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子ネコちゃんとオードリー

作者: 島津 至

                                          

              子ネコちゃんとオードリー


                            島津 至

                   

              一ちいさな客がやって来た


 雪が降りはじめた昼下がり、玄関の戸を開けると、子ネコがいた。を見上げてミャーと鳴いた。それが挨拶のようにヨチヨチと、ぬいぐるみのような危うい足取りで近づいて来て、招きもしないのに玄関に入ってしまった。

「こんな寒い日に、何処から来たのだ」

 午前中は親戚の手伝いで留守にしていた。一時間ほど前、昼に帰って来たが、その時はいなかった。

 ためらいの素振りもなく入って来た図々しさにカチンとしながら、その一方では、人なつこさが胸に迫って来る。混濁するふたつの思いに揺れながら、ボクは、足許に纏わりつく子ネコを見下ろしている。

 ミミを失ったのは、昨年の寒い一月である。たった四か月のみじかい生活だったが、時間ではかることのできない深い思いが刻まれている。まちがいなく人生の相棒だった。利発で器量よしで、陽気な天使のようなネコだった。焼けつくような夏の盛り、何処からともなく現れてまばゆい光を放ちながら駆け去った時、もう二度とネコは飼うまいと誓った。

『ミミは最初で最後のネコだ。ありがとう! 安らかに眠りなさい

・・・』

 亡骸を滂沱で濡らしながら、は誓った。

 その固い決意に挑戦するように現れた子ネコに、は困惑する。何処から来たかわからないが、いままた追い出されたら凍死か餓死か、どのみち死が待っている。

「決めた、おまえの名はドンだ!」

 咄嗟にドンと名付けたことで、の心は少し軽くなった。

 首領のドンではない。有名なドン川のドンでもない。ましてやお騒がせのテポドンのドンでもない。愚鈍のドンである。うごきの鈍さから思わずうかんだ閃きが、これ以上にない都合のよい名前となった。

―この鈍いやつめ!―

 ボクはミミを意識しながら、殊更乱暴な言葉でつぶやく。子ネコにとってこのうえない屈辱的な命名は、またべつの意味が、無意識に込められてもいた。

 ボクはその場にしゃがむと、更に冷酷な自分を煽った。

「ここに居たいのなら居てもいい。心から歓迎とはいかないが、部屋を一つ提供しよう。ただし、同居人としての、決められた規則だけは、守ってくれよな」

 泥足厳禁、手を洗うこと。我が家は土中に半分めり込んでいるような今時めずらしいボロ家だが、それでも屋根はある、床もある、壁も張ってあれば窓も付いている。これでも人間様の家である。おまえも今日からはホームレスではないのだから、毛づくろいは怠らずいつも身ぎれいにすること。爪を切ろとまでは言わないが、やたらと引っ掻かないこと。それと、盛りのついたメスネコみたいに・・・。

「ン・・・? ドンはどっちだ」

 よくみると、メスだった。だが、いちどドンと決めたからにはドンである。いまさらドン子でもあるまい。ドン子のほうがかえって惨めだ。ウン、ドンのほうがいい。威風堂々としたひびきがある。いまに大物のドンになるかもしれないぞ。なにしろ名は体を表すって言うからな。だが、それもこれもおまえの持って生まれた運しだいだ。ネコに生まれたら一生トラにはなれないのとおなじくらい、さだめには逆らえないのだ。泣こうとわめこうと、どんな懇願も哀願にも眉一つ動かさないさだめの冷酷きわまりない厳しさは、いずれおまえにも、このをみていればわかるだろう。

 文句も注文も掃いて捨てるほどあったが、いつまでも寒さとひもじさで泣かせてもおけず、ごはんと鮭と味噌汁でごちそうを作った。ドンは飛びついた。ピチャピチャと小さなちいさな命の音は、乾いた真冬の空間を鈴音のように広がる。ところが、汁をすすった程度でやめてしまった。意地悪をして不味い食事をつくったわけではない。昼に食べた食事とおなじものである。正直、にとって最大級のごちそうである。この歳になって職もなく、たとえゴキブリ一匹たりとも扶養家族をかかえる余裕などないのだ。

―なんて贅沢なやつだ―

 ボクはドンを横目でみながらダンボール箱に古いセーター入れて寝床をつくり、物置にしている三畳の小部屋にいれた。ドンもフラフラヨチヨチと付いてくる。箱には入らず、ガラス戸のそばへ行った。外へ出たいのかと戸を開けると、フワフワとボタン雪が舞っていた。ガラス戸から一メートルほどの近さに銀杏の木が立っている。巨木だから、部屋からみると太い幹だけが突っ立っている。

「さあ、ここがドンの部屋だ」

 一応、畳は敷いてある。電気コタツもある。本箱もある。ガラクタの入った段ボール箱数個。これでほぼ満杯だが、いまのドンなら軽いジョギングはできる。退屈になったら本を読むのもいい。だれかに手紙を書きたくなったなら、テーブルもある。ペンとノートもその辺にあるはずだ。ここにあるものはすべて好きに使っていいのだ。部屋が少々暗いと思うなら、明るい壁紙をはるのもいい。どうしようと勝手だが、ボクの部屋にだけは入らないでくれ。

