表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/44

第11話 春の底と風の種

朝、障子を透かした光が少し強くなっていた。

 柔らかな白だったものが、どこか黄色みを帯びている。

 春が深くなると、光が少し重くなるのだと祖母が言っていたことを思い出した。


 こたつ布団をめくると、みーちゃんが丸くなりながら尻尾だけ動かした。

 タマは伸びをして、ごろりと仰向けになり、日なたを独り占めしている。

 「春の底って感じがするね」

 「底とは不思議な言い方じゃ」

 「なんか、春の色が濃くなったから」

 「なるほどの。春の樽の底をすくっておる感じじゃな」

 「味噌みたいに?」

 「味噌はすくうな。まだ早い」

 「そうだった」

 みーちゃんは満足そうに目を細めた。


 台所に立つと、味噌桶のそばがほんのりと暖かかった。

 「……動いてる?」

 蓋に耳を近づけると、ぽこ、ぽこ、と小さな音が遠くで続いている。

 「まだ喋ってるんだ」

 「主が聞こうとする限り、味噌は喋るぞ」

 いつの間にかみーちゃんが横に来ていた。

 「どんな話?」

 「自分がようやく形になりつつある話じゃ」

 「なんか難しいね」

 「味噌は、生き物じゃ。生き物の話はみな難しい」


 外に出ると、庭の草が一斉に伸びていた。

 昨日まで見えなかったつくしが、ひょこひょこと顔を出している。

 風が少し強く、桜の最後の花びらが三枚だけ舞った。

 「今年の桜も終わりかぁ」

 「終わりではない。土に帰るのじゃ」

 「帰ったらどうなるの?」

 「来年の風の種になる」

 「風に種ってあるんだ」

 「当然じゃ。春を運ぶのは風だからな」

 みーちゃんが当たり前のように言うので、私は笑ってしまった。


 午前中、庭の草を少し抜いていると、坂の上から八木さんが自転車で降りてきた。

 「おはようございます、たえこさん。春の大掃除ですか」

 「草が急に伸びてきたので」

 「こりゃ今年は早いですよ。山のほうも緑が一気に来てます」

 八木さんはひと息ついて、

 「そういえば、昨日の広報の裏に載ってた春の句会、読みました?」

 「まだです」

 「たえこさんが前に話した味噌の音、載ってましたよ。春の季語みたいになってました」

 「季語……?」

 「ええ、味噌の声って。味噌が育つ音を春の訪れに見立ててるんですよ」

 私は思わず笑ってしまった。

 「本当に載ったんですね……」

 「村中、今年は味噌に詳しくなりそうです」

 八木さんはそう言うと、軽やかに坂を上っていった。


 昼近く、ツネさんが野良仕事の帰りに立ち寄った。

 手には山菜の入った籠。

 「たえこさん、分けてあげるよ。今日のはゼンマイがいい」

 「ありがとうございます。こんなに……」

 「春は忙しいからねぇ。山が呼ぶのよ」

 ツネさんは庭の草を見て、

 「あんたの家も、いよいよ春が根付いたね」と笑った。

 「根付くものなんですか?」

 「家にも季節の癖があるのさ。たえこさんが住むようになって、春の入り方が変わったんだよ」

 「私のせいで?」

 「せい、じゃないよ。人が住むって、そういうこと」

 ツネさんの言葉は、土の匂いのように落ち着いて胸に入ってきた。


 山菜をきれいに洗い、ゼンマイは下ゆで、蕗は筋をとって水にさらす。

 油揚げと合わせて軽く煮ると、台所に春の匂いが広がった。

 「いい匂いじゃ。わしの分はあるか」

 「ちょっとだけね」

 「ケチじゃ」

 「猫に山菜は食べさせません」

 「神に山菜を出さぬとは、人間界も変わったものじゃ」

 「文句言わない」

 みーちゃんは尻尾をたたんで座り、ふん、と横を向いた。

 その姿があまりに子どもっぽくて、笑いをこらえた。


 午後、祠まで散歩に出た。

 榊の葉はつやつやとして、鈴の紐は風に揺れて小さく光っている。

 祠の前に立つと、足元に小さな白い花がひと輪だけ咲いていた。


 「ここにも春が来たね」

「主が祈ったからじゃ」

 みーちゃんが祠の屋根から降りてきた。

 「祈ってないよ。手を合わせただけ」

 「それが祈りじゃ」


 私はそっとしゃがんで、花に影をつくってやった。

 この季節の光はまだ強い。

 「来年も咲くかな」

 「咲く。祈りは、光より長生きじゃからな」


 帰り道、風が草むらを揺らして通り過ぎていく。

 桜の散り際の匂いと、土の甘みが混ざっていた。

 みーちゃんは私の横をゆっくり歩き、時々振り返っては尻尾を揺らした。


 家に戻ると、味噌桶がまたぽこんと小さく鳴った。

 「聞いてるのかな」

 「もちろんじゃ。主の声も、今日の風も、全部味になる」

 「どんな味?」

 「まだ言えぬ。楽しみを先に言う神は信用ならんじゃろう?」

 「確かに」

 私が笑うと、味噌桶がまたぽこりと返事をした。

 それを聞いたみーちゃんは、胸を張って言った。

 「見よ。わしの監督の成果じゃ」

 「監督してたの?」

「当然じゃ。味噌の神は忙しい」

 「そんな神いたんだ……」

 「今、生まれた」

 みーちゃんは尾を高く上げ、こたつへ戻っていった。


 夕方、縁側に腰を下ろすと、丘の向こうに薄桃の光が沈んでいく。

 春の底は、こんなふうに少し重たく、長く、あたたかかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