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第7話 冬の風と小さな音

雪はまだ庭に残っているけれど、空の光の色が少し変わった。

 白の中に、うすく金が混じる朝。

 台所の窓を拭くと、ガラスの外で梅の枝が小さく膨らんでいた。

 「春の芽じゃな」

 こたつの上で、みーちゃんが片目を細める。

 「もう?」

 「雪の下では、ずっと春が仕事をしとる」


 私は味噌桶の蓋を指先でなでた。

 まだ開けてはいけない。けれど、気になる。

 耳を近づけると、ほんのかすかに音がした。

 「ぽこ、ぽこ……」

 まるで小さな息のように、桶の奥で生き物が寝返りをうつ。

 「動いてる」

 「当然じゃ。豆が言葉を思い出しておる」

 「豆が、言葉?」

 「人が作る味噌は“神と人の対話の残り香”じゃ。

  主の手が覚えておる温度を、豆がゆっくり思い出すのよ」


 私は黙って蓋に手を重ねた。

 確かに、手のひらの下で、ほんの少しだけ温もりを感じる気がした。

 「待つのも、手仕事なんだね」

 「そうじゃ。動かぬ手の中にも、祈りはある」


 午前のうちにツネさんが寄ってきた。

 「たえこさん、うちの桶も鳴いたよ」

 「鳴いた?」

 「夜中にね、“ぽこん”って。夢かと思ったけど、本当に音がしてた」

 「うちもさっき、少しだけ」

 「そうかい。春が近い証拠だよ」

 ツネさんは笑いながら、ふろしきを開いて饅頭を出した。

 「今日のは“酒まんじゅう”。発酵つながりだね」

 「いい匂い……」

 ほわりと湯気が上がる。香りが味噌の匂いと重なって、家の中がやさしく満たされた。


 「おばあちゃんも、よく作ってたんですか?」

 「うん。酒まんじゅうを蒸す間は、いつも祠の方を向いて手を合わせてたよ」

 「それも祈り?」

 「そう。膨らみますようにって」

 「失敗しないため?」

 「違うね。――“生きますように”だよ」


 私はその言葉を心の中で繰り返した。

 生きますように。

 湯気の向こうで、祖母の手が味噌を混ぜる姿が少し浮かんだ。


 ツネさんが帰ったあと、みーちゃんがこたつから出てきた。

 「主、散歩に出るか」

 「寒いけど、行こうかな」

 雪の上に長靴を置くと、踏むたびに“きゅっ”と音がした。

 空気がまだ硬い。でも、風の匂いは変わっている。

 どこか遠くで水の音がした。雪解けの始まりだ。


 「ほら、あそこ」

 みーちゃんが尾で示す先に、小さな鳥がいた。

 「雀?」

 「いや、梅の精かもしれん」

 「また詩人だね」

 「神じゃからの」


 祠の前まで来ると、鈴の赤い紐がゆるく揺れていた。

 榊の葉は新しく替えられていて、根元には小さな花がひとつ添えられている。

 「ツネさんだね」

 「うむ。人の祈りは花のようなものじゃ。すぐに散るが、香りは残る」

 私は手を合わせて目を閉じた。

 桶の音、ツネさんの笑い声、豆を潰した手の感触。

 全部が、まだ身体のどこかに残っていた。


 帰り道、郵便配達の八木さんが手袋を外して言った。

 「今日は暖かいねぇ。ハンドルが冷たくない」

 「春の風ですよ」

 「春、来ましたか」

 「ええ。味噌が鳴いたんです」

 「ほう、それは確かだ」

 八木さんは少し考えてから、

 「来月号に“味噌仕込み特集”入れようかな」

 と笑って去っていった。


 夕方、日が沈む少し前。

 台所の隅の桶から、また小さな音がした。

 私はしゃがみこんで、両手で桶を包んだ。

 「おかえり」

 そう言うと、なぜか胸が温かくなった。

 みーちゃんが傍らで毛づくろいをしながら言う。

 「主の声も、味噌の糧になるぞ」

 「ほんと?」

 「ほんとじゃ。人は言葉を食べ、味噌は言葉を残す」

 「ふふ、うちのは優しい味になりそうだね」

 「ならば、神の分も取っておけ」

 「もちろん」


 夜、こたつの熱に包まれながら、ノートを開く。

 ——味噌:鳴く。呼吸の音。

 ——手を当てると、あたたかい。

 ——ツネさんの言葉:「生きますように」

 ——春は“待つ音”から始まる。

 書き終えたとき、外で小さな風が鳴った。

 その音がまるで、祠の鈴の余韻のように、やさしく部屋を包んだ。

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