2.雨の日に片想い
あの日から、俺の雨に対する気持ちは完全に変わってしまった。
朝起きて最初にすることは窓の外を確認すること。カーテンを開けて空を見上げ、雲の様子を観察する。天気予報アプリも一日に何度もチェックするようになった。降水確率が30%を超えると心がそわそわして、50%を超えるとなんだかウキウキしてくる。
でも現実はそう上手くはいかない。あの雨の日から一週間が経っても、空はずっと晴れ続けていた。
「璃斗、今日もスマホばっかり見てるね」
昼休み、いつものように七緒と一緒に弁当を食べていると、俺がまた天気予報をチェックしているのに気が付いたらしい。慌ててスマホを閉じたけれど、時すでに遅し。
「天気予報見てただけだよ」
「また? 最近やたら天気を気にしてない?」
「そ、そんなことないよ」
「ふーん……まさか天沢のことじゃないよね?」
七緒の鋭い指摘に、俺は弁当のおかずを口に詰め込んで誤魔化した。でも彼の表情は「やっぱりな」と言いたげで、俺の動揺は完全にバレている。
「違うって。ただ、雨の日にバスに乗るの嫌だなぁと思って」
「璃斗、嘘つくの下手だね」
「嘘じゃないもん」
「じゃあなんで顔赤いの?」
「暑いからだよ!」
「まだ春なのに?」
嘘に嘘を重ねる俺を見て、七緒はくすくすと笑っている。友達に嘘をつくのは良くないと分かっているけれど、天沢くんのことを考えるとなんだかふわふわした気持ちになって、それをうまく言葉にできないのだ。
「まあいいけどさ。でも璃斗、気をつけなよ」
「七緒……」
「分かってるって、憶測で物を言わないって言いたいことは……でも心配なんだよ。何かあったら絶対言って」
「……うん、ありがとう」
七緒の優しさが胸に沁みる。彼が心配してくれているのは分かっているし、確かに俺は天沢くんのことをほとんど知らない。でも、あの雨の日の出来事は決して嘘じゃないし、天沢くんの優しさも本物だったと思う。
学校の中で見かける天沢くんは同じバレー部の男子生徒と笑いながら歩いていたり、爽やかな風が吹く渡り廊下で可愛くて美人な女子生徒に囲まれていたりする。自分とは全く住む世界が違う王子様の姿を遠くから眺めながら、あの雨の日の出来事は本当は夢だったんじゃないかと思うくらい。
雨のせいで幻覚を見ていただけで、本当は知り合ってすらいないのかも。まるでおとぎ話や小説のようなことを考えてみたけれど、遠くから目が合った天沢くんが柔らかく微笑んでくれるから、その度に夢じゃなかったと自覚する。
それでもここ最近の俺はずっと頭の中がふわふわしていて、どうしようもない。そんなことを思いながら放課後の美術室で絵を描いていると、窓から差し込む夕陽が眩しくて手を止めた。今日もまた雲ひとつない快晴。窓の外に浮かぶ夕陽を見つめながら、ふと天沢くんは今頃何をしているのかと考える。
開け放っている窓の外に広がっているグラウンド、体育館、そしてどこからか吹奏楽部など色んな部活が練習している音が聞こえてくる。ただその中でも一際目立って聞こえたのは、バレー部がボールを打つ音、靴底が床を擦る音、みんなの掛け声。その中に天沢くんの声も混じっているのかな。なんて。
「(雨の日にしか会えないって、なんだかおとぎ話みたい)」
あまりにもメルヘン思考だと思われるだろうけれど、何だか自分が王子様を待つお姫様になった気分だった。でも俺は男だし、天沢くんと俺の関係だって別にそういうものじゃない。ただ、雨の日に偶然バスで一緒になっただけ。しかもたった一度。それなのに、どうしてこんなにも彼のことを考えてしまうのだろう。
