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第10話 花散りと猫の行方

朝、目が覚めると、部屋の空気がいつもより静かだった。

 こたつの中に足を入れても、温かい重みがない。

 タマは丸くなっていたけれど、みーちゃんの姿が見えなかった。


 「……出かけたのかな」


 縁側を開けると、庭の桜がほぼ満開だった。

 枝の先が朝日を受けて淡く光り、花びらが数枚だけ落ちている。

風は穏やかだが、猫の気配はどこにもない。


 味噌桶のそばに座り、蓋に手を置く。

 木の肌は変わらず温かい。

 「みーちゃん、どこ行ったんだろう」

 声が、台所の壁に吸い込まれるように消えた。


 午前の買い物ついでにツネさんの家へ寄ると、ちょうど縁側を掃除しているところだった。


 「たえこさん、おはよう」

 「おはようございます。今日、みーちゃん見かけませんでしたか?」

 「三毛さん? さっき裏山のほうへ行くのを見たよ。ひょいっとね」

 「裏山……」

 「春はね、猫も忙しいのさ。風の道が増えるから」

 「風の道?」

 「猫さんは風を踏んで歩くって言うだろう? うちの祖母さんが、よう言ってたよ」

 ツネさんは軽くほうきを止め、桜の落ち葉を袋に入れながら続けた。

 「猫が急にいなくなる日は、季節の縁が切り替わる日なんだって」

 「季節の……縁?」

 「春が深くなる、その境目さ。戻ってくるよ。猫はね、縁をまたぐのが上手だから」


 少し安心したような、不思議な感触だけが胸に残った。


 商店で卵と大根を買い、帰り道、祠の前で足が止まった。

 榊の葉は青く、鈴の紐は春の光を受けて赤く揺れている。

 けれど、みーちゃんの影はない。


 「……大丈夫だよね」


 手を合わせて目を閉じると、ほんのかすかに風が通った。

 花の香りのする、柔らかい風。

 まるで返事をされたようで、胸が少し軽くなった。


 昼前、郵便配達の八木さんがやってきた。

「こんにちは、たえこさん。お、桜が綺麗だなぁ」

 「はい……。あの、今日みーちゃん見ませんでした?」

 「ああ、三毛の。裏山のほうで座ってたよ。誰か待ってるみたいに」

 「誰か?」

 「うん。風を見るように、じっとしてたねぇ」

 八木さんはそう言って、自転車のベルを鳴らしながら去っていった。


 裏山。

 ツネさんの話。

 八木さんの言葉。

 ――みーちゃんは、何かを待っているのだろうか。


 昼食のあと、どうしても落ち着かず、長靴を履いて裏山の道へ向かった。

 道端にはふきのとうが顔を出し、淡い緑の匂いを風に乗せている。

 雪はすっかり消えて、下草の間には小さな白い花がいくつか揺れていた。


 山の入り口に近づくと、空気の温度がわずかに違う。

 日陰の冷たさではなく、どこか風の巣のような、輪郭のぼやけた温度。


 その先で、桜の花びらが一枚だけふわりと落ちた。

 まるで誰かが手のひらでそっと放したような落ち方だった。


 「……みーちゃん?」


 呼ぶと、返事はない。

 けれど次の瞬間、足元に猫の影がよぎった。


 すっと姿を現したのは、みーちゃんだった。

 顔には何の迷いもなく、ただ春の風をまとってそこに立っている。


 「いるんだ……よかった」

 「心配したか」

 「そりゃするよ」

 声が少し震えたのを、自分で気づいた。

 みーちゃんは尻尾をゆっくり左右に揺らした。


 「春は、風の帳が薄くなる。わしは、そこを見てきただけじゃ」

 「帳?」

 「人が冬に閉じた心の境目じゃ。春が深くなる前に、猫はそこを歩く」

 「……帰ってくるって、わかってたけど」

 「なら、良い」

 「でも、心配はするよ」

 「主は、よう祈る」

 みーちゃんはふふ、と小さく笑った。

 「その祈りが、風の通りをよくするのじゃ」


 私は気づいた。

 胸の奥のもやが、いつの間にか消えていることに。


 「帰ろう、みーちゃん」

 「うむ。味噌の寝息を聞かねばならん」

 「タマも待ってるよ」

 「あやつは、待つより食う方が得意じゃ」

 「それ、たぶん合ってる」


笑い合いながら坂を下ると、風が桜の枝を揺らし、花びらが一枚、また一枚と舞った。



 まるで、道案内をするように。


 家に戻ると、こたつの中でタマがすぐに顔を出した。

 みーちゃんを見ると、鼻をふん、と鳴らしてから寄っていく。

 「ただいま」

 「帰ったぞ」


 味噌桶に手を当てると、今日も静かに温かい。

 まるで、私たちが帰ってくるのを知っていたかのように。


 みーちゃんが膝に乗り、尻尾で軽く私の腕を叩いた。

 「主よ」

 「なに?」

 「風は、行きて戻るから風なのじゃ」

 「……みーちゃんも?」

 「わしは猫じゃ。風より気まぐれで、風より帰り道をよく覚えておる」

 「そっか。じゃあ、信じてる」

 「信じよ。信じる者のこたつは深い」


 その言葉に、声が漏れるほど笑ってしまった。

 桜の花びらが一枚、縁側からふわりと入ってきて、こたつ布団の上に落ちた。


 春はまだ浅い。

 けれど、風は確かに帰り道を知っている。


 そしてその隣には、必ずお猫様がいる。

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