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第5話 風の通り道

朝、屋根の縁から、ひとしずく、またひとしずく。

 ぽとり、と落ちる雫の音が、静かな台所の空気をやわらかく叩いた。

 障子の向こうは、薄い銀色。雪はまだ深いけれど、雪肌の表面だけが、ほんのわずかに溶けている。耳を澄ませば、どこか遠くで川の声が細くほどけ、気配だけが家の中に触れてくる。


 こたつ布団の端が、もぞ、と持ち上がった。

 「ふむ……冬の底が、少しだけ抜けたの」

 みーちゃんが欠伸をひとつ。三毛の耳がわずかに震えて、空気の粒の向きを測っている。

 「抜けた?」

 「風の流れが変わるのじゃ。大きくはまだ動かぬが、目に見えぬ小道が一本、増えた」

 「小道」

 「風にも、好きな道筋がある」


 私は土鍋の蓋をそっと開けた。昨夜、薪ストーブの余熱で炊いたご飯。

 ほわりと白い湯気が立ちのぼり、炊きたてよりも落ち着いた香りを放つ。しゃもじで底から返すと、米粒がふっくらとほどけた。

 今日の味噌汁は、かぶと薄揚げにしよう。白味噌を少し増やし、赤味噌は控えめに——これまでの“配合メモ”どおり。

 かぶの皮を薄くむくと、冬の土の匂いが微かに指へ移る。

 「白は二、赤は一。今日は、白にもうひとかけ足してもよい」

 「風の小道に合わせるの?」

 「うむ。白は“柔らげる”味じゃからの」

 「朝から詩的」

 「神じゃからの」


 味噌を溶く手元で湯気がふわりと揺れ、タマがこたつからそろそろと顔を出す。

 「おはよう、タマ」

 呼べば、返事の代わりにひとつ瞬き。昨日より半歩、近い。

 いつものように、みーちゃんには煮干しを一尾。タマには欠片をひとかけ。

 「今日は祠に行くの?」

 「少し見ておくがよい。風の通り道は、祈りの通り道でもある」

 「祈りの通り道……」


 朝餉のあと、私は流しを拭き、コンロのつまみがすべて「切」になっているのを目で確かめてから玄関へ回った。

 外は、相変わらず頬を刺す冷たさ。でも、刺す先端がほんの少し丸くなったような、そんな微妙な違いがある。

 祠の前に出ると、昨日の鈴の音とは別の澄み方がして、光の端に薄い金色が忍び寄っているのが見えた。

 「おはようございます」

 手を合わせると、榊の葉がかさり、と答えた気がした。


 ちょうどそのとき、坂の下から軽トラックの音。

 「おや、たえこさん。今朝は少し暖かいですね」

 宮司さんが運転席から顔を出し、こちらに手を振った。

 「おはようございます」

 「祠の後ろの林、ひと巡りします。季節の息が変わるので、風の通りを見ておこうと思って」

 「季節の息」

 「雪の底が、ゆっくり呼吸しはじめる頃ですよ」

 言いながら、宮司さんは榊の根元に目をやり、ひょいと枯葉をつまみ上げた。

 「よければ、一緒にどうです?」

 「はい」


 祠の裏は、細い笹と若い木の混じる、こぢんまりとした林だ。

 踏み込みすぎないよう気をつけながら進むと、土の中の水がゆっくり動きはじめているのが靴底に伝わった。

 「ここです」

 宮司さんが指し示したのは、地面にぽっかり空いた穴——といっても、掌で覆えるほどの小ささ。

 「風穴?」

 「そう呼ぶには可愛らしすぎますが、冬の間に空気がたまる小さな袋です。雪解けの前触れで、ここからふっと息が上がる」

