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第18話 川の風と、祠の影

朝、目が覚めると、空気がすでに温かかった。

 梅雨の湿り気は残っているけれど、肌を触る風の温度はもう夏そのものだ。

 縁側を開けると、草の匂いと土の匂いが混ざった風が流れ込んできた。


 「今日は川掃除じゃな」

 みーちゃんは柱の上で前足を揃え、まるで神官のような顔をしている。

 タマはというと、すでに縁側の下で日陰を探しながらごろごろ転がっていた。

 猫にも忙しい日と忙しくない日があるらしい。


 朝食を済ませ、軍手とタオルを用意する。

 帽子は広いつばのものを選んだ。

 みーちゃんがちらりと帽子を見て言う。

 「日差しが強いぞ。気をつけよ」

 「うん。今日は気合い入ってるしね」

 「無理するでない。主は体力が貧弱じゃ」

 「そんなことないよ」

 「昨日の階段で息切れしとった」

 思わず言い返せない。


 坂を下りると、すでに川辺には十人ほど集まっていた。

 ツネさんが、鮮やかな手ぬぐいを首に巻いて手を振ってくる。

 「おはよう、たえこさん。今日はよろしくねぇ」

 「よろしくお願いします」

 川の水は夏の陽で光り、風にそよぐ草がきらきら揺れていた。


 八木さんもカッパを腰に巻いて参加していた。

 「休みの日も汗をかくのは大事ですよ。身体が夏に慣れます」

 「八木さんは本当に元気ですね……」

 「まぁ、夏は好きですからね!」

 笑顔とともに川の匂いがふわりと漂った。


 川の中に入る人、網でゴミをすくう人、草を刈る人。

 私は浅瀬のほうで枝と落ち葉を拾う役になった。


 水はひんやりしていて、足首に触れるたび心が軽くなった。

 川の底の石がすべすべして気持ちいい。

 蝉の声は遠くて、代わりに水の音が近い。


 しばらく作業していると、背中に涼しい風がそっと触れた。

 さっきまで汗が流れていたのに、急に涼しくなる。

 「……あれ?」

 振り返っても、特に何かが見えるわけじゃない。

 でも、風の流れが明らかに変わっている。


 ツネさんが声を上げた。

 「おや、今日は風がえらく優しいね。ありがたいわぁ」

 「ほんとですね」

 「昨日まであんなに湿ってたのに。不思議なもんだねぇ」

 不思議なもん、という言葉を聞いた瞬間、私は思った。


 ——みーちゃん。


 祠のほうを見ると、深い草むらの向こうに、ちょうど風が抜ける一筋の道ができていた。

 いつもの風とは違う、どこか柔らかい、温度の落ち着いた風。


 (風をつけてやろう、と言ってたっけ……)


 胸の奥が、すっと温かくなった。


 作業が続くと、今度は子どもたちが遊びに来た。

 小学生の兄妹で、スイカの模様の帽子をかぶっている。

 「おはよー!」

 「こんにちは」

 「川冷たいよ、入っていい?」

 「今日は掃除だからねぇ……」と私が言うと、兄のほうが言った。

 「じゃあ石ひろい手伝う!」

 妹も続いて、

 「私もやる!」


 周りの大人たちが笑いながら受け入れた。

 「えらいえらい、助かるよ」

 子どもが入ると、それだけで空気が明るくなる。

 川の水が太陽を跳ね返し、小さく虹みたいな光が生まれていた。


 正午が近づき、一段落ついたところで休憩になった。

 ツネさんが冷たい麦茶を配ってくれる。

 「ほい、お疲れさん。よぉ動いたねぇ」

 「ありがとうございます」

 コップに口をつけると、喉の奥に冷たさがひんやり広がった。


 横を見ると、さっきの子どもたちが石を積んで遊んでいた。

 妹のほうが言った。

 「ねぇ、石で塔つくってるの。お願いごと叶うかなぁ」

 「何のお願い?」

 「お祭りの日、雨ふりませんように!」


 その瞬間、ふっと川上から風が吹いた。

 石の塔の上で積み石が少し揺れたが、崩れなかった。

 子どもが嬉しそうに手を叩いた。


 「揺れた!」

 「でも倒れなかったね」

 「うん! ぜったい晴れる!」


 私はそっと胸の中で思った。

 ——みーちゃん、聞いてるよね。


 作業が終わり、家に戻ると、縁側の上でみーちゃんが寝そべっていた。

 「ただいま」

 「働いてきたか」

 「うん。結構大変だったよ」

 「風をつけておいた」

「やっぱり……あれ、みーちゃんだったんだ」

「主がバテると面倒じゃからな」

「面倒って……」

「倒れたら運ぶ手間が増える」

 それは優しさなのか意地悪なのか、分からなかったけど、

 ——たぶん優しさなんだろう。


 「ありがとう、みーちゃん」

 「礼はいらん。神の務めじゃ」

 そう言いながら、尻尾の先がふわりと揺れていた。


 家の奥では、味噌桶が静かに眠っている。

 今日の川の匂い、風の温度、土の湿り気。

 全部いつか、味になるのだろう。


 風鈴がひとつ鳴った。

 夏がまた、ひとつ近づいてきている。

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