6.涙雨に溶ける
七緒とのいざこざがあった翌日から、天沢くんと会えなくなった。
朝のバス停にも、学校でも、放課後のバス停にも姿を見せない。部活動停止処分は数日間の予定だったから、練習には出られないはずなのに一体どこにいるのだろう。
三日目の朝、いつものバス停で時雨さんに会った時も天沢くんはいなかった。
「時雨さん、天沢くんに会った?」
そう尋ねても、時雨さんは「にゃあ」と一声鳴いただけで、まるで『知らない』と言っているようだった。
学校に着いてからも、天沢くんの姿を探してしまう。休み時間になると一階下の天沢くんがいる教室が気になって階段まで行ってみたけれど、なんだかストーカーっぽくて降りるのはやめた。
「天沢、風邪で寝込んでんだって」
「え!?」
昼休み、お弁当を食べながら七緒が教えてくれた。天沢くんと同じクラスのバスケ部仲間がそう言っていたらしい。
「天沢ん家って父親いないらしくて。母親も入院中とかなんかで、一人らしいよ」
「うそ、そうなの……?」
「だから“色々”あるって言ったじゃん」
思い返せば、俺は天沢くんのことを何も知らない。去年転校してきたバレー部の王子様で、澪先輩のいとこ。転校してきた理由も家庭事情も何も知らないことに気がついて、胸にスゥッと冷ややかなものが流れてきた。
「……連絡してみたら?」
「え?」
「ここ最近ずっとソワソワしてるじゃん。気になるなら連絡してみたほうがいいって、多分」
「でも、寝込んでるなら迷惑じゃないかな……?」
「それは知らねーけど。でも、俺なら嬉しいよ」
「本当?」
「ん。しんどい時に友達から連絡きたら嬉しい」
七緒から背中を押された俺は、思い切ってメッセージを送ってみることにした。というか、そもそも一日目の時点で会えなかった時に連絡するべきじゃなかったのかな……?
友達だって言ったのに、薄情者だと言われたらどうしよう……!
「はい、うだうだ考える前にそうしーん」
「あっ、七緒!」
「どうせ送るんだからいいじゃん」
さすが親友、考えを見抜かれてたみたいだ。
七緒から送信ボタンを押されたメッセージ画面には小さく『既読』の文字がついていて、送ってすぐに天沢くんがメッセージを見てくれたのが分かった。
【三日前、雨の中を走って帰った罰が当たったみたい。連絡する元気がなくて……心配かけてごめん】
三日前、といえば……。
七緒と取っ組み合いの喧嘩をしたあの日、天沢くんと一緒に帰ると俺の最寄りのバス停で降りてしまった時の話だ。あの日は確か、後から来たバスに乗って帰ったはずだけれど、家に着くまでの道のりを傘も差さずに走って帰ってしまったのだろうか。
【大丈夫? 熱とかは?】
【昨日まで39度近くあったけど、今日は少し下がった。でもまだふらふらするかな……】
「天沢くん、39度も熱があったんだって……」
「まじで? そりゃ学校に出て来れないわけだな」
今さっき、七緒から家に誰もいないらしいと聞いたばかりだ。天沢くんの口から直接聞いた話ではないから迷ったけれど、もしも本当に一人でいるなら――
【ちゃんと食べてる? お家に誰かいる?】
【いや、家には誰も……】
【澪先輩は?】
【澪ちゃんは受験生だし、大事な模試が近々あるらしくて……移したら悪いから来なくていいって言ってある】
家に一人、39度の熱があって食事も取れていない。メッセージを読んでいるだけで心配になってきた。
【買い物とか大丈夫? 家に何かある?】
【買い物に行く体力がなくて……でも大丈夫、何とかなるから】
「七緒、ごめん。ちょっと電話かけてくる」
「ん、いてら」
風邪を引いてるから話すのは辛いかもしれないけれど、メッセージのやり取りよりも早く話をしたかったから電話をすることにした。
「もしもし、天沢くん? ごめんね、辛い時に電話して……」
「ううん。心配してくれてありがとう、雨宮くん」
天沢くんの声は普段より低くて、鼻声になっていた。電話の向こうで小さい咳が聞こえて、本当に辛そうなのが伝わってくる。
「天沢くん、声がガラガラじゃん。本当に大丈夫?」
「大丈夫って言っても、説得力ないかもしれないけど……」
天沢くんはもう一度小さく咳をして「うん、大丈夫」と繰り返した。でも、全然大丈夫じゃなさそうなのは声を聞いただけで分かった。
「あのさ、今日の放課後に家に行ってもいい?」
「え?」
「必要なものとか買っていくよ。お粥くらいなら作れるし……一人じゃ心配だから」
「でも、雨宮くんに移したら迷惑かけるから……」
「俺、澪先輩と違って受験生じゃないから、風邪くらい移っても大丈夫!」
食い気味にそう言うと、電話の向こうで天沢くんの笑い声が聞こえた。
もしかして強引すぎた?それともやましい気持ちがあるって思われたかな!?
