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第12話 風のなかに海の匂い

朝、かすかな湿り気を含んだ風が流れていた。

 庭の草は夜露を含んで重たそうに揺れ、縁側の板がひんやりしている。

 空は薄い灰色。遠くの山のほうから、低くうなる雷の声が聞こえた気がした。


 「雨、来るね」

 「風がそう言っとる」

 こたつの上からみーちゃんが返す。

 タマはというと、窓辺に置いた座布団で耳をぴくりとさせていた。

 猫はみんな、雨の気配がよく分かるらしい。


 味噌桶の蓋は、今日も静かに温かい。

 手を置くと、小さく息を吸う気配がある。

 「動きが少し落ち着いてきた」

 「そろそろ夏に向けて寝る準備じゃ」

 「寝るの?」

 「眠って、育つ」

みーちゃんは当たり前のように言う。


 午前中、坂を降りて郵便局へ向かった。

 往復の途中、田んぼに水が張られ始めていた。

 青空を映した細長い鏡のように、水面が静かに広がっている。

 カエルの声が小さく聞こえる。

 春の底から、初夏へと季節がひっくり返る音だ。


 郵便局の前で、八木さんが荷物を整理していた。

 「おはようございます、たえこさん。今日は湿気が重いですね」

 「雨、降りそうですよね」

 「ええ。海のほうから風が回ってきてます」

 「海?」

 「この村は山と海の真ん中なんです。風が変わると、潮の匂いが混じるんですよ」

 言われてみれば、かすかに塩の気配が鼻先に残った。


 祠の前を通ると、榊の葉がしっとりと濃い色をしていた。

 鈴の紐は風に触れていないのに、ほんの少し揺れた気がした。


 「こんにちは、祠さん」

 手を合わせると、背中に湿った風がまとわりついた。


 家に戻ると、ツネさんが縁側で待っていた。

 「田んぼ、見てきたんだろう?」

 「はい。もう水が入っていました」

 「そうそう。今日からは、水の音が夜の子守唄になるよ」

 「それ、いいですね」

 「慣れると、ないと眠れなくなるけどね」

 ツネさんが笑い、風呂敷を開いた。

 「今日は海のほうの友だちから貝をもらったんだよ。味噌汁にするとおいしいよ」

 「あ、じゃあ——」

 「もちろん。あなたの味噌でね」

 胸がじわりと温かくなった。


 午後、貝を砂抜きしているあいだ、風が何度も戸を揺らした。

 夕方には雨が来るだろう。

 空はすでに薄暗く、庭の土が雨を待っているように見えた。


 台所で貝の味噌汁を作る。

 湯気の匂いに、海が混ざっている。

 「この村で、海の匂いの味噌汁を食べるとは思わなかったなぁ」

 「風が運んだ縁じゃ」

 「縁……」

 「祈りがあるところ、風は迷わん」

 「みーちゃんって、難しいことよく言うよね」

 「神じゃからの」

 声は偉そうなのに、尻尾はおいしそうに揺れている。


 夕食を終えたころ、とうとう雨が降り出した。

 最初の一滴が屋根を叩いた瞬間、みーちゃんが耳をぴくりと動かした。

 次の瞬間には、庭一面に雨の音が広がっていた。

 土と草と水の匂い。

 すべてが夜の空気に混ざり合う。


 「雨の音って落ち着くね」

 「水は古い声じゃからな」

 「古い声?」

 「海の底からきた声じゃ。長い旅をしとる」

 「じゃあ、風の声は?」

「山のてっぺんからきた声じゃ。高いところを渡る」

 「味噌の声は?」

 「主の声と同じところからきた声じゃ」

 言われて、胸がぎゅっとした。

 簡単なようで、とても大事なことを言われた気がした。


 「ねぇ、みーちゃん」

 「なんじゃ」

 「この村に来てよかったと思う?」

 「まだ分からん」

 「そっか……」

 「だがの」

 みーちゃんは私の膝の上に乗り、見上げてきた。

 「主がこの村を好きなら、それだけでええ」

 喉が少し熱くなり、手が震えた。


 そのとき、祠の鈴が、雨の音に混じってひとつだけ鳴った。

 遠く、確かに響く音。

 風の声でも雨の声でもない——

 まるで、答えのようだった。


 「聞こえた?」

「当然じゃ」

 みーちゃんが小さく笑った。


 夜、雨が窓を叩き続ける。

 その音を聞きながら、私はこっそり思った。


 ——この村を、好きになってきた。

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