第4話 雪晴れとぜんざい
朝、障子を透けて差し込む光が、いつもよりはっきりしていた。
障子紙に四角い明かりの格子がくっきり浮かぶ。外の空気は相変わらず刺すように冷たいのに、空の色だけは、どこかで水を飲んだみたいに澄んでいる。
こたつ布団から顔だけ出していたみーちゃんが、片目をすっと開けた。
「今日は、よう晴れたの」
「ほんとだね」
縁側の戸をすこし開けると、白い息がするりと庭に溶けた。山の稜線の上、薄い雲の刷毛目が一本だけ。雪の肌理が、光を含んで細かくきらめく。
タマはこたつから半身だけ出して、陽だまりの輪っかに前足を伸ばした。あくびは音より先に、ひげの先で丸く弾ける。
朝ごはんは、昨日の味噌汁に少し大根を足して温め直した。
豆腐は角を保ち、わかめは柔らかく広がる。土鍋のご飯を返してよそい、糠漬けを二切れ。
「白は二、赤は一。今日も同じでよい」
「先生、厳しい」
「神じゃ」
みーちゃんは湯気を嗅ぎ、尻尾の先で小さく合格印をつけた。タマは台所の隅の箱で、前足をいっぽん、箱のふちからぽとりと垂らす。眠気の落款。
食卓の片づけをしながら、私はふと小豆のことを思い出した。
祖母の棚に、買い置きの紙袋がいくつかあったはずだ。端正な字で「令和×年×月○日 小豆」と記されている袋を見つけ、手に取った。紙袋の内側から、乾いた豆の音がころん、と寄ってくる。
「ぜんざい、作ろうかな」
口にすると、みーちゃんがこたつの中でぴくりと動いた。
「よい選択じゃ。小豆は、冬の心臓を温める」
「味噌の次は小豆推し?」
「赤き粒は祈りの数。煮るほどに、ほどけて甘みになる。祝いでもある」
渋抜きは慎重に。小豆をさっと洗い、たっぷりの水で火にかけ、ぷつぷつと沸き立つ前に一度だけ湯を捨てる。
今度は新しい水を張って中火にかける。沸いたら弱火に落とし、紙の落とし蓋をそっとのせる。
泡の音を耳で数える。ぐらぐらさせず、ことこと。
「目を離すなよ」
「離さないよ」
「火は神の舌じゃ。よく見て、よく聞け」
「はい、先生」
「神じゃ」
こたつの中からでも、言い方は変わらない。
豆がふくれて、指の腹で押すとほろりと割れる。火を止め、砂糖を三度に分けて入れる。いちど目は甘やかし、二度目で輪郭、三度目で余韻。
鍋の湯気が台所の窓を曇らせ、世界の端が柔らかく滲む。
私は箸の先で一粒、割れた小豆を掬って、そっと舌の上で転がした。
「……うん」
熱さの向こうに、少しだけ塩を欲しがる気配。指でつまむ程度の塩を入れてやると、甘みがひと呼吸深くなった。
「よく聞いとる」
みーちゃんが、まるで自分が火加減をしたかのように満足げだ。
「おやつにしよう。ツネさんにも持っていけるかな」
「うむ。人は甘いものを口にすると、言葉の角が丸くなる」
「角、立ってたことある?」
「冬は寒い。角は勝手に立つものじゃ」
なるほど、と笑って、鍋の蓋をずらし気味に戻した。つまみが“切”になっているのを目で確かめ、火を消す。
陽が高くなると、道の雪がところどころ薄くなった。
私は長靴を履いて、玄関を出る。祠の方から、かすかな鈴の音がした。昨日綺麗に拭いた鈴が、弱い風に少しだけ揺れている。
榊の葉は、冷たい空気を抱えたまま、自分が緑であることを忘れないでいる。
「行ってくるね」
祠の前に軽く頭を下げると、雪の上にふわりと小さな影が落ちた。
見上げると、みーちゃんが屋根から屋根へ、影のように移るところだった。
「付き添い?」
「見回りじゃ」
坂を下りる途中、笑い声が白い空気の中で弾けた。
子どもたちがスコップを持って、空き地に雪の山を作っている。段ボールをそり代わりにして、ひとりが座り、もうひとりが押す。
「いくぞー」
ぺたぺたとした音ののち、ずずず、と段ボールが雪を削って進む。途中で止まり、押した子が笑いながら後ろから引いて、また押す。
「こんにちは」
声をかけると、ふたりとも照れたように頭を下げた。
「昨日、手袋見つかった?」
スキー帽の子がぱっと顔を上げる。
「はい! ありがとうございました!」
「こちらこそ。風がちょっと手伝ってくれたみたい」
言った私自身、少し照れる。子どもは「風?」と首を傾け、すぐに「いくぞー!」と段ボールに戻った。
雪は、遊びの言葉をよく覚えている。
商店に着くと、ストーブの上でやかんが静かに鳴っていた。
「たえこさん、今日はいい天気だねぇ」
店主の奥さんが、両手をこすりながら笑う。
「おはようございます。小豆、まだありました」
「あら、ぜんざいかい?」
「はい。ツネさんにも、持って行けたら」
「ちょうどよかった。お餅、今朝ついたのが少しあるよ。小さめだけど」
奥から出てきたパックには、手のひらほどの丸餅が控えめに並んでいた。粉の白さが、冬の光を柔らかく返す。
「ふたつ、ください」
「三つ持ってきな。ひとつは味見代だよ」
「ありがとうございます」
「宮司さんにも分けなさいね。あの方、甘いの好きだから」
「覚えておきます」
袋に餅と少しの葱、それから切り干し大根を追加。お釣りを受け取る手のひらが、ストーブの熱で気持ちよく痺れた。
