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前編

 

 二人で暮らした部屋を出て、今日から始まるひとり暮らし。


「始まる」というよりは「戻る」といった方が正しいかも。


 私は最近、約四年付き合った彼氏と別れた。


 悲しいけれど、ああ、その時が来たんだな。と納得したふりをして、自分の心に蓋をした。


 彼は年下だった。それも一つや二つではなく、七つ年下。

 彼が十九歳の大学一年生、私が二十六歳の時に付き合い始めて、すぐに同棲を始めた。


 七つも年下の彼との結婚が現実的ではないことくらい最初からわかっていたから、彼との将来を望んでなどいなかった。

 それでも、それを考えなかったと言えば嘘になる。


 現在、彼は大学を卒業し、大手企業に就職したばかりの新社会人。一方、私は三十歳になった。


 四月二日生まれの私は、同い年の友人の中で一番先に年を取る。

 それは彼も同じで、私たちの最初の会話は『同じ誕生日だね』だった。


 彼は今、新入社員研修のために海外にいる。

 出発前日に、私に一枚のメモを渡して彼は言った。


「この部屋を出ようと思うんだ」


 それは私と別れたいということだとすぐに理解した。覚悟していたとはいえ、私は声が震えないように意識して笑顔で言った。


「わかった。支度しとくね」


 彼が渡したメモには彼の新しい住所が書かれていた。


 彼が出ていった部屋でひとりで暮らすのは辛い。私は引っ越すことを決めて、すぐに行動した。


 彼の私物が意外と少ないことに驚きつつ、それらは彼の帰宅日に渡された住所に届くように手配した。




「さてと、部屋も片付いたことだし、ご飯どうしようかな」


 今から自分だけのために作るのも面倒だし……。


「今日くらいはコンビニでもいいでしょ!」


 誰の許しを得る必要もないけど、私はスマホと新しい鍵を持ってコンビニへ向かった。

 手にしたスマホには、当たり前だけど彼からのメッセージはない。


 『俺、口下手だし、そーゆーのも苦手で……。ごめん』


 彼の言葉が頭を過ぎった。




 マンションのエントランスを出て歩道を歩く。空は暗くなり始めていた。


 目の前には二十代前半のカップル。幸せそうに腕を組む姿を見て、脳裏にはあの日の光景が浮かぶ。


 卒業を間近に控えた彼は、同世代の女性と腕を組みながら、不動産屋の前に貼り出されている物件情報を見ていた。


 信号待ちをしていた私は、偶然それを見てしまった。

 嫌な偶然は重なるもので、私の隣には彼の知り合いだろう男性たちがいて、私と同じように彼に気づいた男性たちは、彼のことについて話し始めた。


「あいつ、年上の女と同棲してるんじゃなかった?」

「ああ、卒業だし、別れんだろ?」

「生活費浮かせるための同棲ってマジだったのか」

「じゃなきゃアラサー女とつき合わねぇって」


 男性たちはそう話していた。


 確かに家賃や食費は応相談ということで、私が多めに出していた。私は社会人で彼は学生だったし。


 え? 私、利用されてたの?

 いいえ、彼はそんな人間じゃないわ。

 じゃあ、彼と腕を組んでいるあの女性は何?


 彼を信じたかったけれど、目の前の光景はそれを否定していた。




 私を両腕の中に閉じ込める彼。

 膝枕してと甘える彼。

 激しく私を求める彼。

 私を宝物のように優しく扱う彼。


 いろんな彼を知っていたけど、その中の幾つが本当の彼だったんだろう。


「今更知ったところで何がどう変わる訳でもないか」


 彼の人生に私は必要じゃなかった。ただそれだけ……。





 お弁当を買ってマンションに帰る途中、辺りが明るく照らされた。


 え……?