 近づくと、確かに冷たい空気の合間に、ほんのわずか、湿った温度が混じる。

 「風の小道は、こういうところとつながっているんでしょうか」

 「さあ、そこは神さまの庭仕事」

 宮司さんは笑って肩をすくめた。

 「ただ、人が触るのは“手前”まで。祈りの通り道は、手でこじあけるものではないからね」


 林を抜け、祠の前に戻ると、縁側の端に三毛の影。

 「見ておったぞ」

 みーちゃんは私の足元へ寄り、雪を踏まずにふわりと座った。

 「宮司殿は、よう分かっとる」

 「神さまの庭仕事、だって」

 「庭は広い。人の大きさで測ると、見えぬものが増える」


 宮司さんは軽トラックの荷台から、古びた木箱をひとつ降ろした。

 「ツネさんの倉から出てきたんですって。おばあちゃんの“古道具”」

 箱を開けると、細い鈴と、金属の小さな輪、結い直し途中の古い紐、それから薄い青の風鈴——冬でも鳴らせるように、短い舌を持つ特別なもの、だと紙片に走り書きがあった。祖母の字だ。

 胸の奥が、少しだけ熱くなる。

 「吊りましょうか」

 「ええ。ただ、今日は祠ではなく——」

 宮司さんは少し考え、祠から数歩離れた斜面の、低い枝を指した。

 「ここ。風が揉まれる、手前の場所。祠の前に“合図”を作るんです」

 私は頷き、紐を通して結び目を整えた。みーちゃんが横で目を細める。

 「指の迷いが消えたな」

 「うん。祖母が見てるみたい」

 「見ておるよ」


 吊るしてみると、風鈴は鳴らない。

 代わりに、薄い舌が、風と出会う場所を探すように小さく揺れた。

 「今日はこれでいいんです」と宮司さん。

 「風が来たら、風のほうが鳴らす」

 「人が鳴らすんじゃない」

 「そう」


 昼にいったん家に戻り、鍋を出した。今日は粕汁を作ろうと思う。商店で分けてもらった酒粕と、塩鮭の切り落とし、里芋と人参、長ねぎ。

 鍋に出汁をひき、鮭の骨を少しだけ入れて旨みを出し(あとで取り出す)、里芋と人参を中火で静かに転がす。

 「沸いたら弱火に落とし、ねぎは最後に」

 「心得とる」

 「酒粕は溶き伸ばしてからね。焦がすと香りが飛ぶ」

 「火は神の舌——じゃ、って言うんでしょう?」

 「言わずとも分かっておるなら良いことじゃ」

 こたつの縁でふんぞり返ったみーちゃんが、わざと偉そうに鼻を鳴らす。

 私は笑って、コンロのつまみをこまめに見やりながら味噌を少量だけ合わせた。白い湯気に酒粕の甘い匂いが混じり、冬の台所の温度がやわらかく底上げされる。


 「これ、少し持って行こう」

 「ツネ殿のところか?」

 「うん。あと、宮司さんにも。風鈴を一緒に見てくれたから」

 土鍋を火から外し、蓋をずらして余熱で落ち着かせる。火を消したことを確かめてから、小鍋に取り分けて風呂敷で包んだ。


 戸を開けると、まぶしい反射。空は薄い青に透け、雪の表面に細かい砂糖のような光。

 坂を下りる途中、郵便配達の八木さんとすれ違う。

 「お、今日はいい匂いだ。粕汁かい?」

 「はい。少しだけど、あとで宮司さんにも」

 「届けておくよ。ちょうど社務所に寄るから」

 「助かります」

 「そうだ、ツネさんから預かりもの。広報の“春祭りの小話”、寄稿文が上がったって」

 紙を受け取ると、角がきれいに切れていて、ツネさんの丸い字が並んでいた。

 “祠の紐を結ぶ手は、いつも、ほどくこともできる手であれ”