 ドンを家に入れることをゆるしたその瞬間から、ドンとは一線を画して生活することに決めた。半ばノラのように、半ば野生のようにしておきたかった。部屋と食事を提供する以外は、何ものにもかかわりたくなかった。家族の一員なんてとんでもない。人生の相棒なんてなおさらごめんだ。いずれはドンもミミのように死ぬのだ。病死であれ事故死であれ、生きとし生けるものの宿命は死である。いつかは必ず死ぬ。その時、ミミのような悲しみをくり返したくなかった。あの地獄をのたうちまわるような痛烈な悲しみを思えばまだしも、孤独を囲っているほうが気楽である。二年目を迎えようとしているいま尚、ボクの胸でミミは生きている。

 ドンは新居の部屋を興味津々と見まわっていたが、テーブルの下に入った。壁際に寄って臭いを嗅ぎ、ちいさなお尻を落とした。

―あっ! 危険なポーズだ・・・!―

 瞬間的に身体がうごき、うしろ首をつまんだ。とたんに放水が始まった。もはや止められるわけもなく、そのまま外へ放り出した。手荒く放ったわけではなかったが、ドンは床下にもぐり込んだ。

―まったく、手のかかる客が来たものだ・・・―

 川岸に出て土まじりの砂をふるいにかけていると、雪は激しさを増した。綿アメをちぎったような雪が、風に流されて斜めに走る。家までおよそ三十メートル。激しく降る雪の隙間から、白くちいさな物体が見え隠れする。そのうごきから、しばらくは出て来ないと思っていたドンだと判別できた。何処へゆくのかと、手を止めて注視していると、開けておいたガラス戸から入ってしまった。叱られようが蹴飛ばされようが、一旦手にした部屋を手放してなるものかと、高さ四十センチの濡れ縁をよじのぼった。ドンの必死の思いが伝わってきて、胸の片隅で熱いものが疼いた。だが、ほっとした思いを強引に押しのけながら、

「やはり図々しい奴だ、ドンめ」

 と、ボクは吐き捨てる。

 ドン、ドン、ドン・・・。敵意と憎悪の易々と溶け込むこの名前のあるかぎり、けっしてこの決意の壁を崩すことはないだろう。この名前を忘れないかぎり、ボクのほうから一線を越えることはない。ドンのほうからも越えられる心配はない。この先どうなろうとこの一線を崩さず、突き放して飼うつもりだ。夏ごろには独り立ちできるはずだ。それまでの辛抱だ。ドンに期待するものは、何もなかった。

 やっとトイレの砂箱を運び入れると、ドンは消えていた。台所と風呂場を回ったが、いなかった。濡れ縁をよじ登って入った姿は、確かにみている。でもあれは、降る雪の隙間からみた一瞬の白い影だったので見間違いだったのか・・・。あのまま何処かへ行ってしまったとすれば、この雪の中、ちいさな命が思いやられる。

 いや、自分から部屋を捨てるはずはない。きっとこの小部屋のどこかにいる。そう思ってあちこちに手を入れ頭を突っ込み、本箱の裏側で身をひそめているドンを見つけた。だが、いくら呼んでも出て来ない。軽くつまんで放っただけなのに、怯えている。

「気が済むまでそうしているがいいさ」

 雪の中へ自転車を出して街へむかった。

 我が家は街から遠く離れた地区の、なおそのはずれの川岸の一軒家である。橋を渡りトンネルを抜け、町いちばんのショッピングセンターまでおよそ四キロの道程である。長さ一キロのトンネルを抜けると、雪は晴れていた。

 ネコ用の缶詰を買って帰ると、ドンは玄関の板の間で待っていた。まるで家族の一員気取りの顔である。なのに、ガラス戸を開けると小部屋に逃げ込もうとする。捕まえて砂箱へ入れた。何事も初めが肝心だ。お尻を砂に押し付けながら、トイレであることを語り聞かせる。だが、言葉が通じないと思うから、自然に声は高まり力がこもる。苛めている意識はないけれど、やはり一種の脅迫行為の思いにかられる。こういうのは苦手だ。しかし、ずっと前に見た日光サル軍団のサルたちの、服従の儀式からはじまる芸仕込みだって結局は、言葉よりも力が優先されているではないか。言葉が通じなければ力が基本になるのは致しかたないことである。躾も一種の芸仕込みなのだと、そんな理屈を並べてひとり納得しながら、ドンのちいさなお尻を砂に押し付ける。

「わかっただろ!」

 さて次は寝床だと小部屋に入ると、箱の中が濡れていた。トイレと寝床を間違えたのか、最初からそんな区別もなくやってしまったのか、またお仕置きのやりなおしとなった。濡れたセーターとドンを抱えて砂箱へ戻り、オシッコを嗅がせては同じことをくり返した。

 寝床のセーターを毛布にかえて一応の仕事がおわった時、ボクはもう、うんざりするほど気が滅入ってしまった。躾であれ芸の一種であれ、押し付けであることに変わりはない。因みに、シツケにオを付ければオシツケになる。まさに拷問である。勝手にやって来てなんでこんな罪悪感に苦しまなければならないのかと、またため息が出た。ドンだって辛いはずだ。気持ちよくオシッコすれば放り出され、オシッコしたくもないのにギュウギュウお尻を押し付けられる。こんなのって生理に反したことだよ。こんなことならノラのまま自由に生きていた方がよかったと、嘆いているかもしれない。

