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5.梅雨空に滲む



 梅雨入りが発表されてから、空はずっと重い雲に覆われている。


 毎朝カーテンを開けるたびに、どんよりとした灰色の空が俺を迎えてくれる。普通なら憂鬱になりそうなこの天気も、今の俺にとっては嬉しい贈り物だった。なんせ、最近は毎日バスを使っているから。すなわち、天沢くんと会える機会が増えたということ。


 天沢くんと二人で初めて出かけてから二週間。俺たちはすっかり雨の日のバス仲間として定着していた。毎朝同じ時間のバスで挨拶を交わして、バス停で雨宿りをしている時雨さんに声をかけたあと、傘を差して学校までの道のりを談笑しながら歩く。そんな日常が当たり前になっていて、もはや雨じゃない日や今まで会話らしい会話をしていなかった期間が思い出せないくらいだ。


「おはよう、雨宮くん」


 今日は天沢くんの朝練がない日。でもいつも通り早い時間にバスで待ち合わせて、今日は天沢くんが美術室へ来る予定。美術館に行った時に俺の絵を見てみたい、と言ってくれてから遂にその日がやってきた。


「おはよう。今年の梅雨、毎日雨が激しくない?」

「確かに。このまま降り続いたら洪水になりそう」

「ふふっ、洪水は言い過ぎだよ」


 バスの後ろの席に二人で腰掛け、他の乗客の迷惑にならないように小さく笑い合う。笑うたびに天沢くんの髪の毛がさらりと揺れて、本当に王子様のようだった。


「そういえば、美術館に行ってからあの画家のことを調べたって話したっけ?」

「え、聞いてない! 調べたんだ?」

「うん、気になったから。人物画の男性の説、雨宮くんが言うように色々あるんだね」

「自分のことを多くは語らない画家だったらしいから……そういうのもミステリアスでかっこいいなぁとは思うけど」

「俺も色んな諸説を自分なりに調べたんだけど……恋人同士ならこんなに素敵なことはないなって思った」


 天沢くんは先日美術館でその画家の絵を見た時に『自分の時間と労力を使ってでも大切な人の“今”を残したいと思ったんだろう』と咄嗟に言えるほど、素敵な考え方ができる人なんだなと思える。美術には詳しくないからと苦笑していたけれど、元々の感受性が高いのだろう。しかも同性同士の恋愛を否定せず、誰かが誰かを愛することを『素敵』だと言える男子高校生なんて、僕の周りでは天沢くんくらいしかいない。


「あの画家も絵に描かれてる人も、きっと死ぬまで幸せだっただろうね」

「そうだと思う。晩年まで描いてたって載ってたから……そんな人と出会えるのって奇跡だよ」

「……天沢くんにはそういう人はいないの?」


 恋人がいる、と言われたらそれはそれでショックだけど。でも勇気を出して聞いてみることにした。


 そしたら天沢くんはチラリと僕を見た後にバスの天井に視線をやって「今はまだ、そこまでの……」と呟く。今はまだ、っていうことはいずれそうなりたいっていう人がいるのだろう。


「好きな人がいるってこと?」

「えっ、あ、うん……そういうこと、だね」

「天沢くんなら絶対付き合えると思う!」

「……本当に?」

「うん! 天沢くんのことが嫌いな人ってこの世にいないと思うし」

「雨宮くんは、どう?」

「え?」

「雨宮くんは俺のこと――」


 天沢くんが何か言いかけた時、ガタンッとバスが停車した。気がつけばあっという間に学校の前のバス停に着いていて、俺たちは慌ててバスを降りる。バス停にはいつものように時雨さんがベンチの上で丸まっていて、俺たちに気がつくと「にゃあ」と小さく鳴いた。