「璃斗くん、最近ぼーっとしてるね」
「えっ? あ、澪先輩……すみません」
「ううん。珍しいなと思っただけ」
美術部、もとい学校のマドンナの呼び声高い、3年生の雫川澪先輩。サラサラで艶々の長い黒髪が、美術室の窓から入ってくる風にふわりと攫われる。細い髪の毛を耳にかける仕草がとても綺麗で、いつも見惚れてしまうのだ。
そんな澪先輩が少し首を傾げて「なにか悩み事?」と聞いてくれて、俺は少し考えたのちに首を横に振った。
「悩み事っていうほど、大層なものじゃありませんよ。ただ……」
「ただ?」
澪先輩の優しい眼差しに、思わず本音が漏れそうになる。でも、雨の日を待ち遠しく思っているなんて、変だと言われるかもしれない。昔からどうにも自分のことを話すのが苦手で、周りにどう思われるかという印象ばかりが気になってしまう。
なかなか話せないでいると「もしかして、最近描いてる絵に関係してる?」と、澪先輩は俺の目の前にあるキャンバスに視線を移した。
先日まで真っ白だったキャンバスには、雨が降っている街の様子が描かれている。辺りは薄暗くて、夜が明ける前の時間帯。雨で濡れた地面には灯りや建物が反射して映っていて、その中で一人の男性が傘を差して立っている後ろ姿。絵に音はないけれど、雨の音以外が聞こえないほどの静寂に包まれた街の中で傘を差した彼だけが今にも動き出しそうな、そんな絵を描いていた。
「この絵、素敵。傘を差してる人が動き出しそうな感じがして」
「本当ですか?」
「うん。璃斗くんの絵が変わったなって思ったの。今までも繊細なタッチだったけど、この絵には魂がこもってると言うか……上手く言葉にできないんだけど、そんな感じ」
澪先輩は中学生の頃から美術部で、色んな賞をもらっているほどの実力者。ちなみに成績もよくて、才色兼備の擬人化だと思っている。そんな先輩から自分の絵を褒めてもらえるなんて、もうすでに今年一番嬉しかったことかもしれない。
「なんだか最近、雨が恋しくて」
キャンバスに描かれている絵を見つめながら、ぽつりと言葉をこぼす。澪先輩は長いまつ毛が縁取る瞳を一度瞬かせて、薄ピンクの唇が「雨?」と紡いだ。
「はい。晴れの日ばかりだと、なんだか物足りないっていうか……雨の音を聞きながら絵を描くのが好きなんです。この前すごく雨が降っていた日にこの絵を描こうと思って。でも最近は晴れが続いてるから、この絵の完成のためにもまた雨が降ってくれないかなって思ってるんです」
半分は本当で、半分は嘘。天沢くんと初めて会話したあの雨の日の朝、美術室に来た俺はこの絵を描き始めた。あの時は校舎にはほとんど誰もいなくて、聞こえるのは雨粒の音だけ。そんな中でインスピレーションが降りてきて、予鈴にも気づかないほど夢中で描いていたものだ。
嘘の部分は、雨が降ってほしいのは絵のためだけではない、ということ。雨が降ったらバスに乗れて、もしかしたらまた天沢くんに会えるかもしれないから。そんな色んな意味を込められた『雨が降ってほしい』という俺の言葉に、澪先輩は「分かるかも、それ」と言って微笑んでくれた。
「私も雨の日、好きよ。雨音って集中できるし、外の景色もいつもと違って見えるでしょう?」
「そうです! まさにそれです」
「璃斗くんの絵、雨の日に描き始めたって聞いて納得したわ。本当に繊細で美しいと思う。きっと雨が璃斗くんの感性を研ぎ澄ませてくれるのね」
澪先輩の言葉に、俺の頬が少し緩んだ。元々雨は嫌いではなかったけれど、あの日からもっと好きになった気がする。その理由は言わずもがな天沢くんの存在があって、何だか心を攫われてしまった気分だった。
