第6話 味噌仕込みと手の記憶
朝五時。まだ外は群青で、窓ガラスの向こうに白い息が薄く張りついている。
流しの中の大きなボウルでは、昨日から浸しておいた大豆がふっくらと息を吸っていた。水面には薄い輪っかの光。手を入れると、指先に豆の柔らかな重みがころころ当たる。
「よく飲んだの」
こたつから顔を出したみーちゃんが、欠伸混じりに言う。
「豆の息は長い。朝は静かに起こせ」
私は鍋を二つ出し、火をつけた。
大鍋にたっぷりの水と大豆を移す。沸き上がるまでは中火、湯が踊りだしたら弱火へ。指で数える泡のリズムを、台所全体が覚えていく。
「離れないよ」
私はみーちゃんに先んじて言った。
「言わずとも分かっておるなら良いことじゃ」
みーちゃんは満足げにこたつへ戻り、タマは縁から半身だけ出して、湯気の行方を目で追っている。
鍋がことこと言いだす。灰汁が白い袖をまくるように上がってきて、私はお玉で静かにすくった。
台所の窓が曇り、外の冷たさと中の温度の境目が、ちょうどよい薄さで一枚になった。
指で一粒つまんで、冷水に落として割ってみる。中心まで指の腹でつぶせるようになったら火を止める。
「いい香り」
湯気の向こうで祖母の影が一瞬だけ立った気がして、私は小さく頷いた。
今日は味噌仕込みの日。
ツネさんの家で、村の何人かが集まることになっている。
「九時においで。豆は潰しても、潰さなくても持っておいで」
昨日、ツネさんはそう言って笑った。
私は少しだけ先回りして、半分は家で潰しておくことにした。湯を切り、温かいうちにすりこぎでゆっくり押す。皮がすべる音、つぶれた豆の甘い匂い。
「押すほどに、年輪が減る」
みーちゃんがぽつりと落とした。
「なにそれ」
「豆は固いままでは、去年のままじゃ。手で押すと、今になる」
詩人じみたことを言って、三毛の背がこたつの中で丸くなる。
大豆をつぶし終えた頃合いを見て、私は鍋とボウル、計量した塩と米麹、酒で拭いた布、重石代わりの石を新聞紙に包んだものを風呂敷にまとめた。
「みーちゃん、行ってくるね」
「うむ。後ほど見回りに寄る」
「監督さんは来ないの?」
「味噌は神事。人の手が主役じゃ」
タマはくぁ、と短くあくびをしてから、私の足に額を一度だけこすりつけた。
外は弱い光の朝。屋根の縁から、雫の音が規則正しく落ちている。
ツネさんの家に着くと、縁側にもう大きな木桶が出ていた。
「おはよう、たえこさん。いい煮え具合の匂いだねぇ」
「おはようございます。半分は潰してきました」
「助かるよ。今日はね、三軒分。うちは米麹、向こうは麦麹。あんたのはどっちにする?」
「祖母は米でした」
「じゃあ、米でいこう」
居間には、エプロン姿の奥さんが二人、麦わら帽をかぶったおじさんが一人。宮司さんも、遅れて顔を出した。
「神社の土間を暖めておこうかと思って」
「宮司さん、重石の石、ちょっと見てください」とツネさん。
「縁の欠けがないかね。こういうのは角がないほうがいい」
石の面を手で撫でながら、宮司さんは言った。
「角は、あとで丸くなるのがいい」
「“ほどく季節”だからねぇ」
ツネさんが笑う。
手順は単純だ。麹と塩を混ぜて「塩切り麹」にし、温かい豆と合わせてよく捏ねる。
「手が冷たいと固くなるからね、豆は冷ましすぎないで」
ツネさんの声に従って、私は指先で温度を確かめた。人肌より、すこし温かい。
「はい、ここから“八の字”」
「あ、味噌でも八の字なんですね」
「祖母さんに教わらなかったかい?」
「味噌汁は八の字で、って」
「どっちも同じ。“底を焦がさない混ぜ方”。心にも効くのさ」
ツネさんが、くい、と手首を返し、麹が豆に均一に馴染むように捏ねていく。
やわらかい音。大人たちの呼吸。冬の朝が、ひとつの動きでつながっていく。
「塩の顔、見てごらん」
「顔?」
「多すぎると、豆が少し悲しそうになる。少なすぎると、麹が調子に乗る。ちょうどいいと、全体が“肯く”」
言われた通りに見つめると、たしかに混ざり際の色味が丸く落ち着く瞬間がある。
「……今、肯きました」
「そうそう。今だね」
私たちは同時に頷いた。
大きな団子を作り、桶の中へ。
「空気を抜くよ。思い切って——」
ツネさんに合図され、私は味噌玉を両手で握りしめ、えいっと桶へ投げた。
どすん、と頼もしい音がする。
「もういっちょ」
どすん、どすん。
「いい音だ」
宮司さんが微笑んだ。
