第5話:飲食店 エイプリル・スプリング(1)
「ジュランさん! あなたは店の備品に限らず、ついに店そのものを壊すようになったのですか?! バイトの身でよくそんなことが出来ますね! そもそも勤め先の扉を蹴って入るなんて、一体どんな教育を受けてきたのかしら?! あなたの国では、扉に鍵が掛かっていたら蹴破ってでも入るという風習でもあるのですか?! とにかく、このことは店長が戻ってきましたらきっちり報告させていただきます!」
耳をつんざくような女の怒声が厨房内に響き渡る。
突然に扉が蹴破られたことによって、この場で働いていた誰もが驚愕の表情を浮かべていたが、それ以上に厨房を取り仕切る「臨時責任者」の叱責に、一同の視線はアレン達二人に向けられていた。
叱責しているこの相手――繁華街においてアレンの会話に出てきた、代理店長を務める女従業員ルチエラ・レナ・メネスは、眼鏡のブリッジを押し上げながら苛立たしげにアレンを見据える。
名前の後に続く「レナ」という姓。
それを見れば、彼女が貴族の出であることは一目瞭然だろう。
この国エスレーダでは戸籍法に基づき、貴族は名と姓の間に、当主の母方の姓も入れなければならないと定められている。
つまり、この形式は貴族の証。ただし、彼女の生まれであるメネス家は由緒正しき名門貴族というわけではなく、国に多大な功績を残したことにより爵位を得た、いわゆる成り上がりの最下位貴族である。
元々平民の出であるルチエラの父は、祖父の代から受け継がれてきた『魔石』と呼ばれる、再生技術を開発するに当たって必要不可欠となる特殊な鉱石が採れる鉱山の所有者であった。
彼はその鉱山と魔石の所有権を国に献上したことで上層都市より恩賞を与えられ、晴れて貴族の仲間入りとなることが出来たのである。
――では、息女の身である彼女が、何故このような飲食店で働いているのだろうか?
ルチエラがメネス家に生を受けたのは、両親が爵位を授かった後の出来事。
身分上、確かに彼女は貴族に違いないが、所詮は平民の血を引く半端者。他の貴族達から正式に認めてもらうためには、まずは平民に混じって大業を成し遂げてからではならないのだ。
そんな焦りもあるのだろう。
ルチエラの経営方針には「成功」の二文字しか追求していないところがあった。
従業員達が少しでもミスをするようならば、容赦なく締め上げる。
無論、この場にいる誰もがそんな彼女に不満を抱いてはいたものの、誰一人として口答えする者はいなかった。
答えは至極簡単、彼女が貴族であるからだ。
ルチエラが店長に代理を任せられたのも、そうした理由があったからなのである。
「それ以前にあなた、今日も遅刻をしましたよね? あなたを採用して以来、毎日のように遅刻をしていますが、そんな調子でよく仕事を続けたいと思いますねぇ? やはり、身分の低い方々が考えていることなんて、私には到底理解出来ません。契約上、店を運営するのに相応しくないと判断された者はどのような処分を受けるのかはもうご存じですよね?」
唐突に態度を改め、微笑みを浮かべてアレンに詰め寄るルチエラ。
しかし表情とは裏腹に、その言葉と声音からは完全に相手を見下しきった、彼女の性格の悪さがにじみ出ていた。
(……別の人間にだったら多少なりとも反省して謝るかもしれねえが、こいつにだけは死んでもやりたくねえ。今日はやけに腸が煮えくり返らずに済んでるが、そうじゃなければ今あたしに喧嘩を売ってるこのクソ女の顔面に一発入れねえと気が済まなかっただろうな)
アレンとて長い年月、異国で様々な事件や困難に巻き込まれては、ジンと共に乗り越えてきた旅人である以上、相手の見え透いた挑発に乗って殴り掛かるような真似は決してしない。
この手の輩はわざと相手の神経を逆撫でし、危害を加えさせるのが狙いなのだ。
暴力沙汰になれば、間違いなく標的の立場は悪くなるだろう。
反対に、抗う力のない弱者だと判断した場合には、侮辱的な言葉を浴びせ続け、徹底的に自尊心を踏みにじっていく――なんと悪辣極まりない戦略であろうか。
とりわけルチエラは両親とは違い、「平民としての謙遜な心」というものを全く知らない。
生まれた時から貴族であった彼女は、自身を「崇め奉る者」として、歪んだ価値観を抱いたまま育ってきたのである。
全ての貴族が皆同じというわけではないが、上流階級特有の傲慢さが彼女の中に存在していた。
「あなたみたいな方は社会には必要のない者としてクビにされるのですよ? あら、失礼。旅人なんかに、社会との繋がりなんてこれっぽっちもありませんでしたね。可哀想に」
(あーっ!! マジで我慢ならねえ! 落ち着け、手のひらに『撃砕』って書いて、そこのデッキブラシでやつの頭部を叩きのめす様でも想像しろ!)
