第2話 神様、味噌汁にうるさい
翌朝は、雪の粒が細かく、空気の底で静かに鳴っていた。
窓の外の白はやはり深いけれど、昨日よりわずかに光がやわらいでいる。夜の気配が抜けきらない台所で、私は土鍋を撫でた。冷たい陶器の肌は、触れているうちに人肌を覚える。今日もまずは出汁を引こう、と自然に思えた。
コンロに鍋をかける。つまみを回し、青い火を弱めに灯す。水に浸しておいた昆布は、ふちがそり、海の匂いをすでに漂わせていた。箸でそっと引き上げ、鍋の端に立てかける。
「急かさない、急かさない」
みーちゃんに言われた言葉が、鍋の湯気のように脳裏を漂う。
こたつから、布団をかすかに持ち上げる音がした。
「ふむ」
顔だけ出した三毛の神さまは、今日も厳正なる審査官の目でこちらを見る。
「おはよう、みーちゃん」
「うむ。……今朝は、昆布の出し方が昨日より落ち着いておる」
「えらい?(私が)」
「味噌が喜ぶ準備ができておる」
「……みーちゃんは、なぜいつも味噌目線?」
返事の代わりに、みーちゃんはこたつの中で喉を鳴らした。
土鍋に昨日の残りご飯を少し混ぜ、粥にしようかと迷ったが、今日は白いご飯をちゃんと炊きたかった。米は水を吸い、指をすり抜けると、冬の小石みたいにひんやりとして気持ちいい。
味噌汁は、豆腐とわかめ。油揚げを刻むかどうか迷って、やめた。豆腐の角が崩れないよう、最後にそっと滑らせる。火を止め、味噌を溶く。今日は、白味噌をやや控えめに、赤味噌の香りを少し強めにする。湯気が立ち、窓が薄く曇る。
「ふむ——」
みーちゃんの鼻が二度、三度と動く。
「昨日より、奥行きが出た。白で甘やかして赤で締める、というやり口じゃな。豆腐の気持ちも、これなら迷わん」
「豆腐の気持ち……」
「柔らかいものはの、境界がはっきりせぬと不安になる。赤味噌の芯が、豆腐に『ここが家じゃ』と教える」
こたつの向こうで、もう一つ、白黒の影が伸びた。タマだ。
昨日より近い距離で、私をじっと見る。
「おはよう、タマ」
呼ぶと、小さく瞬きしてから尻尾をゆらす。「……」言葉はないが、機嫌は悪くなさそうだ。
台所の隅に、浅い段ボール箱を置いておいた。古い座布団を畳んで入れ、手ぬぐいをかける。思いつきで作った“寝床”だが、タマは慎重に匂いを嗅ぎ、体重を半分だけ預け、そして残り半分も静かに置いた。丸くなる。白黒の塊が、箱にぴたりとはまる。
朝食の支度をしながら、私は仏壇の前に座った。
線香を一本。ゆっくり手を合わせ、心の中で短く挨拶する。
**お下がりは私がありがたくいただく。**私は湯呑の煎茶を一口ふくみ、口の中に広がる渋みを確かめた。みーちゃんには、**台所の買い置きの煮干しを二つ。**今日はタマにも、小さく割った煮干しをひとかけ。
みーちゃんは、鼻先で一度礼を言う動きをしてから、歯で上手に骨と身を噛み分けた。
「よい。厚みがある。干す手が見える」
「ツネさんの、かな」
「うむ。あの人の手は、風の匂いがする」
味噌汁を口に運ぶ。
昨日より、塩気の角が丸く、喉の奥で柔らかくほどける。白と赤の混ざる地点に、一瞬だけ透明な穴のような、空白の味が生まれ——すぐ消える。その刹那の空虚が、次の一口を呼び寄せる。
「……美味しい」
思わずこぼれた言葉に、みーちゃんは満足げに目を細めた。
食後、雪は細く舞っていた。
洗い物を終えると、私は袖をまくり、雑巾を絞った。今日は祠のまわりを少し掃くつもりだ。
「無理はするな」とみーちゃん。
「うん。玄関までの道と、祠の前だけ」
「よい心がけじゃ。雪は、押し相撲で勝つものではない。すり足でいなすのじゃ」
