第1話 となりのお猫様、現る
雪が降っていた。
田んぼは白く沈み、畦道は綿の帯のようにどこまでも伸びている。葦の穂はうっすらと霜をまとい、風がひと撫でするたび、白い粉がきらりとほどける。音はほとんどない。遠くで軽トラックのエンジンが一度くぐもって、それきり静かになった。世界そのものが、息を潜めることを選んだ朝だった。
多恵子は、祖母の家の縁側に面したガラス戸を少しだけ開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。肺に刺さるような冷たさが、逆に気持ちよかった。鼻先がつんとしたところで、慌てて戸を閉める。畳の匂いがふわりと戻ってくる。湯気のたつ土瓶はこたつの上に置いたままで、湯呑にはまだ温もりが残っている。
ここに来て三ヶ月が過ぎた。
会社を辞める決断をしたのは、その少し前のことだ。決断というより、身体のほうが先だった。朝、指が動かなかったのだ。文字通り、キーボードに手を乗せても、思うように打てない。言葉が出ない。画面の中で点滅するカーソルに、呼吸のリズムまで奪われる気がした。病院で診断名をもらい、休職の話も出たが、張り詰めていた糸はもう戻らなかった。退職願は、小さく震える手で書いた。
祖母は去年、静かに亡くなった。
葬儀のとき、帰りの新幹線の窓から、灰色の田畑をぼんやり眺めていた自分を思い出す。あのとき、祖母の友人だという隣のおばあさんがこっそり手紙を忍ばせてくれた。達筆な丸文字で「家はすぐには壊さないで。戻りたくなったら、いつでもおいで」と書いてあった。心にぽつりと、小さな灯りがともるのを感じた。
家は古い平屋で、間取りは単純だ。六畳と八畳が二間続き、奥に台所がある。廊下の角を曲がれば、浴室とトイレ。縁側は広く、祖母はよくそこで編み物をしていた。家の脇には、小さな祠がある。石の基壇の上に木の社がちょこんと乗り、色の褪せた布の鈴がひとつ。祖母は笑って言ったものだ。「うちの守り神さまじゃよ。困ったときは手を合わせるとよい」。子どもの頃は、その言葉の意味より、鈴の音の涼しさが好きだった。
こたつ布団にもぐり込み、湯呑を手に持つ。白い湯気が眼鏡のレンズを淡く曇らせ、ふと笑ってしまう。都会の部屋では、こたつの置き場所もなかった。電熱のこたつは祖母の形見だ。天板の角は少しぶつけた跡があり、布団は祖母が縫い直したため色の違う布がつぎはぎになっている。一針一針の縫い目に、冬の夜の時間が縫い込まれているようで、目を細めた。
朝ごはんは、ゆっくり作るつもりだった。
切り干し大根を水に戻し、昆布をボウルに沈める。今朝は味噌汁を丁寧に出汁から引こうと思う。祖母はよく言っていた。「出汁の香りは、人の気持ちをほどくんじゃ」。乾いた昆布の縁に白い粉がふいているのを指で撫で、その手を鼻に近づける。海の匂いがする。
鍋に水を張り、コンロに鍋をかける。つまみを回し、青い火が静かに灯る。
沸騰まで少しかかるだろうと、菜箸を置き、袖口をまくった——そのときだった。戸口のほうで、こつ、と木を叩くような音がした。耳が自然とそちらを向く。
多恵子は火を弱火に落とし、鍋の蓋をずらして湯気の逃げ道を確かめ、時計を横目で見る。焦らなくていい。火元を一度見やってから、静かに廊下へ出た。
引き戸をわずかに開けたその隙間から、白いものがすべり込んだ。
雪の塊、のように見えたが、違った。三毛の猫だった。毛並みはふわふわで、白地に黒と茶の斑がやわらかく混じっている。雪の欠片が背中にいくつかくっついていて、光のない朝でもきらりとした。猫は、まるで迷いがないかのように、するすると廊下を歩いてゆく。
「……あの」
声をかけると、猫は振り向いた。
黄と琥珀が混じったような瞳。深い井戸の底を覗き込んだときの、冷たくも静かな透明さがそこに宿っている。猫は、ひとつ瞬きをした。
