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第17話 夏の声と川の匂い

朝、窓を半分開けた途端、空気が弾けるように流れ込んできた。

 むっとするほどの熱気と、どこか甘い草の匂い。

 そのすぐ後ろから——


 じりじりじりじり。


 蝉の声が押し寄せた。


 「……夏が来たね」

 「来たのではない。出てきたのじゃ」

 みーちゃんはいつの間にか窓際に座っていて、外の気配をじっと感じ取っている。

 タマはすでに縁側で伸びきって、完全に夏仕様の姿勢になっていた。


 台所に立つと、味噌桶の蓋がほんのりと温かい。

 「これ、もう起きかけ?」

 「起きる寸前じゃな。夏の気配が味噌を揺らす」

 「揺らすって……」

「味噌は夏を聞きたがるのじゃ」

 そう言われると、本当に夏を感じているような気がして、蓋にそっと触れた。


 午前中、買い物に出るため坂を下りると、蝉の声がさらに大きくなっていた。

 道端の草が熱で揺れ、田んぼの水面もきらきら光っている。

 遠くから子どもたちの声が響き、川のほうから風が流れてきた。

 湿り気のある、少し涼しい風。

 それだけで川の姿が思い浮かぶ。


 商店で氷菓子を買うと、レジのおかみさんに言われた。

 「明日、川の清掃があるよ。せっかくだから行っておいで」

 「川の清掃ですか?」

 「夏祭りの準備にね。人手が多いほうがいいのさ」

 夏祭りという言葉に、胸が少しだけくすぐられた。


 商店を出ると、坂の上から八木さんが自転車で降りてきた。

 「こんにちは、たえこさん。今日は暑いですねぇ」

 「蝉の声がすごいですね」

 「夏が本気になったんですよ。あ、そうだ」

 八木さんは荷台の箱から紙を一枚取り出す。

 「夏祭りの実行委員から頼まれまして。これ、回覧板のコピーです」

 そこには盆踊り、灯籠作り、夜店の準備などが書かれている。

 「楽しそうですね」

 「ええ、今年は久しぶりに人が集まりそうでね。よかったら参加してください」

 八木さんはそう言って、再び風を切って坂を上っていった。


 帰り道、祠の前を通る。

 榊の葉は生き生きとし、風鈴のようにわずかに揺れていた。

 鈴の紐は風を受けて光を投げている。


 「こんにちは」

 手を合わせた瞬間、ふっとひんやりした風が頬を撫でた。

 まるで祠が応えてくれたみたいだった。


 家に戻ると、みーちゃんが縁側で丸くなっていた。

 「暑くないの」

「暑いぞ。わしは夏は嫌いじゃ」

「嫌いなの?」

「毛が増える」

「冬に増えるんじゃないの?」

「夏も増える」

 「なんで」

「知らん。毛は勝手に生える」

 タマが横でごろりと転がり、みーちゃんを無言で見つめた。

 みーちゃんがむっとして言う。

「何か文句あるか」

 タマは尻尾をばふん、と一度だけ叩きつけて返事をした。

 私は思わず笑ってしまった。


 昼過ぎ、縁側に座って氷菓子を食べていると、みーちゃんが近づいてきた。

 「それは何じゃ」

「アイス。ちょっとだけなら……」

「少しよこせ」

 ほんの耳かすほどを指先につけて舐めさせると、

 みーちゃんは目をぱちぱちさせた。

 「あまい」

「そうだよ」

「神に甘味は禁じられておる」

「えっ」

「まあ、今破ったがの」

 みーちゃんは誇らしげに胸を張った。

 それを見て、タマがうらやましそうに近づいてくる。

 「タマはお腹壊すからダメ」

 タマはあからさまにがっかりした顔をして、みーちゃんにすり寄った。


 午後、ふと思い立って川のほうまで歩いた。

 草の匂いが濃く、蝉の声はさらに強くなっている。

 川に近づくほどに、冷たい風が流れてきた。

 川の匂い——石と水の匂いが混ざった、涼しい匂い。


 川辺では、村の人たちが夏祭り用の提灯の骨組みを干していた。

 「こんにちは」

 声をかけると、年配の男性が振り向いた。

 「ああ、多恵子さん。明日は川掃除に来られるかい?」

 「はい、来ます」

 「助かるよ。今年は人手が足りなくてね」

 男性は嬉しそうに頭を下げた。


 帰り道、蝉の声が少し低くなり、風が冷たく感じられた。

 夕立の気配はない。

 ただ、夏がしっかりと地に根を伸ばしていく音がした。


 家に戻ると、みーちゃんが縁側の柱に体を預けていた。

 「川の匂いがするぞ」

「行ってきたからね」

「夏祭りの準備が始まったのじゃな」

「うん。明日は川掃除があるみたい」

「主が行くなら、風をつけてやろう」

「風?」

「熱中症予防じゃ」

 みーちゃんが真面目な顔で言うので、笑いながら頭を撫でた。


 「ありがとう、みーちゃん」

「礼を言うな。神の務めじゃ」

 そう言いながら、みーちゃんは涼しい顔で尻尾を揺らした。

 外では、蝉の声がまだ続いている。

 夏祭りの鼓動のように。


 夜、風鈴が短く鳴った。

 その音に、夏がさらに一歩近づいた気がした。

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