どうしてここまで天沢くんのことを気にかけているのか、明日の天気は雨だといいなと思うのか分からない。ただ何となく、今ならあの日天沢くんが言った『雨の日はなんか特別って思うから』という言葉の意味が分かる気がした。
「ふふ、璃斗くんって……」
「なんですか?」
「恋でもしてるの?」
「……ええ!?」
澪先輩の言葉に、俺は慌てて首を振った。俺の慌てる様子に澪先輩はくすくす笑っていて、言い訳はあまり効いていなさそう。でも正直、この気持ちを恋だと言うのは違う気がするけれど、恋じゃないと言うのも違う気がする。
ただ、相手はあの天沢悠くん。王子様と呼ばれている完璧な人で、バレー部のエースで、バス通学。たったそれだけのことしか知らない俺が、彼に恋をしているなんて。今まで恋というものをしたことがないから、この気持ちが本当にそうなのか自分では分からなかった。
「先輩、恋って……どんな気持ちなんですか?」
「ふふっ、璃斗くんっぽい質問ね。私もそんなに恋の経験があるわけじゃないけれど……」
澪先輩は少し考えるような仕草をして、それから穏やかに微笑んだ。その柔らかい笑顔に、天沢くんと目が合ったあとに彼が笑う顔をを思い出してドキッと胸が高鳴った。
「その人のことを考えるだけで嬉しくなって、会えない時間が長く感じて、些細なことでも一緒に共有したくなるような気持ちかしら」
「……」
「あとは、その人にとって特別な存在になりたいと思ったり、その人の笑顔を見ているだけで幸せになれたり」
澪先輩の言葉を聞いて、俺の心臓はいつもより早く脈打っている気がする。なんせ澪先輩が言ったその全てが、今の俺の気持ちに当てはまっていたから。俺は持っていたペインティングナイフの柄を指先で触りながら俯くと、ぽんぽんっと撫でてくれる優しい体温が頭に伝わってきた。
「頭ごなしに否定しないで、ゆっくり向き合ってみて」
「え……?」
「誰が誰に、どんな恋をしてもいいの。璃斗くんの気持ちを大切にして、もっと大切にしたいと思ったら大事に育ててあげて」
澪先輩から話を聞いてもらった帰り道。いつも自転車を停めている駐輪場へ行くと、ちょうどバレー部が練習している体育館のドアが開いていた。文化部とは違って遅くまで練習している運動部は、これからまだ練習が続くのだろう。
興味本位で体育館の中を駐輪場から覗いてみると、バンッという大きな音を立ててボールが床に打ち付けられる音がした。あまりに一瞬のことで何があったのか分からなかったけれど、文字通り天沢くんが『飛んだ』のだ。
「ナイスキー、天沢!」
「水城さん、ナイッサー1本!」
ナイスキー?ナイッサー?
聞き慣れない不思議な単語が飛び交う体育館の中では、赤と青のビブスをつけたチームで試合形式の練習が進んでいく。その中で天沢くんは青いビブスの11番。誰かが上げたボールを、助走して跳んでから相手のコートに打ち付けていた。
バレーボールの試合はあまり見たことないけれど、昔テレビでオリンピックの試合を見たことがある。体育館の中で繰り広げられている光景に、その時と同じような興奮を抱いた。
「5分休憩!」
コーチと思われる人の声で俺も我に返る。そろそろ帰ろうかと自転車の鍵をポケットから出していた時「雨宮くん」と背後から声をかけられた。
「わぁぁっ!?」
「うわっ、ごめん! そんなに驚くとは思わなくて」
「あ、あ、天沢くん……っ!」
後ろを向くと、タオルを首にかけた天沢くんが立っていた。前にも思ったけれど、首筋に伝う汗がセクシーだな……って、失礼なこと考えるな、俺!