「わしはこの土地の守り神、“ミケノオオカミ”じゃ。……おぬし、ちゃんとご飯食べとるか?」
言葉は、はっきりとした日本語だった。
多恵子は、自分の喉がかすれる感覚を覚えた。驚いて叫ぶ、ということができなかった。驚くことの手順を、うまく思い出せない。これは夢か、寝不足か、冬の幻か。けれど、猫の息の白さは、こたつ部屋の空気の中で確かにほどけていった。
「……しゃべる、の?」
ようやく出てきた言葉は頼りなかった。
猫は不機嫌でも得意でもなく、ごく淡々と答えた。
「しゃべらん猫など、おらん」
あまりに当然という顔で言うので、思わず吹き出してしまい、慌てて口を手で押さえた。笑ってはいけない。いや、どうしていけないのかもわからない。猫はもう一度、井戸のような瞳を瞬かせた。
「そこ」と猫が顎で示す。「こたつ。ぬくいのじゃろ」
「……どうぞ」
猫はすっと畳に座り、前足をそろえた。顔をわずかに上げ、鼻で空気を嗅ぐ。味噌と昆布と、雪の匂い。それから、布団の端を器用に持ち上げると、もぐもぐと潜り込み、丸くなった。小さな山がひとつ、こたつ布団にできる。
「ふむ、合格じゃ」
「合格?」
「火を絶やさず、家の息を止めておらん。主の務めとしては悪うない」
その言い方があまりに祖母めいていて、多恵子は胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。こたつの中から、ころん、と鈴の鳴るような喉の振動が伝わってくる。目尻が柔らかくほどける。
「ミケ……ノオオカミ、さん?」
「ミケノオオカミじゃ。長いなら、好きに呼べ。人は長い名をすぐ縮めたがるからの」
「……じゃあ、みーちゃん、って呼んでもいい?」
こたつ布団の山の向こうで、ぴくり、と耳が動いた気配がした。少しの沈黙ののち、鼻を鳴らす小さな音がする。
「うむ。特別に、それを許そう」
許す、という言い方に思わず笑ってしまう。
笑いながら、台所に戻る。鍋の中の昆布は、水面でゆらゆらと縁を反らしている。弱火のまま、丁寧に引き上げた。乾いた布で軽く水気を拭き、別皿に置く。出汁の匂いが部屋に満ちていく。あの匂いが祖母の言う「気持ちをほどく」力を持っているのなら、今日は自分のために使いたい、とふと思った。
「みーちゃんは、ご飯、食べるの?」
こたつから、もぞ、と音がする。
布団の端から顔だけ出して、猫は真面目な顔をした。
「神にも腹はある。供えられたものは、いただく。人の食事に口を出すのは野暮じゃが……わしは味噌の塩梅には、少々うるさい」
「……厳しいお客さま」
「神じゃ」
鍋に切り干し大根と薄揚げを入れる。祖母の家に残っていた味噌は、麹の粒が見える白っぽいものと、しっかり熟れた赤味噌が半分ずつ。今日は白を少し多めにしてみよう。味噌を溶き入れる瞬間、湯気がふわりと立ちのぼり、窓ガラスに曇りが広がった。
「ふむ」と鼻を鳴らす音がする。「焦るな。味噌はな、せかされるのがいちばん嫌いじゃ」
「味噌が、嫌い……?」
「味噌の中の眠っておるものを、急に起こしてはならん、ということじゃ。人も味噌も、似たようなものよ」
何気ない言葉が、胸のどこかにすっと落ちた。似たようなもの。確かに、ここのところ、自分は常にせかされていた。起きろ、急げ、返せ、間に合え、と見えない声に追い立てられる日々だった。鍋の前で、少しだけ眼を閉じる。
米を研いでおいた土鍋に火を入れる。ことこと、と小さく歌うような音がし始める。冷蔵庫から大根の端を取り出し、薄く切って塩を振る。台所の窓の外では、雪が太くなった。低い空の下でカラスがひとり、黒い点のように動いている。
しばらくして、土鍋の蓋からしゅるりと湯気が逃げた。火を止めて蒸らす。味噌汁の火も止め、お椀にそっとよそう。白菜の甘い匂いと、油揚げの香ばしさが混ざり合って、台所が柔らかい色に染まったように感じた。