「時雨さん、おはよう。少し毛が濡れてるね」

「どこかに行った帰りかな。そうだ、コンビニに寄ってきたからおやつ買ってきたんだった」


 天沢くんが鞄から取り出したのは猫用の液体おやつ。うちの撫子さんも大好きなメーカーのおやつで、これを食べるとあらゆる猫は骨抜きになってしまうらしい。


「こういう時じゃないと時雨さんとゆっくり会えないし……いてくれてよかった」

「めちゃくちゃ興味津々だね」

「うわっ、食いつきすご……っ! 猫ってみんなこんなもの?」

「ふふ、うちの撫子さんもこんな感じ」


 普段は無気力系猫の時雨さんがおやつに釣られて勢いよく食べているからか、天沢くんは驚いて腰が引けてた。時雨さんにタジタジな天沢くんが可愛く見えて、思わずスマホで何枚か撮影してしまう。シャッターを切っていることに気がついたのか天沢くんがこっちを見て「撮られたら恥ずかしいんだけど」と言いながら顔を赤くしていた。


「じゃあまたね、時雨さん」

「今度またおやつ持ってくるから」


 美味しいおやつに満足したのか時雨さんはまたベンチに丸くなって、雨音を子守唄にしながら眠りについた。俺たちはこれからその子守唄に負けないように一日中授業を受けないといけないから、傘を差して学校へと歩みを進める。


 去年までは憂鬱になっていた雨の日だけれど、今年は天沢くんの隣を歩けていることに感謝した。


「あのっ、天沢先輩!」


 靴箱に着いて美術室に向かおうとしていたら、一年生の教室がある棟から現れた男子生徒に呼び止められた。彼は両手をぎゅっと握りしめて小さく震えていて、首から上の肌を真っ赤に染めている。そんな男子生徒の姿に『あ、告白だ……』と瞬時に理解した。


「天沢くん、先に美術室行ってるね」

「ごめん。すぐ行くから」

「ゆっくりでいいよ。じゃあ……」


 朝練が始まる前の時間帯を狙っていたのだろう。今日は朝練自体が休みの日だったけど、もしかしたら何日間か様子を見てやっと今日声をかけられたのかもしれない。


 顔を真っ赤にして震えながら、それでも好きな人に告白をしようと声をかけたあの男子生徒の勇気を純粋に讃えたい。もしも僕だったら――


「告白する勇気なんて、出ないだろうなぁ……」


 せっかく知り合えて、少し仲良くなれた今の関係を壊すようなことはできない。臆病だと言われたらそれまでなのだけれど、変化か継続かを選べと言われたら今の僕は間違いなく後者だろう。


「雨宮くん、待たせてごめん!」

「ううん、そんな……」


 ここの美術室からは一年生の棟が見える。ふと窓の外を見ると先ほどの男子生徒が廊下で涙を拭っている姿が見えて、まるで自分のことのように胸が痛んだ。


 嬉し涙の可能性もあるけれど、あの顔はきっと違う。告白を断られてあんなふうに泣けるくらい彼は天沢くんのことが好きで、付き合うことを本気で夢見ていたのだ。僕だったらしばらく、いや、一生立ち直れない傷になるかもしれない。


「……雨宮くん? どうしたの?」

「あっ、えっと……!」

「ああ、さっきの子……ここから見えるんだ」

「ごめん、詮索みたいなこと……」

「ううん。多分、俺も同じように気になるから」

「どういうこと?」

「雨宮くんが告白されたら、それが男でも女でもめちゃくちゃ気になると思う」


 天沢くんも同じように窓の外を見て、廊下で泣いている男子生徒を一瞥する。そして絵の前に座っている僕を見下ろしながら「もしも雨宮くんが告白されたら……」なんて真面目な顔をして言うものだから、僕は慌てて首を振った。


「いや、いやいや! 僕が告白されるとか絶対にないから!」

「なんで?」

「あ、天沢くんみたいにかっこいいわけじゃないし、運動神経もよくないし……告白される要素が一個もないもん」

「……雨宮くんって本当に、自分のこと知らないんだ?」

「し、知ってるよ! 自分のことを知ってるからこそ、告白なんてされないって分かる。今まで一回もされたことないし……」

「“美術室の隠れ美少年”」

「へ?」

「って、雨宮くんのファンクラブ名だよ」

「ふぁ……?」

「ファンクラブ」

「ふぁんくらぶ……」


 身近な『ファンクラブ』と言えば、校内の女子生徒が作っている天沢くんのものとか、校内外にも人気が高い澪先輩のファンクラブがあることは知っている。


 天沢くんや澪先輩をアイドルのように好きな人たちが集まってきゃあきゃあ言っている姿を見たことがあるし、前にバレー部の試合を見に行った時もそういう人たちが応援に来ていた。


