第3章『距離、ひとつぶん』前編
第3章 前編:恋のタイムリミット
放課後、演劇部の部室。
古い机と、棚に並んだ台本たち。
少し乾いた木の匂いが、私の緊張をほんの少し和らげてくれる。
部長「……うーん、やっぱり違うな」
部長の静かな声が、部室の空気をすっと張りつめさせた。
私は、読み終えたばかりの台詞を、ぎゅっと握りしめた台本と一緒に反芻する。
部長「葵。今の台詞、どういう気持ちで言った?」
葵「えっと……“好きだけど、怖い”気持ちを、込めたつもりで……」
自分でも、言った瞬間、少しだけ戸惑った。
“好き”だけならよかったのに、“怖い”なんて言葉が混ざるなんて。
部長は、じっと私の顔を見つめたあとで、言った。
部長「それもある。でも……“怖い”って言葉の裏に、もっと大事な感情があるはずだよ」
“怖い”って言葉の裏――
それって、いったい何だろう。
わかろうとしても、つかめない。
霧みたいに、目の前をふわふわと漂っていて、言葉にできない。
「“好き”って気持ちは、素直に言えるのに――“怖い”の正体だけは、まだうまく言葉にできなかった」
こちゃ先輩の横顔をちらっと見て、私はそっと目をそらした。
台本の中のセリフと、
自分の中の気持ちが、
どこまでが演技で、どこからが本音なのか――
曖昧になっていく。
私の中にある“怖さ”の正体なんて、
きっとまだ、私自身にもわかっていなかった。
部長の目が、一瞬だけ鋭く私を見た気がして、私は台本に視線を落とした。
その空気をふわっと揺らすように、後ろの席からひとりの男子が声を上げた。
台本をひらひらと掲げながら、悪びれもなく口を開く。
??「なあ、部長。俺、代役やってみようか?」
こちゃ先輩の同級生で、演劇部のムードメーカー 山田先輩。
空気を読まない発言で、しれっと爆弾を投げ込むタイプ。
葵「……え?」
耳を疑った。
山田「雰囲気合ってないならさ、役を変えるのもありじゃん?
俺、こう見えて恋人役とか得意なんだけど」
部室の空気が、一瞬にして張り詰めた。
(……代役? 私が、山田先輩と?)
こちゃ「待ってください」
静かで、それでいて確かな声が響いた。
こちゃ「葵ちゃんは、真剣に練習してきてます。成長もしてる。
俺は、彼女とこの役を最後までやりたいです」
その言葉に、胸の奥がぐっと熱くなった。
何かが込み上げてくるような、不思議なあたたかさ。
まるで、私の存在そのものが、肯定されたみたいな気がして――
山田「そっか、そりゃ残念」
そう言って山田先輩は肩をすくめ、台本を棚に戻して席に着いた。
部長はしばらく考え込んでいたが、やがて、静かに口を開いた。
部長「……じゃあ、こうしよう。役の変更は保留。だけど条件を出す」
私は反射的に背筋を正す。
部長「月祭までは……あと1か月と、ちょっと。
そこまでに演技を“本物”にしてもらう。今のままじゃ、舞台には立たせられない」
(……月祭)
“月祭”――それは、私たち月影ヶ丘高校で毎年冬休み前に行われる文化祭。
体育館では演劇や合唱、ファッションショー。
校舎の中では展示や模擬店もあって、近所の人や卒業生まで見に来る大イベント。
その中で演劇部は、毎年メインステージのひとつとして、
全校生徒や保護者の前で短編の舞台劇を披露する。
校舎の廊下は、足元からじんわり冷えてくる。
それでも、演劇部の活動だけは、いつも熱気に満ちていた。
あと1か月と少し――それが、私とこちゃ先輩に与えられた“猶予”だった。
(間に合うかな……)
でも、となりにいるこちゃ先輩が、
ちらっと私を見て、ふっと笑った。
こちゃ「がんばろうな、葵ちゃん」
その笑顔に――
たったそれだけの言葉に、私は何度も救われてる。
葵「……はいっ」
うなずいた瞬間、ほんの少しだけ、
ふたりの間の距離が、縮まった気がした。
これは、まだ名前のつかない気持ち。
でも、確かに、特別な関係。
――“距離、ひとつぶん”。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!
第3章前半「恋のタイムリミット」は、演技と本音の境界線が少しずつ揺れ始める、そんな“きっかけ”の章でした。
台詞に込められた「好きだけど怖い」という気持ち――
その“怖さ”の正体に、まだ葵自身も気づいていません。
そして今回登場した“山田先輩”。
彼の登場が、こちゃと葵の気持ちに“ある変化”をもたらしていくかも……?
ぜひ、見守っていただけたら嬉しいです!
次回も、どうぞよろしくお願いします!✨