「みーちゃん。いただきます」
こたつの前にお盆を置く。猫は、きちんと前足を揃え、ぺこりと頭を下げた。
「いただく」
猫が味噌汁を……と思ったけれど、さすがにそれはない。台所の買い置きの煮干しを小皿に二つ、そして仏壇には手を合わせて「お下がり」を私が感謝していただく。黒豆をひと粒、口に含むと、優しい甘さが舌に広がった。みーちゃんには、別皿の煮干しをそっと差し出す。猫は煮干しをひとつ、上品に口に含む。歯音が小さく鳴る。瞳を細くし、満足げに鼻を鳴らした。
「よい煮干しじゃ」
「隣のおばあさんが、年末にくれたの」
「坂本ツネか」
「知ってるの?」
「昔から、祠の祭を手伝っておったよ。いい手をしておる。手は、時に言葉より正直じゃ」
猫の言葉はときどき、思いがけない方向からやさしく刺さってくる。箸を持ちながら、味噌汁を口に運ぶ。湯気の向こう側で、雪の白さがぼやける。舌に乗る塩の加減、昆布の丸み、油揚げのふくふくした食感。喉の奥がゆるむ。ああ、と思わず声が漏れた。
「うむ」と猫が満足げにうなずく。「さっきより、顔が人の顔になった」
「さっきは、どんな顔だったの?」
「ひなたに置き忘れられた洗濯ばさみ」
「……ひどくない?」
「例えじゃ」
笑いながら、米を噛み締める。土鍋で炊いただけの白いご飯が、こんなにも甘かっただろうか。数ヶ月前、コンビニの弁当を、モニターを見ながらかきこむだけの食事だった自分が食べていたものと、同じ「米」だとは信じがたい。噛むたびに、じんわりと温かさが広がる。胸の両側に、重たい石のようなものが乗っていたはずだが、それが少し動いた気がした。
食後、片付けを済ませると、猫は当然のように縁側に出た。戸を開けると、冷たい空気が押し寄せる。猫は小さく身震いをしてから、ひょいと雪の上に飛び降りた。肉球が雪に沈む。白い足跡がひとつ、またひとつ。
祠は家のすぐ脇だ。屋根には雪が層になって積もり、榊の葉には霜がきらりと光っている。猫は祠の前で座り、ひどく真面目な顔で鈴を見上げた。鈴の紐は色あせていて、祖母が最後に替えてから随分経つ。猫はするりと身を伸ばし、器用に前足で鈴の紐をちょん、と触れた。鈴が一度だけ、涼しい音を立てる。
すると、雪が、いったんやんだ。
いや、やんだというより、空気がたゆんで、落ちてくるはずの雪の粒がふわりと宙に留まった。世界が一拍、間を置く。そのわずかな隙に、屋根から雪のかたまりが滑り落ち、地面にぼすん、と音を立てた。音は重いのに、不思議と怖くなかった。猫は満足げにひげを整え、こちらを振り返る。
「雪は、落ちるときには落ちねばならん。留めすぎても、崩れたときに大事になる。少し、手を添えただけじゃ」
「みーちゃんって、やっぱり、神様なんだね」
「疑うのはよいことじゃ。疑いすぎると、味噌がしょっぱくなる」
何の喩えなのか、と笑ってしまう。指先が冷え始めたので、急いで家に戻る。猫は祠の屋根にひょいと飛び乗り、そこからまたひょいと庭木に移り、縁側に戻ってきた。動きがするすると流れる。猫はやっぱり猫だ。神様でも。
昼近くになって、雪は少し弱まった。
玄関先の雪かきくらいは、と外套を羽織ろうとしたとき、戸口のほうで人の声がした。
「たえこちゃん、おるかい」
坂本ツネさんだった。祖母の友人で、隣の家に一人で住んでいる。背丈は小さいが背筋が伸び、冬でも足取りはさっさとしている。手には風呂敷包みをぶら下げていた。戸を開けると、頬を赤くした顔に笑い皺が集まり、わぁ、と温かさのほうから先に家の中へ入ってきた。
「さむいさむい。あら、こたつ、いいねえ。うちのはもう年季が入りすぎて、足を一つ縛って使ってるんだわ」
「こんにちは。どうぞ、入ってください。お茶、いれます」
