがて、彼は静かに口を開いた。
「君への想いは、本物だ。でも……正直に言うと、怖いんだ」
彼は、自分の弱さを初めてさらけ出した。彼が茜に惹かれる気持ちの中には、自分が失ってしまった素朴な生活への郷愁が混じっているのではないか。この厳しい現実に、自分は本当に適応できるのか。その自信がないのだと。
「君のいる世界に、僕の居場所があるのか、わからない。でも、それでも……それでも、君と一緒にいたい。試してみたいんだ」
彼は、茜の肩にそっと手を置いた。
「まだ、君を愛してる」
その言葉に、茜の心は激しく揺さぶられた。
「私が愛したあなたは、もういない」
彼女は、震える声で言った。
「今の私を、目の前にいるこの私を、あなたは愛せるの?」
問いかけは、答えのないまま夜空に吸い込まれていった。二人は、不安定な橋の上で、互いの存在の重さを確かめるように、ただ黙って立ち尽くしていた。どちらか一歩でも踏み外せば、深い川の流れに飲み込まれてしまいそうな、危うい均衡の上に。
第八章 桂浜の咆哮
蓮との対話の後、茜は一人、車を桂浜へと走らせた。古来より月の名所として知られ、「よさこい節」にも唄われる、高知を代表する景勝地 。ここは、彼女が人生の大きな決断を迫られた時に、必ず訪れる場所だった。
弓なりに広がる砂浜に立つと、太平洋の荒波が地響きのような音を立てて、絶え間なく打ち寄せていた。その圧倒的な自然の力の前では、人間の悩みなど、いかにちっぽけなものかと感じさせられる。
砂浜の小高い丘の上には、郷土の英雄、坂本龍馬の巨大な銅像が立っている 。彼は、遥か海の向こうを見据え、新しい日本の未来を夢見ていた。その姿は、不確かな未来へと踏み出そうとしている今の茜に、何かを問いかけているようだった。
彼女の目の前には、二つの道が広がっていた。
一つは、これまで通りの道。両親と共に農園を守り、この土地で穏やかに生きていく。それは、確かな安定と平穏が約束された道だ。しかし、心のどこかで「もし、あの時……」という後悔を、一生抱え続けることになるかもしれない。
もう一つは、蓮と共に歩む道。それは、どこへ続くかもわからない、荒れ狂う海へと漕ぎ出すようなものだ。計り知れない喜びがあるかもしれないが、再び深く傷つき、すべてを失うかもしれない。あまりにも危険な賭けだった。
寄せては返す波の音を聞きながら、茜は自分の心と向き合った。蓮のいない十年は、確かに彼女を強くした。だが、それは本当に「幸せ」だったのだろうか。安定という名の諦めの中で、自分は何か大切なものを心の奥底に封じ込めて生きてきたのではないか。
その時、背後に人の気配がした。振り返ると、蓮が立っていた。彼は、茜の行き先を察して、後を追ってきたのだ。
彼は何も言わなかった。ただ、茜の隣に並び、共に荒れ狂う海を見つめた。答えを急かさず、ただ静かに寄り添うその姿に、茜は彼の変化を感じた。昔の彼なら、甘い言葉で説得しようとしただろう。だが、今の彼は、彼女の決断を待つ覚悟ができているようだった。
轟音を立てて砕け散る波しぶきが、二人の顔を濡らす。
その瞬間、茜の中で、何かが決まった。
もう、以前の穏やかな日々には戻れない。嵐は、すでに来てしまったのだ。ならば、この嵐に立ち向かうしかない。その先が、穏やかな港なのか、それとも海の藻屑となるのかはわからない。それでも、このまま岸辺で怯えているよりはいい。
茜は、蓮の方を向いた。その瞳には、涙と、そして確固たる決意が宿っていた。言葉はまだ、なかった。しかし、彼女のすべてが、その答えを物語っていた。
第四部 新しい季節
第九章 生姜を植える
桂浜での嵐の夜が明けた。空は嘘のように晴れ渡り、澄んだ光が土佐の大地を照らしていた。
