第4話:少女と青年(2)
「そう言えばお前、今朝パン食いながら『何か忘れてるような』とか言っていたよな? それって仕事のことだろ。つか、仕事なんだろ。すげえな、どんだけ仕事のことを忘れているんだよ。普通、雇われの身で生活費を稼げる場所のことを忘れる奴なんてそうそういねえよ。俺も人生長いこと生きてきたが、ここまで仕事のことを忘れている奴は初めて見た。今になって言える、いや、本当にすげえよ」
「……おまえ、何か今日、喋り方がおかしくねえか? やめろ、感心したように言うな。おまえがそんな喋り方をしてると、相当うざい。ついでに言うと気味悪ぃ」
「大体、何で仕事日数が増えているんだよ。お前の日数、確か週四だったよな? 俺の記憶が正しければの話だがよ」
「店長が仕事中に原因不明の腹痛起こして、現在療養中なんだとよ。今まで店長の下で店切り盛りしてたやつが急に代理で従業員のやつらを指導しなくちゃならねえから、厨房の方も大変でな。そんなもんだから、人手不足を解消するために働けるやつは駆り出せるだけ駆り出そうと、ここ一週間は皆店に行かなくちゃならねえんだよ」
その時だった。アレンが厨房の話をした途端、何故かジンの表情がこわばった。
「……なあ、お前最近厨房で何か作ったか?」
「は?」
「……いや、心当たりがねえんだったら別にいいんだけどよ。作ったんだったら多分客足も少なくなっていると思うから、厨房の方も少しは楽になっているんじゃねえかなーと思っただけさ」
「わけ分かんねえよ」
「いや、気にするな。ところでお前の仕事先、あそこの店だろ? そろそろ剣、預けた方がいいんじゃねえのか?」
会話を中断し、通りの一角にある店をジンは指差して教える。
アレンが視線を向けると、そこには淡い桃色の花が描かれた看板の、レトロチックな造りの建物があった。気づけば自分達が、露店が立ち並ぶ先程の大通りを抜けて、『繁華街』と呼ばれる広々とした別の大通りに出ていることが分かった。
――繁華街。
飲食店や宿場、日用雑貨店といった屋内で商いを営む店が集中する、イレイザートが誇る商業区域の名称。ここでは呼び込みに精を出す商人に代わって、余暇を楽しむために訪れた人々や、出稼ぎに来た旅人の姿が多くうかがえ、露店とはまた違った雰囲気を醸し出していた。
ようやく店の前までたどり着き、アレンは数歩ほど後ろに下がると、目を細めて建物の壁に遮られた太陽を見つめる。
「やっべえ~。この遮り方だと大分遅刻してるな。まあ、いいや。取りあえず一分一秒でも早く、店の中に入らねえとな」
「何だその時間の計り方。そんな無駄な才能身につけるくらいなら、遅刻なんかするんじゃねえよ」
呆れ顔でアレンをたしなめるジン。毎度のことではあるが、ここまで精神攻撃が続くと、彼にとって一種の拷問に近いものがあった。
「あー、はいはい、分かりましたってーの。じゃ、仕事してくるから、おまえは適当にその辺で待ってろ」
そう言って、腰に差していた剣をジンに渡すアレン。そして彼の元を離れると、店の脇を通る薄暗い細い路地に入っていった。
この先には店の裏口に繋がる従業員専用の入り口があり、彼女を含め、ここで働く者はそこから入らなければならなかった。
やがてアレンの姿も見えなくなり、通りに一人取り残されたジンは手近なところにあった壁にもたれ掛かり、ぼんやりと街の景色を眺めた。
澄み渡った晴天の空から注がれる日の光を浴びて、灰色の石面を明るく照り返す石畳。
店先や家の窓に飾られた色とりどりの花々に、名匠によって造られた趣向を凝らした造形物。
通り中に見られるレンガ造りの建物や、道行く人々の楽しげな笑顔――。
美しい風景。幸せそうな表情。街を見れば至るところにそれらが満ち溢れている。
だが、どんなに美しい風景も音も、住む世界が違う者にとってはただの極彩色と不協和音にしかならない。何を見たとしても「幸せ」といったものが脆く、無価値なものにしか見えてこないのだとジンは考える。
「……」
ここでジンが思い浮かべたのは、あの紅い髪の少女のことであった。
彼は微かに顔を曇らせると、指先に当たっていた壁の表面を引っ掻いてみる。すると厚手のグローブ越しに、確かな手ごたえを感じた。
「……ま、俺が心配したところで、簡単に変われるものじゃねえことは分かっているけどな」
憂いを帯びた目でうっすらと笑い、そう呟くジン。
「さーてと、いつまでも陰気臭くいるわけにはいかねえよな。あいつの言う通り、適当にその辺で待っているとするかぁ!」
体を預けていた壁から勢いよく背を離し、ジンは気を取り直して石畳の上を歩き出す。
しかしすぐに、彼は足を止めて、裏口に続く細い路地へ視線を送った。
(確かあいつ、仕事が終わったら裏口から出て来るんだったな)
普段であれば付近をうろつきつつ、窓越しで中の様子を見守るジンであったが、たまには別の場所から迎えに行って驚かすのも悪くはないと心の中で思った。
ふっと表情を緩め、まずは最初の定位置である店の前に着こうと、再び動き始めたちょうどその時だった。
従業員しか使わないはずの路地の奥から、重い打撃音と同時に、分厚い板が打ち破られる異様な音が彼の耳に届いた。
ジンは眉をひそめると、立ち止まったまま、先の見えない薄闇の向こう側をじっと見つめる。
「……何か、路地の奥でどっかの馬鹿女が木製の何かを蹴破った音が聞こえてきたな。ここまで届くということは、物凄い勢いで蹴りつけやがったのと、その扉という何かはもう修繕不可能な状態になっているってことだよな」
頭を抱えたくなる出来事に、現実逃避を企てるジン。
しかし、いくら気を紛らわせようとも、現実は容赦なくある事実を彼に突きつける。
(あ~、こりゃ請求費が凄そうだなー。もう、仕事も駄目かもしれねえ)
「……やっぱ、今回も店の前で待つか」
そう頷くと、ジンは即座に先程の考えを撤回して、逃げるように店先に向かって走り去っていった。
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