 ボクには躾の経験がなかった。ドンが二匹目のネコである。最初のミミは、何処からともなくここへ来た時、生後五か月前後の子ネコだったが、教えもしないのにオシッコもウンチも外でやっていた。まったく手のかからない利発で陽気なネコだった。

 ボクは、無言のまま缶詰を開けて与えた。しかしドンは、二口三口食べると、本箱の裏側にもぐり込んでしまった。ドンの避難所になったらしい。ボクも無理強いはしなかった。自ら絶食して餓死できるのは、人間のもつ意識だけである。動物にはそのような高等な意識はない。空腹に耐えられなくなった時、たとえ不満があろうと不味かろうと、食べることになる。ボクは、とにかくやるべきことはやったという気分だった。寝床も作った。トイレも作った。餌も水もじゅうぶんに用意した。

 気づくと冬のつめたい夕暮れが迫っていた。風が出て来た。今夜も冷え込みそうだ。こんな夜は熱めの風呂に入って寝るにかぎる。風呂釜に薪を入れ、ささやかな夕食の用意に取りかかってふと見ると、ドンが足もとでうろついていた。相変わらず鈍い動きである。いまにもずっこけそうになりながら、が風呂場へゆくと風呂場へ、台所に戻ると台所へとついて回る。とはいえ、ボクの速さについてこれないので、台所と風呂場の中間で行ったり来たり、クルクル回っているようなものだった。

 やっといつもの自分を取り戻したのは、夕食後のことだった。テレビのスイッチを入れると、いつにも増して、暗いニュースばかりだ。いま最も景気が良いのは、東日本大震災で復興特需に群がる業者ばかりだ。ふつうに働けばふつうの生活ができた時代は遠いむかしのことになったのは、事実だ。ボクもいちどは正社員として働いた時期もあったが、リストラされて以来、点々と職を変えた。ブラック企業も事務所待ちも体験した。結局、絶望感から体調を崩して田舎へ帰って来た。あれから三年が経つが、食べるのがやっとだ。家もオンボロだが、それでも帰られる田舎があるだけまだ増しかもしれない。

 食後のコーヒーを淹れ、煙草に火を点けた。煙草が不味かった。コーヒーもいつもの味ではなかった。なぜだろう・・・ふと首をひねって、すこしもリラックスできていない自分に気づいた。視線はテレビに向きながら、いつとはなしに聴覚はとなりの部屋を探っている。隣の人は何する人ぞ。ときおりカサッとちいさな音がするだけで鳴き声もなく、とても静かなドンだった。

―そういえば・・・―

 ボクは、まだいちどもドンの声を聞いていないことに、気づいた。たしかにそうだ! 口を開けて泣いている哀れな顔に心をうばわれて、声なき声を聞いていたにすぎない。唯一声を発したのは、オシッコして外へ放り出したその時、キッ! と鳴いた金属音めいた音だけである。それ以外はいちども聞いていない。間違いない!

―もしかしてドンは、声が出ないのか・・・!―

 ここへたどり着くまで冬空の下、寒風に身をさらしながら泣きはらして声が枯れてしまった。

 ボクは立ち上がっていた。ドアを開けてみると、ドンは三畳間の自室ではなくて、暗く冷たい六畳間でウロウロしていた。母親を探しているのかもしれない。さみしくて寒くてどうしようもないといった姿である。

 最早どうしようもなかった。抱いてコタツの中へ入れた。

 こうしてまた仕事ができた。ちいさなダンボール箱をコタツの中に入れ、コタツに出入りするトンネルを、これもダンボールを利用してつくった。更に、風が入らないようにトンネルの入口に毛布を切ってぶら下げた。これらはみな、ミミと暮らした知恵である。

 一仕事おえて中を覗くと、はじめての電気コタツだろうに、安心しきったように寝そべっていた。真っ赤な電球に一瞬はおどろいたにしろ、凍えるような寒さが身に沁みていただけに、その快適な世界にたちまち恐怖も不安も解かされてしまった光景だ。

 我があばら家は、コタツで本を読む時は毛布をかぶって手袋をはなせないほど寒いのである。おまけに石油ストーブもない。ドンのおかげですっかり冷え込んだ身体がカタカタ震える。熱い湯呑みを両手ではさんですすっていると、かじかんだ手に熱が伝わり、やがて、ほっと一息の気分になれた。

 ドンをコタツに入れたからといって、自ら禁をやぶって一線を越えたつもりはなかった。その固い決意は、いささかも崩れはしない。ボクは、風邪をひいたミミでたいへんな経験をしている。真夏にふらりとやって来たミミは、秋から冬への変わり目に風邪をひき、いまにも死ぬかと思うほど衰弱してしまった。その時の苦しみを思えば、この寒さの中で子ネコに風邪をひかれては困るのだ。ただそれだけのことだった。