 ファンクラブというのは天沢くんのように王子様みたいにかっこいい人だったり、澪先輩みたいに綺麗な人を遠くから応援するために作られるものじゃないのか?それなのに、僕みたいな何の取り柄もない地味な男にファンクラブなんてあるはずがない。


「天沢くんでも冗談言うんだね。びっくりした」

「冗談じゃないって。会長が誰だか知ってる?」

「架空の会長を言われても……」

「新海くんだよ。君には黙ってるみたいだけど」


 ファンクラブの存在自体信じられないのに、その会長が七緒だと言われて混乱するどころの話ではない。どうして七緒が僕のファンクラブの会長なんかしてるんだ?本当にそのファンクラブって存在するの?


 僕の頭の中はずっと混乱していて、何一つ理解できない。そんな僕を見て「ごめん、余計なこと言った」と天沢くんは苦い顔をして謝罪した。


「本当にごめん。困らせるつもりはなくて……忘れて」

「あ、うん……」

「雨宮くんの絵、見せてくれる? 今日楽しみにしてたんだよ」

「そ、そうだね、僕の絵を……」


 天沢くんは『忘れて』と言ったけれど、忘れられるわけがない。


 でもこれ以上追求するのも違うかなと思って、今だけは忘れることにした。


「これが、新学期に入ってからずっと描いてる絵なんだけど……何回か描き直したり色々してて、まだ完成じゃないんだよね」

「うわ、すごいな……」


 新学期になって、天沢くんと初めて話したあの雨の日から描き始めた絵。何となく色味とか構図に納得できなくて何回も描き直しているから、完成まではまだ遠い。梅雨が明ける頃には描き上げたいなと思ってはいるんだけど。


「雨粒の隙間の光?が、本当に発光してるみたいに見える。道に灯りが反射してる感じもリアルだね」

「ここ、すごくこだわって色味を調整してるところなんだよね。煌めいてる感じを出したいって言うか……まだなかなか上手くいかない部分」

「これで上手くいってないの? すごいなぁ……そこまでこだわるから名画って生まれるんだろうな」

「名画って、そんな大層なものじゃないよ」


 そう言いつつも、心の中では小躍りしていた。実は澪先輩からもこの絵は褒めてもらったことがあるけど、天沢くんから褒められるとまた特別な気がした。


「この傘を差してる人、動き出しそう」

「……あはっ!」

「なに? なんで笑ったの? あ、もしかして俺の感想が子供っぽかったとか!?」

「違う違う、ごめん。澪先輩と同じこと言うから、本当に親戚なんだなぁと思って」

「そうなの? ……澪ちゃんが俺より先に見たんだ、雨宮くんの絵……」

「ん?」

「いや、なんでもない。とにかく、俺はこの絵好きだなぁ……」


 はぁ、と天沢くんが感嘆のため息を漏らす。まだちらほらとしか登校してきていない静かな校舎にはコンクリートに打ち付ける雨音だけが美術室にまで響いてきて、まるでここだけ世界が切り取られているようだった。


「この絵の中の人は寂しくないかな?」

「え?」

「一人なのかなと思って……」

「ああ……この人は今、ずっと隣にいられる人を探してる最中なんだと思う。そういう人が見つかったら二人になるかも」

「へぇ、ストーリー性があっていいね。この前行った美術館の、雨をテーマにした展示会にいつか飾ってほしいなぁ」

「あはは、またそういう展示会があったら応募してみようかな」


 本当にいつか、そういう日がきたらいいのになと思う。その時の俺と天沢くんはどうなっているか分からないけれど、きっと高校二年生のこの時期のことは忘れないだろうから。天沢くんとの思い出になったあの美術館にいつか俺の絵が飾られる日が来たらすごく奇跡的で、飛び上がりたいほど嬉しいことになるのは予想できた。