 目を向けると、ゆっくりと近づく車のヘッドライト。

 衝撃や痛みを感じることもなかった。


 それを感じる前に私は意識を失ったのだろう。次に意識を取り戻した私は、今まで生きてきた世界とは異なる世界で生きていた。




 ***




 一日の仕事を終えて寮へ向かって歩いていると、目の前に大きな影が差した。

 わたしは思わず尻込んでしまう。


「エリゼ嬢、寮まで送ろう」


 雄々しい青年の声。


「寮はすぐそこですし、わざわざ送っていただく必要もないかと……」


 わたしは笑顔を貼り付けて丁重に言った。


「迷惑だろうか」


 眉を下げてそう言う彼は、マティアス・ヴァルキュリア様。近衛騎士隊副隊長であり、ヴァルキュリア侯爵家嫡男。


 赤茶色の短髪に新緑のような緑色の瞳。端正な顔立ちと鍛え抜かれた体躯を持つ彼は、わたしと同じ、結婚適齢期の二十歳。

 独身の令嬢たちにとって最優良物件なのである。


 そんな彼にそう聞かれて、『はい、迷惑です!』なんて言えるわけがない。

 でも、今日こそ言わなければ……!


「いいえ、そういうわけではないのですが……」


 わたしの口からは意思とは反対の言葉が漏れた。


「良かった。では行こう」

「はい……」


 彼にエスコートされて歩く寮までの道のりは、非常に居心地が悪い。

 あちらこちらから、わたしを睨む令嬢たちの視線を感じる。



 どうしてこんな事に……。


 

 マティアス様がわたしの前に現れるようになったのは、ひと月前の王城で開かれた夜会。

 わたしが初めて参加した王都での夜会からだ。



 我がリモージュ家は貴族ではあるが、父が治めるのは地方の小さな子爵領。

 爵位は弟が継ぐことになっている。


 わたしには婚約者もいなければ結婚願望もない。

 だからと言って結婚もせずにいつまでも家にいては弟の迷惑になってしまうので、わたしは王都で働くことを決め、十六歳で成人を迎えたと同時に王城で事務官として働き始めた。


 以来四年間、黒髪黒目の地味な容姿と同じように、地味に真面目に生きてきた。


 けれどひと月前、上司命令で急遽夜会に参加することになってしまった。


 上司と共に一通りの挨拶を終えて、バルコニーで休んでいたわたしのもとに、突然現れたのがマティアス様だった。


 マティアス様はわたしを見るなり跪いて言った。


「結婚してください」


 はい……? 異世界ドッキリ? そう思ったわたしは悪くないと思う。


 だってわたしたちは初対面だったのだから。

 もちろんわたしは一方的に彼を知っていた。


 近衛騎士隊副隊長、ヴァルキュリア侯爵家嫡男、鉄壁の防御者、冷静な戦略家、不屈の精神。彼を表す言葉が頭に浮かんだ。


 なるほど。わたしは黒髪だし、ドレスは紺色だ。

 室内の明かりが届かないバルコニーでは、暗くてわたしの姿が見えなかったのね。


 わたしに気付かず、そこにいるだろう令嬢に求婚したんだわ。


 そう思って、わたしは辺りを確認した。けれど、そこにはわたしの他に誰もいなかった。


 あれっ? 


 では、マティアス様は人違いをしてるんだわ。


 下位の者から名乗るのはマナー違反だけれど仕方がない。


「人違いをなさっているようです。わたくしはエリゼ・リモージュと申します」


 わたしがそう言うと、彼は首を振って言った。


「いいえ、人違いではありません。エリゼ嬢、私はあなたに求婚しています」


 マティアス様、酔っていらっしゃるのかしら。


「失礼した。私はマティアス・ヴァルキュリア。近衛騎士隊副隊長の任に就いております」


 知っています。


「あの、かなりお酒を……? お水を持ってきましょうか?」

「酔ってなどいません」


 それなら……。


「ヴァルキュリア様、間違いは誰にでもありますわ。大丈夫です。わたくしはこのことを誰にも言いません。ご安心を」


 間違ってしまって引っ込みがつかなくなったのではないかと、わたしはそう提案したのだけれど、マティアス様の態度は変わらなかった。


「どうかマティアスと。私は人違いでも間違いでも酔っているわけでもなく、本気でエリゼ・リモージュ嬢に求婚しています」


 それが真実だとしたら、なぜ初対面で求婚を?


「ええと……、初対面だと思うのですが……」

「そうですね」


『そうですね』!?