 その一文に、思わず息を止める。


 ツネさんの家に着くと、縁側の端に小さな雪だるま。子どもたちが通りすがりに作っていったらしい。

 「おや、たえこさん。まぁ、粕汁! ありがたいねぇ」

 座敷で湯気を分け合いながら、私は風鈴のことを話した。

 「おばあちゃんのねぇ……あの人、風の音が好きだったから。夏だけじゃなく、冬の風がどう鳴るか、よく耳を澄ましてたよ」

 「冬の風鈴、鳴るんですね」

 「鳴らなくてもね、揺れ目で分かるのさ。風が通ったって」

 ツネさんはお椀を手で包んで、ふう、と音を立てて息を吹いた。

 「粕汁は、身体の結び目をほどくねぇ」

 「ほどく」

 「そう。ほどいて、結び直す。冬の間は、その繰り返しだよ」


 外に出ると、空気の密度が昼前とは違っていた。

 祠に戻って風鈴を見上げると、薄い青の舌が、さっきよりも頻繁に、しかし音にはならず、ちいさく“会釈”をしている。

 「もう少し」

 みーちゃんが、私の肩にぴたりと尾を寄せた。

 「風の道と、心の道は、同じところで交わる」


 そのまま、祠の裏へ。

 林の奥——朝見た小さな穴のあたりで、雪の表面が少しだけ艶っぽい。

 しゃがんで指を近づけると、かすかに湿り気。耳を近づけると、ほんのわずかだが、土の下で何かが“ほどける”音がする。

 「春が、そこにいる」

 「うむ。春は、歩いてくるもんじゃ。飛んでけえへん」

 「どこの言葉?」

 「風の言葉じゃ」

 みーちゃんは澄まして言い、前足で雪面をかるく撫でた。

 その跡はすぐに消え、代わりに、うんと小さな気泡がひとつ、雪の下を移動していく。


 夕方。

 私は家に戻り、祖母の棚から薄い和紙を一枚取り出した。そこに鉛筆で、風鈴を吊った枝の場所、祠との距離、林の小穴の位置——つまり“風の通りの見取り図”を描く。

 「書いてどうする」

 「忘れるから。紙に覚えておいてもらうの」

 「紙はえらいの」

 「うん。ここに来てから、ほんとにそう思う」

 「主の胸の灯りも、紙で大きくなる。火種の位置を忘れぬからじゃ」

 みーちゃんの言い方が、今日はいつもより少しだけやさしかった。


 夕餉は、粕汁の残りと、かぶの葉の炒め煮、梅干しをひとつ。

 タマはこたつの縁から半身を出し、私が椀を置くのを待っている。

 「タマ、少し近いね」

 声をかけると、タマはそろりと前足を一歩。私は指を丸め、そっと鼻先の前で止める。

 「焦らず」

 「分かってる」

 「猫は、気配を味わう。味噌も、風も、同じじゃ」

 「なんでも味噌に結びつけるの、変わらないね」

 「神じゃからの」


 食後、私はこたつのスイッチを「弱」に合わせ直し、ガスの元栓とコンロのつまみが「切」かもう一度確かめてから座り直した。

 外は、さっきよりも静かだ。音が減ったのではなく、音の輪郭がやわらいで、奥にある“同じ音”が聴こえてくるような静けさ——私が都会で忘れかけていた種類の静けさだ。


 そのとき、風鈴がひとつ、鳴った。

 ほんの一音、硝子が雪の粒を舐めるみたいな短い音。

 私は顔を上げ、縁側から外を見る。

 次の一音は来ない。代わりに、耳の奥で、どこか懐かしい声がほどける。

 ——“ほどいて、結び直すんだよ”

 祖母の声に似ていた。私の記憶がつけた声かもしれない。けれど、“似ている”だけで、十分だ。


 「鳴ったね」

 「うむ。風の小道が、家の中まで一本、伸びたの」

 「家の中まで」

 「祠と家は隣じゃ。主が息を整えれば、祠も楽になる。祠が息を整えれば、主も楽になる」

 「持ちつ持たれつ、だね」

 「それを“守り合う”と言う」

 みーちゃんは、私の膝にぐり、と額を押しつけてくる。重さがのる。

 「重い」

 「神威じゃ」

 「はいはい」


 私はノートを開いた。

 ——風鈴:祠の東三歩、斜面の低枝。今日は一度だけ鳴いた。

 ——林の小穴:朝より湿り、夕方に気泡ひとつ。

 ——粕汁

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