「ど、どうしたの?」
「天沢くんが試合を見てくれてるのが見えてたから、声をかけようと思って」
「えっ、バレてた……」
「あはは。俺、結構視野が広いんだよね。スパイク打った時の音にびっくりしてる顔とか、跳んでるときに見えた。可愛かったよ、雨宮くん」
「ま、また可愛いって……」
「ごめん。嫌だった?」
「嫌じゃない、けど……俺だって男だし、恥ずかしい」
天沢くんから言われる『可愛い』と、七緒や澪先輩から言われる『可愛い』はちょっと違う。天沢くんから言われるほうが何倍もくすぐったくて、恥ずかしくて、それから嬉しい。男なのにと自分で言ったばかりだけれど、初めて自分に向けられる『可愛い』という言葉を嬉しく思った。
「そういうとこ」
「え?」
「何でもない。バレー見てるの楽しかった?」
「う、うん! ちゃんと見たことなかったんだけど、すごく楽しかった! 天沢くんはすごく高く跳ぶし、ボールが魔法みたいにあちこち飛んでいくし……授業の時にあんな上手くバレーできたことないもん。あと、ナイスキーとかナイッサーとか、呪文みたいで不思議」
「ああ、聞き慣れない人はそうだよね。点を取ったあと、また始めるときにサーブから始めるのは知ってるよね? ナイスサーブ頼みます、って意味なのがナイッサー。サーブだけでも点数が取れるからね」
「へぇ! バレーって奥深い……」
「ふはっ。スポーツって大体そうだと思うよ。ていうか、俺からしてみれば美術のほうが奥深いし」
そんな話をしていると、体育館の中から「天沢、時間」と声をかけられる。残念だなと思っていると天沢くんが「もう時間なの、残念だね」と俺と同じ気持ちを言葉にしてくれた。
「雨宮くん」
「なに?」
「ナイッサーの意味は俺が教えたから、ナイスキーの意味は自分で調べてきて」
「ええ?」
「次に会ったときに答え合わせ。宿題だから」
ひらひらと手を振って体育館の中に戻って行った天沢くん。俺は自転車の鍵を差し込む手が震えていて、顔から火を噴きそうなほど熱くなっているのを感じた。それから、どうやって家に帰ったのかは覚えていない。
「次っていつ……?」
その日の夜、ベッドに入ってからも眠れずにいた。スマホで明日の天気予報を確認すると、相変わらず晴れマーク。週間予報を見ても、雨が降りそうな日はしばらくなさそうだった。
「はあ……」
大きなため息をついて天井を見上げる。天沢くんが言ってくれた『次に会ったら答え合わせ』の『次』がいつなのか分からなくて、そればかりが頭の中を占めていた。
窓の外を見ると、満天の星空が広がっていた。こんなに綺麗な夜空を見ても、俺の心は曇り空を恋しく思っている。
「撫子さん、俺っておかしいかな?」
ベッドの足元で丸くなっている愛猫に話しかけると、撫子さんは面倒くさそうに「にゃあ」と一声鳴いただけだった。それでも、なんとなく「大丈夫よ」と言ってくれているような気がして、少しだけ心が軽くなる。
「そうだ、宿題のこと調べなくちゃ」
人生で初めて、バレーボールに関しての知識をスマホで検索した。インターハイとか春高とか、大きな試合や大会があるのは何となく知っていたけれど、応援なんて今まで一度もしたことがない。
宿題の言葉のほかに、ポジションの名前やルールも何となく覚えた。でも調べた後に気がついたのは、知らないことが多いほうが会える口実も増えたのではないか、ということ。
「いや、でも……会える口実は雨の日しかないし、あんまり意味ないか」
会える口実が増えると言うより、話す口実が増えると言ったほうが正しいかもしれない。それに、たった一度練習を見ただけで知識をつけてくる奴なんて、怖いとかキモいって思われたらどうしよう。俺は自分が好きなことを誰かが一生懸命調べてくれたら嬉しいと思うけれど、天沢くんは違うかもしれない。
「あ、明日は絶対に晴れであれ……!」
さすがに明日会うのは気まずいかもしれない。そう思っていた天罰か、それともずっと待ち望んでいた俺に神様がご褒美をくれたのか、天気予報ではずっと晴れマークだったのに翌朝は雨が降っていた。
「やった……! いや、でも……ええい、とにかく、やった!」
