こんにちは、メアリ・スー5
なんだか前にもこんなことがあった。頭が割れるようにいたんで、ぐちゃぐちゃになっていくような。あの時たしか雨が降っていて、私は真横からふたつの光が接近してきたのをただ見ていた。
「おまえってば本当に鈍臭いのね。わたくし、この映像を一体何回見た事かしら。この程度、避けられなくてはダメよ。」
「……え?」
ジジッと音がして、私は目を開ける。私は真紅の椅子に座って大きな幕を見上げていた。幕には白黒の映像が映っている。……これって、映画館だ。右隣に一席開けて、少女が座っている他には誰も観客はなかった。
「目は覚めて?」
「あなたは……?」
「わたくしはおまえ。おまえがわたくし、と言った方がいいかしら。」
結い上げたピンクブロンドの髪、真紅のドレス。艶然と微笑む淑女の顔をした毒の華。彼女はメアリ・スーだ。小説の世界の、本物の!……まだ、7歳ほどだけれど。
「さあ、前を向いて。ちょうど舞台はクライマックスよ。」
白魚のような指が指すままに、私は銀幕を見た。銀の針のように降り注ぐ雨の中、黒髪に黒縁眼鏡の、地味な女が迫ってくるふたつの光を前に立ち竦んでいる。あの、女は。そう思う間もないくらいあっという間に光が女を飲み込んだ。
「そ……そうだ……わ、わたし……!」
「そう。おまえは死んだ。トラック、というのだったかしら?それで轢かれて、頭が割れて、10秒くらいは生きていたのではないかしら。でもほぼ即死のようなものだわね。そしてこの後、おまえはわたくしの体に入り込んだのよ。本当に偶然、何かの手違いでね。」
メアリはなんでもないようにサラリと言いきった。え、私、トラ転したってこと!?動揺する私とは反対に、メアリはどこまでも軽やかにころころ笑うばかりだ。……はあ、それじゃあ突然目が覚めていつも通りの生活が始まるなんてことは無いのだ、一生。私はこのままメアリ・スーとして生きるしかない。
「びっくりしたわ。生まれたばっかりで、まだ乳母の乳を飲んでいたわたくしの中に突然おまえがはいってくるんだもの。それでおまえったらこう喚き散らすのよ。『貴女はこの世界の悪役なんです、このままでは破滅するんです!』とね。」
「えっ。ご、ごめんなさい。」
「あんまりおまえがうるさいから、少し殴ってやったわ。」
「え!?」
私、殴られたの!?ぜ、全然覚えてないけど……メアリはうるさい小バエを払うように手をひらひらさせた。銀幕では愛らしい赤子がおくるみのなかで愚図っている。あれが幼い日のメアリだろうか。
「そうしたら、力が強すぎたのかしら。わたくしもおまえも自我があやふやになってしまったのよ。ぼんやり本能のままの生きるしか無くなったの。それが、つい昨日頭を強くぶつけたせいで全てが変わってしまった。おまえの意識が表出することになったってわけね。」
ぼんやり本能のままに生きていても我儘強欲少女として振舞っているあたり、メアリの自我はめちゃくちゃに強い気がするなあ……。ちょっとまって、私の自意識、生まれたばっかりの女の子に負けたの?私、少なくとも20歳を超えてるはずなんだけど。そりゃまあ、自己主張や積極性には欠けるって自分でもわかってるけど、ちょっと凹む。
「本来ならわたくしを差し置いてわたくしの体を乗っ取るなんて、万死に値する……と、言いたいところなのだけど。おまえの異世界の知識はかなり面白かったわ。」
「え?」
「この精神世界でおまえの経験や知識はだいたいわかるのよ。不思議なことにね。おかげで色々楽しませてもらったわ。クー王子のことは……気になるけれど、ま、外に出ても破滅するだけだってわかっていて外に出てゆくのもね……おまえがわたくしを退屈させない限りは体を貸してやっても構わないわ。」
メアリは頬杖をついて、つまらなそうに言った。その横顔にはらりと髪がかかって、表情はあまり見えない。笑っているようには、見えなかった。
「……本当にそう思ってる?」
「なんですって?」
「外に出ても破滅するだけだって、だから外には出ないんだって、本当に?」
私の知っているメアリ・スーはそんな諦めのいい人間ではない。きっと今にでもこの狭い精神世界を出ていって、美しく賢い女であるメアリと同じ目線に立てるかもしれない唯一の男に手を伸ばしたいはずなのだ。それで破滅するとわかっていても。笑っていない口元は、ギリギリと音が立つほどに噛み締められているのだから。
「だって、だってしょうがないじゃない!惨めに振られるんだってわかってても、きっとわたくし、あのひとを追い求めずにはいられないの!あのひとが欲しいんだって、この世に生まれた時から知っていたの!だから手の届かないところで見ているしかないのよ。恋破れて、その上あの人の目の前で惨めな最期を迎えたくないのだもの!」
あのひとに嫌われるくらいならいい、だけどあのひとが最後に見るわたくしの姿が美しくも賢くもないのは許せない。……彼女はプライドの高い女なのだ。どうしようもないほど。
「……うん、わかった。じゃあ、貴女のからだ、貸してもらうね。」
「せいぜい大事に使うといいわ。……どうせわたくしはもう、使わないだろうから。」
「……じゃ、目下の目標は王子様に嫌われないようにすることと、破滅を回避すること、かな。」
「それは物語のわたくしみたいに目につく女を排除しなければ簡単なことよ。」
「自覚はあったんだ……」
「ふん。」
「それから私、ユリアとお話したいなあ。好きなんだよね、ユリア。」
「はあ?おまえ、ちょっと趣味が悪いんじゃないの?あんな腹に一物抱えてそうな小娘のどこがいいのよ。」
「ちょっと!そういうこと言わないでよ……あ、あれ?」
ぐわん、と突然席が揺れた。劇場自体が揺れている。メアリの姿がブレる。体が上昇していく感覚があって、それから。それから───。