茜は、朝早くから畑に出ていた。彼女の心は、決まっていた。その決意を、言葉ではなく、行動で示すために。彼女が選んだ作業は、生姜の植え付けだった 。生姜は、土の中で静かに育ち、やがて薬味として料理の味を引き締め、体を温める力を持つ。その姿は、これから始まる新しい生活の象徴のように思えた。見えない場所で、しかし確実に、力強い根を張っていくのだ。
黙々と畝を作り、土を整える茜の元へ、蓮がやってきた。その手には、昨日買ったばかりであろう、真新しい作業着と長靴。都会的な彼の姿には不釣り合いだったが、その表情は真剣だった。
彼は、何も言わずに、茜の隣で鍬を手に取った。ぎこちない手つきで、土を掘り返し始める。その動きは素人そのもので、見ていて危なっかしいほどだった。
茜は、そんな彼の姿をしばらく見ていたが、やがて小さく息をつくと、彼の隣にしゃがみ込んだ。
「こうやるの」
彼女は、種生姜を一つ手に取り、その植え方を蓮に見せた。彼女の土に汚れた手が、彼のかさついた手に触れる。それは、言葉よりもずっと雄弁なコミュニケーションだった。
蓮は、茜の指導を受けながら、一つ、また一つと、丁寧に生姜を植えていく。額には汗が光り、息は上がっている。だが、その瞳は、これまで見たこともないほど、真摯な光を宿していた。彼は、彼女の世界に飛び込む覚悟を、この不慣れな肉体労働を通して示そうとしていた。
遠くから、両親が二人の様子を黙って見守っている。彼らの表情には、戸惑いと、そして微かな安堵が浮かんでいた。
茜の答えは、この畑の中にあった。蓮は、それを受け取った。二人の間に、もう言葉は必要なかった。ただ、土の匂いと、汗の匂い、そして共に働くという確かな行為だけが、そこにはあった。新しい季節は、こうして静かに始まろうとしていた。それは、甘いロマンスではなく、土にまみれ、汗を流すという、どこまでも現実的な一歩から。
第十章 故郷の味
あれから、季節は一つ巡った。
中村家の食卓には、秋の恵みが並んでいた。その中には、二人が春に植えた生姜を使った料理や、この時期にだけ採れる高知特産の四方竹の煮物もある 。
畑から戻ってきた蓮の顔は、すっかり日に焼けていた。都会の青年だった頃の面影は薄れ、その体つきは引き締まり、農夫らしい精悍さが備わっていた。
「まっこと、こたうたぜよ……」
覚えたての土佐弁で、彼はどさりと椅子に腰を下ろした 。その言い方はまだ少しぎこちなかったが、茜にはそれがたまらなく愛おしく感じられた。
茜がよそったご飯を、蓮はうまそうに頬張る。自分たちが育てた野菜の味は、格別だった。
二人の未来が、完全に保証されたわけではない。蓮はまだ、一人前の農夫とは言えなかった。都会の生活を完全に捨てきれない自分と、葛藤することもあるだろう。町の人々の好奇の目に、うんざりすることもあるかもしれない。これから先、いくつもの困難が待ち受けていることは、二人ともわかっていた。
だが、それでも。
食卓を囲む二人の間には、穏やかで、確かな空気が流れていた。それは、共に汗を流し、同じ土の匂いを嗅ぎ、同じ食卓で同じものを食べることでしか育めない、強い絆だった。
茜は、蓮の空になった茶碗にご飯をよそいながら、窓の外に目をやった。夕暮れの風が、稲穂を揺らしている。
あの日の再会は、嵐を呼んだ。しかし、嵐が過ぎ去った後には、より強く、豊かな大地が残ることもある。
十年前に彼女の人生から去っていった彼は、過去の亡霊ではなかった。遠い道のりを経て、本当の意味で「帰るべき場所」を見つけるために戻ってきたのだ。そして、その場所は、この土佐の、緑豊かな大地の上にあった。
土佐の風が、二人の新しい季節の始まりを、優しく告げていた。それは、おとぎ話のような幸せではない。一日一日を、丁寧に、懸命に生きることで築き上げていく、地に足の着いた、本物の幸せだった。




