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4.雨が降ったら



 日曜日の朝、窓を叩く雨音で目が覚めた。


 今日は天沢くんと美術館に行く日。昨日の夜から天気予報を何度もチェックしていたけれど、やっぱり雨が降ってくれた。カーテンの隙間から見える空はどんよりとした雲に覆われていて、その雲から落ちてくる雨粒が窓ガラスを優しく叩いている。


 普通、誰かと出かけるときに雨模様だと気持ちもどんよりしがちだけれど、今日だけは雨のほうがいいなと思っていたのだ。なんせ、特別な日だから。雨の日にまた会おうと約束している俺たちにとって、二人で出かける日に雨が降るのはなんだか特別感があった。


「よし、準備しないと」


 生憎の雨模様の割に憂鬱な気持ちなんて微塵もない。むしろ、俺の心の中はピカピカの太陽が顔を出して光っているくらいだ。


 この前は天沢くんのバレーの試合を見に行き、雨の日じゃなくても会えた初めての日だった。でもあの日は学校だったので制服だったし服装を考えなくてもよかったのだけれど、今日ばかりはそうもいかない。今までおしゃれというものを意識してこなかったことを後悔するくらいには着ていく服がなく、クローゼットと睨めっこをしていた。


「全く分かんないけど、あんまり暗い色の服はやめておこうかな……」


 スマホで『今時 高校生 服 コーディネート』なんてキーワードで検索して出てきた写真と、クローゼットの中にある似ている服を組み合わせながらうんうん唸る。黒い服はスタイリッシュだしおしゃれに見えるけれど、雨が降っているから周りが暗いということもあって淡い色の服を選ぶことにした。


 少し肌寒いのでオーバーサイズのチェックのニットベストに同系色のパーカー、下は細身の黒デニムで締めることにした。


 時計を見ると午前9時。待ち合わせは11時だから、まだ時間に余裕がある。変な失敗をしないように念入りに荷物を確認していると、机に置いていたスマホがメッセージの通知を知らせた。


【おはよう。雨が降ってるから気をつけて】


 そんなメッセージを見て頬が緩む。実は出かける約束をした後、天沢くんと連絡先を交換したのだ。メッセージの送信主に『天沢悠』という名前がしっかり表示されていて、とくんとくんと心臓が脈打つ。


 雨の日以外でも学校で見かけることはあるし、この前なんか試合だって見にいったのに。最近ではちゃんと目を見て少しは話せるようになってきた。だけど、離れていても天沢くんと話しているような錯覚に陥るメッセージ機能というのは、世紀の大発見ではないかと初めて感じた。


 そんなことを思いながら返信を考えていると、スマホの画面が電話に切り替わる。驚きのあまりスマホを落としそうになったけれど、床に落下する寸前でキャッチした反動で通話ボタンをタップしてしまった。


『――あ、もしもし? 雨宮くん?』

「お、お、おはよう! どうしたの!?」

『や、なんとなく声が聞きたくなったから……って、忙しかった? てか、メッセージ送ったくせにすぐ電話するとか迷惑だったよね』

「そんなことないよ! 少し、びっくりしたけど……」


 好きな人に会う前、クラスの女子が鏡を見ながら前髪を何度も直している姿を見ると可愛いなと思う気持ちと、何度直してもあんまり変わってなさそうに見えるけどなっていう気持ちだった。でも今の俺はクラスの女子たちのように、窓ガラス越しに見える自分の前髪を指先で整えている。天沢くんから見えるわけではないのに、バカみたいだ。


『今日、雨だね』

「あ、うん……雨だね」

『なんとなくだけど、今日は雨が降るって思ったんだよね、俺』

「どうして?」

『雨宮くんと出かけるから、かな』


 天沢くんの言う、俺と出かけるから雨、という言葉が良い意味なのか悪い意味なのかは分からない。でも、二人で出かけるから雨になった、と同じことを考えていたのが嬉しかった。