 それにまだ不完全なトイレの躾ものこっている。となりの部屋へおけば眼も届かない。躾はタイミングが肝心である。タイミングを外せばただのいじめになる。虐待になる。ドンだって叱られている理由がわからなければ、無意味に怖い思いをくり返すだけである。

 一服の後、食器を洗って戻って来ると、ドンは座布団の上でお尻を落していた。うしろ首をつまんで砂箱へつれて行き、一瞬おくれの躾となった。これではとうぶん目が離せないとうんざりしていたが、布団を敷くときになって、タツから出たドンは、トコトコととなりの部屋へむかった。ドアの下部には、ミミが使った出口と入口の二つの穴がある。ドンはベニヤ板の外れている穴から出ていった。さすがに空腹にまけてお食事かと見にゆくと、砂箱に入っていた。

「へえ・・・! なかなかやるじゃないの」

 愚鈍のドンと名付けたが、もしかすると利発なドンかもしれない。

だが、この先のことはまったく分からない。

         

                 二、箱入りムスメ


 二日目の朝、案の定、布団の上のセーターに思いきりやられた。このちっぽけな体のどこにこれほど多量の水分がと思うほどのびしょ濡れだった。

―危惧した通り、じつに厄介な客が来たものだ・・・―

 ひとりこぼしながら、またしてもうんざりするお仕置きとなった。が、お仕置きが効いたのか利口なのか、ドンの粗相はこれでおわった。三度の躾で完全にトイレを覚えたのだから、利口な部類にはいるのかもしれない。

 しかし、相変わらず声は出なかった。うごきも鈍かった。餌もそれほど食べなかった。それなのに、コタツから出て来ては、ボクの後ばかりついてまわる。ちっぽけな子ネコがヨチヨチと、懸命について来るのだから、冷淡な無視にも限界が来て、知らずしらず声をかけ、おもいつくままに言葉をかけ、時々、抱いてやったりもした。

 すると、半日もしないうちに、ドンは驚くほどの変化をみせたのだった。きゅうにうごきがよくなって食欲が増し、その夜は本を読むコタツの上によじ登って来て下りようともしなくなった。そればかりか、ちょっかいを出してはじゃれようとする。ボクと遊びたいのだ。遊んでほしいとねだっているのだ。子ネコらしい生気が全身に溢れているドンの、活き活きとした表情をみながら、ドンが何を求めていたのかを、知った。

 かわいた関係を維持したかったから、部屋と食事さえ与えておけばドンは生きられると思っていた。が、それは大きな間違いだった。ドンは不安におびえながら、信頼と安心を求めていたのだ。言葉は通じないのだから語りかけても無駄なことだと一方的にきめつけていたが、それも違った。言葉の意味はわからなくても、発する言葉には感情がこもっている。愛情は発する言葉に乗って伝わるのだと、ちっぽけなドンに教えられた。なお大きな驚きは、生れて間もないヨチヨチ歩きの子ネコに、ボクの感情を受け止める繊細な感受性があるということだった。

 ともあれ、こうして止むにやまれぬドンとの同居生活がはじまったのだった。が、ボクはいぜんとして、ドンを家族の一員と認めることはできなかった。いつも最小限の希薄な愛情を示すにとどめた。愛情というよりは、ちいさな命にたいする哀れみと言った方がいい。

 その朝、どこかのネコが二、三度入って来た。玄関の片隅に、ミミ専用の戸がある。外への出入口である。蓋のベニヤ板が長いこと外れたままになっていて、そこから侵入して来たのである。気づいて応急修理したが、こんどは昼頃になって二匹のネコが現れた。彼等は、まるで夫婦のように並んでゆっくりと盛土の向こうへ消えていった。と思う間に、引き返してくるのが眼に入った。

―もしかしたら親かもしれないぞ・・・!―

 ドンを探しに来た親かも知れない。跳ね回っているドンを捕まえて窓越しに彼等に見せた。親ならごちそうを背負わせてでもお返しするつもりだったが、二匹のネコは興味ありげな眼でチラチラッとこっちを見ただけで、それ以上の反応は示さなかった。思惑ははずれた。

 それにしても、ドンが来たと同時にネコたちがうろつきだしたのは偶然だろうか。中に入って挨拶していった律儀なやつまでいたが、ドンが目的か餌が目当てかまだ定かではないが、このちっぽけなドンがまわりのネコたちに少なからぬ波紋を起こしていることだけは、間違いなかった。それなのにドンのほうは、まったく無関心である。自分がネコであることすら忘れたようだ。金魚のフンのように、ボクの後ばかりついて歩く。

 クリスマスイブの朝、ドンはコタツから出て来なかった。やっと出て来てごはんを食べると、また入って寝てしまった。咳もくしゃみもないが、寒気がするのだろう。今朝の冷え込みはかなりなものだった。夜明け前のコタツの中も零度ちかかったろう。ボクの布団でいっしょに寝てくれたら問題はないのだが、布団嫌いである。強引に抱きしめて寝ても、すぐ飛び出してコタツの中にもぐり込んでしまう。電気をつけっぱなしにすると熱すぎてしょっちゅう出たり入ったりで落ち着けない様子で、結局、ボクが寝る前に電気を切っている。