「いいのいいの。これ、持ってきただけだから。大根のはりはり漬。正月の残りの昆布がちょっと出たからね、細く刻んでみたよ」
風呂敷を開くと、大ぶりの硝子瓶に、細い大根と昆布と、ほんの少しの唐辛子が沈んでいる。瓶の口を開けると、甘酢の清々しい香りが弾けた。思わず喉が鳴る。猫がこたつから顔を出して、ふん、と興味深そうに鼻を動かした。
ツネさんは猫を見ると、目尻を一段と下げた。
「まあまあ、あの子。今日はこっちにおるのかい」
「……あの子?」
「この祠のね。時々、家にも来るんだよ。煮干しをね、二つ、だよ、って顔して座るの。昔っから、そうなの」
昔っから、という言葉が、やさしく胸の中に落ちる。祖母の部屋に残っている古いアルバムを思い出す。祖母が若い頃、祠の前で笑っている写真があったっけ。そこに、猫の影は写っていただろうか。記憶のページをめくるように、目の奥で写真が一枚ずつ、静かに現れては溶ける。
「ミケノオオカミ、っていうんだって」
ツネさんは、ふふ、と含み笑いをした。
「そうとも言うねえ。呼び方は人それぞれさ。あの子は、呼ばれたほうに寄るのよ」
「呼ばれたほうに」
「そう。『お猫様』でも『三毛ちゃん』でも、『みーちゃん』でも。あの子のほうは、あんたの心のあったかいところを、先に見つけておるの」
こたつの中で、猫が鼻を鳴らした。肯定とも、反論ともつかない、短い音。ツネさんは瓶をテーブルに置き、持ってきた割干しの漬物を皿に移した。白い大根の端に唐辛子が一枚、きゅっと抱きついている。
「おばあちゃん、よく祠の掃除をしてたよね」と多恵子は言った。「私、手伝ったことがある」
「そりゃあ、よう働く人だったよ。手先が器用でね。あのこたつ布団の角なんか、何度も縫い直してさ。……祠の掃除も、あんたの手が覚えるといいね」
「掃除、します」
「今日みたいな日は無理しなくていいよ。怪我するからね。雪は、待ってくれる雪と、待ってくれない雪があるんだわ」
ツネさんの言い回しは、少しみーちゃんに似ていた。
人が長く同じ土地に立って話すと、言葉は自然と似てくるのだろうか。多恵子は器を出し、漬物を一緒につまむ。ぽりり、と歯に心地よい音が響く。酢の加減が優しく、昆布の甘みが後を引いた。
「顔色、よくなったよ」とツネさんが言った。「秋に来たときは、色がなくてね。冬の畑より白かった」
「そんなに」
「うん。今のほうが、冬の大根みたいで美味しそうだよ」
褒め言葉なのだろうか。思わず笑ってしまう。
猫が短く鳴いた。こたつ布団がかすかに持ち上がり、三毛の耳が少し見えた。ツネさんは「あら、出てくる?」と声をかけ、笑い皺をさらに深めた。
ツネさんが帰る頃には、雪はまた細かくなっていた。戸口まで送ると、「足元気をつけてね」と逆に言われる。家に戻ると、猫は縁側で外を眺めていた。白い世界を、じっと、長い目で。
「みーちゃん」
呼ぶと、ゆっくり首がこちらを向く。
瞳の色は、やはり井戸の底に似ている。深くて、静かで、覗き込むと自分の顔が少し歪んで見える。怖くはない。むしろ、安心する。深いところに、揺れないものがあるのだと、目で教えられる。
「手伝おうか」と猫が言った。
「え?」
「雪かきじゃ。おぬし一人では腰をやる」
「……猫の手、借りたい」
「借りるがよい。猫神の手は、意外と役に立つ」
スコップを玄関から持ち出し、長靴をはく。猫はその足元をするするとすり抜けて、玄関先に出た。空は低い鉛色だが、吐く息は白く、地面との間に薄い膜のようなものがある。猫は祠のほうに一度目をやってから、鈴に背を向けた。前足で雪の表面をちょんと触る。触れたところから、雪の粒が、わずかに締まる。足場が固まったのがわかった。
「こうしておけば、滑りにくい」
「そんなことも、できるんだ……」
「小さなことだけのほうが、世の中はうまくいく」