「……俺は、天沢くんと出かけるから雨になって、やっぱり特別なのかなって思ってたところ」


 心臓が爆発しそうなくらいドキドキしながら勇気を振り絞ってそう言うと、電話の向こうにいる天沢くんが『俺も同じ』とぽつりと呟いた。雨音に混ざって小さく呟かれた声だけれど、多分聞き間違いではない。


『じゃあ、また後でね。楽しみにしてる』

「う、うん! また後で」


 電話を切ってもまだ耳に天沢くんの声が残っている気がする。まさか自分がそんなことを考えるなんてむず痒いけれど、この気持ちは大切にしなくちゃいけないものだって思ったんだ。



 ◆



 天沢くんとの待ち合わせは、美術館の前。家にいても落ち着かないからかなり早めに出てしまって、本屋で30分くらい時間を潰した。でも結局待ち合わせの場所に着いたのは約束の15分前で、まるで初デートの時に気合を入れて早く来てしまった人、みたいになっている。


 色とりどりの傘を差す人たちが雨の中を歩いて行く様子や、美術館の中に入って行く様子を入り口で眺めていると、青い傘を差した天沢くんが「ごめん、待った?」と言いながらやって来た。


「ううん、いま着いたところだから」

「……あははっ!」

「え? どうしたの?」

「いや、ごめん……! まさか俺が、初デート定番のセリフを言われるとは思ってなくて」

「へ!?」


 俺は自分のことを『初デートに気合が入りすぎて早く来た人』と揶揄ったけれど、天沢くんに言ったセリフは確かに漫画などでよく見る定番のセリフだった。10分以上待っているのに相手に気を遣わせないために『今来たところ』と誤魔化すような、それと同じ。


 天沢くんがくすくす笑うから何だか恥ずかしくなって顔を赤くすると「笑ってごめん。待たせたのも、ごめんね」と言いながら肩をぽんぽん叩く。


 うう、かっこいい。かっこよすぎてずるい。


 そういえば、制服じゃない天沢くんを初めて見た。淡い色でまとめた俺とは反対に、天沢くんはグレーの少し短い丈のジャケットに黒いタートルネックを合わせて、黒とグレーが混ざったようなワイドデニムを着ていた。ちょっと、あまりにもかっこよすぎて目が潰れるかと思った。


「かっこいいね、天沢くんって……」

「……からかってるわけじゃなくて?」

「か、からかってないよ、本心! 私服って初めて見たから、かっこいいなぁと思って」

「あ、ありがとう……雨宮くんも似合ってる。可愛い系だね、やっぱり」

「うそ、可愛い系かな?」

「うん。ダボッとしてる感じが、可愛いと思う。雨宮くんっぽいね」


 こんなの、天沢くんから言われたら女の子は勘違いするだろうな。男の俺でもドキッとしたし、もしかして脈アリってやつでは……!?なんて一瞬でも思ってしまったから、イケメンというのは発言に気をつけないといけない生き物である。


「俺、あんまりおしゃれとか詳しくないから不安だったんだけど、天沢くんがそう言ってくれてよかった」

「お互い今まで制服しか見てなかったから新鮮だよね。この前も雨宮くんは制服で、俺は練習着だったし」

「そうそう。だから今日はめちゃくちゃ緊張しちゃって、服選びはすごく時間がかかって……」

「俺と会うから“すごく時間をかけて”服を選んでくれたの?」


 天沢くんがそう言いながら顔を覗き込んできて、俺はまた墓穴を掘って顔が熱くなるのを感じた。ただ、ここで変に誤魔化してもまた墓穴を掘りかねないので素直に「うん……」と頷くと、天沢くんは嬉しそうに笑っていた。


「楽しみにしてたの俺だけじゃなくてよかった」


 なんて、またずるいことを言うものだから、俺は心臓がいくつあっても足りない思いだ。


「そろそろ行こうか。ていうか、結構人が多いね」

「雨をテーマにした特別展示会、今日から開催中です〜! 初日が運良く雨なので、今日だけ特別に観覧料は無料です! ぜひ寄ってくださいね」


 美術館に入る間際、スタッフのそんな声が聞こえてきた。俺たちは別の展示会が目的で美術館を訪れたけれど、雨をテーマにした特別展示会を開催してるなんて、偶然も良いところである。