「あはは、ふふ……っ、ありがとう雨宮くん。元気出た」
「なんか複雑なんだけど……」
「いや、本当に、純粋に感謝してる。住所送るから……本当に来てくれる?」
「もちろん! 住所と一緒に、買ってきてほしいものがあったらそれも連絡して」
「分かった。お言葉に甘えてお願いします」
「はい、任されました」
電話を切った後、天沢くんはちゃんと住所を教えてくれた。しっかりと買ってきてほしいもののメモも送ってくれたから、安心したのもあって俺がにこにこ顔で教室に戻ると七緒がニヤついていた。
「ここ数日ずーっと元気なかったくせに、天沢と少し話しただけで上機嫌になるんだなぁ」
「……あんまりからかわないでよ」
「ごめんごめん。でもそういう璃斗を見るのって初めてだから新鮮でさ」
「そうだっけ?」
「そうだよ。今まで好きな人がいるとか、恋バナ的なのしたことないし……璃斗が嬉しそうにしてると、今は俺も嬉しいよ」
先日七緒から告白されて振ってしまったのだが、それでもこうやって笑いかけてくれる七緒には本当に頭が上がらない。友達でいたいとわがままを言ったのは俺だけど、もしも自分が七緒の立場ならどうだっただろう。
俺は好きな人から振られたら、そのままずっと友達でいられる自信はない。
この友人関係が保たれているのは、きっと七緒がすごく優しくて人間として立派だからだ。いい友達を持ったなんて上から目線なことは言えないけれど、本当にそう感じる。
「……放課後、天沢くんのお見舞いに行ってくる」
「まじか。一気に進展じゃん」
「進展って……相手は病人だよ? 家に誰もいないって言うから、必要なものとか買っていくだけ。それに天沢くんは俺のこと、友達としか思ってないだろうし」
「ふーん……前途多難だなぁ」
「い、意識してもらうのって、どうしたらいいんだろう……」
「見舞いに行くなら、十分意識する要素になると思うけどな。まぁ、ド定番なのは“あーん”してあげるとか?」
「あーん?」
「飯とかプリンとか食べさせてあげたらいいじゃんってこと」
振った相手に好きな人の相談をしてしまうなんて最低極まりない。でも七緒は真剣に『どういうアプローチをするか』を話してくれて、恋愛初心者の俺は思わず聞き入ってしまった。
「弱ってる時に優しくされたらグッとくるわけよ!」
「なるほど……!」
「ま、お前にとっては……火に油注ぐことになりそうだけど」
「え? どういう意味?」
「ん〜……言葉の意味を分かる日がきたら教えてやる」
「なにそれ」
七緒はアドバイスもしてくれたけど、よく分からないことも言ってきた。火に油を注ぐという言葉を額面通りに受け取ると、七緒のアドバイスを実行しないほうがいいという意味にも取れる。でも彼は「そういうことじゃないから、絶対にアドバイス通りにしろ」と言ってきたので、更に首を捻った。
「まあ、璃斗はいつも通り優しい天使でいればいいわけよ」
「優しい天使って……初めて言われたんだけど」
「俺が好きになった美術室の隠れ美少年は天使なんですよ」
「……漫画の読み過ぎじゃない?」
「照れんな照れんな」
美少年と言われたこともなければ、天使なんてもってのほか。今でさえファンクラブが本当に存在するのかも怪しんでいると言うのに。
「ほら、見てみろって。これファンクラブの会員限定アクキー」
「ちょっ、なにこれ! 肖像権!」
「超絵が上手い絵師に描いてもらったから。写真じゃないから許して」
