1.出会いの雨
朝、窓を叩く雨音で目が覚めた。
カーテンの隙間から見える空はどんよりと重い雲に覆われていて、その雲から落ちてくる雨粒が窓ガラスを激しく叩いている。時計を見ると午前6時。いつもならまだ寝ている時間だけれど、雨音のせいで目が覚めた。
「うわ、すごく降ってる……」
ベッドから起き上がって窓に近づくと、雨はかなり激しく降っている。風も強いらしく、向かいの家の庭に植えられた桜の木が大きく揺れていた。新学期が始まってまだ一週間。高校2年生になって初めての雨の日だ。
自転車通学の俺にとって、雨は厄介な存在だった。レインコートを着て自転車に乗ることもできるけれど、どうしても濡れてしまうし、何より危険だ。こんな日は潔くバスで行くと切り替えるのが正解だろう。
「璃斗、起きてる?」
階下から母さんの声が聞こえてくる。制服に着替えながらドアを開け「起きてるよ」と声をかけると、少し開いたドアの隙間から愛猫の撫子さんが、妖怪のようにぬるりと入ってきた。
「うわぁ、びっくりした……! 撫子さん、驚かせないでよ」
そう言っても、自由気ままで優雅なお姫様は知らんぷり。俺なんてどうせ撫子さんの下僕としか思われていない、この家の中でもカースト最下位の人間なのだ。
「今日は雨がひどいから、バスで行きなさいね」
「昨日の天気予報では晴れだったのに。バス、久しぶりだなぁ……」
「はい、酔い止め。早めに飲んでないと効かないわよ」
「うん。ありがとう、母さん」
やっぱり母さんも同じことを考えていたらしい。レインコートを着て自転車に乗るのは諦めて、大人しくバスで学校まで行くことにした。すでに出来上がった朝食が並ぶテーブルを眺めながら、母さんからもらった酔い止めを先に飲む。
俺がなぜあえて自転車で通学しているかというと、三半規管弱々男だからだ。この体質は昔からで、バスでも電車でも車でも、とにかく酔いやすい。あとはアクション映画とかでも。車とかは自分で運転するようになったら酔わないと言うけれど、免許が取得できるのはまだ先だ。ということで、学生の俺は自転車が使えないのなら公共交通機関を使わなければならない。
父さんは単身赴任中、母さんは俺より早く家を出るから車で送ってはもらえない。すなわち、俺に残された雨の日の選択肢はバスだけということだ。
「あーあ、撫子さんが猫バスだったら絶対酔わないのになぁ……」
「なに言ってるの。ふかふかすぎるから足元がおぼつかなくて逆に酔うと思うわよ、璃斗なら」
「……確かに。じゃあ俺を背中に乗せて移動できるほど、大きな猫ちゃんだったらよかったのになぁ」
「ふふ。馬鹿言ってないで早く食べちゃいなさい」
「はーい」
バスを使うのは久しぶりだ。確か去年も雨の日に何回かバスを使った記憶があるけれど、最後にバスに乗ったのがいつかも覚えていないくらい、久しぶりだった。
朝食を食べながら、今日一日の予定を頭の中で確認する。1時間目は現代文、2時間目は数学、3時間目は……放課後は部活がある。その頃までに止んでいれば徒歩で帰ってこられるけど、止んでいなかったら放課後もバスに乗らなければいけない。
「母さん、酔い止めってまだある?」
「あるわよ。持っていく?」
「うん。帰りもバスになったら、薬ないと無理だから」
「確かにそうね。あ、母さんそろそろ出なくちゃ……戸締りよろしくね!」
「分かった。行ってらっしゃい」
母さんが家を出たあと皿洗いや片付けをして、俺も家を出る準備をした。いつもなら自転車で15分ほどの道のりだが、バスだと待ち時間や遅延、停留所へ止まる時間を含めると結局30分近くはかかる。バス停までは歩いて5分ほど。雨に濡れないよう、しっかりと傘を握りしめて家を出た。