静かに雪を掻く。スコップの金属が雪の層に入り、さく、さく、と規則正しい音が続く。額に汗が滲む頃には、玄関前に細い道ができていた。猫はその道を、満足げに往復し、くるりと回った。足跡が並ぶ。その小さな印が、誰かがここを通った証であることが、不思議に尊かった。
家に戻ると、体は芯から冷えていた。
湯を沸かし、急須に茶葉をたっぷりと入れる。祖母が使っていた湯飲みは、口に当たる縁が少し厚い。熱いものを含むと、唇の表面と、内側が別々に温まる感覚がある。猫はこたつの中に戻っていて、布団の端からだけ、三毛のしっぽがのぞいていた。
「みーちゃん、お茶は飲まないよね」
「香りで飲む。茶は、香りが体の中にとどまれば、それでよい」
香りを深く吸い込む。鼻腔の奥に、渋みと甘みが層になって絡まる。背中の強張りがほどける。祖母の息遣いが、部屋の隅のほうから、ほんの少しだけ漂ってきたように感じる瞬間があった。気のせいだろう。けれど、その気のせいを信じてあげたい、と今日は思った。
午後は、洗濯機を回し、浴室の排水口を掃除し、台所の棚の古い調味料をチェックした。賞味期限の切れたものを分けて、使えるものは拭いて戻す。冬の日は短い。窓の外の白さがすこし青みを帯びたとき、猫がまた縁側に出た。つられて多恵子も、ポットを持って縁側に座る。膝にはひざ掛けを広げる。猫はその上に、当然の権利であるかのように座った。
「重い」
「神威じゃ」
「言えば何でも通ると思ってる」
猫の横腹に指をそっと差し入れると、体温が指先に吸い込まれた。猫は少し身じろぎをして、より深く沈み込む。鼻先がひざ掛けに触れ、短い息がそこで弾ける。雪の匂いと味噌の匂い、畳の匂いと猫の匂い。ここ数年、忘れていた種類の匂いだ。それらはみんな、家の匂いだったのだと、遅れて知る。
日は傾き、空の端がわずかに桃色を吸った。
遠くで子どもたちの笑い声が、突き刺すように澄んで届く。学校から帰る途中だろう。たぶん、あの子らは、祠の前で時々手を合わせるのだ。無邪気に。「お猫さま、明日、雪、休んで」とか。「体育の持久走、短くして」とか。「給食、カレーにして」とか。猫はそんなお願いの言葉を、どんな顔で聞いているのだろう。
「おぬしは、何を願う」
唐突に猫が言った。
心臓が、少し跳ねた。
何を。願う。随分長い間、その問いから目を逸らしていた気がする。願ってはいけないように思っていた。願いはいつも、現実の壁に当たって砕けるものだから。願いが叶わないのは自分の努力が足りないからだと、いつの間にか信じ込んでいた。
「……よく眠りたい」
口から出たのは、思いのほか素直な言葉だった。
猫は、うむ、と短く頷いた。
「よく眠るには、昼の光を体に入れることじゃ。朝ごはんを食べること。湯気を吸うこと。人に『おはよう』と言うこと。『いただきます』と言うこと。小さな灯りを、毎日点してやること」
「灯り」
「そう。灯りは、心の奥にも置ける。大事なのは、消えても、また点せるようにしておくことじゃ。消してしまうのが悪いのではない。消えたことに気づかないのが、寒いだけじゃ」
言葉の音が、ひざ掛けの上にふわりと落ちた。
外の雪は、また一段と細かくなった。降っているのか、舞っているのか、判然としない。世界がやわらかく、白に溶けかけている。
そのとき、縁側の端に黒と白の影がぬっと現れた。
「……あれ?」
白黒ぶちの猫が、戸口の影からこちらを覗いている。頬のあたりがふっくらしていて、毛が少し逆立ち、鼻はピンク色。目は丸く、こちらに対してあからさまな興味と、ほんの少しの警戒を含んでいる。猫は一歩前に出て、また一歩下がった。足元で雪が小さく跳ねる。
「タマ」と、こたつの主が低く呼んだ。声というより、喉の音だ。白黒はぴくりと耳を立てる。名前を呼ばれるのに慣れていないような顔をして、それでも逃げない。
「友達?」と多恵子。
「家来じゃ」とみーちゃん。
