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マニキュアが乾くまでの距離〜指先の渇き、一秒前の永遠〜  作者: 初 未来


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1/2

二人の距離

 その日の放課後、遠藤えんどう 麗華れいかの指先は、太陽の光を受けて七色に輝いていた。


 麗華は、流行りのネイルブランドの限定色を、完璧なアーモンド型に整えた爪に重ね塗り終えたばかりだ。スカイブルーのベースに、極小のピンクゴールドのラメがぎっしり詰まったその色は、まるで真夏の空に弾ける花火のようだった。


「どう、詩織しおり? 今年の夏、これ流行はやるよ。」


 麗華は窓からの光に手をかざし、得意げに尋ねる。


 向かいの席に座る緑川みどりかわ 詩織しおりは、分厚い文庫本を閉じ、麗華の指先をじっと見つめた。詩織の爪は何も塗られておらず、いさぎよいほどに透明だ。二人の手元は、教室の片隅にある小さな世界の、すべてを物語っているようだった。


「…綺麗。麗華らしいね。でも、乾いてないんじゃない? それ、触っちゃダメなやつでしょう。」


 詩織の言葉はいつも冷静で、麗華の熱をふわりと冷ます。それが麗華にとっては心地よかった。彼女の周りには「いいね!」と持ち上げる友達は多いが、詩織だけが、この手の込んだネイルをただの「ファッション」としてではなく、「麗華の今日の気分」として見つめてくれる気がした。


 麗華は頬杖をつき、乾くのを待つ指先を眺めながら、溜息ためいきの熱を逃がした。窓の外、夕暮れが近づく空の色は、麗華のネイルの色とは対照的だ。


(この時間が、永遠に続けばいいのに)


 この完璧なネイルが乾いてしまうと、麗華は再び「遠藤麗華」に戻らなければならない。クラスの人気者で、常に自信に満ち溢れているはずの「遠藤麗華」に。


「詩織。私ね、今日、このネイルが乾くまでに、あの子に話しかけたいんだ。」


 麗華がそっと視線を送った先には、部活帰りらしき桐生きりゅう 悠太ゆうたの姿があった。彼は友達と笑い合いながら、かばんを肩にかけて廊下を歩いていく。麗華が、クラスの誰よりも遠い存在だと感じている人。


 詩織は、麗華の告白に驚く様子もなく、文庫本をそっと抱き直した。


「悠太くんに? 何て?」


「…わかんない。何でもいいの。ただ、話しかけたって事実が欲しいの。この完璧なネイルを、勇気の証にしたいの。」


 麗華の心臓が、ドクドクと早く脈打つ。それは、マニキュアが乾くまでの、限られた時間への焦燥と、青春の甘酸っぱい期待が混ざり合った、切ない音だった。詩織には、その音が聞こえている気がした。彼女はいつも、麗華の表面の輝きの奥にある、震えるような「切なさ」を敏感に察してくれるからだ。


 詩織は立ち上がり、空の見える窓辺に歩み寄った。


「麗華。マニキュアが乾くまでの距離は、たった一歩だよ。でも、その一歩を踏み出すのが、一番難しいんだよね。」


 彼女は静かに微笑んだ。その瞳の奥には、麗華の知らない「自信」がキラキラと輝いている。詩織は何でもできて、いつも「自信」が満ち溢れているように麗華には映っていた。


 麗華の心臓をドクドクと震わせる音は、マニキュアが乾くまでの時間への焦りだけではなかった。それは、中学時代の、あの瞬間に負った小さな傷が、今も脈打っている音だった。


 麗華の「華」は、生まれ持ったものであり、同時に彼女が必死で編み上げた「きらめきのヴェール」でもあった。


 中学時代、麗華は今ほど派手ではなかったが、誰よりも明るく、自分の気持ちをまっすぐに伝える子だった。好きなものが流行に左右されていようと、その気持ちを隠さなかった。


 ある日、彼女は思い切ってクラスの男子に告白をした。その時のネイルは、今のように手の込んだものではなく、初めて自分で買った、真っ赤な単色だった。


「私のこと、好きになってほしい!」


 精一杯の勇気と共に伝えたその言葉に対し、その男子は笑ったのだ。


「え、遠藤が? 真っ赤な爪までして、気合入れすぎだろ。なんか、すげーギャルっぽいっていうか…重い。もっと普通の子が好きだわ。」


 その一言が、麗華の心に深々と突き刺さった。


(私の好きなもの、私の勇気は、全部「重い」って笑われるんだ。)


 麗華にとって、ネイルやファッションは、自分を輝かせるための魔法であり、勇気を出した証だった。しかし、その「輝き」こそが、自分の「本気」や「本音」を伝える邪魔になると知ってしまった。