「この絵の人がもしも、ずっと隣にいられる人を見つけたとして……その人に気持ちを伝えるのって、すごく勇気がいると思わない?」


 天沢くんの言葉に、心臓がドキリと跳ねる。まるで先ほど考えていた俺の心の内を見透かされているようで、思わずごくりと唾を飲み込んだ。


「そ、そうだね……でも、伝えなかったら何も始まらないから……そういう人が現れたら想いを伝えて、隣にいるんじゃないかな」

「伝えなかったら何も始まらない、か……そうだね」


 天沢くんが振り返って僕を見つめる。その瞳には、いつもの優しさとは違う、何か真剣な光が宿っていた。


「俺もいつか、伝えられるように頑張るよ」

「それって、バスで話してた好きな人のこと?」

「……うん。だから待っててほしい」

「待っててほしいって……?」

「また今度、ね」


 天沢くんが苦笑いを浮かべながら視線を逸らす。その横顔が少し赤くなっているのが見えて、心臓が大きく跳ねた。


「あ、そういえば」


 何か気まずい空気を紛らわせるように、天沢くんが話題を変える。


「この絵、いつ頃完成予定?」

「え? あ、えっと……梅雨が明ける頃には描き上げたいなって思ってるんだけど」

「じゃあもう少しで完成だね。楽しみだな」

「でも、もし完成したら……」

「したら?」

「もう美術室に来てもらう理由がなくなっちゃうかも」


 そう言った途端、天沢くんがくるりと振り返る。


「これが最後にはならないよ、絶対」

「え?」

「この絵が完成しても次があるだろうし。それに、俺たちが会うことに理由なんていらないよ」


 美術室に雨音だけが響く。天沢くんの言葉が胸の奥で静かに響いて、なんだかとても温かい気持ちになった。


「天沢くん……」

「俺、雨宮くんともっと色んな話がしたいんだ。絵のこととか、好きな本のこととか……何でもいいから。友達になったと思ってたの、もしかして俺だけ?」

「そ、そんなことない! 俺も友達として天沢くんのこともっと知りたい、よ……」


 天沢くんの真剣な表情を見ていると、僕も何か大切なことを伝えたくなる。でも言葉が喉の奥で詰まってしまって、結局何も言えない。


「あ、もう予鈴だ……」


 朝練の時間に来たのに、あっという間に予鈴が鳴り響く時間になっていた。


「時間が過ぎるのって早いね。さっき来たばっかりなのに」

「本当に。じゃあ、今日はこれで……」

「うん。今度は絵が完成したら見せてほしいな」

「分かった。その時は教えるよ」

「ありがとう」


 美術室を出る時「あ、待って」と天沢くんに呼び止められる。振り向いた途端手を取られて、あまりに突然のことに手を引っ込めるところだった。


「雨宮くんの絵が見れたし、色んな話もできて楽しかった。またね」


 天沢くんが俺の手に乗せたのは個包装の小さなチョコレート。偶然だと思うけれど俺が好きなメーカーのチョコレートで、そんな小さなことに単純な俺はきゅんっとしてしまった。


「夢、見てたみたい……」


 天沢くんと出会ってからずっと、毎日が夢みたいだ。まるで映画や漫画みたいな展開で、その主人公が自分だなんて信じられない。恋をすると景色がキラキラして見えると言うけれど、それは比喩でも何でもなく本当だった。


「璃斗、今日も朝から美術室?」

「そうだよ。おはよう、七緒」

「はよ。朝練してきた俺より教室来るの遅いじゃん」

「時間に気づかなくて、予鈴が鳴ってから慌てて来た」

「あはは。璃斗って集中したら周りの音聞こえなくなるもんな」


 今日は集中していたわけではなくて、天沢くんと話していたから時間を忘れてしまっただけなんだけど……なんて、天沢くんのことをよく思っていない七緒に言えるわけもなく、言葉を飲み込んだ。そして七緒の顔を見ると『ファンクラブ』のことを思い出してしまって、急に七緒の顔が見られなくなった。


 美術室の隠れ美少年ってなに?と前も聞いたことがあったけれど、七緒からはぐらかされたのを思い出す。天沢くんが言っていたように七緒が会長だから隠したかったのだろうか。