「雨をテーマにした展示会だって。面白そう!」

「目的の展示会を見終わったら寄ってみる?」

「いいの?」

「もちろん。こんなに雨と絡んだものに出会うなんて運命っぽいし」

「嬉しい! 実はいま俺が描いてる絵も雨をテーマにしてるから参考になるかも」

「そうなの? じゃあ尚更要チェックだね」

「それより、まずは天沢くんが用意してくれたチケットの展示会がすごく楽しみ!」

「俺、美術館ってあんまり来たことないんだけど……変なことしたらごめん」

「ふふ。美術館に来て変なことするってあんまりないから大丈夫だよ」


 雨をテーマにした特別展示会の話を聞いてから、俺はもっとこれからの時間にわくわくした。だって、天沢くんと一緒にいられる時間が長くなったってことだから。天沢くんと出会ってからやっぱり雨の日はずっと特別で、俺を幸せにしてくれる日だなって感じた。


「全体的に風景画が多いけど、人物画は特定の男性が描かれてる……っぽい?」

「そうそう、色んな時代の同じ男性だって言われているんだよね。誰かをモデルにした絵はこの人じゃないと描かなかったとか」

「へぇ、そうなんだ。それって理由が? 自分の家族とか?」

「あ〜……恋人だったっていう話が濃厚らしいけど、兄弟だった可能性もあるんだって」

「でもこの画家って……」

「うん、男の人。描かれてるのも男の人だね」


 俺が好きな画家は油絵のタッチが好きで、力強い絵に見えたり時には繊細な絵に見えたりもする。晩年には自身が同性愛者だとカミングアウトしていたようだが恋人の正体や有無は誰も知らないまま、絵として描き続けた一人の男性がそうだったのではないか、と憶測だがそう言われているらしい。


 天沢くんが言った『自分の家族とか』という言葉はあながち間違いではないのだろうと、俺は思っている。もしも血が繋がった家族じゃないとしても、長い間にこんなにもたくさんの絵を描いて残すほどその人のことを大切に想っていたのだろうから。それは家族の繋がりとほぼ同じだったんじゃないかなって俺は思ったりするのである。


「きっと、すごく大切な人だったんだな……」

「そう思う?」

「うん。だって人物の絵はこの人しか描いてないなら、よっぽど大切な人だったんだろうなって思うよ。この時代って今みたいにスマホで簡単に写真を撮って残すわけにいかないし、自分の労力と時間を使ってでもこの人の“今”を残したかったんだろうなと思ったら見方が変わるよね」


 男性の絵を真っ直ぐ見つめながら感嘆している天沢くんの横顔を盗み見て、俺は感動してしまった。この画家に限らずセクシャリティの話はセンシティブだと思うのだけれど、彼は大切な人を性別ではなく一人の人間として見ているのかもしれない。


 自分が言われたわけでも天沢くんがそう言ったわけでもないのに『自分が好きになった人を好きでいればいい』と言われたようで、胸が温かくなるのを感じた。


「……的外れな感想を言いましたか、ね……?」

「えっ、どうして?」

「や、雨宮くんが何も反応してくれないから……何かまずいこと言ったかも、って」

「違う違う、逆だよ!」

「逆?」

「天沢くんの感性に感動してた! 素敵な考え方をするんだなって」

「本当に? よかった、嫌われたかと思った」

「き、嫌いになんて、ならないよ」

「その言葉、ずっと覚えててくれたら嬉しい」

「へ?」


 どういうこと?と首を捻って聞き返そうと思ったけど、天沢くんの耳が真っ赤になっているのに気がついて、つい口をつぐんでしまった。


「そ、そろそろ雨の展示会に行く? それともご飯が先がいい?」

「ええええっと……!」

「ご飯なら、館内のレストランはオムライスが美味しいって聞いたんだよね。雨も結構強くなってるし、移動するよりは館内のレストランでもいいのかなって思ったんだけど」

「調べてくれてありがとう! えっと、じゃあ、先に展示見てからご飯でもいい?」

「もちろん。じゃあ、特別展示は一階だったよね」


 危なかった。あのままの雰囲気だったら、俺は自分の気持ちまで言っちゃうところだった。俺たちは二人して何となく顔を赤くしたまま一階に移動し、雨をテーマにした特別展示会場に足を踏み入れた。