外に出ると、雨は想像以上に激しかった。傘を差していても風で煽られて、斜めに降る雨粒が顔に当たってくる。足元も気をつけないと水たまりに足を突っ込みそうになるから、強い雨と風に耐えながらバス停へ向かった。
「新学期早々雨かぁ……頭も体も重い気がする。憂鬱だなぁ」
独り言を呟いたが雨音にかき消された。バス停までの道のりにある歩道の桜並木からは、雨に打たれた花びらがはらはらと舞い散っている。新学期が始まったばかりの4月の雨は、まだ肌寒さを感じさせた。
バス停に着くと、既に何人か待っていた。他校の制服を着た生徒もいれば、会社員らしきスーツ姿の人もいる。みんな雨に濡れないよう、バス停の屋根の下に身を寄せ合っていた。
俺も傘を畳んで屋根の下に入り、時刻表を確認する。次のバスまであと5分ほど。余裕を持って家を出てよかった。
狭い屋根の下に身を寄せ合っている人たちはみんな手元のスマホを見ていて、俺だけがじぃっと雨がコンクリートに落ちる様子を眺めていた。車が通って行く音しかしないからか、雨音が屋根を叩く音が心地よく響いている。こういう音を聞いていると、なんだか落ち着く。
バスが来るまでの間、雨の中を歩いていく人たちを眺めていた。急いで走っていく人、ゆっくりと歩いている人、大きな傘を差している人、小さな傘で必死に雨を凌いでいる人。みんなそれぞれ、この雨の朝を過ごしている。雨粒が窓ガラスを伝って落ちていく様子や、濡れた街並みが普段とは違って見える瞬間を捉えるのは楽しい。
そんなことを考えていると、やっとバスの音が聞こえてきた。遠くから近づいてくるエンジン音と、路面に響くタイヤの音。バス停にいた人たちが今まで齧り付いていたスマホから一斉に顔を上げ、ざわめき始める。
バスが到着すると、人でぎゅうぎゅうになっていた車内の扉が開いて何人かの乗客が降りてきた。その中に見覚えのある男子生徒を発見して、目が合った。背が高くて、どこか凛とした雰囲気を持っている彼の名前は天沢悠くんといって、うちの高校のバレー部でエースらしい。ちなみに俺は雨宮という苗字で、同じ『あま』という発音でも漢字が違うなと思っていた。
「(でも、なんでここで降りるんだろ? 学校はまだ先なのに)」
不思議に思いながら、俺は順番を待ってバスに乗り込んだ。空いている席を探しながら車内を見回す。平日の朝の時間帯、それに雨なのも相まって、先ほどのぎゅうぎゅう詰めの車内よりマシだけれどそれなりに混雑していた。
「うぁっ!」
空いている座席を見つけたので移動しようとしたら、それと同時に動いたバスに揺られてバランスを崩した。静かな車内に情けない声が響き渡って恥ずかしい。
「大丈夫?」
「へ……」
雨の日の車内は濡れた靴のせいで床も滑りやすい。そのまま倒れ込んで顔を強打する覚悟だった俺だが想像していた衝撃はなく、その代わりに静かに響く低音ボイスが頭上に降ってくる。今の状況を説明すると、転倒するはずだった俺の体は筋肉のついた片腕にしっかり抱き留められていた。
ちらり、声が降ってきた頭上を確認する。そこには、先ほどバスを降りた天沢くんの姿があった。どうやら彼はぎゅうぎゅうの車内のドア付近に立っていたから、邪魔にならないように一度降りてまた戻ってきたらしい。
天沢くんは去年の夏休み明けに転校してきた生徒で、当時から『王子様』だと女子生徒が騒いでいたのを知っている。1年生の時も今も同じクラスではないので話したことはないけれど、こんなにスマートに助けてくれるなんて。まさしく『王子様』の名は伊達じゃない。
「……大丈夫?」
「はっ! はい、ありがとうございます!」
「よかったらここ座ってください、空いてるので」