玄関の戸を開けると、空気が頬を刺した。
箒で軽く掃けば、昨夜の名残りの粉雪は音もなく退いた。祠の鈴は相変わらず色褪せている。紐の結び目を見て、私はふと決める。春になったら、紐を新しくしよう。祖母がよくやっていたみたいに。
榊の葉をそっと撫でると、葉の硬さが指先に伝わる。冷たいのに、生きている硬さ。
祠の前にしゃがんで手を合わせ、短く礼をする。神さまは、今は家のこたつにいるけれど。
帰ろうとしたとき、道のほうから細い声が流れてきた。
「わぁ——あった!」
郵便配達の八木さんの自転車の陰で、スキー帽の小学生が手袋を振っている。
「ありがとー!」
誰に向けたとも知れない礼の声。子どもは、そのまま走り去っていった。
私は少し遅れて気づく。
祠の前から見下ろす道の一角だけ、そっと息を吹きかけられたみたいに、雪が薄くなっていた。
そこに、赤い毛糸の手袋が半分だけ顔を出している。
祠の前の雪が、まるで“誰か”が優しく道を示したように見えた。
振り向くと、縁側の内側で、みーちゃんが欠伸をしていた。
「……ちょっと、手を添えた?」
「風に道を教えただけじゃ」
さらりとした言い方が、かえって可笑しい。
午前のうちに、八木さんが郵便を届けに来た。
「お、たえこさん。お元気そうだ」
「なんとか。いつもありがとうございます」
「いやいや。道、きれいになってるね。あ、そうそう。来月の村の広報に、祠の春祭りの案内が出るって。宮司さん、今年は少し早めに準備するらしいよ。雪が多くなる前に、紐を替えようって」
「紐……」
「鈴のね。色、抜けちゃってるから」
思わず笑ってしまう。考えることは、みんな似ている。
八木さんは自転車のハンドルを起こし、また走り出しながら振り返った。
「あ、猫、二匹に増えた?」
縁側のタマと目が合う。「家来、入ったんだね」と言いかけて、私は口をつぐむ。説明すると長くなる。
「……たぶん、その通りです」
昼前、雪は小止みになった。
私は買い物袋を持って、坂道をゆっくり下る。集落のちいさな商店では、白菜と人参と長ねぎが段ボール箱に入っていて、どれも寒さで身が締まっている。
「いらっしゃい。寒かったべ」
店主の奥さんは、カウンターのストーブの上にやかんを乗せながら、にこにこ笑う。「今日は豆腐がいいの入ってるよ。ここの大豆で作ってるんだ」
私は思わず二丁買った。味噌汁用と、冷や奴用。冬に冷や奴?と自分で笑い、でも雪の昼に冷たい豆腐を少しだけ、醤油とおろし生姜で食べたら、きっと胸の奥がしゃんとする気がした。
帰り道、祠の前に一瞬、影が揺れた。
見ると、みーちゃんが屋根から屋根へ、淡い影のように移っていくところだった。
「迎えに来たの?」
「見張りじゃ。——その袋の下のほう、割れものがある。足を高く」
「え、——あ、ほんとだ」
袋の底、豆腐の角が、紙のやわさに微かに押し出している。段差の手前で、私は足を上げ直した。袋の底が雪の塊に触れ、ぎりぎりで持ち直す。
「助かった……」
「味噌は神を呼ぶが、豆腐は神の機嫌を左右する」
「やっぱり味噌と豆腐の関係、特別視してない?」
「必然じゃ」
午後は、台所で仕込みをした。
切り干し大根を多めに戻し、人参と椎茸と炒め合わせ、甘辛く煮含める。保存瓶に詰める作業は、不思議と胸が落ち着いた。明日の自分に、小さな灯りを渡すみたいだ。
みーちゃんは時折、流しの横に座って見物していた。
「今度、教えるとよい」
「誰に?」
「自分に。次の自分は、今日の自分より少し忘れておるからの」
「……ほんとに、そうね」
私は頭の中で、今日の味噌の配合、火加減、湯気の具合、豆腐を入れるタイミングを反芻した。