七緒が見せてくれたのは、会員しか持っていないと言うアクリルキーホルダー。そこにはまさしく俺に天使の羽根が生えたような神々しいイラストが描かれていて、あまりにも美化されたイラストに頬が熱くなった。
「こ、こんなの俺じゃないし……ばかじゃないの……」
「あ〜〜〜〜…まじで可愛い。うん。本当に国宝。天使」
「写真撮らないでよ!」
思わず照れてしまった俺の写真を悪びれもなく連写する七緒のスマホを奪い取ろうとしたけれど、俺より何倍も長い腕に届くわけもなく。
悪用しないという約束を取り付けて、写真の削除まではさせなかった。
「えーっと、冷えピタ冷えピタ……」
放課後、天沢くんの家の近くにあるドラッグストアに向かった。解熱剤、のど飴、栄養ドリンク、それからスーパーに寄って消化の良さそうな食材を買い込んで、天沢くんの家に足を進めた。
天沢くんが送ってくれた住所を頼りにマンションに着いて、エントランスでインターホンを押すとすぐに解錠された
「鍵は開けておくね」
「分かった、ありがとう」
インターホン越しにそんな会話をして、エレベーターで3階を目指す。3階フロアの一番奥の扉に手をかけると、カチャっという音がして扉が開いた。
「お邪魔します」
リビングのカーテンを閉めっぱなしなのか、玄関からすでに薄暗さが際立っていた。玄関には天沢くんのものだと思われる革靴とスニーカーが二足並んでいて、革靴のほうは脱ぎ捨てられたという表現が正しいほど乱れていた。
シンっと静まり返る室内に足を踏み入れ、リビングへ続くドアを開ける。一度中を覗いてみたけれど、天沢くんはリビングにはいなかった。
「雨宮くん、こっち」
リビングの手間にあるドアの向こうから小さな声が聞こえて、思わずびくっと体が跳ねた。ここは天沢くんの家なのに何だか肝試しに来たみたいな気持ちになってしまっていた。
「急に来たいなんて言ってごめんね、天沢くん」
「ううん。来てくれて嬉しい」
ドアを開けると、ローテーブルとベッドしかないシンプルな男子高校生の部屋が広がっていた。床には制服が散らばっていて、鞄も乱雑に放り投げられている。天沢くんはと言えば毛布にくるまって横になっていた。普段の凛とした姿とは全く違って、顔は真っ赤に火照り、髪も汗で湿っている。
片付けが先かなと思っていると「掃除する元気なくて……お恥ずかしいところを……」と、ベッドに寝ている天沢くんが苦笑した。
「そんなの気にしないでいいよ。もし勝手に触って大丈夫なら少し掃除していくけど」
「いいの? 本当にありがとう……」
「その前に、熱は……」
天沢くんの額に手を当てると、想像以上に熱かった。
「一旦、体温測ってみよう」
「うん」
体温計を渡すと、天沢くんは震える手でそれを受け取った。数分後、38.3度と表示された。39度より下がったと言っていたけれど、まだ相当高い。
「まだ38度もある。解熱剤飲んだ?」
「今朝飲んだけど、薬自体が切れたから……」
「薬は買ってきてるから、その前に何か食べないと。キッチン借りてもいい? お粥作ってくるね。その間にこれ貼って、飲み物飲んで待ってて」
「うん……」
買ってきた冷えピタを額に貼って、栄養ドリンクの蓋を開けて差し出す。熱があるせいなのか天沢くんは何だかぼーっとしていて、子供みたいだった。
栄養ドリンクをごくごく飲んでいる天沢くんを横目に、散らばった制服をハンガーにかける。それからキッチンに移動して、お粥を作ろうと思ったんだけど……。
「お鍋が段ボール箱に入ったまま……」
