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第55話 はじめての挨拶と、ほどける空気

朝、空は低く曇っていた。

 雪は降らないが、冷えは深い。

 冬の村は、音が少ない。


 台所で湯を沸かす。

 火の音が、家の中にゆっくり広がる。

 味噌桶の蓋を開けると、匂いが静かに立ち上る。


 縁側で湯を飲んでいると、

 坂の下から話し声が聞こえた。


 若い人の声だ。


 もう一つは、聞き慣れた声。


 ツネさんだった。


 私は少し身を乗り出して、坂の下を見る。

 ツネさんが買い物袋を持ち、若い人と立ち話をしている。


 若い人は、少し背筋を伸ばしている。

 初めての相手に向ける姿勢だ。


 「話しておるな」

 みーちゃんが縁側に現れる。

 「うん」

 「村の空気じゃ」


 声はここまで届かない。

 でも、様子は分かる。


 若い人が頭を下げる。

 ツネさんが笑う。

 袋を少し持ち上げて、何か説明している。


 緊張が、少しずつほどけていく動き。


 しばらくして、ツネさんがこちらに気づく。

 手を軽く上げる。


 若い人も振り返る。

 目が合う。


 小さく会釈。


 それだけで、十分だった。


 やがて二人は坂を上がってくる。

 ツネさんが先に声をかける。


 「たえこさん、この人ね」

 紹介するまでもない距離だが、言葉にしてくれる。


 若い人が少し照れた顔をする。


 「さっき、挨拶しました」

 「聞いたよ」

 ツネさんが笑う。


 「この辺り、静かでいいでしょ」

 若い人がうなずく。


 「静かすぎて、ちょっとびっくりしました」

 それを聞いて、ツネさんが肩を揺らす。


 「すぐ慣れるよ」

 去年、同じ言葉を聞いた気がする。


 ツネさんが袋を差し出す。

 中には大根が一本。


 「これ、二人で分けな」

 若い人が目を丸くする。


 「え、いいんですか」

 「余るからねぇ」


 受け取るかどうか迷う顔。

 私は一歩だけ前に出る。


 「受け取ると、楽ですよ」

 そう言うと、若い人が笑った。


 「じゃあ……ありがとうございます」

 袋の中の大根が、やけに白い。


 ツネさんが坂を下りていく。

 歩き方が、いつも通りだ。


 若い人が袋を持ったまま立っている。


 「びっくりしました」

 「村、そういうところあります」


 少し沈黙。

 重くない沈黙。


 「この大根、どうしたらいいですか」

 その質問に、思わず笑う。


 「味噌汁、いいですよ」

 「やってみます」


 若い人が家に戻る。

 袋が少し揺れている。


 縁側に戻ると、みーちゃんが座っている。


 「並んだな」

 「うん」


 坂の上と下を、

 人がゆっくり行き来する。


 村の空気は、

 急がない。


 でも確かに、

 ほどけていく。

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