カーテンを開けてから雨が降っているのを見て、思わず小さくガッツポーズをしてしまった。俺の「やった!」という歓喜の声に撫子さんは驚いたのか、ベッドからぴょんっと飛び降りて先に一階へ行ってしまった。
「璃斗、朝からやけに元気ね」
「えー、そう?」
「いつも雨の時は朝から憂鬱そうな顔してるのに」
「別に何でもないよ。今日はちょっと早めに出るから!」
「ええ? いつもより早く?」
「うん。仕上げたい絵があるんだ」
平静を装おうとしたけれど、母さんからは不審な目で見られた。どうにか冷静でいないといけないのに、頬が緩んでしまうのは仕方がない。色々心配したって、やはりこの日をずっと待ち望んでいたのだ。
母さんに酔い止めをもらって、準備を整える。鏡で自分の髪型をチェックして、制服に汚れがついていないか確認して。普段よりも念入りに身だしなみを整えた。
初めてバスで会った日、天沢くんは朝練が休みだから一本遅いバスに乗ったと言っていた。だから一本早いバスに乗れば今日は会えるかもしれない。バレー部の朝練の休みを把握しているわけではないけれど、もし乗っていなかったら次のバスに乗ればいいだけの話だ。
「……これって一歩間違えたらストーカー…?」
家を出て、自分の行動の異常さに今更後悔する。でも絵を描きたいのも本当だし、言い訳は何とでもなるだろう。
バス停に向かう途中、傘を差しながら空を見上げた。分厚い雨雲が空を覆っていて、今日は一日中雨が続きそう。バス停に着くと、この前とは違って今日はまだ誰もいなかった。少し早めに家を出たから、当然かもしれない。
雨の中を通っていく車をバス停からぼんやり眺めていると、いつの間にか目の前に学校行きのバスが停まっていた。
「あ、の、乗ります!」
閉まりかけたドアの隙間から慌てて車内に入り込む。危なかった、挟まれるところだった。安堵したのと同時に、くすっと小さい笑い声がして顔を上げた。
「おはよう、雨宮くん」
少しハスキーな声が挨拶をしてくれて、車内のドア付近に座っていた天沢くんが自分の隣の空席を指差す。「隣に座って」と言われているようなその仕草にドキッと胸が高鳴って、おずおずと隣の席に腰を下ろした。
「昨日まで晴れマークだったのにね、天気」
「そうだね、びっくりした」
「……天気予報、チェックしてるんだ?」
天沢くんから指摘され、ハッとした俺は思わず口元を手で覆った。だが、そんなことをしても時すでに遅し。しかも、この行動は肯定していると言っているようなもの。わたわたしている俺を見た天沢くんは意地悪く笑って「大丈夫、俺も」と呟いた。
「雨の日ないかなって、毎日チェックしてる」
雨粒がコンクリートではなく水の中にスッと落ちるように、呟かれた言葉。天沢くんは照れたように小さく笑って、でも俺を優しく見つめている。慌てた俺をフォローしてくれただけかもしれないけれど、同じ思いだったと言ってくれたことが嬉しくて、恥ずかしくて、きゅっと唇を噛み締めた。
「あ、あの! ナイスキーの宿題、ちゃんとやってきたよ」
「本当?」
「うん。ナイススパイクだったっていう褒め言葉でしょ? キーってなに?と思ったんだけど、キルの略だって書いてた。ナイスキルって物騒だなぁと思ったけど、仕留めるみたいな意味なんだね。調べれば調べるほど面白くて、昨日は遅くまでバレーのこと調べちゃった」
「だから今日、目の下にクマがあるんだ」
「へ……」
すり、天沢くんの長い指が俺の目の下を撫でる。たったそれだけのことだけど、今までにないくらいドッと心臓が大きく脈打った。また天沢くんは「弟にしてるみたいに、つい」と言うかなと思ったけれど彼は何も言わず「宿題、夜更かししてって意味じゃなかったんだけどな」と困ったように笑った。
「えっと……自分が知らない新しい世界を知るのが楽しくて、つい……」
「そっか。楽しいと思ってくれたならよかった。俺、バレーが好きだから……雨宮くんも好きになってくれたら、すごく嬉しい」
「す、好きになると、思う……昨日は動画とかも見ちゃったし」
「じゃあ、今度試合があったら来てくれる?」
「え! いいの?」
「うん。来てくれたら頑張れる」
「雨の日じゃなくても?」
「その日は雨じゃなくても、俺を見に来てよ」