部屋の中に入った時から少し違和感があったことだけど、あまりにも生活感がない。リビングには引っ越してきたまま開封されていない段ボールが数箱あって、キッチン用具などは隅に追いやられている箱の中に鎮座していた。
使われた形跡がある食器はコップと箸が1つずつ、それから白い皿が一枚。あんまり詮索することではないけど、チラリとゴミ箱を見ると冷凍食品のプラスチックトレーが何個も捨てられている。
「お母さんは入院中だって言ってたけど……」
それにしても、だ。まるで天沢くんが一人で住んでいるかのような家の中に、俺は寂しさを覚えた。
天沢くんはずっとそういう素振りはなくて、いつも完璧な王子様に見えていた。でも、本当の彼は違うのかもしれない。
家に招いてくれたことが奇跡にも近いと思っているから、それ以上余計な詮索はしたくないけれど。
でも、できることなら天沢くんが抱えている気持ちを少しだけでも知られたらいいな、なんて思ったんだ。
「天沢くん。お粥作ったけど食べれる?」
「うん、食べる」
「プリンとフルーツゼリーも買ってきたけど、どっちがいい?」
「じゃあ、プリン」
「ふふ、分かった」
「……いま、子供っぽいって思った?」
「思ってない。俺と同じだなと思って」
「同じって?」
「俺も風邪ひいた時はいつもプリン食べるから」
七緒からのアドバイスが頭の片隅にあったからというわけではないけれど、天沢くんは座るのもやっとっていう感じだったから、自然と俺がお粥を掬って食べさせていた。
俺が息を吹きかけて冷ましたお粥を食べるのは嫌かもって口元に持っていってから気づいたけど、天沢くんは何の抵抗もなくぱくりと頬張る。数回咀嚼して、またぱかっと口を開けるから慌てて冷ましたお粥を口に運んだ。
何だかまるで雛鳥に餌をあげているみたい。天沢くんがいつもの王子様ではなくて、小さい子供っぽく見えるからかな。
「美味しい……雨宮くん、料理できるんだね」
「うち父親が単身赴任で家にいないから、母親と二人なんだ。だから俺もある程度できるっていうか……簡単なものだけ」
「そっか。俺も母さんと二人だけど、家事とか料理は苦手で……こういう駄目な部分、あんまり見せたくなかったんだけど……」
「何でも完璧にできる人っていないよ。俺はむしろ、天沢くんもちゃんと人間なんだなぁって安心した」
「どういう意味?」
「文武両道でいつも完璧な王子様って感じだったから、苦手なものを知ると年相応の男子なんだなぁと」
「ふは、俺のこと何だと思ってるのさ」
掠れた声で笑う天沢くんの笑い声や笑顔に安堵した。
味付けが心配だったお粥も完食してくれて解熱剤も飲んだから、熱が下がってくれたらいいんだけど。
「そうだ、着替えする? フラフラしてるからお風呂は入らせられないけど、体拭くのはできるよ」
「えーっと……本気で言ってる?」
「え?」
「雨宮くんが俺の体を拭いてくれる、ってこと……?」
天沢くんが困ったように笑っていて、俺は自分が何を言ったのかやっと理解した。
「わ、わぁぁぁっ!? ちょっと待って違う、やましい気持ちとかそういうのは何もなくて……!」
「あは、ははは! やましい気持ちって……」
「本当に! 本当に微塵もないから!」
「あっても困らなかったけどね、俺は」
「へ……!?」
「冗談。着替えはしたいから、あったかいタオル用意してくれると嬉しいかも」
「あ、わ、分かった! ちょっと待ってて」
天沢くんの部屋を出てホットタオルを用意しながら、さっきの言葉の意味をぐるぐる考えた。
やましい気持ちがあっても困らないって、一体どういう意味……?