「おお……!」

「天井から傘がぶら下がってる!」

「綺麗だね」


 雨をテーマにしているということなので、会場の雰囲気もテーマに沿ったものだった。色とりどりの傘が天井からぶら下がっていて、会場の中には綺麗な雨音のBGMが流れている。雨の日だから無料だと言っていたからか観覧している人も多く、雨の日とは思えないほど賑わっていた。


「雨の日って出かけるのが億劫になるけど、こういうふうに特別感もあるよね」

「確かに。今日雨が降らなかったらこの展示会は見てなかったかもしれないし」

「やっぱり俺たちにとって“雨”って何かキーワードなのかも」


 俺が「そうかもしれないね」と呟くと天沢くんが嬉しそうに笑って、ある展示物の前で立ち止まった。


「なんかこの絵、雨宮くんみたい」

「え、俺?」


 天沢くんが立ち止まったのは、雨の日のバスの中から頬杖をついて外を眺めている男子学生を描いた絵だった。バスの外から見た光景なので窓は雨粒で濡れていて、その先に見える男子学生の顔はぼんやりとしているけれど、雨の日の景色を眺めていることは分かる。


 そんな絵を見ながら『雨宮くんみたい』と言われたけれど、意味がよく分からなくて首を捻った。


「どこら辺が?」

「雨宮くんって結構人間観察してるじゃん? 道ゆく人を眺めてることが多いなっていうか」

「それはそうかも……」

「それに、初めてバスで一緒になった時も窓際の席に座って外を眺めてた。だから、なんとなく似てるなぁって思ってさ」

「なるほど。そう言われてみればそうなのかも」


 趣味と言うほどではないけれど、人間観察は絵にも反映すると思っている。というか、題材に困った時にはよく人間観察をする癖がある、と言ったほうが正しいかもしれない。


「このバスの学生は何を考えてるか分からないけど、俺は自分じゃない人たちがどんなふうに生きてるのか見ると、絵に描きたいなぁって思う癖があるっていうか……インスピレーションが沸くんだよね」

「俺、本当に美術とか音楽とかに疎いから、そういう感覚になったことないなぁ。自分と違う意見を聞くって面白い」

「俺は逆に運動が苦手だから、バレーをしてる天沢くんを見ると楽しそうだなぁって思ったよ」

「ないものねだりってやつだね、お互いに」


 その絵の他にも、様々な画家が描いた雨の風景が展示されていた。印象派の画家が描いた霧雨の街並み、現代アーティストが表現した激しい雨、日本画家が繊細に描いた雨粒。どれも雨の持つ様々な表情を捉えていて、見ているだけで心が洗われるような気分になった。


「雨宮くんが同じテーマで描くと、こういう絵を描きそう」


 次に天沢くんが立ち止まったのは、雨の中をゆっくりと歩く人々を描いた油彩画の前だった。薄暗い街に降る雨が、街灯の光に照らされてキラキラと光っている。


「雨の中でも人々の生活は続いていく、その美しさを描いたもの……って、さっきの雨宮くんの話と同じじゃない?」

「うん。俺もこんなに綺麗な絵が描けたらいいなぁ……」

「……今度、美術室に行ってみてもいい?」

「天沢くんが?」

「ダメかな? 雨宮くんが絵を描いてるところを見たいなって」

「ダメじゃないけど……ちょっと恥ずかしいかも」

「でも、澪ちゃんは見たことあるんだよね?」

「そりゃ、澪先輩は同じ美術部だし……」

「ちぇ。澪ちゃんはよくて俺はダメなんだ」

「うっ」


 あの天沢くんが、みんなの王子である天沢悠が、口を尖らせて拗ねている――!