「そういえば璃斗、今日もバス?」

「うん。梅雨入りしちゃったから、しばらくバスかな」

「へー。……今でも天沢と一緒に来てる、とか?」

「まぁ、同じバス使ってるから……」

「あのさ、前も言ったけど……あんまり仲良くしすぎるなって。変な噂もあるんだからさ」

「だから、噂に惑わされたらダメだって俺も言ったよね? 俺は自分の目で判断して、天沢くんと仲良くしたいなって思ったんだよ」


 七緒の表情はあまり晴れない。元々天沢くんのことをよく思っていないのは知っていたけれど、こんなにも天沢くんを敵視する理由がまだちゃんと分かってない。でも、今の俺にはその時間がとても大切で、手放したくなかった。


「噂といえば……“美術室の隠れ美少年”って、俺のファンクラブだって聞いたんだよね」

「え……」

「そのファンクラブの会長が七緒だって……何かの間違いでしょ?」

「そ、それは……」

「ほら、噂なんて大体が事実と異なるんだから。天沢くんに関してもそうだって」


 笑いかけてみたけれど、七緒は難しい顔をして青ざめていた。その反応が何を意味するのか分からなかったから聞こうと思ったのに、教室に先生が入ってきて俺の言葉は飲み込まれた。


 そしてその日の昼休み、事件は起こった。


「ねーっ、やばいやばい! 七緒と天沢くんが取っ組み合いの喧嘩してんだけど!」


 大声で叫びながら教室に駆け込んできたクラスメイトの言葉に耳を疑った。


 七緒と天沢くんが取っ組み合いの喧嘩?どういうこと?


 教室に駆け込んできたクラスメイトは「一方的に七緒がキレてるっぽい」と言っていたので、机に広げていたお弁当に蓋をして俺は教室を出た。どうやら騒ぎはこの階ではなく、天沢くんの教室がある一階下なのだろう。


 足がもつれそうになりながら階段を駆け降りた。


「くだねーこと吹き込んだのテメェだろ、天沢!」

「吹き込んだわけじゃない、ただ事実を言っただけだ」

「ふざけんなクソがぁ!」


 下の階に降りてすぐに聞こえてきた七緒の怒声。声を荒げて怒っている七緒とは反対に、冷静に反論している天沢くんの声はコンクリートに打ち付ける雨音の中でもはっきりと聞こえていた。


「ここで騒ぎを起こしたほうが心象が悪くなるんじゃないか? 新海くん」

「そうだとしてもお前を殴らないと気が済まねぇんだよこっちは!」

「それで気が済むなら殴ったらいい。俺は受け入れるから」

「澄ました顔してんじゃねーぞ! 前の学校でも暴力沙汰で退学になったんだろ? 俺がムカつくなら殴ってこいよ、あいつに言うんじゃなくて!」


 クラスメイトが言っていたように、七緒が天沢くんの胸ぐらを掴んで怒鳴っていた。掴まれている天沢くんは無抵抗で、七緒からされるがままになっている。周りの生徒たちは怒り狂った七緒が怖いのか一歩引いて見ているだけで止めようとはしていなかった。


「ちょ、ちょっと! やめろって七緒!」


 このままでは取り返しのつかないことになる――


 そう思って七緒の腕に飛びつくと、怒りに歪んでいた七緒の目が見開かれビクッと体が震えた。


「り、璃斗……!」

「なに馬鹿なことやってんの!? 二人とも部活あるんだから怪我したらどうするんだよ!」


 ちらりと天沢くんの顔を見てギョッとした。なんせ、白い頬が真っ赤に染まっていたからだ。おまけに七緒の右手も殴った衝撃なのか赤くなっていて、止めに入ったのが遅かったと悟った。


「お願いだから一旦冷静になって、七緒。何に怒ってるのか分からないけど、話なら聞くから……もう行こう。ね?」

「………分かったよ」

「天沢くん、あの……本当にごめんね。怪我したところ、早く保健室に行って冷やしてもらって……」

「……ありがとう、雨宮くん。そうさせてもらうよ」


 七緒が落ち着くと天沢くんの周りには同じバレー部の生徒や女の子たちが寄って来て「私、保健委員だから」と言った女の子と二人で、天沢くんは保健室に向かった。


「それで、どうしてあんな騒ぎ起こしたの?」


 昼休みに人があまり来ない場所といえば、部室である美術室。天沢くんを殴った衝撃で赤くなっている七緒の手に水で濡らしたハンカチを当てながら尋問すると、七緒は小さく舌打ちした。


