第25話 雷雨の夜と、動かぬ背中
夕方になっても、空気が落ち着かなかった。
昼の熱を抱えたまま、風だけがそわそわと庭を行き来している。
蝉の声が、いつの間にか止んでいた。
「来るね」
「来る」
みーちゃんは縁側に座り、空を見上げている。
タマは押し入れの奥に引っ込み、しっぽだけが見えていた。
遠くで、低い音が鳴った。
雷だ。
まだ遠いはずなのに、胸の奥が少しざわつく。
早めに雨戸を閉め、台所の火を落とす。
窓の外は、すでに色を失いはじめていた。
味噌桶に触れると、今日はひんやりしている。
「起きないでね」
「今日は深く眠る日じゃ」
みーちゃんは短く言い、立ち上がった。
ぽつ、ぽつ、と雨が落ちる。
次の瞬間、ざあっと音が広がった。
庭の木々が一斉に揺れ、土の匂いが強くなる。
雷が鳴った。
昼とは違う、はっきりした音。
思わず肩がすくむ。
「大丈夫?」
「雷、苦手でしょ」
みーちゃんが言った。
「嫌いではない。ただ、音が大きい」
「それ、苦手って言うんだよ」
みーちゃんは返事をせず、縁側の中央に座り直した。
雨はどんどん強くなる。
屋根を叩く音が、会話を飲み込む。
雷が近づき、光と音の間が短くなった。
ぴかっ。
どん。
体が一瞬、固まる。
胸の奥で、子どもの頃の感覚が蘇る。
怖い。
理由は分からないけれど、確かに怖い。
気づくと、みーちゃんが私の前に座っていた。
背中をこちらに向け、微動だにしない。
「……みーちゃん?」
「動くでない」
「なんで」
「雷は、立っているものを探す」
「猫が立ってるけど」
「わしは探されぬ」
短く、きっぱり言った。
次の雷が鳴った。
さっきよりも近い。
けれど、不思議と心臓の音は落ち着いていた。
目の前にある、動かぬ背中のせいだ。
雨が横殴りになり、窓を打つ。
その中で、風鈴がひとつだけ鳴った。
雨の音に溶けない、澄んだ音。
「鳴ってる」
「雷が通り過ぎる道を示しておる」
「そんなことできるの?」
「祠の仕事じゃ」
みーちゃんは振り返らない。
しばらくして、雷の間隔が伸びた。
音が遠ざかり、雨も少しずつ細くなる。
屋根を打つ音が、やがて一定のリズムに変わった。
タマが押し入れから顔を出す。
慎重に一歩、また一歩。
そして、みーちゃんの背中の横にぴたりと座った。
「ほら、終わった」
「終わったね」
みーちゃんがようやく振り返った。
目はいつも通りで、少しだけ誇らしげだった。
「ありがとう」
「礼を言うほどのことではない」
「でも……」
「怖かったか」
正直に、うなずく。
みーちゃんは一度だけ、尻尾を揺らした。
「夜の雷は、空が疲れているだけじゃ」
「空も疲れるんだ」
「働きすぎた日は、誰でも荒れる」
その言葉が、妙に胸に残った。
雨が完全に止み、窓の外が少し明るくなる。
雲の切れ間から、星がひとつ見えた。
縁側に座り直す。
三つ並んだ影が、板の上に落ちている。
「もう大丈夫」
「うむ」
「今日は、よく眠れそう」
「眠れ。雷はもう来ぬ」
みーちゃんはそう言って、丸くなった。
風鈴が、最後に一度だけ鳴った。
それは、雷雨の終わりを告げる音だった。
夏の夜は、
怖さも含めて、
ちゃんと守られている。