 あまりにも破壊力がありすぎる表情に、文字通り心臓を射抜かれた。そしてまんまと「い、いいよ……」と言ってしまったのだから、イケメンの拗ね顔は武器でしかない。


「じゃあ今度お邪魔するね」

「うん……来る前には事前に言ってほしいかも。心の準備がいるから」

「分かった、連絡入れるようにする」


 上機嫌にニコニコしている天沢くんを見て、こんな些細なことが嬉しいならもういいか、という気持ちになった。


「そろそろご飯食べに行く?」

「うん。意外と会場が広かったし、歩き続けてちょっと疲れたね」

「俺はまだ余裕かな」

「それは文化部と運動部の体力の違いです」

「ふはっ! うん、そうだね」


 笑いながら今度は館内のレストランを目指し、大行列の中やっと店内に通されたのは30分後の出来事だった。


「うわ、綺麗……!」


 美術館の中にあるカフェは、大きな窓から外の庭園が見渡せる素敵な空間だった。雨に濡れた緑が美しくて、まるで一枚の絵画を見ているようだ。


「あ。天沢くん、ハンバーグランチがあるよ」

「……一番最初にチェックしたから、大丈夫」

「ふふっ。俺はオムライスランチにしようかな」


 ちょうど窓際の席に案内されたので、外の雨音がより近くに聞こえてきた。カフェの中は暖かくて居心地がよく、天沢くんと向かい合って座っているこの時間が、なんだか夢のようだった。


「実は今日、めちゃくちゃ緊張してたんだよね」

「ええ? 天沢くんが?」

「雨宮くんの中で俺ってどんな印象……? だって、俺って結構、運動しか取り柄がないから……美術とか感受性が豊かじゃないと楽しめないかもとか、知識がなさすぎて雨宮くんを失望させそうとか、色々考えてさ……」

「そんなこと思ってたの? 美術でも何でも知識があったほうが楽しいとは思うけど、その時に何を感じるかっていうほうが大切だと思う。それを言うなら俺だってバレーの知識ないから、試合を見に行くの緊張したよ。それでも楽しかったし、天沢くんは来てくれて嬉しいって言ってくれたでしょ? 今日は俺のほうが、天沢くんが一緒に来てくれて嬉しかったよ」


 天沢くんは面食らったような顔をしていたけれど、すぐにふにゃりと目尻を下げて安心したように息を吐いた。


「そう言ってくれてよかった。澪ちゃんに相談しようかと思ったけど、絶対バカにされると思ったから相談できなくてさ……」

「お互いに、分からないことは教えあっていけばいいと思う。それをかっこ悪いとか、失望したとか思わないから安心して」

「うん。ありがとう、雨宮くん」


 運ばれてきたご飯を食べながら、俺たちはゆっくりとした時間を過ごした。窓の外では相変わらず雨が降り続いているけれど、その雨音が二人の時間をより特別なものにしてくれているような気がする。


「雨宮くん」

「なに?」

「実は……今日、雨が降ったら話そうと思ってたことがあるんだよね」


 天沢くんの表情が急に真剣になった。食後に頼んだコーヒーが入ったカップを両手で包み込むようにして、何か言いたげに口をもごもごと動かしている。そんな天沢くんの様子に、何故だか分からないけれど胸がざわついた。


「どんなこと?」

「えっと……多分雨宮くんは覚えてないだろうし、それでもいいんだけど……最初にバスで偶然会ったあの日より前に話したことあるの、覚えてたりする?」

「え――?」


 天沢くんの言葉に、俺は思わずコーヒーカップを持つ手に力がこもった。進級して初めての雨の日に偶然バスの中で会って話したのが初めてではないって、どういうことだろう?


