第19話 夕暮れの輪と、小さなやきもち
今日はいっそう濃かった。
昼間の熱気が地面からゆっくりと上がり、空を淡い橙に染めていく。
縁側に座ると、風鈴がちり、と短く鳴った。
風はまだ熱いのに、どこか背中を押されるような音だった。
「今日は何をするのじゃ」
みーちゃんが縁側の欄干に前足をかけて聞いてくる。
「盆踊りの練習があるみたい」
「踊るのか」
「見るだけ。まだ踊れないし」
「踊ればよい」
「初見で踊るのは無理だよ」
みーちゃんは言い返そうとしてやめ、尻尾をぴんと立てて部屋に戻った。
ちょっと不満げに見えた。
支度をして坂を下りると、集会場の前に村の人たちが集まっていた。
ツネさんが手を振り、
「たえこさん、おいで。こっちこっち」
と呼んでくれる。
広場の真ん中には、すでに提灯の柱が立ち、
大きな太鼓がひとつ置かれていた。
夕暮れの光に照らされて、この村の夏の形が浮かび上がっていく。
すると、あのスイカ帽子の兄妹が走ってきた。
「たえこさん来た!」
「今日は踊るよ!」
「え、わ、私は見るだけで——」
「だいじょうぶ! お兄ちゃんが教える!」
私は腕をつかまれ、半ば強制的に輪の中へ連れていかれた。
太鼓がどん、と鳴り、練習が始まる。
足を一歩、手をひらり。
ゆったりと、でも確かなリズムが広場に満ちていく。
最初はぎこちない動きだったけれど、
子どもたちが一緒に動いてくれるおかげで、じわじわと体が馴染んでくる。
「そうそう! ひらっと!」
「手、もっと上!」
私は笑いながら必死についていった。
やがて太鼓が止まり、ひと休み。
首にタオルを当てて息をついていると、
ツネさんが冷えた麦茶を渡してくれた。
「たえこさん、上手になってきたねぇ」
「ぜんぜんダメですよ……手と足が一緒に動いちゃって」
「それでいいんだよ。盆踊りはね、上手より、楽しいが一番」
その言葉が胸に染みた。
ふと見ると、広場の隅の石の上に小さな影がある。
みーちゃんだった。
暗くなりかけた空の下で、尻尾だけゆっくり揺らしている。
「みーちゃん……来てたんだ」
目が合うと、みーちゃんはぷいとそっぽを向いた。
どう見ても不機嫌そうだ。
休憩が終わり、また踊りの輪ができる。
私はもう一度その中に入った。
子どもたちが両側で笑って飛び跳ねている。
太鼓が鳴り、夕暮れに足音が広がる。
そのとき——
ふわりと風が吹いた。
輪の真ん中にある太鼓の紅い布が、ひらりと揺れた。
空気が少しだけ冷え、動きやすくなる。
首に溜まっていた汗がすっと引いた。
「急に涼しい!」
「川のほうの風かな?」
いいえ、と私は思った。
(これはたぶん……)
練習が終わるころには、空は群青色に変わっていた。
提灯にはまだ灯りが入っていないが、
ぶら下がる白い紙が風に揺れて、夏祭りの気配を知らせている。
みんなが片付けを始めたころ、
私は広場の隅の石の上に近づいた。
「見てくれてたんだ」
みーちゃんは鼻先をそむけた。
「別に。主が転ばんように見張っておっただけじゃ」
「心配してくれたの?」
「違うと言っておる」
「でも風、吹かせてくれたよね?」
「違う。あれは……風じゃ」
語彙が減っている。
私は笑い、そっとみーちゃんの背を撫でた。
みーちゃんはしぶしぶ、といった様子で座り直す。
尻尾の先だけが、ほんの少しふくらんでいる。
「やきもち焼いたの?」
「焼いとらん」
「ほんと?」
「……踊りなど、猫の前でせんでよい」
それはつまり、
——見られたくなかったけど、見てしまった。
そういうことなのかもしれなかった。
帰り道、風鈴が家のほうからりん、と響く。
夏の夜の匂いが道に満ちていた。
「みーちゃん、帰ろっか」
「うむ。主、足がもつれるなよ」
「転ばないよ」
「転んだら面倒じゃ」
またそれ。だけど今日は、
その言葉が少し嬉しかった。
家に着くと、縁側に入った途端、風鈴が軽く揺れた。
今日の風は、汗を冷ましながら、心にも涼しさを残していく。
夏祭りまで、あとすこし。