これはただの営業トークとかリップサービスとか、そういうことだって考えられる。でもじぃっと俺を見つめる天沢くんの瞳が嘘をついているようにはどうしても思えなかったのだ。
「天沢くんがいいって言ってくれるなら、見に行きたい」
「やった、よかった。公式試合はしばらくないんだけど、練習試合があるから見に来てよ」
「練習試合とかでも見に行っていいの?」
「もちろん。特にうちの学校でやるときは、普通に見に来てる人も多いから」
「そうなんだ、知らなかった。じゃあ見に行きやすいね」
「うん、来てほしい」
屈託なく笑う天沢くんは何だか子供っぽいと言うか、年相応に見える。彼のこんな顔を知っているのは自分だけがいいな、なんて烏滸がましいことを思うくらいには、天沢くんの笑顔に特別感を感じた。
「はい、気をつけてね」
「ありがとう」
バスを降りる時、天沢くんは前回のようにまた手を差し出してくれた。今度は慣れたもので、素直にその手を取る。ステップが濡れているからしっかり足を踏み込んでバスを降りると、バス停にはこの前と同じ野良猫が雨宿りをしていた。
「あ、この前の猫ちゃん」
「本当だ。この子も雨の日にしか見ないなぁ」
「確かに、普段は学校の周りで見ることはないかも……」
今日は焦らず、天沢くんの傘に入れてもらってバス停の屋根の下に避難する。ベンチに座っていた野良猫は俺を一瞥して、長い尻尾をふりっと一振りした。
「覚えてくれてるのかな。この前はごめんね」
先日は傘についていた雨粒を盛大にぶち撒けてしまったので、この黒猫は怒って去ってしまったのだ。そのことをもう一度謝ると「んにゃぉ」と低い声で鳴く。その声には何となく嫌悪感は混ざっていなかったので、もしかしたら許してくれたのかもしれない。
「ふふ。撫子さんに会わせたいなぁ」
「……撫子さん? 女の子?」
「うん、そうだよ」
「へぇ……彼女?」
「言い様によってはそうなのかもしれないね」
「ふうん、彼女いたんだ。美術室の隠れ美少年には……」
「え?」
頭上から降ってくる、今まで聞いたことない低い声。ベンチにいる野良猫に目線を合わせるように屈んでいたので見上げると、雨のせいで下がった気温のように冷たい瞳が俺を見つめていた。
「えっと……撫子さんはうちで飼ってるメスの猫ちゃん、だよ」
「……猫?」
「そう、猫。撫子さんって名前で、8歳になる女の子」
スマホの画面を見せると、天沢くんは怖い表情から安堵した表情へ変わる。は、と短く息を吐いて頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「ごめん、どうかしてた」
「う、ううん! 俺も誤解を招く言い方だったし……ていうか、俺みたいな陰キャに彼女なんているわけないよ。そもそも、美術室の隠れ美少年ってなに?」
今の会話で疑問に思ったことは二つ。なぜ天沢くんが不機嫌になったのか、美術室の隠れ美少年とは何か。それを聞いてみると天沢くんは耳を真っ赤にして「マジで忘れて、ごめん……」と言うので、それ以上は追求しないことにした。
「あ、あのさ。また今度雨の日がきたら天沢くんと会えるみたいに、この子にも二人で会えるかもしれないね」
「そうだね……」
「だから、せっかくなら名前つけない?」
「名前?」
「野良猫って呼ぶのもあれだし……天沢くん、何かいい名前ない?」
「猫の名前って考えたことないけど……うーん、じゃあ…時雨さんとか?」
「時雨さん? めちゃくちゃかっこいいじゃん!」
「そう?」
「うん! ちょうど雨って文字も入ってるし、特別感がある! あと多分この子オスだし、ちょうどいいかも」
「雨宮くんがそう言ってくれるならよかった」
天沢くんはもうすっかり元通りになっていて、不機嫌さのカケラもない。ちょっとヒヤヒヤしたけど、天沢くんだって人間だし機嫌が悪くなることもあるだろう。
「じゃあね、時雨さん。風邪引かないように気をつけてね」
「また雨の日に会おうね、時雨さん」
ベンチに寝転がっている時雨さんに声をかけると少し目を開けて、金色の瞳が俺たちを見送ってくれた。野良猫だから他にも呼び名がたくさんあるかもしれないけれど、天沢くんと俺しか知らないあの黒猫の名前。また一つ特別が増えたなと思うと、頬が緩むのが分かった。