「音の抜けたところに、春が入るんです」
「ことばが詩人だよ、宮司さん」
「神職ですから」
おじさん達が笑い、空気がほぐれる。
表面をならし、残りの塩を薄くふって、口に酒を塗った和紙をぴん、と張る。竹の蓋をのせ、重石をそっと置く。
ツネさんが油性ペンを取り出した。
「書いときな。“令和×年×月○日 米麹 塩×% たえこ”」
私は日付を書き、ふと祖母の棚に並んだ紙袋の文字を思い出した。
どれも端正で、どこか祈りの形をしていた。
「よし、できたね」
ツネさんが手をぱん、と合わせた。
「ひとつ、祠にも“ご挨拶”へ持ってこう。味噌はまだ赤ん坊だけど、気持ちは早めに伝えるのがいい」
みんなで祠へ向かう。
道の途中、八木さんが自転車を押してきた。
「うわ、今日は豪華な顔ぶれだ」
「味噌仕込みの“初音”ですよ」と宮司さん。
「なるほど、いい季語だ」
八木さんは、かごから回覧板をひとつ渡して笑った。
祠の前に桶は持っていけないので、小さなタッパーに詰めた「ご挨拶味噌」を供える。
榊の葉が薄く揺れ、鈴は鳴らない。けれど、風は明らかに体温を帯びていた。
「祈りは、手の温度で届くからねぇ」
ツネさんが小声で言う。
「神は、温度に弱いの」
どこからともなく、みーちゃんの声。見上げると、屋根の端で三毛が前足をそろえて座っていた。
「現場監督、来たのね」
「視察じゃ」
「さっき“人の手が主役”って言ってたのに」
「主役を見に来たのじゃ」
みーちゃんが尻尾をゆらりと揺らす。
私が苦笑していると、ツネさんはその様子を見て肩を震わせた。
「ほんとに、あの子は話しかけられてるみたいねぇ」
そのとき、ふっと、鈴がひと音だけ鳴った。
誰も引いていない。風もほとんどない。
私たちは互いの顔を見て、自然と黙礼した。
「よし。あとは、待つ」
宮司さんが言った。
「“待つ”も仕事だよ」とツネさん。
「はい」
家に戻ると、台所に豆の余韻がまだ残っていた。
私は流しを拭き、やかんに湯をわかした。
こたつに座ると、タマがとことこ歩いてきて、私の膝に前足をのせる。
「今日は、よく働いたの」
みーちゃんが縁で丸くなり、片目をすこしだけ開けた。
「味噌は春を食べる食い物じゃ」
「今はまだ冬だけど」
「冬の手で春を仕込むのよ」
ツネさんの言葉が重なる。
湯気が、ゆっくりと部屋の隅をあたためていった。
午後、私はノートを開いた。
——大豆:前夜から一晩吸水/皮つきのまま煮る(中→弱)/指で潰れるまで
——塩切り麹:塩×%(ツネさん基準)/混ぜは“八の字”
——味噌玉を投げる(空気を抜く音=合図)
——表面:塩ふり/和紙(酒拭き)/蓋と重石
——札:日付・配合・名前
書きながら、ペン先が勝手にもう一行を連れてくる。
——“待つこと”も、仕込みのうち。
夕方、縁側の外がうっすら金色に沈む。
私はひと呼吸置いて仏壇の前へ座り、今日のことを短く報告した。
「味噌を仕込みました。春の食べものを、冬の手で仕込みました」
線香の煙が細い川になって、部屋の天井でゆっくりほどけていく。
その向こうで、祖母の写真が少し笑ったように見えた。
夜。
台所の隅に置いた私の小さな味噌桶は、ただの木の器に見える。
けれど、耳を澄ますと、ほんのわずかに音がした気がする——
豆と麹と塩と水分が、まだ言葉にならないやりとりを始めたような、かすかな気配。
「聞こえる?」
私が囁くと、みーちゃんが「うむ」と喉を鳴らした。
「生き物の音じゃ。祈りが、食べ物になる途中の音」
「……すこし、泣きそう」
「泣いてええ。塩分は足りておる」
「なにそれ」
「神の冗談じゃ」
タマがこたつの端で丸くなり、尻尾の先が小さく跳ねた。
私はこたつのスイッチを弱に合わせ直し、寝転がる。
障子の向こうで、夜がゆっくり降りてきた。
目を閉じると、桶の中の“小さな仕事”が静かに進む気配がある。
それは、遠い昔から繰り返されてきた手順で、けれど、今日の私の手で確かに始まった新しい年輪でもあった。
「みーちゃん」
「なんじゃ」
「春が来たら、味噌、どんな味になるかな」
「主の“待つ速さ”の味じゃ」
「待つ速さ?」
「急がぬ者のほうが、よく染みる」
「がんばる」
「がんばらぬことを、がんばるのじゃ」
私は笑って、こくりと頷いた。
今日、桶に落ちた“どすん”という音が、胸の底で丸い灯りになって残っている。
冬の空気の中を、ゆっくりと、春が歩いてくる足音とちょうど同じ速さで。