「洗濯までしていくから、着替えが終わったら声をかけてください……!」
「分かった。ふ、でも、そんなにカチコチにならなくてもいいのに」
「本当に、本当に見ないから……っ!」
フラついているから心配だったけど、着替えを手伝うのは何だかちょっと、駄目な気がした。
部屋の外に出て待っていると、しばらくして「もう大丈夫だよ」と声をかけられそっと中を覗く。着替えをしてすっきりしたのか、さっきよりも顔色がいい天沢くんがベッドに座っていた。
「少し楽になった?」
「うん、すごく楽になった。誰かがいてくれるって、やっぱり安心する」
「よかった。天沢くんが眠るまでいるから、安心して眠ってね」
「……眠ったら、帰る?」
「え、っと……」
寂しそうな瞳の色に動揺した。マンションといえどこんなに広い家に一人でいるのは、特に病気の時は寂しさが募るのだろう。
泊まっていけたら一番いいけれどそういう準備をしてきていないし、心の準備もできていない。明日の学校は何とかなるだろうけど、現実的に考えると――
「ごめん、困らせること言った。弱ってる時って変なこと言っちゃうな」
なんて無理やり笑うものだから、胸がぎゅっと締め付けられた。
「母さんに確認してみる。天沢くんが寝込んでて一人だって言ったらきっと、泊まってもいいって言われるだろうから……学校も大丈夫。ちゃんと行ける距離だし、何とかなるよ!」
「雨宮くん、ありがとう。眠るまでいてくれたら、それだけで嬉しい」
俺を困らせないように笑ってくれているのが分かって、胸がぎゅっと締め付けられた。
「……俺の母さん、看護師でね。夜勤とか普通にあるから夜にいないことも多いんだよ」
「うん……?」
「だから夜になると無性に寂しくなるのとか、広い家に一人でいると心細くなるのとか、すごく分かる」
「雨宮くん……」
「寂しいことを我慢しないで、天沢くん。俺には言ってもいいから」
なんて言って天沢くんの気持ちを決めつけてしまったけれど、的外れだったらどうしよう。別に寂しくないしとか、そういうつもりで言ったわけじゃないのにって言われたらすごく恥ずかしい……。
「……本当は、結構、一人でいるのしんどかった」
ぽつり、呟かれた言葉はちゃんと俺の耳に届いた。天沢くんは顔を腕で隠しているから口元しか見えないけれど、その唇が少しだけ震えているのが分かる。俺は思わず、もう片方の手をきつく握りしめた。
「引っ越してきた理由さ、父さんの不倫が原因で離婚したからなんだけど……母さん、はつらつとした元気な人だったのに父さんの不倫のせいで精神的に参っちゃって、澪ちゃんのお母さんの近くに越してきたんだよね」
「そう、だったんだ……」
「でもこっちに来たら来たで、一日中家に引き篭っちゃってさ。それでもっと精神状態が悪くなって入院してて……俺が前の学校で問題起こしたのも原因なんだけど」
「問題を起こしたって、天沢くんが?」
「うん。前の学校で、一年でスタメン入りしてたから……俺をよく思ってない先輩たちに、不倫されるのは母さんに原因があるんじゃないかって言われて。カッとなって殴った」
「そ、それは殴って当然だよ! 俺だってそんなこと言われたら黙ってられない。天沢くんは絶対に悪くない!」
その時の天沢くんの気持ちを考えたら、悔しくて涙が出てきた。俺が泣くのは絶対に違うと分かっているのに、たった16歳の男の子がある日突然一人ぼっちで投げ出されたのだ。
それを想像すると、俺がもし仲のいい友達だったら絶対に一人にしなかったのにっていう悔しさと、天沢くんを傷つけた全ての人たちに対して怒りが湧いた。
「雨宮くんって本当に、眩しいな……」
「え?」
「あの時もそうだった。道に迷った時、声をかけてくれた雨宮くんが光ってた」