「あ、ありがとう……!」
天沢くんはそのままスマートに空いた座席に俺を案内してくれて、自分は手すりに掴まって立っていた。何となく申し訳ないなという気持ちでいると「具合悪そうだから、気にしないで」と言われて驚いた。
「天沢くんって、本当に王子様なんだ……」
「え?」
「あ、ごめんなさい。俺、同じ高校の雨宮璃斗っていいます。同じ学年です」
「雨宮璃斗くん……俺は天沢悠です」
「はい、知ってます。バレーの王子様って有名なので」
「背が高いだけだよ」
――こんな顔して笑うんだ。
クラスも違うし、俺は文化部で天沢くんは運動部。王子様と呼ばれている天沢くんと、クラスでも目立たないタイプの俺。共通点なんて全くないから知らなかったけれど、くすっと小さく笑う天沢くんはやっぱり王子様に見えた。
「俺は2年1組だけど、雨宮くんは?」
「4組です」
「じゃあ、体育とかでも一緒にならないんだ。話したことないわけだね」
「確かに、そうですね」
「いつもバス通学? 今日初めて見た気がする。あ、隣座ってもいい?」
「もちろん。バスは雨の日とかだけで……普段はチャリ通」
「へぇ、なるほど……そっか。雨宮璃斗くんね」
天沢くんは俺の名前を呟いて、顎に手を当てて何か考え込んでいる。知らぬ間に天沢くんに何か失礼なことをしてしまったのかとビクビクしたが、彼はそれ以上は何も言ってこなかった。でもなぜだか彼の表情にはどこか俺のことを懐かしむような、そんな色が浮かんでいた。
「天沢くんは、えっと……バレー部っていつも朝練で早いんじゃないっけ?」
「今日は休みなんだ。だからいつもより一本遅い時間のバスに乗ったんだよ」
「なるほど。俺いつも、体育館の近くの駐輪場に停めるから……毎朝バレー部のボールの音が聞こえてるなって」
「まだバレー部が朝練してる時間帯に登校してるの? 随分早いね。今日だって普通に早くない?」
「俺、美術部に入ってるんだけど、朝誰もいない時間帯に美術室で絵を描いてるんだよね。放課後より朝のほうが集中できるっていうか」
「それは分かるかも。朝のほうが頭がすっきりしてて冴えてる感覚」
「そうそう。授業で疲れてないから体も軽く感じるし」
天沢くんと話したのは初めてだったし元々友達でもないけれど、不思議なくらい話が弾んだ。文化部の俺と運動部の天沢くんには全く共通点なんてないと思っていたのに意外と話しやすくて、不思議な人だなと思った。
「そういえば具合、大丈夫?」
「あ、うん……乗り物酔いしやすくて。家を出る前に酔い止めを飲んだから効いてるみたい」
「ああ、だから……よろけた時、顔色が悪かったのか」
「極力乗らないように避けてたから。久しぶりに乗ると思ったら不安で」
「でも、今はもう大丈夫そうだね」
隣に座る天沢くんがそっと顔を覗き込んできてどきっとした。近くで見ると、整った顔立ちがより一層際立って見える。女子たちが『王子様』と言って盛り上がるのも分かるし、男の俺でもそう思うくらいに天沢くんはかっこいい。
バスは学校に向かって進んでいく。窓の外を流れる雨の風景を眺めながら、俺は隣に座る天沢くんの存在を意識していた。彼からはとても爽やかな匂いがして、それが雨の匂いと混ざり合って、なんだか特別な空間にいるような気分になった。
「雨って嫌い?」
天沢くんが突然そう聞いてきた。俺は一度窓から視線を外して隣を見ると、天沢くんの綺麗な瞳と目が合った。彼の瞳はまるで雨の雫が降り注いだようにうるっとしていて、吸い込まれそうだと思ったほど。ぱちっと天沢くんが瞬きをすると俺の思考もリセットされる。何も答えない俺を彼が不思議そうに見つめているので、慌てて首を横に振った。
