第32話 返さない手紙と、手を動かす午後
朝、窓を開けると、風がまっすぐ入ってきた。
昨日までの湿り気は抜け、空気が少し乾いている。
秋の朝は、考え事に向いているらしい。
縁側に出ると、みーちゃんが丸くなっていた。
祠の方角を背に、目を閉じている。
タマは縁側の端で、外をじっと眺めていた。
「いい天気だね」
「澄んでおる」
「今日は何する?」
「主が決めよ」
「昨日と同じだ」
「それがよい日もある」
みーちゃんは動かない。
朝食のあと、机の引き出しを開ける。
封筒はそこにあった。
白いまま、昨日と同じ顔をしている。
取り出さず、引き出しを閉めた。
台所に立ち、包丁を研ぐ。
しゃり、という音が規則正しく続く。
考え事をする音ではない。
ただ、刃と水と手だけがある。
「今日は、包丁の日か」
「そんな日もあるよ」
「手を動かすと、思いが散る」
「散っていい思いもある」
みーちゃんは目を閉じたまま、尻尾を一度揺らした。
昼前、ツネさんが通りかかる。
「たえこさん、これ良かったら」
差し出されたのは、干し柿用の渋柿だった。
「吊るす準備、もう始めててね」
「もうそんな季節なんですね」
「すぐ来るよ。秋は」
そう言って、笑った。
家に戻り、軒下に紐を用意する。
柿の皮を剥き、ヘタに紐を通す。
指先が少し冷える。
でも、その冷たさがちょうどいい。
「いい高さじゃ」
みーちゃんが縁側から見て言う。
「落ちないかな」
「落ちぬ。紐が正直じゃ」
「紐が?」
「手の癖を覚える」
それは包丁の話とも、少し似ていた。
柿を吊るすと、軒下にオレンジ色が並んだ。
風が通り、ゆっくりと揺れる。
まだ食べ物ではない。
待つものだ。
午後、縁側に座り、手を止める。
風鈴は鳴らない。
そのかわり、柿が揺れる音が微かにする。
「まだ、筆は動かぬな」
みーちゃんがぽつりと言った。
責める調子ではない。
ただの確認だ。
「今日は、書かない」
「明日は」
「分からない」
「それも、返事じゃ」
なるほど、と思った。
タマが近づいてきて、柿を見上げる。
届かないと分かると、すぐに興味を失った。
猫は判断が早い。
夕方、空がゆっくり色を変える。
昼より早い。
でも、慌ただしくはない。
封筒のことを思い出す。
でも、焦りはなかった。
今日は、柿を吊るす日だった。
それだけで、十分だった。
「今日は、いい日だったね」
「手が覚えておる日じゃ」
「何を?」
「今の主を」
胸の奥が、静かに温かくなった。
夜、灯りを落とす。
軒下で、柿が闇に揺れている。
まだ甘くはない。
でも、ちゃんと時間を選んでいる。
返さない手紙は、
迷いの印ではなかった。
今の時間を、
ちゃんと生きている証だった。




