表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第3話 祠の掃除と鈴の音

朝十時。

 台所の窓を開けると、吐く息がまだ白く見える。

 夜の冷え込みが残る空気のなか、空はうすい水色。雪雲の切れ間から、ようやく冬の陽が顔を出していた。


 私は昨夜のうちに準備しておいた雑巾と竹ぼうきを手に取った。

 祖母の引き出しから見つけた古い手ぬぐいも首に巻く。

 “明日十時ね。無理なら顔だけでも出しておくれ”

 ツネさんの声を思い出す。

 ——無理、なんて言っておいて、きっと私が来ることをもう決めていたんだ。


 こたつの縁では、みーちゃんが毛づくろいの最中。

 「行ってくるね」

 「祠じゃな?」

 「うん、ツネさんと約束したから」

 「ならば良い。わしも見に行こう」

 「手伝ってくれるの?」

 「神じゃからの」

 得意げな顔。けれど、前足の先にまだ煮干しの匂いが残っていて、説得力はあまりなかった。


 外に出ると、雪は少し締まって歩きやすい。

 空気が透明で、どこか遠くの音まで届くような気がする。

 坂を下る途中、郵便配達の八木さんの自転車が通り過ぎ、

 「今日は掃除かい?」と声をかけられた。

 「はい。祠の雪下ろしを少し」

 「助かりますよ。あそこの屋根、滑るから気をつけて」

 「ありがとうございます」

 小さな会釈のあと、ハンドルについた鈴の音が遠ざかっていく。


 祠に着くと、すでにツネさんが来ていた。

 手には竹ぼうき、腰には軍手。

 「おはよう、たえこさん」

 「おはようございます。早いですね」

 「年寄りは朝が早いのさ。風が変わらないうちに済ませたいからね」

 みーちゃんはというと、祠の屋根の上で丸くなり、

 「作業監督」とでも言いたげに尻尾を揺らしている。


 ツネさんが雪の上を掃き、私は木の根元の落ち葉を拾う。

 箒の音が、静かな冬の空気の中に溶けていく。

 「おばあちゃんも、こうして祠を掃除してたんですか?」

 私が尋ねると、ツネさんは少し顔を上げて笑った。

 「そうだねぇ。あの人は几帳面だったから、雪の中でも欠かさなかったよ」

 「へぇ……。祖母らしいです」

 「でもね、面白いの。あの人、手が止まると鈴を鳴らしたのよ」

 「鈴を?」

 「“ここまできれいになりました”って、報告みたいにね」

 「そんな習慣、知らなかった」

 「祈りってのは、手の癖みたいなもんさ。真似してるうちに、いつの間にか自分の形になる」


 私は榊の枯れ枝を新しいものに替えながら、ツネさんの言葉を思い返した。

 祈りが手の癖——。

 祖母が味噌を溶くときも、雑巾を絞るときも、指先の動きに無駄がなかった。

 それを見て育った自分も、きっとどこか似ているのかもしれない。


 「ツネさん、鈴も拭いていいですか?」

 「もちろん。持っておいで」

 私は手ぬぐいを濡らして軽く絞り、鈴の表面をそっとなでた。

 触れた指先に、冷たさと重み。

 風が止まり、静けさが少し濃くなる。

 「綺麗な音だねぇ」

 ツネさんの声が低く響いた。

 「中で眠ってるのは風かね、人の願いかね」

 「両方、じゃないですか?」

 「そうだといいねぇ」


 屋根の雪を落とすときは、みーちゃんが上で動きを追いかけていた。

 「落とすぞ」と声をかけると、

 「よし、参る」

 と返してくるが、結局、雪がどさっと落ちるたびに尻尾を膨らませて飛び退く。

 「みーちゃん、監督なんでしょ?」

 「現場視察じゃ」

 「視察のわりに逃げ足が早いね」

 「神は臆病ではなく、慎重なのじゃ」

 ツネさんがくすくす笑う。

 「ほんとに喋りそうねぇ、あの子」


 掃除が一段落したころ、ツネさんがポケットから小瓶を取り出した。

 中には細かい米ぬかのような粉。

 「これね、うちの神棚を拭くときに使う“ぬか粉”なの。

  少しでいいから祠にも分けてあげようと思って」

 「ありがとうございます」

 「昔はね、こうやって“神さまの顔”を磨いたのよ」

 ツネさんが指で少し取り、鈴の表面にそっと擦り込む。

 金属が柔らかく光を返し、冷たさの奥から微かな温もりがにじむ。

 「ほら、見て。あの子の毛と同じ色」

 確かに、鈴の縁には三毛色のような金・赤・白が混ざって見えた。

 みーちゃんが「うむ」と鼻を鳴らした。


 「主よ」

 「なに?」

 「鈴が喜んでおる」

 「どうしてわかるの?」

 「音が鳴らぬのは、満ちておるからじゃ。

  風の器がいっぱいになると、音は沈む。

  やがて、あふれた分だけ鳴る」

 「難しいね」

 「生きるのと同じじゃ」

 ツネさんが聞こえていたのか、頷いた。

 「そうねぇ。あふれるまでは、静かに待つしかないのよ」


 作業を終えるころには、手袋の中までぽかぽかしてきた。

 私たちは祠の前で並んで手を合わせた。

 その瞬間、軽い音がした。

 風もないのに、鈴がひとりでに鳴ったのだ。

 かすかに、ひとつ。

 そのあとを追うように、もうひとつ。

 まるで祠が笑ったような音だった。

 「……いまの、風?」

 「風にしては、優しすぎるねぇ」

 ツネさんの目尻に、うっすら光が滲んでいた。


 帰り道、空は少し曇り、雪がまた舞いはじめた。

 「来週はお祭りの準備だね」

 ツネさんが言う。

 「お手伝い、してもいいですか?」

 「もちろん。たえこさんが来てくれて、村も嬉しいよ」

 その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。

 祠の屋根を振り返ると、みーちゃんがまだそこに座っている。

 風に尾を揺らしながら、何かを見送るように。


 家に戻ると、こたつの熱が少し恋しく感じた。

 湯を沸かしている間に、手ぬぐいを干す。

 みーちゃんは縁側から戻ってきて、こたつの上に跳び乗った。

 「よく働いたの」

 「監督さんもね」

「当然じゃ」

 「今日の鈴、鳴ったね」

 「うむ。感謝の音じゃ」

 「誰への?」

 「祠の。主らの。風の。……まあ、全部じゃな」


 私は笑って湯呑を両手で包んだ。

 湯気の向こうに、さっきの祠が浮かぶ。

 榊の緑、ぬか粉の光、鈴の余韻。

 そのどれもが、冬の空気の中にゆっくり溶けていく。


 「ねぇ、みーちゃん」

 「なんじゃ」

 「祈りって、手の癖みたいなものだって、ツネさんが言ってた」

 「うむ。良い言葉じゃ」

 「私の“手の癖”って、なんだろう」

 「湯気を見つめる癖、じゃな」

 「え?」

 「物を大事にする者は、湯気の中に“気配”を見る。

  主は、それを忘れん人じゃ」

 みーちゃんがこたつの上で丸くなり、尻尾を鼻先に巻いた。

 「風が通ったあとには、光が残る。

  それを見て、次の祈りを思いつくのじゃ」

 「詩人だね」

 「神じゃからの」


 窓の外、雪が静かに降っていた。

 白の粒の中に、さっき祠で鳴った鈴の音がまだ混じっているような気がした。

 あの音は、確かにどこかを通り抜けてきた——

 風の道を、祈りの道を。

 そしていま、私の胸の中でも、かすかに鳴っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