「ううん、結構好きかな。雨の日の風景とか、普段と違って見えて面白いから」
「そうなんだ。珍しいね、雨が好きだなんて」
「天沢くんは嫌い?」
「いや、俺も雨の日は嫌いじゃないよ。最近は特に、なんか特別って思うから」
そう言って天沢くんはふわりと笑って前を向く。何だかとても楽しそうな、何かを思い出しているような横顔が綺麗で、しばらく見つめてしまった。雨の日を特別に感じると言った彼の言葉の意味は俺には分からない。でも天沢くんの表情や言葉には、何か深い想いが込められているような気がした。
「下、濡れてるから転ばないようにね」
「へっ、あ、ありがとう……!」
いつの間にかバスは学校の前に停車していて、先に降りた天沢くんが手を差し出した。もしかして天沢くんって前世は王子様?そんな馬鹿げたことを思うくらいスマートで、キザな行動も嫌味なほど似合っている。
お姫様みたいな扱いはされたことないから少し恥ずかしいけど、差し出された手を断って転ぶほうが何倍も恥ずかしい。意を決して天沢くんの手を取るとぎゅっと握られて、激しく降る雨から守るように自分の傘の中に引き寄せてくれた。
「濡れてない?」
「だ、だいじょうぶ! ごめんね、すぐに傘差すから!」
「焦らないでいいよ。時間はまだあるし」
傘をこちら側に差し出しているから、もたもたしていると天沢くんの右肩が濡れてしまう。それが何とも申し訳なくて慌てて傘を開いたら、バンッと激しい音を立てて開いた傘から雨粒が勢いよく飛び散った。そしてあろうことか、校門前のバス停で雨宿りしていた野良猫にその雨粒がかかってしまったのだ。
「うわぁぁぁ! ごめんね、ごめんね! わざとじゃないんだ!」
あまりの大失態にパニックになって、野良猫にぺこぺこ頭を下げていたら「シャーッ!」と怒られた。そして野良猫は一生懸命謝罪する俺に見向きもせず、大雨の中バス停を飛び出して行く。雨の中に消えて行く野良猫の後ろ姿を見ると本当に申し訳なくてしゅんとしていると、頭上から「ぶはっ」という笑い声が降ってきた。
「ご、ごめ……ははっ、ごめん……!」
「な、なんで笑うの!?」
「いや、あまりにも可愛らしくて……ふふ、本当にすまない」
「も、もー! 恥ずかしいから今のは忘れて! あと、ついでにバスの中でよろけた件も忘れて!」
「忘れるように努力するけど、忘れられないかも」
「天沢くんっ!」
真っ赤になっている俺の頭を、天沢くんは笑いながらポンポンっと撫でる。今日初めてまともに会話したばかりなのに距離感バグのような行動をされ、俺は口をあんぐり開けて固まってしまった。
「……ごめん! つい、後輩にやるようにやっちゃった」
「俺が年下に見えるって意味?」
「そうじゃなくて! 可愛いなって意味」
「かわ……っ」
そういうセリフをさらっと言えるから女子から人気の『王子様』なのだろう。彼から言われた『可愛い』という言葉を聞かなかったことにして、自分の傘を差してスタスタと校舎に歩みを進めた。
「雨宮くん、ごめんって。怒った……?」
「う、怒ってないよ、別に……」
「ふ、そっか。それならよかった」
雨音のおかげで、ドキドキと忙しなく脈打つ心臓の音はかき消されているだろうか。でも、数歩後ろから聞こえる天沢くんの足音だけが俺には鮮明に聞こえているから、もしかしたら俺の心臓の音も聞こえているかもしれない。
「じゃあ、俺は体育館に自主練しに行くから、ここで」
「そっか。俺も美術室に行くから、ここで」
2年1組と4組の下駄箱から俺たちはそれぞれ出てきて、反対方向を指差す。まだ登校している生徒が少ないからか、それとも雨のせいなのか、いつもよりシンとしている校内。なぜだか分からないけれど自分の足が先に動くことはなくて、天沢くんが動き出すのを待ってしまった。
