貴方のお名前、なんですか?3
リチャードがいなくなり、すっかり気まずい空気が流れたけれど、王子は眉一つ動かさずにカップを口に運んだ。私も様子を伺いながらカップに指をかける。……あ、美味しい。厳密にはこちらのお茶と日本で飲んでいたお茶や紅茶とは若干味にも香りにも違いがあるのだけど、なんというか爽やかな味わいだ。昔の私は紅茶から立ち上る湯気の匂いがちょっと埃っぽいような気がしてずっと敬遠していたのだけれど、これなら飲める。……まあ、私の入れ方が悪かったのかもな、安物のティーバッグだったし。
「あの、追いかけなくていいんですか?彼。」
「ああ、まあ、庭のその辺にいるというのだから、きっとそうなんだろう。家主の許可もなく彷徨くのは褒められたことではないがね。」
そういうことではない。シトリはゆったりと首を傾けて、探してこようか、と言った。
「かくれんぼ、とくいだよ。」
「うむ、お前の観察眼と嗅覚は、誰にも勝てないだろう。素晴らしい。」
「えへへ。」
「でも今はかくれんぼをしている訳では無いのだよ。然るべき時に、然るべき人が見つけてやらなければ。彼は傷ついているのだから。」
「む……クーがそういうなら……」
王子の諭すような口調は父親のようだ。シトリも王子も同い年なのに。ユリアは俯いてカップになみなみ注がれた赤い液体に光のさざめくのを眺めている。いつもなら、シトリに声をかけるのはユリアなのに、だんまりだ。あ、クッキーもさくさくしてて美味しい。それにしょっぱくない。無塩バターって地味に高いのよね。だからうちで作るお菓子は大抵なんだかしょっぱかったなあ。体感的には転生してまだ1週間と少しほどしか経っていないから、それほど懐かしくもないのだけど。思い出にひたっていると、ユリアが私、と口を開いた。
「私……彼に反論できなかったわ。ひとつも。」
「ユリア様?」
「だって私、あの人が怖いんだもの!こんなふうに思うのは間違ってるって、わかってるのに!」
ユリアはすっかり取り乱したようだった。わっと泣き出した彼女を支え、そっと背中を摩ってやる。反対側ではシトリが心配げにユリアに寄り添って、なかなか絵になる様子だった……じゃなくて!こんなときまで推しカプが、とか言っているようじゃファンどころかただの害悪よ!しっかりしろ私!
「どうなさったのです、ユリア様。あの人って……」
「レヴィエ様です……わたし、私……!」
「……あいつになにか、されたの?」
シトリは広げた右手の関節をパキパキ言わせている。顔はさほど変わらずぽやぽやしているが、殺る気に満ち溢れているようだ。ちょっと押えて欲しい。ユリアはけれども、ふるふると首を降ってシトリの言を否定した。
「違うのよ、何もされていないわ。私が悪いの……」
「何があったんだい、ユリア。話してごらん。」
「ええ、ええ。あのね、あれはもう2年も前よ。クリスタ様がたくさんうさぎを飼っていたのを覚えていて?」
「うむ、その頃の記憶は飛び飛びだが……なんとか……あの時は今より多くて、20羽くらいいたのではなかったかな。ちょうど出産期だったか何かで。」
うさぎといえば、多産のイメージがある。番で飼っていたのだろう、金持ちにしかできない飼い方だ。でもそれとリチャードとがなんの関係があるのだろう。
「しろくてふわふわの、青い目のうさぎさん?」
「そうよ、シトリ。……私、そのうさぎを見せてもらっていて、そのときレヴィエ様もいたのだけど。……うさぎの中にね、元々足の悪かった子がいて。」
……ユリア曰く。そのうさぎは転んで頭を打ってしまった。運悪くなにか尖ったところに当たってしまったのか、頭からは血が飛び出て、クリスタ王女もユリア自身も驚いて動けなくなってしまう。そこへうさぎに臆することなく近寄ったのが、リチャードだった。
「レヴィエ様は、このうさぎはもう助からない、と……それで、それで……」
「魔眼でうさぎを殺してしまったのだね。」
ユリアはこくんと頷いた。……リチャードは血を流して死に行く小さな命を長く苦しませないために、自分の魔眼を使って殺した。それはきっとある種の優しさだった。そして己の命を殺める恐ろしい瞳の正しい使い方だった。けれどその出来事がユリアとリチャードの間に蟠りを作っているのだ。ユリアは心のどこかではリチャードの判断が合理的で優しいものだと気づいているし、リチャードはユリアが自分を恐れることを知っている。
「でも私はきっと、こんな出来事がなくたってあの人を怖がって近寄らなかった。それが当然だと思っていた。でも……でもあのとき……どんな形であれ、あのうさぎの身を真に哀れんでいたのはレヴィエ様おひとりだったのではないかと思うのです。それほど恐ろしい方では無いのももうわかっているのです。彼は彼なりに、正しく力を使おうとしているのです。」
「そんなことが……。」
原作においてそんな描写はされたことがなかった。不要な描写だからだろう。ユリアはリチャードのことを受け入れたかった。でもどこかでやっぱり怖くて、きっかけがなくて、ずっとそのまま来てしまったのだ。きっかけさえあれば、リチャードの人間関係は、世界は、もっと広がっていた。所詮はイフの話だ。物語は、そうはならなかった。きっかけのひとつもないまま、リチャードの世界は今も閉じている。
「じゃあ、メアリ。君がきっかけになればいい。」
「……はい?」
クー王子は私の心の中を覗いていたように、何もかも見透かした顔で笑っている。一瞬、私が「メアリ」でないことも見破られているような気がして、ゾッとした。
「君。あの日、ディックのことを庇ったろう。」
「え?」
「君はあの時ベッドに座っていて、ディックが入ってきた後、気まずい空気になったのを覚えているかい。あの時──メアリ。君は、わざと話を逸らしただろう。」
「あっ……そういえば、急にミリアムのことを聞かれたような……!」
「それは……」
それは別に、リチャードを庇った訳では無い。ただ気まずい空気に耐えられなくて、無理やり話を変えようとした。それだけだ。……だけど、それだけの事さえ、みんなしなかったのかもしれない。出来なかったのかもしれない。いつ爆発するか分からないリチャードを刺激しないために、だんまりでやり過ごしていたのかも。それでリチャードがどれほど惨めで気まずい思いをするのかも知らないで。あるいは知っていて、やはりリチャードを見ないふりで誤魔化してきたのだ。私は思わず立ち上がった。どうせリチャードの対人関係は、私の未来のために解決しなければいけないことなのだし。
「庭は玄関から右手側に回り込むと入れるようになっているよ。」
「いいえ、窓から行った方がはやいので!」
スカートをたくしあげてバルコニーに飛び出した私に、クー王子はそうかい、とだけ言った。
閲覧ありがとうございます。書き溜めていたぶんがここで切れてしまったので、しばらく投稿が不定期になりそうです。それでもよろしければお付き合いくださいますと幸いです。
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