第7話:飲食店 エイプリル・スプリング(3)
その日をきっかけに、ソニアはアレンに対して奇妙な感情を向けるようになった。
料理を運ぶ際も、客の対応をしている際も、ただそこにアレンが現れただけで、彼女は顔から笑みを消し、固まった。
当初は確信を得られなかったアレンであるが、観察していくうちに、ソニアが抱いている感情の正体が「恐怖」であることに――それも、人間としてではなく、まるで化け物を見るような目で何かに動揺し、怯えていることに気づいた。
無論、原因も理由も一切不明のまま、結果としてアレンはソニアを意識するようになってしまったのである。
「――ちゃんと聞いているのですか、フォルトロスさん!?」
「は、はい! 申し訳ありません!」
過去を思い出していたアレンの耳に、聞き慣れた女の怒声が飛び込んできた。
改めて意識を向けてみると、未だに料理を落とした件でソニアを叱責しているルチエラの姿があった。
(……あの二人、まだやってたのかよ)
赤の他人とはいえ、いい加減この光景にも飽きてきたアレン。
視線をずらして従業員達を見てみたものの、変わらず傍観者に徹するのみで、誰一人としてソニアに助け舟を出そうとする者はいなかった。
「――臆病者の集団」。
誰にも聞き取れないくらいの小さな声で、アレンは彼らを罵倒した。
「本当にあなた、毎度毎度、よく飽きもせずに店の備品を壊しますねぇ。落とした料理も食器もただではないのですよ? そんなヘマをする従業員は、あそこに立っているジュランさんと同様、いっそクビになった方が皆も助かるのですよ? ここでもまたクビにされたら、次は一体、どこを彷徨うのでしょうねぇ?」
「……っ!」
思い出したくもない過去のトラウマをネタにされ、声にならない悲鳴をソニアは上げる。
既に両目に涙を浮かばせ、泣き出す寸前になっていた。
そんな彼女を余裕の笑みで見下しながら、悪意に満ちた言葉で更にルチエラは責めようとする。
しかしこの時、不意に止める者が現れた――アレンだ。
「ルチエラさん」
裏口から調理台へと移動し、アレンはルチエラの肩を馴れ馴れしく掴んで呼び止める。
楽しみである「叱責」を第三者に妨害され、一度は不愉快そうな表情を浮かべるルチエラであったが、呼び止めた相手の顔を認識した途端、再び尊大な態度を取り始める。
「あら、何ですか? ジュランさん。あなたも同じ旅人であるフォルトロスさんの肩を持つ気? 悪いけれど、あなたの相手はフォルトロスさんの後に、先程の不敬な発言についてきっちりと――」
「危ないですよ?」
ルチエラの話を最後まで聞かずに、アレンは飛びっきりの笑顔を彼女に向けると、意味ありげな言い方で警告した。
「何ですって――きゃあっ!?」
何を言っているのか分からない、そんな顔でいられたのも束の間。
突如、轟音と共に燃え上がった炎がルチエラの袖部分に襲い掛かっていった。
そこには調理台があった。
油が敷かれた状態で火がつけっぱなしのフライパン。
先程から続く喧騒で、仕事中であることを忘れてただ傍観しているだけの料理人。
そしてそのことに気づかずに、火元である調理台の端に手を乗せていたルチエラ――つまり、放っておけばどのような事態に繋がるかなど、注意深く観察していた人間ならば誰だって気づけたことだろう。
「熱い、熱い……っ!!」
次第に燃え広がっていく炎に、悲鳴に近い叫び声を上げながら必死に水道を探し求めるルチエラ。
彼女の周りにいた従業員達も急いで消火活動に取り掛かりつつ、完全に錯乱状態に陥っているルチエラの腕を引いて、近くの流し台へと誘導する。
「――ぷ、くくく……っ」
それまで横暴な振る舞いをしていた人物が必死の形相で取り乱している姿に笑いを堪えきれなかったのだろう。
ただ一人アレンだけは、腕で口元を押さえ、滑稽だと言わんばかりに、ルチエラの身に降りかかった災難を見つめていた。
「ジュランさん……っ!」
自分を嘲笑っている存在に気づいたのか、流し台で患部を冷やし続けていたルチエラは憎しみのこもった表情でアレンを睨みつける。
見ると、彼女は今にも暴言を吐きだしそうな顔で小刻みに唇を震わせていた。
「どうかしましたか? 私はちゃんと『危ない』と警告しましたよ? それに、いくら厨房の中とは言え、大声で騒がれますとお店にいるお客様の耳に入ってしまうのではないでしょうか? まさかとは思いますが、誇り高き貴族様がそんなはしたない真似なんて、しませんよね?」
論理的な言葉を用いて、アレンはニッコリと微笑みかけると、手のひらを使って店内を見るように促した。
幾分か取り戻した理性でルチエラが確認してみると、一番厨房に近いテーブル席に座っていた客達が、一向に届かない料理を待ちながら中の様子をうかがっているのが見えた。
「そんなことより、早く作業に取り掛かりません? これ以上、料理の提供時間が遅れてしまいますと、お客様から苦情が来てしまいますよ? では、私は扉の片付けがありますので、これで失礼致します」
「……くっ。皆さん、何をしているのですか?! ぼさっとしていないで早く自分達の作業に戻りなさい! フォルトロスさんも、いつまでも床に座られたままだと困ります! さっさと立ち上がって、床の掃除を済ませなさい!」
分が悪くなった自身の立場をごまかすように、怒声に近い声で従業員達に指示を下すルチエラ。
全員が本来の仕事に戻り始める中、アレンは誰にも気づかれることなく「はっ」と鼻で笑い出すと、箒とちり取りがしまわれている掃除用具入れへ向かうため、早々とこの場から立ち去ろうとした。
「あ、……っ」
その時、一瞬であったが通りかかる際に、偶然、視界の隅に映り込んでいるソニアと目が合ってしまった。
例の恐怖に怯えた眼差しを向けながら、口を開いた状態で固まっている。
アレンは彼女の前で立ち止まると、心底うんざりした顔で深いため息をつき、そっと囁いた。
「さっきから、何怯えた顔で私を見ているのですか? これから掃除をしなければならないのですよ。用がないのでしたら、……早くこの場所でも片付けてろよ」
「ご、ごめんなさい……っ!」
今までの丁寧な言葉遣いから一転し、急に口調が荒くなったアレンの辛辣な言葉を聞いて、すぐに謝罪の意を伝えるソニア。
そしていち早く掃除用具入れへ向かうと、中からモップを取り出して、先程まで自身が座り込んでいた場所へと帰っていった。
そんな彼女の姿を、後からやって来たアレンもすれ違いざまに確認し終えると、それ以上のことは何もしないで、扉を片付けるべく無言で裏口へと去っていった。
「……はっ……はあっ……はあっ……」
各々が慌ただしく働く厨房内。
やがて背後からアレンの気配が感じ取れなくなった頃、その場に立ち止まっていたソニアは目を見開き、崩れるように床に座り込んでしまった。
「……はっ……はあ、は……ああああ……っ」
背中を大きく震わせ、懸命に自身をなだめるソニア。
思うように呼吸ができない感覚に苦しみながらも、何かを伝えようと必死に震える唇を動かす。
「――ごめんなさい、アレンさん。本当に、本当に……っ」
周囲の音に掻き消されてしまうほどの弱々しい声。
決して相手に届くことのないこの言葉は、いつもの恐怖に満ちた感情からくるものではなく、何故か祈りを含んだ謝罪からくるものであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