第13話 紫陽花のひとしずく
雨の朝が続いている。
庭の草はもううっそうと伸び、縁側の板はしっとりと濡れている。
紫陽花が、ひっそりと色づき始めていた。
青と紫のあいだで揺れるその色は、空の曇りを吸い込んだようだった。
「今日も雨だね」
「梅雨じゃからな」
みーちゃんはこたつの上から外を眺めている。
タマは、押入れの奥で丸くなり、気配すらしない。
湿った空気は、猫たちにも重たいらしい。
味噌桶のそばに手を置くと、あのぽこぽこした声は静まっている。
「もう眠ってるのかな」
「眠りの時期じゃ。夏までゆっくり育つ」
「私も眠りたい……」
「主は働け」
「ひどい」
みーちゃんは、片目だけ開けてにやりと笑った。
昼前、雨の小降りを見計らって外に出た。
坂の途中でツネさんが傘を差しながら紫陽花を眺めていた。
「たえこさん、ちょっと」
呼ばれて近づくと、紫陽花の葉に小さなカタツムリがしがみついていた。
殻に雨粒がたまって、光っている。
「かわいい……」
「雨の子は、雨に濡れるのが仕事なんだよ」
「私も濡れながら働いてるから、雨の子かな」
「違いないねぇ」
ツネさんが笑い、私もそれにつられて笑った。
郵便配達の八木さんが、カッパ姿でやってきた。
「こんにちは。雨の日も配達です」
「お疲れさまです」
「紫陽花、そろそろだね。晴れたら写真を撮る人が増えますよ」
「晴れるかなぁ」
「必ず晴れます。梅雨にも出口があるんです」
その言葉は、ほんの少し胸に響いた。
帰り道、祠の前を通る。
榊の葉は濡れて艶やかで、鈴の紐は動かない。
ただ雨の音だけがそこにあった。
「こんにちは」
手を合わせる。
返事はないけれど、雨が少しだけ弱くなった気がした。
家に戻ると、みーちゃんが縁側で紫陽花を見ていた。
「紫陽花、好きなの?」
「嫌いではない」
「でも外には出ないんだね」
「濡れるのは猫の仕事ではない」
「カタツムリは濡れてたよ?」
「あやつは殻がある。わしは毛じゃ」
「それは確かに」
みーちゃんは尻尾をひと振りして座り直した。
お昼は、ツネさんにもらった山菜の残りで炒め物を作った。
湯気はすぐに湿った空気に溶けた。
雨の匂いと混ざり合って、部屋じゅうにやさしく漂った。
食べ終えてひと息つくと、窓の外の紫陽花に雨粒がぽとんと落ちた。
そのたび、少しずつ色が濃くなるように見えた。
「みーちゃん」
「なんじゃ」
「紫陽花の色って、誰が決めるんだろうね」
「土じゃ」
「土が決めてるの?」
「酸っぱい土は青に、穏やかな土は紫に、時に赤を差す」
「へぇ……土の気分で決まるのかな」
「気分とは、祈りの重さじゃ」
「祈り……」
「主が毎日ここで暮らしておる。それが土に溶けて、花を染める」
少し息が止まった。
「じゃあ、私のせいで紫陽花の色変わっちゃう?」
「せい、ではない。働きじゃ」
「働き……」
「主がいることで、土の声が変わる。風も変わる。味噌も変わる」
「みーちゃんは?」
「わしは変わらん。神じゃからな」
そう言いながら、膝に飛び乗ってくる。
「変わらないものが一つあるのは、ありがたいことじゃ」
「みーちゃん、重い」
「安定感じゃ」
「違うよ」
みーちゃんは、ふふん、と胸を張った。
夕方になり、雨音が静かになった。
紫陽花の葉にたまった雫が、一つずつ地面に落ちていく。
その音を聞きながら思った。
——この季節にも、好きなところがある。
夜、味噌桶のそばに座る。
蓋は静かで、眠る気配だけがそこにあった。
私はそっと囁いた。
「また明日ね」
その言葉に、桶の奥で小さく、こつんと音がした気がした。
まるで返事のように。




