彼の瞳に映るのは
よろしくお願いします!
『あ……またあの人を見てる』
わたしはわたしの婚約者の視線を辿る。
彼の視線の先にいるのは……
わたしの婚約者の瞳にいつも映っているのは、
わたしではない。
彼には……心から愛する女性がいるのだ。
でも彼がどんなにその人を想っていても、
結ばれる事は許されない。
血が繋がらないとはいえ、彼女は彼の姉だから。
わたしの婚約者が13歳の時に彼の父親は再婚した。
その相手の女性の連れ子だったのが彼女だったのだ。
きっと最初から好きだったわけではないと思う。
突然姉弟となり、家族となり、戸惑いながらも暮らしてゆくうちに恋情へと変わっていったのだろう。
わたしと彼は幼馴染だったけど、
17歳の時に婚約が結ばれるまで……いや婚約が結ばれた後も、わたしは彼の心に彼女がいる事を知らなかった。
ちょっと注意深く見ていればこんなにもわかり易いほど、彼は彼女しか見ていないというのに。
職場の仲間に教えて貰うまで、何も気付かなかったのだ。
わたしは本当にバカだ。
初恋の人と結婚出来る!なんて脳天気に喜んでいる場合ではなかった。
知っていれば、正式に婚約が結ばれてしまう前になんやかんやと理由を付けて辞退出来ただろうに。
以前から彼の実家に援助を受けてきた我が家が今さら婚約解消なんて言える筈がない。
だからただ、わたしはわたしの想いを呑み込んで、彼との婚約を継続するしかないのだ。
例え彼が何かにつけて彼女を優先したとしても。
騎士として剣術の鍛錬ばかりに重きを置いて、わたしとの時間をあまり取ってくれなくても。
長男として親が決めた相手と結婚しても生涯、心の中で彼女だけを想い続ける事を誓っていたとしても。
わたしはもう彼に幼馴染以上の感情を抱いて貰える事を諦めた。
甘い言葉を囁いて、その瞳にわたしを映してくれる事を諦めた。
幸いわたしには仕事がある。
昨今では結婚前の女性が働くのは当たり前の時代になっている。
それにわたしみたいな中産階級の底辺の位置にいる家の娘は、結婚後も働き続ける人も増えてきているという。
彼が仕事を辞めずに働く事を許してくれるかどうかはわからないけど、出来る事ならばこのまま仕事を続けたい。
もし結婚生活が上手くいかなくて破綻したとしても、仕事さえあればなんとか一人で生きていける。
それに……それに、わたしの生き甲斐、“推し事”の為にはどうしても“お仕事”が必要なのだ。
お小遣いを稼ぐために。
彼への想いを呑み込むのと同時に、美味しいお肉も飲み込む為には働かなくていけない。
わたしのお仕事は医療魔術師。
そしてわたしの生き甲斐は……
小説[うしオトコ]に出てくる登場人物、イコリス牛のバックス=ビーフを食べて食べて食べまくる事なのだ。
[うしオトコ]は大陸の国々の名産の食牛をイケメンに擬人化させてその美味しさと肉の品質の良さを競い合う、今巷で大人気の小説なのだ。
[うしオトコ]ファンは推しの肉を食べまくり、産地に貢献する活動を怠ってはならない。
どれだけ多く食べられたかで、そのキャラのランキングが左右されるから。
公式では近頃はオッズまで作成されている。
そしてもちろんグッズを入手する事も忘れてはならない。
産地に赴き、モデルとなった牛に拝謁するという聖地巡礼も存在する。
だからどうしてもわたしには現金を稼ぐ必要があるのだ。
………話が逸れてしまったけど
これがわたし、ルリユル=ホワイト(18)の現状だ。
そしてわたしの目の前には、想い人を一心に見つめ続ける婚約者のシューター=ブラック(18)がいる。
今日は久しぶりにプライベートで会ったというのに、演習場で鍛錬をしている義姉のアレクシア様(22)に目が釘付けだ。
そんなに見たらアレクシア様に穴が空くわよ?