 その日以来、麗華は決めたのだ。


「遠藤麗華」は、完璧に可愛く、誰にでも愛想が良く、絶対に傷つかないきらめきのヴェールをまとう。本気を見せて笑われるくらいなら、最初から「ファッションリーダー」として振る舞い、誰も手の届かない高嶺たかねの花を演じようと。


 現在の彼女の派手なギャルファッションは、過去に「普通の子が好き」と言われたトラウマから生まれた、完璧な「防御策」だったのだ。


 だからこそ、今の麗華は、憧れの桐生悠太を遠くから見つめることしかできない。もしまた、この完璧なネイルを笑われたら、今度こそ立ち直れない気がした。


「麗華。」


 詩織の呼ぶ声が、過去の暗い記憶から麗華を引き戻した。


 詩織は、麗華が中学時代に負った傷のことは知らない。しかし、麗華が派手な外見の下に隠している「臆病さ」と「純粋さ」は理解していた。麗華が、自分の「本質」を見抜いてくれるのは、この世で詩織だけだと、麗華は思っている。


 詩織がそっと、マニキュアがまだ乾ききっていない麗華の手に触れた。指紋がつかないよう、そっと、手の甲に。


「麗華の今日のネイルは、全然『重くない』よ。夏の空みたいに、すごく軽くて、まぶしい。ねえ、麗華の勇気は、誰かに見せるためのものじゃない。マニキュアが乾くまでの10分間、この時間が、麗華自身が自分を信じるための魔法にかかってるって思えばいいんじゃないかな。」


 詩織の澄んだ瞳が、麗華をまっすぐに見つめ返す。


「私は知ってるよ。麗華が本当に欲しいのは、『いいね』じゃなくて、一歩踏み出す勇気だってこと。」


 麗華の瞳に、涙の膜が張り、光を反射した。それは、ネイルのラメよりも、ずっと切なく、ずっと綺麗に輝いていた。


 麗華の手に塗られたスカイブルーのネイルは、まだ完全には乾ききっていない。太陽の熱を吸収した教室の空気は、マニキュアの揮発きはつを促すが、麗華の心臓の鼓動が熱を帯びているせいで、指先はわずかに湿気を帯びていた。


 詩織がそっと麗華の手に小さなメッセージカードを握らせた。


「これで、まずは『話すきっかけ』を作ろう。マニキュアが乾ききったら、このカードはただの紙切れに戻っちゃう。今だけが、魔法が使える時間だよ、麗華。」


 麗華はカードを握りしめた。文字は何も書かれていない。勇気を出すこと自体が、このミッションの目的だからだ。


 その時、タイミングを見計らったかのように、桐生悠太が友人と二人、教室棟の階段を降りていくのが見えた。普段なら見逃すはずの、たった数十秒のチャンス。


「行くよ、麗華。」


 詩織は麗華の背中を押すことはしなかった。ただ、一歩引いた場所で、祈るように見つめている。麗華は、詩織のその静かな信頼の眼差しに、誰にも見せなかった自分の本質を認められているように感じた。


 麗華は深呼吸をした。完璧なメイクの下の頬が、わずかに熱を持っている。


(笑われても、いい。重いって言われても、いい。このネイルは、過去の私への復讐じゃない。今の私が、私自身を否定しないための勇気なんだ。)


 麗華は、まるでガラスの靴を履いたシンデレラのように、不安定な勇気を足元に感じながら歩き出した。


 階段の手前で、悠太は友人と立ち止まり、笑い合っている。二人の楽しそうな声が、麗華の耳には遠く、水の中にいるように聞こえた。


 麗華は一歩、また一歩と近づく。ネイルの表面に光が反射し、わずかな空気の振動にもラメがゆらめく。


(残り5分。もう、引き返せない。)


