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第8話 春祭りの灯

朝、戸を開けた瞬間、風の匂いが変わっていた。

 まだ冷たいけれど、どこかに湿った甘さが混じっている。

 雪解け水が道の端を細く流れ、土の色が久しぶりに顔を出していた。

 「春が来る匂いじゃな」

 みーちゃんが縁側に座って、背筋を伸ばす。

 「わかるの?」

 「猫は風の歳時記を読める」

 「便利だね」

 「神じゃからの」

 そう言って、毛づくろいを再開する。


 郵便受けに、村の回覧板が入っていた。

 『春祭り準備のご案内 明日十時 神社前集合』

 「……もうそんな時期なんだ」

 あれほど長かった冬が、気づけば後ろ姿を見せている。

 こたつの上で、タマがくしゃみをひとつした。


 午前中、ツネさんが声をかけに来た。

 「たえこさん、明日祭りの準備、一緒に行こうね」

 「はい。何を持って行けばいいですか?」

 「手ぬぐいと、動きやすい格好で十分さ。

  あとは“お昼の一品”があると喜ばれるよ」

 「お昼の一品……」

 「何でもいいのよ。あなたの手の味があれば」

 ツネさんの言葉に、胸の奥が少しあたたかくなった。


 午後、私は台所に立った。

 春を呼ぶなら、やっぱり菜の花。

 祖母の古いレシピ帳の端に、淡いインクで「菜の花と油揚げの白和え」と書いてある。

 冷蔵庫の豆腐を水切りして、菜の花をさっと湯通しする。

白胡麻をすり鉢であたると、香ばしい匂いが立ちのぼった。

 「ご飯より先に春が来たな」

 みーちゃんが鼻を鳴らす。

 「ちょっと味見してみる?」

 「神は豆腐を食わぬ」

 「そっか。信仰上の理由?」

 「単に味が淡い」

 「……正直だね」

 思わず笑ってしまい、手の動きが柔らかくなる。


 翌日。

 神社の前には、すでに十人ほどの人が集まっていた。

 宮司さん、ツネさん、八木さん、商店の奥さん、それに見覚えのある子どもたち。

 「おはようございます」

 「おはよう、たえこさん。今日もいい天気だねぇ」

 ツネさんが手を振る。

 みんなの顔が、冬より少し明るく見える。

 神社の屋根には新しい榊が掲げられ、鈴の紐も新しく結び直されていた。

 「今年の春は、風が早いね」

 宮司さんが空を見上げて言う。

 「風が走る年は、良い年になりますよ」

 「それ、どこかで聞いたような」

 「神のお墨付きです」

 いつの間にか、みーちゃんが榊の陰にいた。

 参道の端を歩く姿は、まるで境内の主のよう。


 境内の掃除が始まる。

 私は竹ぼうきを手にして、落ち葉を集める係。

 「去年より葉が少ないね」

 「風がきれいに持っていってくれたんだよ」

 ツネさんが笑う。

 その隣で、子どもたちが石段を磨いている。

 小さな手が一生懸命動くたびに、石が少しずつ光を取り戻していく。


 昼になった。

 社務所の前に敷いたシートの上に、お弁当がずらりと並ぶ。

 おにぎり、たくあん、煮しめ、卵焼き、そして私の白和え。

 「まぁ、きれいだねぇ」

 ツネさんがひと口食べて、目を細めた。

 「柔らかい味だ。春の風みたいだよ」

 「ありがとうございます」

 「お祖母ちゃんの味?」

 「はい。レシピ帳に残ってました」

 「受け継ぐって、そういうことだよ」

 ツネさんの言葉に、少し喉の奥が熱くなった。


 「神様も喜んでるよ」

 子どもが言うと、みんなが笑った。

 みーちゃんはというと、社の屋根の上で丸くなり、尻尾を小さく揺らしている。

 「ほんとに来てたのね」

 「毎年来るんだよ、あの三毛さん。うちの村の守り神だからねぇ」

 ツネさんがそう言って、みんなが頷いた。

 私は笑いながら、胸の奥で小さく呟いた。

 ――知ってます。うちの神様なんです。


 午後、風が少し強くなった。

 紙垂が揺れ、鈴の音がかすかに重なる。

 祭りの準備が終わったあと、私は一人で祠の前に立った。

 榊の葉が陽に透けて、緑の影が雪解けの地面に映っている。

 「今年も、良い風が吹きますように」

 そう祈ると、背後から声がした。

 「その願いは、もう届いとる」

 振り返ると、みーちゃんがいた。

 「どこに?」

 「風に」

 「早いね」

 「神じゃからの」


 私は笑って、こたつで書きかけのノートを思い出した。

 “春は待つ音から始まる”

 ——そして、

 “手がつながると、風があたたかくなる”

 そう書き足そうと思った。


 神社を出ると、坂の下で八木さんが自転車のベルを鳴らしていた。

 「お疲れさま、たえこさん! 今度、広報の表紙に“春祭りの風景”載せるからね!」

 「私も写ってるかもしれませんね」

 「ええ、後ろ姿でね」

 笑い声が風に混じって遠ざかる。


 家に戻ると、味噌桶のそばでタマが丸くなっていた。

 「留守番してくれたの?」

 タマはあくびをして、尻尾で軽く床を叩いた。

 みーちゃんが神棚の上から降りてきて、

 「主、祭りの顔になったな」

 「顔?」

 「春を迎える顔じゃ」

 「……どんな顔?」

 「湯気みたいな顔」

 「また難しいことを言う」

 「褒めておる」


 夕暮れ。

 窓の外、風が柔らかく家を撫でていった。

 祠の鈴が一度だけ鳴る。

 それは、春の挨拶のようだった。

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