「そ、そんな特殊能力ないよ?」
「ふふ、うん……どうしてだろうね。俺にはそういうふうに見えるんだ」
熱のせいだろうか、腕をどけて見えた天沢くんの瞳が潤んでいる。そのまま熱を持った手が俺の頬を撫でて、眉を下げて笑った。
「こんな俺に優しくしてくれてありがとう。雨宮くんがいてくれて本当に助かった」
「そんな、当たり前だよ……友達なんだから」
「うん……今はまだ、友達でいいよ」
それから結局、天沢くんに『暗くなる前に帰ったほうがいい』と言われ、渋々帰宅した。
家に着いてから一応連絡を入れると【今日はありがとう。元気になりそう】とメッセージが返ってきた。
「明日もまた、様子見に行くね……っと」
今日の夜は寂しいとか辛いではなく、嬉しい気持ちで天沢くんが眠りにつくのを願った。
そして翌日、天沢くんは今日もバスには乗っていなかった。
「よ、璃斗! 天沢の様子どうだった?」
「おはよう、七緒。まだ結構辛そうだった」
「まじか。また行く機会ある?」
「うん、今日の放課後行くつもり」
「じゃあこれ……差し入れしてくれない?」
学校で会った七緒が差し出してきたレジ袋の中には、簡単にカロリーチャージができるようなゼリー飲料やら蜂蜜レモンの飴やら、風邪を引いた時に良さそうなものがたくさん入っていた。
「七緒も一緒に行く?」
「いや、俺は補習があるから……璃斗からよろしく言っといて」
「分かった。ちゃんと渡すね」
「あの、雨宮くんですか……?」
廊下でそんな話をしていると、見知らぬ女子生徒から声をかけられた。
「はい、そうですけど……」
「あ、急にごめんね! 私、1組の一宮千晴って言います」
1組というと、天沢くんと同じクラスだ。そこで思い出したのは、先日七緒と天沢くんが喧嘩をしていた時に天沢くんを保健室に連れて行った女子生徒だということ。
一宮さんは何だか恥ずかしそうに顔を赤くしながら、俺が手に持っているレジ袋を見つめていた。
「あの、話が聞こえちゃって……天沢くんのお家に行くって……」
「あ……うん。様子を見に行こうかなと思ってて」
「それ、代わってもらえないかな?」
「え?」
「私が行っちゃダメ、かな……?」
何となく、そう言われるだろうなと予想はしてた。一宮さんが天沢くんのことを好きなのも、この様子を見たら分かる。
男友達が行くのなら自分が行ってもいいじゃん、と思う気持ちも分からなくない。実際、俺だって少しだけやましい気持ちがあるのだから。
「差し入れはちゃんと雨宮くんたちからだって伝えるし! その……天沢くんのこと、本気で好きなの……だから協力してもらえない……?」
「あのなぁ、お前……」
「ちょっと、七緒。怖がらせないで」
俺はどちらかといえば、普通の男子よりも細くて平均身長よりすこーしだけ小さいほうだ。でも体格はちゃんと男だし、顔も中身も女の子の可愛さには到底敵わない。
マシュマロみたいに柔らかそうな小さい女の子が、真っ赤になりながら『好きです』なんて言おうものなら天沢くんだって告白をOKするだろう。
正直、天沢くんの隣に一宮さんみたいな可愛い女の子が並んでいると、お似合いのカップルだなと思う自信がある。とういうか、自信しかない。
でも、それを想像すると、胸がズキズキと痛んだ。
叶わない願いかもしれないけれど、天沢くんの隣に並んで立つ人間は自分がいいなんて、何とも傲慢で醜い感情を持ち合わせているのだろうか。
「……出来ることなら協力してあげたいけど、ごめんなさい。天沢くんと約束してるのは俺だから」
「そ、そっか……そうだよね。突然変なこと言ってごめんね」
「ううん。その、そう思ってるって本人に伝えてあげて。そのほうがきっと嬉しいと思う」
「分かった、伝えてみる。ありがとう!」