 麗華が悠太の背中に向かって、あと数歩に迫ったその瞬間——


「桐生くん。」


 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく、かすれていた。


 しかし、その声は確かに彼の耳に届いた。悠太がゆっくりと振り返る。彼は麗華の派手な外見に驚く様子もなく、ただ穏やかな目で麗華を見た。


 麗華は、彼の正面に立ち、握りしめていたカードを差し出す。その手は、緊張で細かく震えていた。


「これ…あの、美術の課題で…使うかもしれないから…。よかったら、これ…デザインいいんだ。参考にしてみて。」


 麗華が咄嗟とっさひねり出したのは、ただの言い訳だった。しかし、彼女の震える手元を、悠太は静かに見つめた。


「遠藤…麗華さん。ありがとう。」


 彼はカードを受け取り、少し戸惑いながらも、麗華の目を見て微笑んだ。その笑顔は、麗華が遠くから見ていた時よりもずっと近くて、柔らかかった。


「遠藤さんの絵のセンス、すごいって前から知ってるよ。去年の文化祭のクラスTシャツのデザイン、あれ遠藤さんだろ? かっこよかった。」


 悠太の言葉に、麗華の心臓は一瞬止まった。彼は、自分の外見ではなく、誰も知らないと思っていた内面を見ていてくれたのだ。


 その言葉の温かさに、過去の傷がいやされていくのを感じた。


 麗華は顔を上げ、詩織の姿を探す。詩織は、窓辺から、成功を確信したような優しい眼差しで、麗華に小さく頷いていた。


 麗華が、緊張から解放された自分の手元を見ると、スカイブルーのラメネイルは、完璧に、完全に乾ききっていた。


 その瞬間、麗華はすべてが魔法ではなく、自分の力だったと悟った。マニキュアが乾くまでの時間が終わっても、この勇気と、悠太から受け取った「自分を照らす光」は、永遠に残る。


 麗華は弾むような足取りで教室に戻り、窓辺で待つ詩織に駆け寄った。


「詩織! 成功したよ! 震えすぎて何を言ったか覚えてないけど、あの桐生くんが…私の絵のセンスを覚えててくれたんだって! 私の外見じゃなくて、私自身を見てくれてたんだよ!」


 麗華は興奮のあまり、両手を詩織の肩に置いた。完全に乾ききったスカイブルーのネイルが、夕日に照らされ、強く、誇らしげに輝いている。


 詩織は、麗華の純粋な喜びの光を浴びながら、微笑んだ。


「うん、知ってたよ。麗華は、見せようとしていない部分が、誰よりも綺麗だから。」


 その言葉は、まるで麗華の心にみ込むように優しかった。しかし、詩織の胸の奥底では、別の感情が激しく波打っていた。


(良かったね。本当によかった。)


 心からそう思っている。麗華が勇気を出し、過去の傷を乗り越えられたことは、詩織の喜びでもあった。だが、同時に、麗華の瞳が、自分ではない誰かの光で輝いていることに、胸が張り裂けそうなほどの切なさを感じていた。


 詩織にとって、麗華は単なる「親友」ではない。初めて会ったときから、その華やかさ、その強さ、そしてその裏に隠されたもろさのすべてが、詩織の心をとらえて離さなかった。麗華が必死で着飾る「ヴェール」を脱ぎ、自分だけに本当の顔を見せてくれる時、詩織は友情を超えた「愛」を感じていた。


「麗華、私、今日、本当に嬉しかった。ありがとう。」


 詩織はそう言って、麗華から一歩距離を取った。


「なんで詩織がお礼言うのよ。私を励ましてくれたのは詩織でしょう?」


 麗華は不思議そうに首をかしげ、乾いたネイルを自慢するように見せつける。無邪気で、何も気づいていない。


 詩織は、自分の秘めた想いがあふれてしまいそうになるのを必死で押し込めた。この感情を麗華に伝えてはいけない。麗華のキラキラした青春に、自分の重い感情を乗せてはいけない。


 詩織は小さく息を吸った。そして、麗華の表情が完全に緩んだ、その一瞬の不意を突いた。


 詩織は、再び麗華に近寄り、その整った顔に手を添える。麗華が驚く間もなく、詩織の唇が、一瞬だけ、麗華の唇に触れた。


 ――甘くて、冷たい


 それは、夏の終わりに飲む、最後のレモネードの氷のような感触だった。喉を通る前に溶けてしまいそうなほどはかなく、甘酸っぱく切ない。


 麗華の瞳が大きく見開かれ、頬が瞬時に熱を帯びた。


「し、詩織…?」


 呆然とする麗華の前で、詩織はすぐに離れ、いつものように優しく、しかし少し悪戯いたずらっぽく笑った。


「えへへ。これ、成功のお祝いのキス。…と、秘密の契約。麗華の勇気は、私と麗華だけのもの。誰にも言わないよ。」


 詩織の笑顔は、いつも通り控えめで、静かだった。しかし、麗華に触れたばかりの唇の端には、隠しきれない切ない愛の余韻が残っていた。


 麗華は、自分の唇にそっと触れた。それは、マニキュアが乾くまでの時間よりも、ずっと短く、しかし、人生で一番、甘酸っぱく、そして切ない魔法の瞬間だった。


(秘密の契約?…詩織ってば、たまに変なことするんだから。)


 麗華は、友達からの愛情表現だと解釈し、顔を赤くしながらも笑った。彼女は、詩織のキスに込められた、友情の枠を超えた「愛」の重さに、最後まで気づくことはなかった。


 夕暮れの中、二人は肩を並べて歩き出す。麗華のネイルは強く輝き、詩織の瞳の奥には、青春の切ない輝きが、密かにともっていた。

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