忘れないうちに紙に書き留めて、冷蔵庫のマグネットで留める。
夕方、ツネさんが一瞬立ち寄った。
「おー、豆腐買えたかい。今日のはうまいよ」
「はい。二丁も」(なぜか自慢げ)
「よしよし。そうだ、あんたのところの祠、明日、ちょいと掃こうと思ってね。宮司さんに言ったら、榊の新しいの、回してくれるって」
「私も手伝います」
「じゃ、明日、十時。無理せんでええよ、顔だけでも出せたらうれしいわ」
ツネさんの言い回しは、いつも逃げ道が用意されている。私は胸の奥でありがたく頷いた。
その夜の献立は、湯豆腐にした。
土鍋の中で、豆腐が角を保ったまま、ふわりと揺れる。昆布を敷き、沸き立たせないよう、ゆっくり温度を上げる。小皿には醤油と刻み葱とおろし生姜。
「おお」
みーちゃんが縁に前足をかけて覗く。
「これなら、豆腐が自分の輪郭で座っておる」
「みーちゃん、食べるの?」
「香りを飲む。湯気の輪郭で、味を見る」
タマはこたつから半分だけ顔を出し、湯気に鼻をふるわせた。
「タマは?」
タマは、鼻だけひくひくさせ、丸い目で鍋を見て、何も言わない。代わりに、段ボール箱の中で爪をしまい、さらに丸くなった。
私は豆腐を小皿に移し、葱をのせ、醤油を少し。口へ運ぶ。豆の甘みが、温度と一緒に頬の内側を滑り降り、喉で小さく灯る。
「……ああ」
大袈裟ではなく、息がほどけた。
「よい顔じゃ」
みーちゃんの声は、こたつの布団に半分吸い込まれて、柔らかかった。
食後、私は祖母の遺影に向き直る。
「今日は、豆腐でした」
言葉は簡単でいい。報告すること自体が、日を灯す行為に思えた。
仏壇の小皿から、お下がりを私が一ついただく。甘納豆をひと粒。指先に薄く残る砂糖の感触が、子どもの頃の記憶を攫っていった。祖母が冬の夕方に淹れてくれた、濃い番茶の味。
後ろで、みーちゃんが鈴のように喉を鳴らした。
夜、茶を淹れなおして、私はノートを開く。
「朝:白味噌2、赤味噌1。昆布は弱火で10分、沸かさない。豆腐は最後」
書いているうちに、指が温まる。
ふと、みーちゃんが膝に乗ってきた。重みが乗る。
「重い」
「神威じゃ」
「それ、今日二回目」
「大事なことは、二度言う」
みーちゃんはノートの端をじっと見ていた。
「人は、忘れるために書く。書いた紙が、忘れたことの代わりを務めてくれる」
「うん」
「明日の自分は、今日より優しいかもしれん。あるいは、今日より厳しいかもしれん。どちらでもよい。紙は同じだ」
その言い方が、妙に心に落ちた。今日の私にとって必要な優しさは、明日の私には余計かもしれない。逆もある。けれど、紙はただの紙で、灯りはただ灯ればいい。
外では、雪がまた強くなっていた。屋根から、どすん、と音が落ちる。世界は白い呼吸を続けている。
私はこたつのスイッチを弱にし、電源コードの差し込みを指で確かめた。
台所のコンロのつまみを見やり、消えていることを確認する。
みーちゃんが、その一連の動きを見て、満足そうに目を細めた。
「主の務め、よろしい」
「先生に褒められた」
「神じゃ」
灯りを落とし、こたつの中に身体を滑り込ませる。
タマが先に箱から出て、丸まった背を寄せてきた。
みーちゃんはその上にそっと尾をのせ、三つの呼吸がひとつの布団に溶ける。
目を閉じる前、みーちゃんが小さく言う。
「明日は白を少し増やすとよい」
「うん」
「それから——『いただきます』の声は、自分にも聞かせること」
「はい」
眠気は、昨日よりさらに早くやってきた。
静かな夜が、また一枚、家の内側に重なった。
灯りは小さく、でも、確かだった。