思わず強気に出ちゃったけど、本当にこれでよかったのかな。もしかしたら天沢くんもあの子のこと――
「璃斗、勇気出したじゃん! あんなこと言えるなんて感動した!」
「うわっ、なに……っ」
「女子に言い返せるくらい強くなったんだなぁ! 恋ってすげー!」
「ちょっと七緒、声が大きいってば……!」
なぜか七緒のテンションが高くて、肩を組まれながらわしゃわしゃと頭を撫でられる。ただ、確かに七緒の言う通りだ。この俺が女子に言い返せる日がくるなんて、少し前の自分なら考えられなかった。
恋をしたら人は変わると言うけれど、まさしくそれを自ら体験している。
「この調子で告白もできたらいいな!」
「……それはちょっと、また別の話です……」
「ぶはっ、なんで敬語?」
「俺にはまだ早いかもと……」
「自信持てって! 俺から見れば……大丈夫だと思うし」
「なにそれ。適当なこと言わないでよ」
「信じるか信じないかはあなた次第」
「絶対からかってるでしょ!」
天沢くんのことを考えながら授業を受けていると、あっという間に放課後が訪れていた。
「璃斗くん」
「あ、澪先輩!」
今日も放課後は部活を休むと言っていたからか、澪先輩が俺のクラスに顔を出した。一瞬でクラス中がざわつくのが分かって、改めて澪先輩は注目の的だなと何故か俺のほうが得意げになってしまう。
「悠から、璃斗くんがお見舞いに来てくれたって聞いたの。今日も行ってくれるって聞いて……私が行けなくてごめんなさいね」
「そんな、先輩は受験生ですから! 俺は万が一移っても大事な用事は特にないので大丈夫ですよ」
「ありがとう。荷物になっちゃうんだけど、悠に渡してくれない?」
「もちろんです!」
澪先輩からも冷えピタやら大量のレトルト食品を預かって、結構な荷物になってしまった。でも昨日ある程度買い物を終わらせていたので、今日はどこにも寄らず天沢くんの家に直行できるだろう。
七緒と澪先輩からもらったものを鞄に詰めて、昨日と同じルートで天沢くんの家に向かった。
「今日も来てくれてありがとう、雨宮くん」
「寝てなくて大丈夫? 昨日より顔色は良さそうだけど……」
「うん、熱は37度まで下がった。このまま下がれば週明けは登校できそう」
「あ、そうだ。今日って金曜日か」
「雨宮くんも部活あるのに、休ませてごめんね」
「気にしないで。夏のコンクールまでに間に合えばいい作品だから」
今日は玄関で出迎えてくれた天沢くんは、昨日より随分と体調が良さそうで安心した。どうやらお風呂に入れるくらい回復したらしい。俺が来る前にシャワーを浴びたらしくて、天沢くんが動くたびに石鹸のいい匂いがした。
「これ、七緒と澪先輩から差し入れ。早く良くなってねって七緒が」
「新海くんが? そっか、ありがたいなぁ」
「澪先輩も行けなくてごめんねって」
「あとで連絡しておくよ」
「うん。そうだ、今日はうどん作ろうと思うんだけど食べられそう?」
「食べれると思う。昨日雨宮くんが作り置きしてくれてたお粥、今日も美味しくいただきました」
「よかった。お粗末さまでした」
冷やしたほうが良さそうなものは冷蔵庫に入れて、他のものはリビングのテーブルだったり収納スペースに片付けていると「ふふ」と天沢くんの小さな笑い声が聞こえた。
「どうしたの?」
「いや……雨宮くんの家みたいだなと思って」
「ええ?」
「一緒に住んでるみたいだねってこと」
「いっ、いっしょにって……!」
昨日、大体の収納スペースは把握していたし、ほとんど何も入っていないから空いているところに片付けていただけだ。でもそれが天沢くんの何かを刺激したらしい。
一緒に住んでるみたいだね、なんて言われたら――意識してしまうじゃないか!