 風邪らしいと思っただけで、ボクはもう、落ち着かなくなった。タイミングよく今日はクリスマスイブである。思いきってペット用の電気アンカをプレゼントすることにして、自転車を引っ張り出した。

 寒風の中、ホームセンターへ急ぐボクの脳裏には、ちっぽけなドンのことしかなかった。つい先日まで疼いていた心の痛みの消失にも、薄れゆくミミにたいする思いもボクは、まったく気づくことはなかった。

 電気アンカがよかったらしく、翌朝はいつものように顔を叩き起こされた。これがいつもの朝五時の、強引極まりない挨拶である。ボクを起こしたからといって急用があるわけでもない。ちょっぴり布団に入ってじゃれる真似をして出てゆくだけである。そしてご飯を食べ、ひとりで遊び、再びコタツに入ってボクが起きるまで寝ている。それくらいならもう少し静かに寝かせてくれてもよさそうなものをと、ぼやきが出る。だが、どうあってもいちどはボクを起こして声を聞き、スキンシップをしないことには気がすまないようだ。信頼の確認であろう。そのくせ自分の気が乗らないかぎり、いくらこっちが呼んでも頑としてそっぽを向いている頑固者でもある。ボクを無視しても無視されることには我慢できないネコ本来の気まぐれは、こんなちっぽけなドンでさえも癪に障るほどみせつけてくれる。

 ドンは日一日と大きくなっていった。それに比例するように、

知能の発達ぶりには眼をみはるものがあった。ドンは殊のほか紙ボールが好きだ。チリ紙一枚を手にしただけで身構える。ボクが掌で丸める様子をうかがいながら、いまかいまかと目を輝かせて待ち構える。紙ボールを投げる。瞬間、ドンの全身は空中に舞い上がる。時々だが、空中でチャッチできるまでに上達している。それからボールを追ってハチャメチャに駆け回る。

 これほどみごとな玩具がるだろうかと、ため息が出る。見る者を引きつけてはなさないその魅力は、F1よりも速い瞬発力であり、予測のつかない身のこなしである。しかもまだ掌に乗っかるほどちっぽけな、ふわふわしたぬいぐるみが飛び回っているのである。ネジを回す煩わしさもない。中途でバッテリー切れを起こして苛々することもない。おなかが空けばトコトコと餌箱へ行ってたらふくつめ込んでくる。食後の魚缶の臭いはちょっぴり気になるが、オナラよりはましである。ドンのプライドを思えば内緒にしておきたいところだが、じつはドンは、たいへんオナラをするのである。ドンという名前からしてドドン! と凄まじい音をひびかせて放つわけではないが、ちっぽけなくせに臭いだけは一人前なのだ。食後の魚の臭いは口のまわりを拭いてやれば済むけれど、オナラだけは手の施しようがない。いったん出てしまったオナラを押し込むわけにもいくまい。もし拡散するまえに押しこめる装置を発明したなら、それこそ間違いなく、イグノーベル賞ものだ。

 ドンのオナラは、完全な乳離れの前に固形物を与えられて、消化機能がまだそれに対応できていないためだろうと、ボクは思う。

 この夜、遊び始めて間もなく、紙ボールは座卓の下に入ってしまった。高さ三十センチのテーブルの下はテレビのフィーダ線やたこ足配線が絡み合っていて、いちど入ったらおしまいだった。いつものドンなら二度三度掻き回してあきらめ、新しいボールをねだってやって来る。が、このときボクは、本を読みながら眼の端でドンを追っていた。ドンはボクに無視されたと思ったらしく、いつになくボールを掻き出そうと懸命だった。爪にかかってはぽとりと落ちる。何度失敗しても諦めなかった。さすがに可哀想になったその時、ドンは紙ボールを銜えて出て来た。そうして、部屋の中央にボールを置いて遊びを再開したのだった。ボクの胸に感動が湧きあがった。いちどその方法を会得したドンは、ボールがクチャクチャに壊れるか完全に手の届かない隙間に入るまで使用するようになった。

 ボクは、このことを眼にするまでは、ドンの遊びのすべては、本能的に身体が走る単純な運動だと思っていた。娯楽のような高等な思考などあるはずはないと思っていた。だがちがった。ドンは遊ぶために遊び、楽しんでいるのだ。もっと遊びたいと思い、楽しく遊ぶためにはどうすればいいかと考えて工夫しているのだ。だからこそ、テーブルの下の狭い空間から広い場所へとボールを移動できるのだ。明確な思考と目的意識がなければできない芸当である。たぶん、これがドンたちの知能であり、ネコならだれもが持っているごく普通の知能かも知れない。

 一週間ほどして、外へ連れ出した。玄関を出てすぐ石段があり、なぜこうなったのか分からないが、家の周りは一メートルほどの盛土で囲まれている。家の背後すれすれに県道が走り、県道の向こうはセメント会社の鉱山で、日暮までガラガラと音を響かせながらベルトコンベアーが動いている。家の前は川である。盛土の上はちょっとした広場で、家から川岸までおよそ三十メートル。