と言いたくなるくらいにじっと見つめているのだ。
いつまで見たら気が済むのだろう。
わたしは彼に言ってみた。
「シュー、そんなに気になるなら声をかけてきたら?」
わたしのその言葉に彼は…シューは一瞬「え」と躊躇いがちにしながらも、どうしても彼女の元へと行きたかったのか「ごめん、ちょっとだけ待ってて」と言って走って行った。
あーあ、そんなに嬉しそうに向かって行かなくても。
行けば、と言ったわたしもわたしだけど。
そんな事を思いながら、5分、10分と彼を待つ。
やがて30分が過ぎた頃にちらりと演習場を見ると、
シューはアレクシア様と模擬戦をしていた。
…………完全に忘れられている……
でもわたしは驚かないし、怒らない。
だって今に始まった事ではないから。
シューの頭の中を占めるのは、騎士としての誇りと剣技とアレクシア様だけだからだ。
わたしの事は耳掻き一杯分くらいの容量でもあれば良い方ではないだろうか。
わたしはゆっくりと後退り、その場を去った。
今日は本当なら人気の芝居を見て、食事をして……と相談して決めていたのに。
まぁあのまま無理にシューを引っ張って出掛けたとしても、きっと後ろ髪引かれて心ここに在らずになるのは目に見えていた。
『だから待ち合わせは王宮の外にしようと言ったのに……』
王宮に居れば、同じく女性騎士として城勤めしているアレクシア様と遭遇する確率が高くなる。
そうなればさっきみたいな事になるから。
もういいけど……
店のガラス窓に映った自分を見て、笑ってしまう。
せっかくの新しいワンピースが台無しだ。
淡いミントグリーンのワンピース。
わたしの気分とは裏腹に軽やかで爽やかな色合いだ。
なんだか不釣り合いなものを着ているような気がして、思わず俯いてしまいそうになる。
『こういう時はアレね、やっぱり肉を食べなくては』
わたしはステーキ肉のほとばしる肉汁を想像した。
ダウンしかけた気分が浮上してくる。
[うしオトコ]でのわたしの最推し、
イコリスビーフのバックスを食べて元気を出そう。
[うしオトコ]メンバーは、
ハイラント牛のジッド=ビーフ
(黒毛…じゃない、黒髪のクール系イケメン)
ハイラム牛のギルバート=ビーフ
(茶髪の明るい系イケメン)
アデリオール牛のクロッカス=ビーフ
(プラチナブロンドの物静かなイケメン)
オリオル牛のキャスティン=ビーフ
(金髪の王子さま系イケメン)
アブラス牛のブルサス=ビーフ
(黒髪のマッチョ系イケメン)
ローラント牛のジェルマン=ビーフ
(銀髪の俺様系イケメン)
そしてわたしの推し、
イコリス牛のバックス=ビーフだ。
バックスは赤毛の勇敢な勇者タイプのイケメンで、
もちろんイコリス王国名産のバックス牛をモチーフにデザインされている。
かつてイコリス王国に実在した勇猛な騎士団長からその名を貰った、大陸でも一位二位を争う高品質な肉質が人気の食牛なのだ。
[うしオトコ]を知る前からお肉が大好きで、自他共に認める肉食獣のわたし。
イコリス牛の噛みごたえがあるのに柔らかい肉質と甘い脂身が超好みで、小説の挿絵の為にデザインされた見た目の好みも相まって、バックス=ビーフ推しになったのだ。
美味しくてカッコよくて、そしてコスパも良い。
マジ尊い、ご馳走様です。
いつもは仕事仲間であり、推し事仲間でもあるオレリーと行きつけのステーキハウスに行くのだが、今日は一人で行っちゃおう。
お腹いっぱい推しを食べてパワーを貰おう。
そう決めたわたしは、足取りも軽く王都の一画にあるステーキハウスへと向かった。
そして奮発して300グラムのリブロースを注文し、ほとばしる肉汁を堪能する。
『あぁ……幸せ……わたし、べつに結婚しなくても生きていけるのになぁ』
なんて、バックス様の尊いお肉を咀嚼しながら考える。
憂さ晴らしなので赤ワインも呑んで、大満足で店を後にした。
酔っ払う、というほどではないがフワフワとした足取りが心地よい。
夕方の風に当たり、酔いを覚ましながら帰路に就く。
わたしは王宮内の寮住まいなので、王宮に続くいつもの道をゆっくりと歩いて行った。
王宮に戻り、寮の前に人影がある事に気付く。
………あれは……
「シュー……」
婚約者のシューター=ブラックが寮の門の近くで立っていた。
シューはわたしの姿を見つけると、眉根を寄せてこちらに向かって来た。
何か急用かしら?
「……ルリ、酔ってるのか?」
「酔ってないわ。グラスワインを一杯呑んだだけだもの」
「どうして一人で出掛けて行ったんだ。少し待ってろと言っただろう」
「少し……あれが?かなり待っても終わらなさそうだったから、一人で行く事にしたの」
「声をかければ良かっただろう」
「模擬戦も始まっていたし、邪魔しちゃ悪いと思って」
「模擬戦なんて直ぐに終わるんだからもう少し待ってたって……」
「わたしが待ってる事、忘れてたんでしょ?」
シューの言葉を遮って、わたしは言った。
わたしの言葉に一瞬たじろくも、シューは直ぐさま否定した。
「お前と出かける予定なのに忘れるわけないだろうっ」
どうだか。
でもここで言い争うつもりはない。
せっかくの心地よい気持ちが台無しになる。
「ごめんなさい。でもなんだか水を差すのが申し訳なくて」
「……いや、俺こそごめん」
「いいのよ、シューが本当に剣技が好きなのは知っているから」
「…………」
あらま黙っちゃったわ。
嫌味を言ったつもりはないんだけど。
「じゃあわたし、もう帰るわね」
「あ、ああ。この埋め合わせは必ずする」
「ふふ、期待してる」
ウソだけど。
わたしはシューと別れて寮の自室に戻る。
共同浴場で入浴してやっとひと心地ついた。
シューのバカ。
無理しなくていいのに。
余計に虚しくなるじゃないか。
どうせわたしの事なんて見ていないのに。
わたしはベッドに突っ伏した。
そしてなんとかこの婚約を解消する手立てはないものかと考えるうちに、そのまま眠ってしまった。