「“美術室の隠れ美少年”のこと……璃斗に言ったのは天沢だろうなと思ったから」

「だとしても、天沢くんを殴ったり胸ぐら掴む理由になる?」

「俺がっ、そのファンクラブの会長だって、余計なことまで言うからだろ……ッ」


 いくら鈍い俺でも、七緒の言葉の意味が分からないほどではない。左手で真っ赤な顔を覆って、泣きそうに眉をひそめる七緒を見ると何て言葉をかけたらいいのか分からなかった。


 七緒の真剣さが伝わってくるから尚更、変なことを言って彼を傷つけたくなかったんだ。


「本当に僕のファンクラブって存在するんだ……」

「は、はぁ!? お前、ほんっとに自分のこと分かってなさすぎだろ! 一体何人がファンクラブに入ってると思って……!」

「人数は分からないけど……そのファンクラブの会長が七緒なんでしょ? それって、うん……俺ってすごく、七緒に好かれてるってことだよね?」


 人に好かれるのは純粋に嬉しい。嫌われるよりもいいことだと思うし、自分を好きな人が側にいてくれると温かさを感じて安心するから。でも、今の七緒の手は温かいと言うより熱かった。


「……好きだよ」

「うん」

「好きなんだよ、俺……璃斗のこと、ずっとずっと好きだった」


 今度は手で隠さないで、泣きそうに顔を歪めたまま七緒が震える声で『好き』と紡いだ。ハンカチ越しに触れている七緒の手は震えていて、それだけ真剣なんだなと伝わる。


 誰かに面と向かって『好き』と告白されたのは初めてかもしれない。


 俺たち友達だったのにとか、そう思ってるなんて知らなかったなんて言葉は浮かんでこない。なんとなく、七緒が俺のことを大事に思ってくれているのを心のどこかで分かっていたのだと思う。


 こんなことを言うと何様だって感じだけど、俺のほうが七緒と『友達』でいたいから気づかないフリをしていたのかも。思い返せば、七緒はずっと態度で示していてくれた気がする。


「ありがとう、七緒」

「……ん」

「でも、ごめんなさい。他に……他に、好きな人がいる、から……」

「分かってる。ただ、ちゃんと伝えておきたかっただけ」

「……俺たち、これからも友達でいられる? それはすごく、残酷なことだって頭では分かってるけど……でも、七緒とまた他人に戻る自信はない……」


 ずるい言い方なのは分かってる。でも今更、七緒と友達じゃなかった頃になんて戻れない。恋人にはなれないけど友達としてずっと側にいたいなんて我儘だし、最低だ。それならいっそのこと七緒から嫌われて突き放されたら、諦めもつくかもしれないけれど。


「璃斗が、変に気遣わないでくれるなら」

「え?」

「振ったからって優しくしようとか、そういう気遣いしないでくれるなら……今まで通り、馬鹿なこと話して笑い合える友達でいたい」


 今度は僕のほうが泣きそうになった。


 残酷な言葉を言わせたのに「泣きたいのはこっちだってーの」と苦笑しながら頭を撫でてくれる七緒の優しさを感じて、堪えきれなかった涙が零れ落ちた。


「これからは、お前の一番の親友にしてよ」

「……これからも、だよ。俺の親友は七緒しかいないから」


 そう伝えると七緒はとびっきりの笑顔を見せてくれた。


「ていうか、俺のせいでごめんね……」

「ん?」

「俺が今朝、天沢くんのこと言われてカチンと来たからファンクラブのこと言っちゃって……七緒の気持ちもちゃんと考えて発言するべきだった」

「いいよ、そんな……俺のほうこそごめん。璃斗は何回も天沢のこと庇ってたからムキになってた。最近あいつのことばっかりで面白くなくて……ガキすぎたよ、俺のほうが」

「天沢くんにもちゃんと謝ろうね? 殴ったんでしょ?」

「う……分かってるよ……」

「はぁ、全く……大事にならなきゃいいけど」

「ごめんって……」


 結局この騒動は面倒臭い教頭先生の耳にまで届いてしまい、二人とも数日間の部活動停止処分になった。七緒は教頭先生に自分だけが悪いのだと説明したらしいけど、七緒にそういう行動をさせた天沢くんにも落ち度があるという理由で処分を避けられなかったらしい。七緒は部活動停止に加えて特別補講を受けることになって、放課後も勉強漬けだそうだ。