 三年前ここへ来たが、家は大木と雑草に覆われ、盛土を下りた川岸まではジャングル並みの河原やぶだった。そこを切り開いて畑にしているが、たいした広さでもない。ドンの額を二つ三つ寄せ集めたようなもので、自給自足には遠く及ばない。そのうえ増水のたびに冠水の目に遭う。それでも独り身だから大根もジャガイモも買わずにすんでいる。

 ドンは、石段を上がって盛土の上までついて来たが、そこで身をちぢめてしまった。ついこの間までホームレスの身だったのに、何を怖がっているのだろうと不思議に思った。寒さにふるえているわけではない。今日は暖かくて、地面も乾いている。だから連れ出してみたのだったが・・・。

 ボクは、ドンを抱いて盛土を越えて畑に下りた。畑のまわりは冬枯れの雑草が芝生のようになっていて、ここなら喜んで走り回ってくれるかと思ったが、うごきがわるい。よろよろと、車輪のちいさな車がでこぼこ道で悪戦苦闘しているかのようである。いまにもつんのめりそうになる。

―ああ、そうか・・・―

 一週間前、ドンは誰かにここへ捨てられた。そのことを思い出して、いままたボクに捨てられるかとふるえているのだ。そのことに気づいて抱き上げた。捨てられた記憶だけは、いまも強く刻まれているらしい。ドンの恐怖の記憶がいつまで持続するかは分からないが、動物の判断基準は第一に安全か危険かの二者択一であろう。

 そいう点で考えると、どうやらボクは、ドンにとって身を委ねられる存在になったらしい。べつにボクは、ドンに特別な愛情を注いだわけではない。ネコっ可愛がりなんてとんでもない。なのにボクを信頼したその真相は、ボクの生来の気弱な性格に付け込まれただけのことであろう。そのような能力は、動物はそなえている。つまり、ドンは図々しいやつなのだ。

 翌日、兄がやって来た。半月ぶりに会うのに、ボクのことはそっちのけで、ひとめでドンに夢中になった。

「それいけドン! もいちどそれ!」

 空中で振るハタキにドンはジャンプする。それからハタキは畳の上を四方八方にすべり、ひょいと空中に上がる。いまのドンは、六十センチくらいの高さなら軽々と飛び上ってくる。

 ボクは、ハラハラする思いで見ているしかなかった。ドンは少し前にたっぷり食べたばかりである。ドンのオナラはたいてい食後である。ジャンプするたびに音のないオナラをしているのではないかと、ボクの鼻孔はヒクヒクする。オナラの臭いがすれば、兄の熱気も一気に冷めてしまうだろう。それはすこしも構わない。兄がドンを嫌いになったからといってすこしも困らないが、オナラが原因で嫌われたとあれば、ドンは惨めである。

 幸いオナラはなかった。兄は殆ど休みなしに小一時間じゃれ合って帰った。何しに来たのかと思うほど、会話らしい会話もなかった。本来、兄は超がつくくらいのネコ嫌いである。そのネコ嫌いが子ネコとはいえ、これほど夢中になる姿はめずらしかった。

 ドンはひと眠りした後、いかにも休養じゅうぶんといった感じで活き活きとコタツから出て来ると、ドアへ向かった。ボクはいまでは、ドンがトイレか食事かおよそわかる。食事の時は眠りの後の身体をほぐして大欠伸をして、それでも足りずに二度三度と身体を伸ばしてから歩きだす。トイレの時は大きな欠伸をしてもほとんど間をおかずにトコトコと、お尻プリプリ振りながら向かう。この日もトイレの様子だったが、途中で落花生の殻に引きつけられて夢中になってしまった。どれくらい経ってからか、不意に遊びを中止するとトコトコと小走りにドアの向こうへ消えていった。我慢できなくなって走り出したのだ。

 このところドンは、何にでも興味を示し、遊べるものを見つけるとすぐ熱中してしまう。こんな具合でしょっちゅう道草を食い、砂箱の縁にウンチが付いていたりする。時には砂箱の手前でおもらしをしてしまうこともある。だがボクは、そのような時には腹が立たない。叱ることもない。

「また失敗したな、間抜けなドンめ・・・」

 フフフ・・・と、思わず笑ってしまう。そこには微笑ましい幼稚な失敗があふれているからだ。ドンは精いっぱいの努力をした。その辺でやっちゃえと、悪さをしたわけではない。我慢が限界に達して走ったが、間に合わなかった。それが何であれ誰であれ、どれだけ努力したかをボクは大切にしている。やるだけやって失敗したのなら、その時は精いっぱい褒めてやる。それがボクの信条である。たとえ0点のテストであっても、精いっぱいの努力の結果なら、その努力を認めてやるべきではないか。格差社会云々と騒がれているけど、格差はいまにはじまったことではない。いつの時代にも格差はあった。経済的な格差ばかりではない。生まれた時から格差ははじまる。容姿の格差。能力の格差。体力の格差。我々は格差の中で生きている。いくら努力しても百点を取れない子がいる一方で、易々と百点取る子もいる。その差はどうしようもない事実である。ゆえに、ボクのような痛みを知り尽くした凡人は、努力にたいして精いっぱい報いてやりたくなるのである。もちろん、ボク一人の問題ではない。ボクのような落ちこぼれは溢れている。いくら頑張っても評価されないばかりか、残業代さえ払ってもらえない。信じられる何も亡くなったボクは、ホームレスになる勇気もなく、田舎へ逃げ帰って来た。