帰り道、祠の前で足が止まった。
鈴の音がさっきより澄んでいる。
みーちゃんが榊の影に座り、こちらに目を向けた。
「餅か」
「どこから見てるの」
「風の通り道に座れば、何でも見える」
「便利だね」
「神じゃからの」
返事をしながら、私は小さく笑って、家に入った。
台所で鍋をもう一度温め直し、餅を焼く準備をする。
グリルの火は弱め、扉は少し開けて様子を見る。離れない。
餅の表が少し色づき、ぷくりと膨らんで、表面に細かなひびが走る。
「今じゃ」
みーちゃんの合図と同時に、餅を取り出し、ぜんざいの椀にそっと沈める。
甘やかな湯気が、冬の台所の空気を丸くする。
私は味見にひと椀、小さめの餅を半分に割って入れた。
「いただきます」
匙で小豆をすくい、餅の切れ目をひと欠片。
口に入れると、熱と甘みが肩の内側に広がり、背中の筋肉がやわらいだ。
「……ああ」
思わず声が漏れる。
「……よい顔じゃ」
「またそれ」
「誉め言葉は何度でも言うてよい」
土鍋のまま保温して、蓋に手ぬぐいをかける。
タッパーにも少し詰めて、風呂敷に包んだ。ツネさんの家までは、雪の道を挟んでほんの数十歩。
「行ってきます」
「餅の角を折らぬように」
「縁起?」
「形の話じゃ。角は崩れると冷めやすい」
「なるほど」
戸を開けると、向こうからツネさんが出てきた。
「まぁ、ちょうどよかった。今から味噌を混ぜ直そうかと思ってね」
「ぜんざい、作ったんです。お餅もあるから——」
「おやまぁ、ありがたいねぇ」
座敷に通され、卓袱台の上に風呂敷を広げる。
ツネさんの家は、うちより少しだけ古くて、でも整っていた。座布団の縁は擦り切れかけているのに、きちんと糸で繕われている。
「三毛さんもいるのかい?」
振り返ると、戸口のところで三毛の尾がふわりと揺れた。
「また来てくれたのね、この三毛さん」
「……見張りじゃ」
みーちゃんが答えたけれど、ツネさんにはやっぱり「みゃあ」としか聞こえない。
「ほんとにいい声で鳴くねぇ。お餅、焼くかい?」
「一つは焼いて、もう一つはそのまま温めて入れます」
「通だねぇ」
台所を借りて、餅をさっと焼く。火から目を離さない。
戻ると、ツネさんが茶を淹れてくれていた。湯気の先に、ほうじ茶の香り。
「いただきます」
ぜんざいの椀を差し出すと、ツネさんは両手で大事そうに受け取った。
「……ああ、いいねぇ。甘いけど、最後にちょっとだけ塩が顔を出す」
「塩、指でひとつまみだけ」
「その“ひとつまみ”が人によって違うのよ」
笑って、餅をひと口。
「おばあちゃん、よく作ってましたか?」
「作ってたよ。冬はね、甘いものが大事。身体は寒いと固くなるから、“ほどく”ものがいるのさ」
“ほどく”。昨日、宮司さんが言った「祠は風を引く」が、頭のどこかで重なった。
「ほどくの、上手になりたいです」
「もうなってるよ。あんた、顔がほどけてる」
ふたりで笑った。
戸口のところで、みーちゃんが尻尾をふわりと倒した。
「甘い香りは、家の言葉をやわらげる」
「そうだね」
帰り道、郵便配達の八木さんに会った。
「お、いい匂いがするなぁ」
「ぜんざい、作ったんです」
「おっと、羨ましい。今日、宮司さんのところに寄るから、ひと口分けてあげて」
「もちろん。商店の奥さんにも言われました」
「伝わるの早いなぁ」
笑い合って、私は小さめのタッパーを一つ渡した。
「ありがとうございます。……あ、これ、広報の試し刷り。来月号、祠の春祭り、日程入りました」
受け取ると、紙の端がきれいに切れている。印刷のインクの匂い。
「春、来ますね」
「ええ。来ますとも」
家に戻り、残ったぜんざいを小さな椀にもう一杯。
今度は餅なしで、小豆だけをゆっくりと味わう。
みーちゃんが私の膝に乗り、重みでノートの端が少し折れた。
「重い」
「神威じゃ」
「……そういうことにしとく」
私は笑って、今日の作り方をノートに書きつけた。
「小豆 二合/渋切り一回/砂糖三段階/塩ひとつまみ(指先小)/餅は弱火で焼く・目を離さない」
書いてから、もう一行。
「ほどくこと。味も、肩も、言葉も。」
午後、陽はさらに傾き、障子の格子が部屋の中をゆっくり移動した。
タマがそれを追いかけるように、陽だまりの輪っかの中へ体をずらす。
みーちゃんは私の膝の上で、喉を鳴らした。
「タマ、少しこっちにおいで」
手を伸ばすと、タマはためらいがちに一歩分、近づいた。
それだけで、胸の奥に小さな灯りが点った気がする。
「焦るでない」
「うん」
「猫は、風の歩幅で近づく」
「風の……歩幅」
「追えば離れ、待てば寄る。そういうものじゃ」
「人も?」
「人も」
言葉が、ぜんざいみたいにゆっくり胸の中で溶けた。
夕方、祠の方から鈴の音が一度だけした。
外を見ると、薄い金色が雪の端にだけ差している。
私は立ち上がって、玄関先で軽く背伸びをした。
空の色は、朝よりさらに澄んだ青。
「明日も晴れるかな」
「半分は晴れ。半分は雲」
「天気予報?」
「神威の勘」
「頼もしいけど、半分」