 天沢くんとどこかで話していたら絶対に覚えていそうなものだけれど、どんなに頭の中の記憶を辿ってみても思い出せない。俺が焦っていると天沢くんが「覚えてないのも無理ないよ」とフォローしてくれた。


「俺が転校してきたのって去年の秋頃だったんだけど、転校初日に迷子になっちゃってさ。澪ちゃんは委員会の仕事か何かで帰るのが遅くなるって言うし、仕方なく一人で帰ることにしたんだけど……まぁ、慣れない土地だしバスも乗り間違えて、家までの帰り道が分からなくて。おまけにスマホも充電切れで」


 天沢くんはコーヒーカップを見つめながら、まるで記憶を辿るように話を続ける。


「で、ウロウロしてたら途中で雨が降ってきて……雨宿りできるところがパッと見ないし、とりあえずどこかの店にでも入って道を聞こうとしたんだよね。そんな時に……」


 天沢くんは一度言葉を切って、俺をまっすぐ見つめた。その瞳には、懐かしさと温かさが混じっているような気がした。


「声をかけてくれた人がいたんだ。大丈夫ですか?って……マスクしてて、見るからに具合悪そうな人が」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の記憶の奥で何かがちらりと蘇った。去年の秋頃、俺はひどい風邪に見舞われたことがあった。その時期は体育祭やら文化祭やらが重なって忙しい時期だったし、気温も不安定で普通に風邪を引いただけだと思っていたんだけど、結果的に肺炎になってしばらく入院したのだ。


 そして、家で倒れて入院する前日。確かあの日は、美術に関する本を取り寄せてもらったから少し遠くの本屋に足を運んでいた。帰り道に急に雨が降ってきて、カバンに入っていた折り畳み傘を使ったんだ。そこで俺は真っ暗な画面のスマホを持って絶望的な顔をしていた人に声をかけて、道案内をした記憶が蘇ってきた。


「その人、めちゃくちゃ具合が悪そうだったんだけど俺の最寄りのバス停までついてきてくれて……タオルとか傘も貸してくれたんだよ。自分だって風邪引いてたのに、俺が風邪を引くといけないからって」

「あ……」


 風邪で体調が悪いのに、大嫌いなバスに乗って見知らぬ学生を送り届けたあの日。彼は『もうびしょ濡れだから大丈夫』と言って傘を断ったけれど、まだ止みそうにないから使ってほしいと半ば無理やり押し付けたことも思い出す。


 結局俺は全身ずぶ濡れになって家に帰り、それが原因というわけではないけれど発熱して倒れたのだ。


 あの時の自分はなぜ見知らぬ彼にそこまで親切にしたのかは分からない。でもなぜか放っておけなくて、助けてあげたくなったんだっけ。


「そうだ、びしょ濡れの可哀想な猫みたいに見えて……」

「え?」

「傘も持ってないしスマホを見つめてこの世の終わりみたいな顔をしてるから、電源が切れたのかなとか……ここら辺の制服じゃなかったから迷子なのかなとか、色々思って。今思えば、時雨さんみたいだなって思ったから放っておけなかったのかも」

「お、思い出されたら、それはそれで恥ずかしいんんだけど……!」

「あはは! ごめ、天沢くんの話で思い出しちゃった」

「でも、思い出してくれてよかった。人違いじゃなかったんだな……」


 そう言って天沢くんはカバンの中から折り畳み傘を取り出して、俺に差し出した。


「遅くなってごめん。やっと返せるよ」

「わざわざ残してくれてたの!?」

「当たり前じゃん! 人から借りたものをそう簡単に捨てられないって」

「そ、そりゃそうか……ありがとう」

「バスを降りてから名前を聞くのを忘れたなと思った時にはもう遅くてさ……バスに乗ってればいつか出会うかなと思ったら、半年かかった」

「俺、いつもは自転車通学だもんねえ……」

「まさか雨の日だけバスに乗ってる人だとは……しかも俺、朝練とかで時間が早いし、もう会えないかもって思ってた」

「でもどうして俺だって分かったの?」


 天沢くんは俺が今日持ってきた傘をスッと指差す。傘がなに?と思って視線をやったが、特別なんてことない、普通の傘だ。


「傘についてる、イニシャルのタグ。折り畳み傘のと同じだよね?」

「あ、タグかぁ……!」


 盗難防止のため、傘の持ち手にタグをつけているのだ。そのタグには『R.A』のイニシャルと、撫子さんを表す白猫が描かれている。これがイニシャルだけだったら半信半疑になるだろうけれど、撫子さんのマークがあったから決定打になったのかもしれない。