 正月もすぎて一月の半ば、兄がやって来た。

「ずいぶん大きくなったな、ドン・・・」

 兄は、ハタキを握ってニコニコとドンをみつめる。

 ボクの眼には、ドンの大きさにさほどの変化はなかった。ここへ来て一週間ほどは、日に日に大きくなるドンに眼をみはったものだが、大きくなったのはたらふく食べておなかが膨らんだだけのことだった。それから後、身体全体が成長する変化は、毎日いっしょにいるボクの眼にはみえない。それだけに、何かのきっかけでその成長ぶりがわかる時があって、ヘーッ! と驚くのである。

 ドンはこの時、兄の誘いには眼もくれず、茶タンスに手を突っ込んでいる最中だった。ボクの座っている左横の茶タンスは、高さ九十センチ幅六十五センチの二段構造の小さなものである。下段は木製の観音開きで、上段はガラス戸になっている。その上段は、ドンが背伸びしてやっと頭部が出るくらいの高さで、もうちょっと背が高かったらと言わんばかりに背伸びして、中の物を掻き回している。何でもかでも放り込んでしまうものだから、いろんな物が入っている。ライターならまだしも、鉛筆や消しゴムまで入っていて、ドンにとっては宝箱である。

 ボクはこの時、兄を意識しながらドンのお尻をちょいと持ち上げて閉じ込めた。ガラス戸を閉められても、ドンは慌てもせずにキョトンとしていた。上段は中央で仕切られているので狭い。あたかも人形ケースに入ったネコである。

「うちの箱入りムスメ」

 ボクは言った。

「ハハハ・・・箱入りムスメか」

 いえるいえるといったように兄は、こっちの思惑通り大声あげて笑ったが、途中でその笑顔は驚嘆に変わった。

 ドンは、ガラス戸を開けて出て来たのだ。じつはボクは、何よりもこれを見せてその反応を楽しみたかったのだ。その思惑も期待通りにいった。ドンはガラス戸を開けるのである。闇雲にこじ開けて出るのではなくて、ガラスの縁に爪をかけて引くべき方向に引いて開けるのである。

「まだこんなチビなのに・・・おどろいたな! ドンちゃんは利口なんだ」

 ボクの胸中は、子を褒められた親の歓喜とすこしも変わらなかったが、

「そうでもないよ。ミミだって玄関の戸を開けてた。ドンがとくべつ利口なわけではなく、ネコの持つ知能からすれば、ごくふつうのことだと思う」

 ボクは、殊更冷静な口ぶりで言った。

「いや、ミミはドンよりもずっと大きかった」

 兄は、ドンのほうが利口だと言わんばかりの熱の入れようである。

 ミミはここへ来た時、生後半年前後の子ネコだったが、来て間もなく玄関の戸を開けるようになった。戸の角に爪をかけ、身体をレールと並行に伸ばして引くのだった。全身の力を利用した実に理にかなった引き方で、そうでもしないかぎり子ネコのミミには、木製の重いガラス戸は開けられなかった。ところが、ただ一度だけその見事な引き方をみせただけで、なぜかボクの前では開けなかった。なのに、地面がぬかるんで出すまいと戸を閉めておいても、スイスイと出てしまう。外へ出そうな気配を察して追うが、もう玄関の戸は十二、三センチ開いている。その速さは親の眼をぬすんで飛びだしてゆく子のはやさだった。

 ドンとたっぷり遊んだ後、

「可哀想じゃないか」

 と、兄は言った。

 ドンの名前のことである。本名はドンだが、ドンベエと呼んだりもする。いずれにしろ、基本台帳はドンである。いたく気に入らない様子で、この前も言われた。その時、ボクはなにも言わなかった。ミミにたいする思いを説明するのは面倒だった。二言や三言で語れないほどの思いが、いまも胸の中で生きている。

「ドンでいいよ」

 ボクは、突き放すように言った。

「おまえはいいだろうが、こんな可愛いメスネコにドンだなんて、ドンが可哀想だ。なあ、ドンちゃん」

「可愛い名前を付けるとミミのように短命に終わるんじゃないかと、それも気になってこういう名前になったんだ」

 ボクはウソは苦手だが、なぜかこの時は、抵抗もなくすらすらと上手いウソが飛びだした。意識の底にそうした思いが沈んでいたのである。

「そこまで考えて付けたのなら、しょうがないな」

 兄の顔には、不満の色が漂っている。

 ドンの名前に賛成する者は、一人もいなかった。だれもが妙な顔をし、そして反対した。ことにも近くに住む従兄弟の勝彦さんは、

「ドンなんて付ける者の気が知れねえや」

 と、ボクが冷酷非情このうえないといった口調で文句を言った。その怒りを裏返せば、本気で怒る勝彦さんもまた、ドンに参っている証でもあった。ぬいぐるみのようなドンに甘えられるのだから、そうとうなネコ嫌いかアレルギーでないかぎり、その愛らしさに惹きつけられてとうぜんだった。