「家来……」
「食べ物で釣った覚えはないが、気づいたら家にいた。そういうのを、家来という」
白黒の猫——タマは、縁側の手前まで来て、そこで座った。尻尾を身体に巻きつける。風下から、豆の甘い匂いと、こたつ布団の綿の匂いが流れてくるのだろう。鼻が小さくひくひく動く。
「入っておいで」と多恵子は言った。
タマは一拍置いてから、すっと縁側に乗り上げ、畳に足を踏み入れた。爪が出ていない。畳を大切にする猫は、良い猫だと祖母は言っていた。そう言いながら、祖母は猫を膝にのせ、肩まで毛布を引っ張り上げていた。細い手の温度が、記憶の表面からふわりと立ち上がる。
タマはみーちゃんに近づき、鼻先をそっと寄せた。二匹の間で短い言葉のない挨拶が交わされる。みーちゃんは目を細くして応じ、それからわざとらしく欠伸をひとつ。タマはそれを真似するように、少し遅れて欠伸をした。小さな牙がのぞき、舌がかすかに丸まる。ひざ掛けに、猫がふたり分の重みになった。
夜は、静かに降りてきた。
台所の蛍光灯の白さが、雪の白に重なって、家の中だけが温かい色になる。夕飯は、白菜と豚肉の重ね蒸しを鍋で作った。しょうゆを少し垂らすと、湯気が広がって、鼻の奥にたまらない匂いが届く。ご飯はまた土鍋で炊いた。鍋の中で米が躍る音を聞きながら、箸置きを並べる。三つ。自分、祖母の遺影、そして——と思って、笑ってしまう。猫は箸を使わない。
食べ終えたあと、祖母の遺影に線香をあげる。小さく手を合わせる。祈りではなく、報告に近い。「今日、猫の神様が来たよ。みーちゃんって名前にしたよ」。遺影の中の祖母の笑顔は、いつもと変わらない。変わらないことが、ありがたい夜がある。
風呂の湯に浸かると、張り詰めていた背中がようやく自分の背中に戻ってきた。肩に乗っていた見えない荷物が、湯舟の縁にそっと置かれる。湯気を吸う。吐く。吸う。吐く。冬の夜の湯気は、灯りと同じ。見える灯りと、見えない灯り。湯から上がると、こたつに猫がふたつ、丸くなっていた。ひざ掛けは既に占領されている。
「場所がない」
結局、猫の間に身体を滑り込ませ、三つどもえの山を作った。猫の背に頬を寄せると、微かな振動が骨に伝わってきて、それがそのまま心臓の拍と重なった。目を閉じる。遠くで雪が落ちる音が、毛布の向こうの世界の合図のように聞こえる。
眠りは、思ったよりも早く、やってきた。
夢の中で、祖母が縁側に座っていた。編み物をしている。毛糸は赤く、針は静かに光る。祖母は顔を上げ、微笑む。「よく来たねえ」と言う。横に猫がいる。三毛と白黒。祖母は猫の頭を撫でる。猫は目を細める。窓の向こうでは、雪がやんでいた。やんだことさえ忘れてしまうほど、静かに。
夜中、ふと目が覚めた。部屋は真っ暗で、時計の赤い光だけが頼りになる。こたつの中で、猫たちの呼吸は規則正しく、温度は心地よい。外はまだ降っているのだろう。屋根から雪が落ちる鈍い音が一度した。心は、不思議と空白だった。何かに追い立てられる感覚が、どこにもいない。空白は怖くなかった。空白は、灯りを置く場所だった。
明日の朝も、出汁を引こう。
祠の雪を、すこし払おう。
ツネさんに、漬物のお礼を言おう。
タマの名前を、ちゃんと呼んでみよう。
——そう思えただけで、胸の中にほんの少し、ひだまりができた気がした。
再び目を閉じた。
夢の手前で、誰かが小さく囁いた気がする。「よく眠れ」。猫の声だったのか、祖母の声だったのか、自分の声だったのか、わからない。けれど、そのどれであっても、よかった。灯りは、一つで足りる夜もある。二つあれば、もっとあたたかい。三つあれば、きっと、朝は楽にやってくる。
こたつの山が、すう、と静かに上下する。
外の雪は、降り続けている。
世界は白く、家はあたたかく、心の奥で灯った火は、小さいけれど、消えなかった。