「ここで見ててもいい?」
「い、いいけど……本当に寝てなくて大丈夫?」
「大丈夫。雨宮くん見てると元気になりそう」
「なにそれぇ……」
リビングのソファに座り、俺が作った温かい蜂蜜ゆず茶が入っているマグカップを持ってキッチンをじーっと見つめている天沢くんの視線が突き刺さる。見られてるとやりにくいけど、動かないと始まらない。
「卵は硬めがいい? それとも半熟派? さすがにまだ生じゃないほうがいいとは思うから」
「じゃあ、半熟かなぁ」
「分かった。実は俺も半熟派なんだよね」
たったそれだけの共通点。でも、好きな人と自分に何かしら同じ部分があると嬉しくなる。
「あのさ、もしよければ今日は雨宮くんも一緒に食べない?」
「いいの?」
「うん。今日は自分で食べられそうだから」
「それなら俺の分も作るね。実はお腹空いてたんだぁ」
うどんを二人分作り、今日はリビングで一緒に食べることにした。ソファに並んで座っていると、何だか本当に一緒に住んでいるような錯覚に陥る。
天沢くんが一口頬張るのを緊張しながら見守っていると「ん、美味しい……」という声が聞こえて、心の中でガッツポーズをした。
「雨宮くんって本当に料理上手だね」
「簡単なものだけね。母さんがいない時は自分で作ることもあるし、寝込んだりしたら尚更」
「すご。俺も料理できるようにならなくちゃなぁ……」
「スポーツマンだから、毎日冷凍食品だとバランス悪いかもね」
「……やっぱり見た? ゴミ箱」
「ごめん、見えちゃった」
「恥ずかしいなぁ……でも、頑張って料理覚えるよ」
「一緒に作ってみる? 今度食材持ってまたここに来てもいいし」
「いいの? 雨宮くんが教えてくれるなら嬉しい」
我ながら、大胆な提案をしたものだ。
また家に来たいと言っているのも同然で、心臓は爆発寸前。天沢くんは純粋に「ありがとう」と笑ってくれているのに、少しの期待と邪な感情を持ってると言ったら確実に引かれるだろうな。
「あ、でも……来てくれるのは嬉しいけど、雨宮くんが帰った後は寂しくなるね」
――天沢くんは、天然王子様発言製造機か何かなの?
家に来てくれるのは嬉しいけど帰ったら寂しい、なんて言われたらものすごく胸が締め付けられてしまって、苦しくなる。
「じゃ、じゃあ、天沢くんが俺の家に来る? って、そしたら今度は俺のほうが寂しくなっちゃうかも……? でもでも、天沢くんの家に来るよりマシなのかな?」
「ふ、ははっ、ごめん! こう言ったら雨宮くんが困るだろうなぁと思って言った」
「え!? な、なんでそんなこと……!」
「困ってる雨宮くんが可愛くて……ちょっと意地悪言いたくなったんだよね」
「なにそれ……全然嬉しくない……」
「ふふ、ごめん」
うどんをぺろりと平らげた天沢くんは優しく笑って、昨日もしてくれたように優しく頭を撫でてくれる。そんな天沢くんにきゅんと胸が高鳴るのと同時に、もしも今日一宮さんの提案を受け入れていたら、こうやって撫でられてたのはあの子だったかもしれないなと思うとモヤモヤした。
「……そういえば、同じクラスの女子から連絡があったんだよね」
「え、あ、そうなんだ……」
「お見舞いに行きたいんだけど、って。心配してくれる人がいるのは有難いなって思ったよ」
「明日とか、休みだし来てくれるんじゃない?」
なんて、思ってもないことを言う自分は嫌いだ。何でこんなことしか言えないんだろう。もっと素直に、どういう子なのかとか、どう思ってるのかとか聞けたらいいのに。
「それはないと思う。間に合ってるって言ったから」
「間に合ってる、って……」
「雨宮くんが来てくれるから、もう十分」
……ダメだ、俺。
天沢くんのことが、どうしようもなく、好きだ。
「天沢くん、あのね。言いたいことが……」
もう、自分の気持ちが溢れ出てしまう。天沢くんとの関係が崩れるかもしれない二文字の言葉を口にしようとした時、天沢くんから「待って」と止められた。
「……雨が止んだら、俺に言わせて」
一年のうちに一瞬しかない、毎日雨が降り続く季節。
梅雨明けのニュースを聞くのは、もう少し先の話になりそうだ。