第3章『距離、ひとつぶん』後編
3章後編:「本音の足音」
翌朝。
いつもより少し早く登校した私は、教室の窓際の席に鞄を置いて、ぼんやりと外を眺めていた。
冬の朝の光は、なんだか冷たくて優しい。
グラウンドの向こう、白い吐息を交わしながら走る生徒たちを目で追っていたら――
綾「……あれ、葵? 今日ちょっと早いじゃん」
私の背後から、明るくてちょっと甘えたような声。
振り返ると、親友の綾がこちらに向かって手を振っていた。
葵「おはよ、綾」
綾「おはよ~。てかどうしたの? 朝からそんなに黄昏れて」
葵「……ちょっと、話したいことがあって」
綾は私の隣の席に腰を下ろすと、すぐに私の表情をじっと覗き込んだ。
この子は昔から、私がなにか抱えてる時にはすぐ気づく。
綾「まさか……“こちゃ先輩”関係?」
図星すぎて、一瞬言葉に詰まる。
葵「……うん」
綾「きた! 恋バナだー!」
綾が小声ではしゃぐように笑ったあと、すぐに真剣な顔に戻る。
私は深呼吸をしてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
葵「昨日、演劇部の部室で、部長から言われたの。
『月祭までに演技をちゃんと仕上げないと、舞台に立たせられない』って……」
綾「……あー、それはプレッシャーすごいね」
葵「うん。でも、それだけじゃなくて……」
私は、ゆっくりと言葉を探す。
葵「“恋人役”の演技をしてるとね、だんだん、自分の気持ちがわからなくなるの。
演技なのか、本当なのか……
先輩が優しくすると、胸がぎゅってなるし、台詞にドキドキしてしまって……」
葵「でもね……それがすごく、怖いの。
自分でも、どうしてこんなに不安になるのかわからなくて……」
私は小さく息を吐いた。
葵「たとえば本番が終わったら、
この気持ちも終わっちゃうのかなって、そんなふうにも思っちゃうの。
“好きなのは演技だから”って思ったら……
……なんだか、すごく怖いの。
このまま気持ちが消えちゃうんじゃないかって。
もし全部が嘘だったらって考えると、苦しくなるんだ……」
綾は静かにうなずいていた。
私は、こちゃ先輩のことを考えるだけで、心がふわふわするのに、
いざ「好き」って言葉にする勇気は、まだ持てなかった。
葵「……“好き”なのかなって。
でも、ただの憧れかもしれないし……
本当にそうなのか、まだよくわからなくて……」
綾「……でもさ、葵は“怖い”って言ってたよね?」
綾の声が優しく、でも芯のある音で響く。
綾「それって、たぶん本気だからだと思うな。
だって、ただの“役”だったら、怖くなんてならないよ。
終わったら“はい、おしまい”って切り替えられるじゃん?」
私は息を呑んだ。
綾の言葉が、まっすぐすぎて、胸に刺さる。
綾「だからね、葵。
その“怖い”って感情、めっちゃ大事にしてほしいなって思う。
たぶんそれって……
“本当の気持ち”がどこかにあるから、こわいんじゃないかなって」
教室の窓から差し込む冬の光が、
まるで綾の言葉みたいに、あたたかく私の手の甲を照らしていた。
葵「……綾」
綾「うん?」
葵「ありがとう」
私が小さく笑うと、綾も安心したように頷いた。
綾「うんうん、よかった。
てかさ、葵ってさ、悩んでるときすごい眉間にしわ寄ってるの。
今すっごいほどけたよ、顔」
葵「え、うそ……やめて、恥ずかしい」
ふたりで笑いあって、少しだけ肩の力が抜けた。
気持ちがはっきりしたわけじゃない。
でも、進む勇気を少しだけ、持てた気がした――。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
台本を読むことで、気づかないうちに本心が動いていく。
でも、それを言葉にするのはすごく勇気がいることですよね。
葵にとって、綾はずっと変わらない優しい味方でいてくれる大事な存在です。
だからこそ、ここで「怖い」と打ち明けられたことが、きっと彼女にとって大きな一歩だと思います。
次回からも、演技と本当の気持ちの境界線が少しずつ動いていきます。
読んでくださる方にも、2人の恋の空気を一緒に感じてもらえたら嬉しいです!