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第61話 名前と、呼び方のはじまり

朝、空は薄く晴れていた。

 光は弱いが、冬の空が少し高く見える。


 台所で湯を沸かす。

 火の音が静かに広がる。

 味噌桶の蓋を開けると、匂いがいつも通りに立つ。


 縁側に出ると、坂の下で戸が開く音。

 若い人が外に出てくる。


 今日は少しだけ足取りが軽い。


 「おはようございます」

 「おはよう」


 少しして、若い人が坂を上がってくる。

 縁側の前で止まる。


 「ここ、座ってもいいですか」

 「どうぞ」


 縁側の端に腰を下ろす。

 板の冷たさに少しだけ肩をすくめる。


 タマが近づき、足元に丸くなる。

 もう警戒はしていない。


 少しの沈黙。

 風が、ゆっくり通る。


 若い人が、ふと口を開く。


 「そういえば……まだ名前、言ってなかったですよね」


 その言葉に、少しだけ驚く。

 確かに、知らない。


 「言ってなかったですね」


 若い人が姿勢を少し正す。


 「自分、佐伯っていいます」


 「佐伯さん」


 口に出してみる。

 少しだけ、距離が形になる。


 「たえこさん、ですよね」

 「多恵子です」


 名前が、冬の空気に静かに落ちる。


 みーちゃんが少し離れた場所で座る。

 いつも通りだ。


 佐伯さんが猫を見る。


 「この子、名前あるんですか」

 「タマです」


 「タマ」

 小さく繰り返す。


 タマは反応しない。

 でも、逃げもしない。


 「もう一匹いますよね」

 ふいに言われる。


 一瞬だけ、手が止まる。


 「見ました?」

 「たまに」


 縁側の端に、みーちゃんがいる。

 当然のように、そこにいる。


 「名前、あるんですか」

 少し迷う。


 「あります」


 それだけ答える。


 佐伯さんは、それ以上聞かない。

 その距離が、ちょうどいい。


 風が通る。

 空が、少しだけ明るくなる。


 「名前、あると違いますね」

 佐伯さんが言う。


 「何が」

 「ちゃんといる感じがします」


 その言葉が、静かに残る。


 「います」


 短く答える。


 少しして、佐伯さんが立ち上がる。


 「また来ます」

 「どうぞ」


 坂を下りていく背中。

 足取りが、もう迷っていない。


 縁側に残る空気。


 「名を持ったな」

 みーちゃんが言う。


 「うん」


 名前は、

 距離を測るものではなく、

 並べるものだった。


 冬の村に、

 またひとつ、

 呼び方が増えた。

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