「申し訳ありません。失礼いたします」


 わたしはどう対処したら良いのかわからず、その場を逃げ出してしまった。





 翌日、昨日のあれは何だったんだろう? と思いながら一日の仕事を終えたわたしのもとに、マティアス様は現れた。すぐそこの寮まで送ると言って。


 わたしは受け入れるしかなかった。


 最初わたしは断ったのだ。けれどマティアス様は、わたしと一定の距離を開けたまま、わたしの後をついてきたのだ。


 一日目は気づかないふりをした。

 二日目は再び断りを入れた。それでもマティアス様は後をついてきた。

 三日目は違うルートで帰った。けれど、気づけばマティアス様が後ろにいた。


 このままではまずい。マティアス様に変な噂がたってしまう。


 そう思い、わたしは毎回断っている。けれど、わたしが毎回断っているにも関わらず、マティアス様は毎日わたしを送るために現れる。不屈の精神とはよく言ったものだ。





「マティアス様、ありがとうございました」


 寮に着いたため、わたしはそう言って頭を下げた。


「エリゼ嬢、来週の我が家主催の夜会に、私のパートナーとして出席していただけないだろうか」


 ヴァルキュリア侯爵家主催の夜会に、マティアス様のパートナー!? そんなことをしたら、わたしがマティアス様の婚約者だと周知させるようなものだわ。


 無理……! 言わなければ……。


「マティアス様……。我が家は貧しくもなければ裕福でもない地方の一般的な子爵家です。わたくしと結婚しても、マティアス様が得るものは何もありません……」


 わたしがそう言うと、マティアス様は真剣な顔をして言った。


「私はあなた以外に得たいものなどない。私はあなたを愛している」


 どうしてこんなセリフをさらりと言えるのかしら……。異世界文化!?


「わたくしとマティアス様では釣り合いません……」

「出世して近衛騎士隊長になれば、少しはあなたに釣り合うだろうか」


 …………は?


「ち、違います! わたくしではマティアス様に釣り合いません! マティアス様には、他にふさわしい令嬢がいると思います」


 わたしは慌てて訂正した。


「エリゼ嬢、私を嫌いか?」

「いいえ、そうではありません……」


 わたしは先ほどと同じようなセリフを言った。


「私を嫌いでないのなら、どうか私のパートナーに」

「…………わかりました」


 そう答えるしかなかった。


「では、失礼します」


 わたしは寮の自室に入り、窓から外のマティアス様に手を振った。

 マティアス様はわたしが寮に入っても、自室に入った形跡を確認するまでその場に留まって動こうとしないのだ。

 それに気が付いたのは何日目だっただろう。


「何でわたしなのかしら……」


 他の令嬢に比べて秀でた何かがあるわけでもないのに……。



『私はあなた以外に得たいものなどない。私はあなたを愛している』

『私を嫌いでないのなら、どうか私のパートナーに』


 マティアス様の言葉を思い出す。

 彼にあのように言われて、ときめかない女性なんていない。


 わたしは怖いのだ。


 彼の気持ちに答えたら、きっと幸せに過ごせるだろう。けれど、その幸せがずっと続くという保証はない。


 いつか終わりがあることがわかっていた前世においても、恋人との別れは悲しくて寂しくて辛かった。

 その思いを引きずったまま死んでしまったから、今世においても恋に臆病なのかもしれない。


 あんな思いをするくらいなら、ずっとひとりのままでいい。働いてお金を貯めて、田舎に小さな家を買って、余生はのんびりと暮らしていきたい。



「夜会か……」


 しかもヴァルキュリア侯爵家の。


 ヴァルキュリア侯爵家は、王家に連なる家系だ。

 嫡男であるマティアス様のパートナーが地方の下位貴族の令嬢だなんて、それこそご家族が反対……そうよ!


 夜会に参加したら良いんだわ。そうすれば、ヴァルキュリア侯爵様も侯爵夫人も、わたしを認めないと言うはずだわ。


 そうしてそのまま会場を辞せば、マティアス様も目を覚ますことだろう。

 

 最初から何も心配することなんてなかったんだわ!












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