第16話 夏のはじめの小さな影
朝から、空気が少し違っていた。
梅雨の湿り気は残っているのに、日の光には夏の匂いが混ざっている。
縁側に出た途端、じんわりと肌に熱がまとわりついた。
「今日は暑くなるぞ」
みーちゃんは柱の影で伸びながら言った。
こたつはすでに片付けてある。
タマは風通しのいい廊下の板の上で、だらんと体を伸ばしていた。
猫たちの姿が、夏の入り口をそのまま表しているようだった。
台所で朝食を作っていると、味噌桶の蓋がかすかに温かい。
「まだ眠ってる?」
「眠っとる。夏の手前は、味噌がよう育つ」
「起こしたら怒る?」
「怒る。味が荒れてしまう」
「味が荒れるって何」
「雑音が混じるのじゃ」
その言葉がよく分からないまま、私は味噌の匂いを吸い込んだ。
少し前より、深く甘い香りがしている。
午前中、坂を下りて商店へ向かった。
道の脇の田んぼには水が張られ、若い稲が規則正しく並んでいる。
風が吹くたび、水面に細い波紋が走った。
遠くで子どもの笑い声がする。
夏休みはまだ先なのに、空気はもう夏を待ちきれないようだ。
商店で牛乳と豆腐を買い、帰る途中、祠の前で小さな影が見えた。
ランドセルを背負った低学年くらいの男の子が、祠の柱の前にしゃがみ込んでいる。
「どうしたの?」
子どもは振り返り、私の顔を確かめるように見た。
「……これ、落ちちゃって」
見せてくれたのは、小さな折り紙の風車だった。
濡れた地面に落ちて、色が少しにじんでいる。
「つけようとしてたの?」
「うん。風がくるから、ここがいいかなって」
祠のまわりには、確かに風がよく通る。
私も何度も感じてきた、あの柔らかい風だ。
「ちょっと貸して」
風車を受け取り、紐を軽く結び直して柱に結びつける。
するとその瞬間、そよ、と風が吹いた。
風車がゆっくり回りはじめ、子どもの顔がぱっと明るくなる。
「回った!」
「元気になったね」
「ありがとう!」
子どもは頭を下げて、走っていった。
その背中を見送っていると、後ろの木の上から声がした。
「主よ」
見上げると、みーちゃんが枝の上に座っていた。
「いつの間に……」
「祠の風を少し借りた」
「借りたって……そんなことできるの?」
「祈りがあるところ、風は集まる」
「今のは祈りじゃないよ。折り紙だよ」
「折り紙にも願いがある。願いのあるものは、みな祈りの仲間じゃ」
そう言って、みーちゃんは枝から軽く飛び降りた。
着地があまりに静かで、本当に神様みたいだった。
家に戻り、冷たい麦茶を飲みながら縁側に座った。
庭の草の緑が濃くなり、紫陽花の色は深い青へ近づいている。
夏の色が少しずつ混ざってくるのが分かる。
タマが寄ってきて、私の足元に体をすり寄せた。
珍しい。暑い日はあまりくっつかないのに。
「どうしたの、タマ」
「こやつは甘えたい気分なのじゃ」
みーちゃんが横から言う。
「ただの気まぐれじゃないの?」
「気まぐれも祈りのひとつじゃ」
また分かるような分からないようなことを言って、みーちゃんは尻尾を揺らした。
夕方になると、空気がまた重くなった。
遠くで雷が鳴り、空の色が少しずつ灰に染まっていく。
でも雨は降らず、風だけがひんやりと肌を撫でた。
風鈴がりん、と鳴った。
昨日より澄んだ音だった。
「明日も暑くなるかな」
「なる。夏は隠れとるが、すでに息をしておる」
「夏の息ってどんなの」
「草を育て、猫を伸ばす息じゃ」
タマが横で伸びきっているのを見て、私は思わず吹き出した。
「ほんとだ」
「主も伸びよ」
「伸びないよ」
「ならば風が伸ばす」
そう言って、みーちゃんは縁側の欄干に前足をかけ、長く伸びをした。
その姿を見るだけで、胸の奥がふっと軽くなった。
夜、風鈴の音が短く響いた。
今日の音はどこか優しく、夏のはじまりを告げるように聞こえた。
明日もまた新しい色の風が吹く気がした。