「練習試合、今週の土曜日にあるんだけど……急?」
「ううん、そんなことない。何時から?」
「昼の1時から。無理しなくてもいいからね」
「分かった。でも、絶対に行くよ」
下駄箱でそんな話をして、天沢くんは体育館、俺は美術室に行くために反対方向へと歩みを進めた。
「――あのさ、雨宮くん」
後ろから声をかけられたので振り返ると、天沢くんが真剣な顔をしてこちらを見つめていた。天沢くんは何か言い辛そうに口をパクパク動かして、少し雨に濡れた前髪をかき上げる。その仕草が昨日体育館で見た、汗に濡れた前髪を上げる仕草と同じでドキッとした。
「美術室の隠れ美少年って、君のことだから」
「えっ?」
「“俺なんか”って言わないで。みんな密かに、雨宮くんのこと狙ってるよ。あまりにも綺麗だから手が出せないだけで」
「いやいや、え? な、なんの話?」
「お願いだから、誰にも取られないようにして」
「天沢く……」
どういう意味なのか、どういう話なのか全く理解できなくて聞き返そうとしたけれど、体育館に続く方向から現れた人に「おーい、天沢! 朝練始まるぞ!」と声をかけられ、彼は行ってしまった。
一人ポツンと廊下に取り残された俺は、天沢くんの言葉が頭の中で何度も繰り返されていて思考が停止した。遠くから体育館の床をシューズが擦るキュッキュッという音と、下駄箱の外から聞こえる雨の音だけが異様に大きく聞こえてくる。
「美術室の隠れ美少年って、君のことだから……?」
全く身に覚えのない異名。陰でそうからかわれているのだろうか。または、誰かと間違えられているのか。
せっかく雨が降ったから筆が乗りそうだと思っていたのに、天沢くんのせいで朝活は結局上手くいかなかった。
「どうしたぁ、璃斗。今日は朝からずっと眠そうじゃん。あ、もしかして具合悪い?」
昼休み、俺の様子がおかしいことに気づいた七緒が声をかけてくれた。俺はといえば、昼休みになっていることにすら気がついていなかったのだ。
「あのさ、七緒……」
「うん?」
「“美術室の隠れ美少年”って、知ってる?」
「ぶはっ」
美術室の隠れ美少年のことを聞くと、七緒は飲んでいたバナナオレを吹き出した。おまけに、持っていたバナナオレのパックもぐしゃりと握りつぶして中身が溢れ出ている。まさかそんな事態になると思っていなかったので、俺は慌ててティッシュで机を拭いた。
「ちょっと、なにしてんの!?」
「いや、ごめ……ってか! なんでそれ知ってんの!?」
「今日ちょっと、ある人に言われて……俺のことだって言われたんだけど、本当に意味が分からないから。七緒なら知ってるかなと思ったんだよ」
「……それ言った奴ってもしかして天沢?」
「あ、うん……」
「はぁ……だから気をつけろって言ったじゃん」
「ねぇ、本当にどういう意味?」
七緒は潰れたパックをレジ袋に入れてゴミ箱にシュートを決める。それから腕を組んで難しい顔をしながら唸り声を上げて「……璃斗はそのままでいいから」と、また訳の分からないことを言われた。
「余計な情報入れて変わらないでくれ、璃斗」
「ええ?」
「とにかく! 璃斗はそのまま、今まで通りでいいから!」
七緒の反応から察するに、やはり『美術室の隠れ美少年』は悪口の類なのかもしれない。きっと七緒は俺が傷つかないように守ってくれているのだなと思い、これもまた深く追求しないことにした。
「……ていうか、天沢とまだ繋がりあったんだ?」
「繋がりっていうか、前も話したでしょ? 雨の日には同じバスに乗るだけだって」
「でも、なんか前より親密そうじゃん」
「そうかな? そうだと嬉しいんだけど……」
なんて本音をぽろりと漏らしてみたら、七緒の大きなため息。ため息が聞こえてから口をつぐんでみても、もちろんすでに遅かった。
噂のこともあるのだろうけど、天沢くんと仲良くなることに反対している七緒には、土曜日にバレー部の練習試合に行くことは秘密にしておく。ついてくるとか、行くなと言われるのが想像できるから。
「早く土曜日にならないかなぁ……」
今度は雨の日を待たずに会える。そう考えただけで、空は雨模様なのに俺の心にはピカピカの太陽が顔を出していた。