湧き上がる衝動を抑えながら、懸命にルチエラの挑発を聞き流そうとするアレン。
そんな何も言い返さない彼女を見て、自分に屈していると勘違いしたのだろう。
「クビ」という名の切り札をちらつかせたルチエラは、勝ち誇った顔で鼻を鳴らした。
従業員にとって職を失うことは最大の痛手。
ましてや旅人がそのような状態に陥ってしまえば、文字通り「路頭に迷う」生活を余儀なくされてしまう。
ルチエラの性格上、出来るものならとっくにアレンを解雇しているはずであったが、実際はそうはいかなかった。
「店長代理」――あくまで彼女は店長が店に復帰するまでの間、彼に代わって従業員達をまとめていく仕事「のみ」を任せられた存在なのである。
つまり、従業員を解雇する権限は彼女にはない。
今もなお、尊大な態度を取り続けるルチエラであるが、内心ではアレンに決定打を与えることの出来ない中途半端な状態に歯がゆさを覚えているのであった。
解雇に出来ないからこそ、挑発の度合いも増してくる。
「……全く、店長が店にいらしていないからよかったものを。寛大な私に当たったことを感謝しなさい? 取りあえず、そこの扉は直せませんので、仕事に取り掛かる前に片付けてもらえません? 当然、あなたに修繕費を出してもらいますので、バイト代はないと思ってください」
そう言い残し、アレンの元を離れるルチエラ。
その後ろ姿を眺めながら、アレンは深く重いため息をつき、思考を巡らせる。
(当分はどれだけ働いてもただ働きってことか。ジンに持ってく手土産がねえじゃねえか。いや、それ以前にこの状況をあいつが知ったら、盛大にため息をついてからその場で説教を始めるに違いねえ!)
直後、アレンの脳内にある映像が映し出される。
いつもより呆れきった顔で説教を行うジン。その様子はとてつもなく不快なものとして映り、それまで抑えていた怒りを呼び起こすきっかけとなってしまった。
(そう思うと余計腹が立つ! つか、やっぱり苛立ちが収まらねえ! とにかく、あそこで突っ立ってる「私に感謝しなさい?」とか抜かしたクソ女に何か一言でも言わねえと気が済まねえ!)
と、アレンは意を決し、壁に掛けられている時計を見た。
現在の時刻は七時五十九分三十秒。時間が切り替わるまで、あと少しも掛からないだろう。
(女っぽい喋り方をするのは好きじゃねえが……)
瞼を閉じ、小声で数言何かを唱えるアレン。
これまで彼女は接客業という仕事柄、店にいる間は一度も男口調で話さずに、「あたし」を「私」に、「~じゃねえ」を「~じゃない」といった具合で切り替えながら働いてきたのである。
発言するにも、慣れない言葉遣いで話さなければならないため、必要以上の会話を避けてきた彼女であるが、今回はもう限界であった。
両目を開け、再度時間を確認したアレンは、何かを待ち望むように残りの五秒間を数え始める。
……五、……四、……三、……二、……一――。
「あ~、やっぱり貴族様は下々にいる人間が人間として認識出来ないくらい、かなりのど近眼だったみたいですねぇ~? お金をけちっていないで、視力が悪化する前にさっさと高価な眼鏡をご使用なさってみたらどうですかぁ~?」
――午前八時ジャスト。
分針と秒針が真上を指したのと同時刻に、厨房全体に響き渡った「とんでもない発言」に、全員が一瞬で固まった。
食器を洗い流していた作業員が、
調理をしていた料理人が、
料理を運ぼうとしていたウェイトレスが、
誰一人として例外なく、恐れおののいた顔でアレンを見る。
そして一番反応が遅かったルチエラは、まさか自分が身分の低い平民から馬鹿にされるとは毛頭思ってもいなかったのだろう。
ゆっくりと背後を振り返り、悪鬼の形相で体を震わせていた。
皆が息を呑んで見守る中、アレンは笑みさえ浮かべて微動だにしない。
そんな彼女に食って掛かろうと、ルチエラが一歩踏み出したその時だった。
突然、タイミングを見計らったかの如く、食器が割れる音が調理台の奥から聞こえてきた。
まるで二人の間に割って入るようなその音に、アレンを除いた全員が一様に視線を向ける。
そこには一人の成人女性が、割れた食器と散乱した料理の前で、膝をついて座り込んでいる姿があった。
彼女の名前はソニア・フォルトロス。ここ最近、隣国ヤスガルンからやって来た、アレンの同僚のウェイトレスである。