第30話 風の向きと、置き忘れた音
朝、窓を開けると、風の入り方が違っていた。
涼しいのに、冷たくはない。
夏の名残を含んだまま、どこか遠くを向いた風だ。
縁側に出ると、板がほどよく冷えている。
みーちゃんは祠の方角を向き、背中を伸ばしていた。
タマは丸くなっていたが、目だけはこちらを見ている。
「風、変わったね」
「向きが変わった」
「どっちに?」
「外じゃ」
短い答えに、胸が少しだけ揺れた。
台所で湯を沸かし、味噌桶に触れる。
木は落ち着いた温度を保っている。
「今日の匂い、どう?」
「深い」
「いい意味で?」
「戻らぬ味になりつつある」
戻らぬ、という言葉が、なぜか耳に残った。
朝食を終え、縁側で茶を飲む。
湯気が風に引かれ、すぐに消えた。
風鈴は鳴らない。
鳴らないのに、風の存在だけは確かだった。
午前中、郵便受けに一通の封筒が入っていた。
差出人を見て、指が止まる。
都会にいた頃の会社の名前だった。
封は切らず、机の上に置く。
文字を読まなくても、中身は想像がついた。
近況確認。
戻る気はあるか。
あるいは、そういう類のもの。
「開けぬのか」
みーちゃんが、いつの間にかそばにいる。
「あとで」
「逃げてはおらん」
「……逃げてないよ」
「置いているだけじゃ」
その言葉に、救われた気がした。
昼前、ツネさんが声をかけてくる。
「たえこさん、今夜冷えるってさ」
「ほんとですか」
「秋は急だからね。体、労わりな」
そう言って、干し柿用の紐を見せてくれた。
秋が、生活の道具を連れてきている。
午後、家の中を少し整える。
祖母の箪笥の引き出しを開け、
使っていないノートを見つけた。
白いままのページ。
何も書かれていないけれど、
捨てられずに残っていた。
「これ、書くためにあったのかな」
「書かぬために、あったのやもしれん」
「なんで」
「余白を置くという役目もある」
みーちゃんは、あくびを一つした。
夕方、空が少し早く色を変える。
オレンジが薄く、すぐに沈んだ。
風は止まず、庭の草を同じ方向へ倒している。
封筒を、もう一度見る。
指で縁をなぞり、息を整える。
それでも、まだ開けない。
「今日は、開けない」
「よい」
「明日も、分からない」
「それもよい」
みーちゃんはそう言って、縁側に座った。
風鈴が、一度だけ鳴った。
低く、短い音。
知らせるというより、確認する音だった。
夜、灯りを落とす。
外の音は少ない。
けれど、風だけは遠くで続いている。
置き忘れた音は、
思い出さなくても消えない。
でも今は、
聞かなくてもいい夜だった。