 放課後、体育館ではなくバス停に向かう天沢くんを見かけた俺は、部活を休むと言って天沢くんを追いかけた。


「天沢くん!」


 俺の声に振り向いた天沢くんの頬は、大きなガーゼが貼られていた。七緒の手が赤くなっていたくらいだから相当な傷だったのかもしれない。


「あの、怪我は大丈夫……?」

「うん。ちょっと口の中は切ったけど、そこまで酷くないよ。ガーゼも大袈裟なんだけどね」

「そ、っか……それなら安心した」


 傘のせいか雨のせいか、なんだかいつもより天沢くんとの距離が遠い。今朝まで天沢くんの隣を歩いていると夢のように幸せだったのに、今は冷たい空気が肌に触れて凍りつきそうだ。


 天沢くんが怒っている姿を見たことないけれど、これは確実に怒っている。ピリッとした空気感に俺の心臓は早鐘のように脈打った。


「な、七緒がごめんね……」

「どうして雨宮くんが謝るの?」

「元はと言えば俺のせいだから……ファンクラブの会長のことをぽろっと言っちゃったから」

「そうだとしても、雨宮くんが俺を殴ったわけじゃないし謝らなくてもいいんじゃない?」


 いつもの優しい天沢くんじゃない。まるで人が変わってしまったような彼の雰囲気に圧倒されてしまって、バスが来るまでの間、俺たちの間には重い空気が漂っていた。


 そしてバスに乗ってからも一言も話さなかった。バスの中が人でいっぱいで、俺は前に押し出され、天沢くんは中央のほうに取り残されたのも原因だ。


 何をどうしたらいいのか分からないまま最寄りのバス停に着いてしまって、夜にでもメッセージを送ってみようかと思いながらバスを降りた。


「すみません、降ります」

「え?」


 人の波を掻き分けて降りて来たのは天沢くんだった。もしかして俺のほうが乗り過ごしたかと思ったけれど、バス停の名前はちゃんとうちの最寄り。つまり、天沢くんがわざわざここで降りたのだ。


「ど、どうしたの?」

「……璃斗」

「っ!?」


 バス停には俺たち以外に誰もいない。朝から激しい雨が降っているからか、この時間帯になっても傘を差して歩いている人は周りには見えなかった。だから、俺の名前を呼んだのは目の前にいる天沢くんで、初めて呼ばれた自分の名前に心臓が大きく跳ねた。


「俺も、そう呼べる仲になったら、新海くんより優先してくれる?」

「へ……?」

「あの時、雨宮くんが新海くんを優先して悔しかった」

「ちょ、天沢く……!?」


 じりじりと近寄ってくる天沢くんが、ぎゅっと俺の手を握りしめる。俺はバランスを崩してバス停のベンチに尻餅をついて、その上に天沢くんが覆い被さってきた。


「俺だって、俺のほうがずっと……!」


 天沢くんが何か言いかけた時、後ろから来たバスが停車した。俺は慌てて天沢くんから離れてベンチにきちんと座って、天沢くんもどかっと音を鳴らしながらベンチに座り直す。幸い、激しい雨のおかげで誰にも見られずに済んだようだけど、バスに乗らずにベンチに座ったままの俺たちを運転手が怪訝な顔をして見ていた。


「ごめん、忘れて」

「天沢くん……!」


 ちゃんと話をしたほうがいい。そう思っていたのに、俺が止める間もなく天沢くんは今し方やって来たバスに乗って去っていった。


 そして、あの時引き止めておけばよかったと後悔したのは翌日。雨は続いていたけれど、天沢くんと会えなくなった。




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