「……また今度、雨の日に会えたらいいね」
「え?」
「雨の日は雨宮くんに会えるって思っとく」
2年1組と4組は教室がある階も違うし、合同体育や行事の時もほとんど一緒になることはない。同じ校内にいても今日初めてまともに会話したくらいだから、これから先も同じだろう。
でも天沢くんが言ってくれた「また雨の日にね」という言葉が嬉しくて何度も何度も頷くと、彼は柔らかく笑って体育館へと足を進めた。そんな背中を見送っていると、後ろからポンっと肩を叩かれて猫のように体が跳ねた。
「璃斗、今のって天沢悠?」
「びびびびっくりした! 驚かせないでよ、七緒!」
後ろから現れたのは、1年生の時も同じクラスで仲良くなった新海七緒だ。癖毛の茶髪がチャームポイントで、猫でいうキジトラの擬人化みたいな同級生。1年生の頃に七緒の後ろの席になったことがあって、その時に「キジトラっぽい……」と呟いたら「キジトラってなに!? トラの仲間? かっこいい!」と、ただの独り言に食いついてくれたのが友達の始まりだ。
俺はどちらかと言えば陰キャの部類で、七緒は陽キャ。天沢くんと俺も似ているところはないけど、七緒のほうがもっと俺とは正反対の性格だし、男子からも女子からも先生からも人気で人当たりがいい優しい性格。おまけに天沢くんと同じくらい背が高くて、七緒はバスケ部のエース。
七緒の試合は何度か見に行ったことがあるけれど、目が足りないくらいスピード感のある試合の中でも七緒の存在は一際目立っていた。何度もゴールを決めてはチームメイトから頭をわしゃわしゃ撫で回されていて、キジトラの猫じゃなくて大型犬かもって思ったのを覚えている。きっと七緒みたいな人をスーパーエースって言うのだろう。
「そう、天沢くん。偶然バスが同じでさ、初めて話したよ」
「ふうん。でもバレー部って今日は朝練休みって聞いたけど」
「自主練するって言ってた。七緒は朝練?」
「うん。あのさ、璃斗」
「なに?」
「天沢ってあんま近づかないほうがいいよ」
「……どうして?」
「前の学校でヤバイことやらかして転校してきたとか、実は女の子取っ替え引っ替えしてるとか、色んな噂あるから」
七緒の言葉に俺はキョトンとした。確かに天沢くんのことをほとんど知らないけれど、先ほどまで話していた彼は学校で問題を起こしたり、女の子を取っ替え引っ替えするような人には見えない。猫を被っているという可能性もあるけど、そんな二面性があるようにも思えなかった。
「それって本当に天沢くんの話? 一回もそんな噂聞いたことない」
「出回ってないだけだって。天沢が裏で口止めしてんのかも」
「そうかなぁ」
「バスケ部の間では有名なんだよ。だから璃斗も気をつけて」
「でも取っ替え引っ替えするのは女の子でしょ? 俺、男だし。前の学校で何かやらかしてても今はそうじゃなさそうだし、別によくない?」
「噂じゃ男もいけるんだって。これはマジ! 特別棟の空き教室で1年男子と親密そうにしてるの見たって奴がいるから」
「だとしても、それは勝手じゃん。何か理由があったのかもしれないし、言いふらすものじゃないよ」
「う、そうだけど……」
七緒は優しいところと素直なところが取り柄だと思う。今まで彼が誰かを悪く言うなんてことはなかったから、少しだけ驚いた。友達として心配してくれているのは分かっているけれど、噂に左右されて人の印象を決めつけたくない。
「七緒、心配してくれてありがとう。でも俺は、自分の目で見たものを信じたいかな」
「……ごめん。俺、どうかしてた。璃斗を取られちゃうかもと思って……」
「どういう意味?」