「ずっとずっと探してた。でも、探せなかった」

「天沢くん……」

「雨が降ると、いつも雨宮くんのことを思い出してた。その頃は名前も知らないし、顔もほぼ知らない、夢の中に出てきたような人だったけど」

「そうだったんだ……」

「やっと見つけたと思ったら同じ学校で、すごく嬉しかったよ。しかも雨の日に、雨って漢字の名前がつく雨宮くんが俺の恩人だった。だから俺はずっと雨の日が特別なんだよね」


 天沢くんがあの日『雨の日が特別』と言っていた言葉の意味が、やっと分かった。俺との出会いを思い出す日だったから、雨の日が特別だったのだ。


「でもたったそれだけのことで、そんなに……?」

「たったそれだけのこと?」


 天沢くんが少し驚いたような顔をした。


「雨宮くんにとってはそうかもしれない。でも俺にとっては違う。転校って、すごく不安なんだよ。知らない土地、知らない学校、知らない人たち。その中で道に迷って、もう最悪だって思ってた時に、君が救ってくれたんだ。それに俺は……ちょっと、複雑な事情でここに来たから、余計に」


 そういえば七緒が『天沢は前の学校で事件を起こした』と根拠のない噂を話していたことがあった。それについてはまだ触れないほうがいいのかもしれない。なんせ天沢くんの声が、震えているのに気がついたから。


「俺だったら、雨の中びしょ濡れで立ち尽くしてる人を見て、すぐに声をかけられるか分からない。しかも自分の具合が悪くて余裕がない時に……あの時、一人ぼっちだった俺を救ってくれたのは確実に雨宮くんで、俺には天使にさえ見えたんだよ」

「天使って……」

「本当に。雨宮くんとの出会いがあったから、俺はここで上手くやっていけそうって思ったんだよね」


 俺には、自分の行動がそこまで天沢くんの心に響いていたなんて思いもしなかった。ただ困っている人を見かけて、放っておけなかっただけなのに。誰かの、他でもない天沢くんの何かを変えたり、前向きな気持ちにすることができたのなら、過去の自分を褒めてあげたい気分になった。


「だから俺は、雨の日を待ってた。もしかしたら雨の日には会えるかもしれないって……そして今度は俺が、雨宮くんに優しくする番だって思ってた」


 天沢くんの言葉に、俺の目頭が熱くなった。今までの人生で、俺みたいなちっぽけな人間に対してこんなことを思ってくれていた人って、両親以外にいるだろうか?


 それに、俺はあの雨の日の出会いから『特別』だと思っていたけれど、天沢くんはそれより前から俺との出会いを『特別』だと思ってくれていたことに胸が締め付けられた。嬉しくて、胸が押しつぶされそうになる、という感情を初めて知った。


「だから今日、雨が降ったらこの話をちゃんとしようって思ってた」

「雨じゃなかったらしてくれなかったの?」

「いや、雨が降ったほうがロマンチックになるかなと思ったから、降ってほしいと思ってただけ。でも人違いだったら恥ずかしくてなかなか話す勇気がなかったから、雨に頼ってたのは認める。」


 天沢くんは耳を真っ赤に染めて笑う。そんな笑顔や癖が愛おしいなと思うくらいには、俺はもうすっかり天沢くんのことが特別以上の人になっていた。


「……俺、天沢くんとあの日話せたから、雨の日が特別になったよ」

「え?」

「天沢くんと話せたのが嬉しくて、楽しくて、初めてバスも悪くないなって思ったから。また雨の日にねって言ってくれて、ずっと雨の日が続けばいいのにって思うようになってた」

「……俺も、そう思ってた。毎日天気予報のアプリと睨めっこして」

「同じ気持ちでいてくれたのが嬉しい。話してくれてありがとう」


 この日、俺たちの関係は一歩進んだと思う。そして俺は天沢くんに対するこの気持ちが『恋』なのだと、はっきりと思い知ったのだ。





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