第26話 雨上がりの朝と、洗われた匂い
朝、戸を開けると、空気が違っていた。
昨夜の雷雨が、家も庭も、村の隅々まで洗ったあとだ。
土の匂いが濃く、葉の緑が一段深い。
縁側に出ると、板がまだ少し冷たい。
雨粒が残る庭に、朝の光が跳ねている。
風鈴は鳴らない。
その静けさが、心地よかった。
「すっきりしたね」
「洗われた朝じゃ」
みーちゃんは庭の端に座り、濡れた草をじっと見ている。
タマは露を踏むのが嫌らしく、縁側から一歩も動かなかった。
台所に立ち、湯を沸かす。
湯気が上がると、空気がさらにやわらぐ。
味噌桶に触れると、木がきゅっと締まった感じがした。
「今日は元気そう」
「雨の翌日は、起きがよい」
「味噌も洗われた?」
「気配が整っただけじゃ」
その言い方が、少しだけ誇らしげだった。
朝食は、味噌汁と卵焼き。
雨上がりの朝は、味がはっきりする。
窓の外では、鳥が忙しそうに鳴いていた。
食後、庭に出る。
草の先に残る水滴が、靴先に触れる。
昨夜の雷が嘘みたいに、空は高い。
「今日は何する?」
「何もしない」
「それ、最近よく聞く」
「よいことじゃ」
みーちゃんはそう言って、祠のほうをちらりと見た。
祠の前に立つ。
榊の葉は雨を含み、重たそうに揺れている。
鈴の紐をそっと整えると、かすかに音がした。
「昨日は……ありがとう」
小さく言う。
返事はない。
でも、風が一度、通り抜けた。
家に戻ると、ツネさんが来ていた。
「おはよう、たえこさん。すごい雨だったねぇ」
「雷もすごかったです」
「でも、今朝は空気がいい。こういう日はね、身体が軽くなるんだよ」
そう言って、朝採れの野菜を置いていった。
縁側で野菜を洗う。
水が葉を伝い、土が落ちる。
その音を聞いているだけで、心が落ち着いた。
ふと、昨日の雷のことを思い出す。
怖かったけれど、逃げなかった。
前よりも、少しだけ落ち着いていた。
「ねぇ、みーちゃん」
「何じゃ」
「私、前より雷、平気になったかも」
「それは、雷が弱くなったのではない」
「じゃあ何」
「主が、少し強くなった」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
「……それ、褒めてる?」
「事実じゃ」
みーちゃんは庭を見たまま言った。
昼前、洗濯物は干さない。
まだ湿り気が残っているし、今日は急がない。
代わりに、縁側で本を読む。
文字を追いながら、風の匂いを感じる。
タマが膝に乗ってきた。
重たい。
でも、どかさない。
「重い」
「生きておる証じゃ」
「それ、都合のいい言い方だね」
みーちゃんは返事をせず、祠の影に身を預けた。
午後、空に雲が流れる。
白く、ゆっくり。
雷の名残は、もうない。
「この家、好き?」
不意に聞く。
みーちゃんは少し考えてから答えた。
「嫌いではない」
「それ、結構好きでしょ」
「……守りがいがある」
それは、たぶん最大級の肯定だった。
夕方、風鈴が一度だけ鳴った。
昨日よりも、ずっと軽い音。
雨上がりの一日は、
何かを始める日ではなかったけれど、
続けていくには、ちょうどいい日だった。
私は縁側に座り、
静かな庭と、猫たちの背中を見ながら、
この場所で生きていく時間を、ゆっくり受け取った。朝、戸を開けると、空気が違っていた。
昨夜の雷雨が、家も庭も、村の隅々まで洗ったあとだ。
土の匂いが濃く、葉の緑が一段深い。
縁側に出ると、板がまだ少し冷たい。
雨粒が残る庭に、朝の光が跳ねている。
風鈴は鳴らない。
その静けさが、心地よかった。
「すっきりしたね」
「洗われた朝じゃ」
みーちゃんは庭の端に座り、濡れた草をじっと見ている。
タマは露を踏むのが嫌らしく、縁側から一歩も動かなかった。
台所に立ち、湯を沸かす。
湯気が上がると、空気がさらにやわらぐ。
味噌桶に触れると、木がきゅっと締まった感じがした。
「今日は元気そう」
「雨の翌日は、起きがよい」
「味噌も洗われた?」
「気配が整っただけじゃ」
その言い方が、少しだけ誇らしげだった。
朝食は、味噌汁と卵焼き。
雨上がりの朝は、味がはっきりする。
窓の外では、鳥が忙しそうに鳴いていた。
食後、庭に出る。
草の先に残る水滴が、靴先に触れる。
昨夜の雷が嘘みたいに、空は高い。
「今日は何する?」
「何もしない」
「それ、最近よく聞く」
「よいことじゃ」
みーちゃんはそう言って、祠のほうをちらりと見た。
祠の前に立つ。
榊の葉は雨を含み、重たそうに揺れている。
鈴の紐をそっと整えると、かすかに音がした。
「昨日は……ありがとう」
小さく言う。
返事はない。
でも、風が一度、通り抜けた。
家に戻ると、ツネさんが来ていた。
「おはよう、たえこさん。すごい雨だったねぇ」
「雷もすごかったです」
「でも、今朝は空気がいい。こういう日はね、身体が軽くなるんだよ」
そう言って、朝採れの野菜を置いていった。
縁側で野菜を洗う。
水が葉を伝い、土が落ちる。
その音を聞いているだけで、心が落ち着いた。
ふと、昨日の雷のことを思い出す。
怖かったけれど、逃げなかった。
前よりも、少しだけ落ち着いていた。
「ねぇ、みーちゃん」
「何じゃ」
「私、前より雷、平気になったかも」
「それは、雷が弱くなったのではない」
「じゃあ何」
「主が、少し強くなった」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
「……それ、褒めてる?」
「事実じゃ」
みーちゃんは庭を見たまま言った。
昼前、洗濯物は干さない。
まだ湿り気が残っているし、今日は急がない。
代わりに、縁側で本を読む。
文字を追いながら、風の匂いを感じる。
タマが膝に乗ってきた。
重たい。
でも、どかさない。
「重い」
「生きておる証じゃ」
「それ、都合のいい言い方だね」
みーちゃんは返事をせず、祠の影に身を預けた。
午後、空に雲が流れる。
白く、ゆっくり。
雷の名残は、もうない。
「この家、好き?」
不意に聞く。
みーちゃんは少し考えてから答えた。
「嫌いではない」
「それ、結構好きでしょ」
「……守りがいがある」
それは、たぶん最大級の肯定だった。
夕方、風鈴が一度だけ鳴った。
昨日よりも、ずっと軽い音。
雨上がりの一日は、
何かを始める日ではなかったけれど、
続けていくには、ちょうどいい日だった。
私は縁側に座り、
静かな庭と、猫たちの背中を見ながら、
この場所で生きていく時間を、ゆっくり受け取った。