「だって、一番の友達じゃん、俺たち。天沢って人気者なのは確かだし、璃斗の一番があいつになるのかもってさ……」
「なにそれ、可愛い! 七緒って本当に可愛いね、そういうところ」
「……嬉しくない!」
「ふふっ」
七緒とは高校からの付き合いだけれど、友達が少ない俺にとって七緒は本当に一番と言えるくらいの友達だ。天沢くんとは違うタイプの人気者である七緒から『一番の友達』と言われるのはすごく嬉しくて、頬が緩むのが分かった。
「七緒、朝練いいの?」
「あ、ヤバ! じゃあまた後でね、璃斗」
バタバタと体育館へ向かう七緒の背中を見送った後、俺は美術室のある2階へ足を進めた。誰もいないシンとした美術室に足を踏み入れ、教室の端っこにあるキャンバスにかけている布を取る。キャンバスの前に座って、雨の音を聞きながら目の前の絵にだけ集中した。
絵を描くことに夢中になっていると、いつの間にか鳴っていたチャイムの音に驚いて手を止めた。
「やば、行かなくちゃ」
再びキャンバスに布をかけて、教室に駆け足で向かう。ちょうど階段の辺りで下から登ってきた天沢くんと遭遇して、俺たちは二人とも「あ」とだけ声が重なった。
「ホームルーム、遅刻間近」
「お互いにね」
なんて、たったそれだけの言葉を交わした後に微笑んで。天沢くんと俺の教室は階が違うからそこで別れたけれど、今朝知り合ったにしては何だか友達っぽいやりとりをしたことに頬が緩むのが自分でも分かった。
それから結局1時間目の現代文の授業中も、窓の外の雨を眺めながら天沢くんのことを考えていた。雨の音が教室に響いていて、それが今朝のバスの中での出来事を思い出させる。ほんのわずかな時間だったけれど、本当に夢や映画のような出来事だったなと思うのだ。
「(前髪が汗で濡れてるの、ちょっとセクシーって言うか……かっこよかったなぁ)」
授業の内容が全然頭に入ってこない。先生が何を話しているのかも、ノートに何を書けばいいのかも。俺の頭の中はずっと天沢くんが占めていて、心はここにあらずという状態だった。
そんなふうに今日は一日中上の空だったから、放課後になる頃にはすっかり雨が止んでいることにも気が付かなかった。朝は分厚い雲に覆われていたけれど、すっきりとした空が広がっていて、柔らかいオレンジ色の太陽が顔を出している。
「……雨、止んじゃった」
無意識に検索していた明日の天気予報。スマホの画面には明日から一週間の天気が載っていて、ぴかぴかの晴れマークが続いていた。晴れたほうが無理をしてバスに乗らなくてもいいし、頭も体も重くなって怠いなんてことにならないし、いいことづくしじゃないか。
そうやって自分を納得させてみたけれど、どこか『残念』と思っている自分がいる。天沢くんが「また今度、雨の日に会えたらいいね」と言ってくれた今朝の言葉を思い出し、雨の日にしか会えないおとぎ話のような王子様の姿を思い浮かべると、重いため息が漏れた。
「あ……」
美術室に行くまでの道のりで、数名の女の子に囲まれている『王子様』の姿が見えた。女の子たちより頭何個分も飛び出ている、背の高い王子様。今までそんなに気にしたことはなかったけれど、何となく眺めていると不意に目が合った。
「(ま・た・ね)」
天沢くんは晴天が広がる空に視線をやり、残念そうに眉を下げた後に口パクでそう言った。声にならない『またね』という言葉が、確かに俺には聞こえたから。天沢くんが次の雨の日を同じように待ち遠しく思ってくれていることが分かって、内心飛び上がりたいほどの嬉しさを感じた。
友達と言うには遠すぎる存在だけれど、何だか特別で不思議な関係。雨の日に秘密の待ち合わせをした俺たちは、本来なら大勢の人が憂鬱になるであろう雨を待ち遠しく思った。