「箱入りムスメのドンちゃん、また来るからな」

 兄は、帰っていった。

 ドンがガラス戸を開けてみせたのは、数日前のことである。その前にも、前足がガラス戸に届くかどうかといった頃だったのに、いつの間にか入って掻き回していた。懲らしめのつもりで戸を閉めると、ドンは一瞬、何が起こったのかとキョトンとしていた。それから、閉じ込められた事実に気づいて大あわてに慌てだした。見ていられなくてすぐ出してあげたが、恐怖が身に沁みたらしく近づかなかった。が、それから間もなく、また入って掻き回しているので閉じ込めた。ところが、ドンはすこしも慌てなかった。時折うごくが、とても窮屈そうである。つい先日までは広々とした空間だったが、いまは身動きできないほどになっている。

―ヘーッ・・・!―

 こんなに大きくなっていたのかと、ボクの方がおどろいた。

 ドンが慌てもせずに戸を開けて出て来たのはこの時だった。もういちど押し戻してみると、またすんなりと戸を開けた。よく見ると、閉めた戸は縦溝とガラスの間に一ミリほどの隙間があり、そこに爪をかけているのだった。ためしにピシッとかたく閉めると、爪がかからないので開けることはできなかった。爪は空を掻くように滑った。

―それなら、となりに入れたらどうだろう・・・―

 と、ボクの興味は増した。

 いまドンが入っているのは左側である。右側に入れたらどうだろうかと、入れかえてみた。左側のガラスは二本の溝レールの外溝に入っていて、右側のガラスは内溝に入っている。なのでドンの爪は簡単にかけられる。ドンは開けようとする。だがうごかない。爪はしっかりとガラスの縁にかかっているのに、ピクリともうごかない。こんなはずじゃなかったのに・・・! ドンの顔に焦りが浮き上がり、苛立ち、しまいには騒ぎ出した。

 ドンの行為は、目的とは裏腹に、渾身の力を込めて閉めているだけのことだった。右側のガラス戸を開けるには左側とは逆の体勢になり、右端に爪をかけなければならない。そのことにいつ気づいてくれるかと期待したが、苦しそうに泣きだした顔を見るともう、それ以上の実験はできなくなった。泣きだしたと表現したが、こういう時でもドンの声は出なかった。

 しかし、逆の方向に開けられなかったが、ドンの開けるための知能を認めざるを得なかった。ドンは、最初閉じ込められた時、ガラスという透明なふしぎな物体を怖い思いの中で体験している。その後、毎日ガラス戸を開け閉めしているボクの手の動きをみて、開け方を会得した。たぶん、そうだろうと思う。理にかなった開け方を見ていると、そうとしか思えないのである。因みに、ボクは滅多に右側の戸を開けることはない。座椅子に座ったまま手を伸ばしても届かないからである。

 見るということは、正常な視力の持ち主なら、だれにでもできる。見ようと意識することもなく見ている。しかし、見て知るということになると、そうとうな知能を必要とする。見て知るということは、少なくとも物の本質の一部を見抜くということである。

 ドンにはそれができた。ボクが毎日ガラス戸を開け閉めしている行為を見て、ああすればこうなるという回答をつかんだ。凄いと思う。思うけれど、それでもなおボクには、ドンが並はずれた知能の持ち主とは思えない。ミミだってその何百倍も重い玄関の戸を開けていたのである。ドンはごくありふれたネコである。捨てネコの何の変哲もないネコである。だが、それなりの可憐な顔立ちをしている。特に赤い鼻が目立つドンである。額から下は純白だから一層、鮮やかなピンク色が目立つのだ。赤鼻のドン。また一つ名前が増えた。


                二、ネコも木から落ちる


 一か月すぎても、ドンの声は出なかった。どこか様子が違う。先天性のものかもしれないと思うほど時折、微かな声を発するだけである。それでも本人は、声が出ないまま口を大きく開けて鳴いている。そうして、ボクの後ばかり追いかけている。自分がコタツの中で寝ていても、ボクが立つとさっと飛び出してくる。ただ付いて回るのではなくて、手を出し足を出し、しまいには下手なかくれんぼまでやってのける。ドンはドンなりに、どうしたら楽しく遊べるかと懸命に考えて工夫しているのだ。

 ボクたちが寝起きしている表の八畳間と、となりの六畳間の床は三十センチの段差がある。引っ越して来た当初、洪水で床上浸水を蒙ったので、兄の手を借りて取り敢えず八畳間だけ三十センチ嵩上げした。すべての床を上げるつもりだったが、結局、そのままになっている。

 ボクが、ドアを開けて六畳間に入る時、ドンはボクより一瞬おくれてジャンプして下りる。そのときドンは必ず、空中でさっと前足を横に出してボクの脚に触る。それが目的で、ボクよりいつも一瞬おくれて下りるのである。いつからかこういうちょっかいを出すようになったが、さらにドンは先に走ってゆき、物陰に隠れて待ち構える。

 ボクは、ドンがジャンプしながらボクの脚にふれる姿を見るたびに、やんちゃな子供と重なって思わず笑ってしまう。いまでもそうだが、校庭で遊んでいてお気に入りの先生にそっと近づき、さっと身体にふれて逃げてゆく小学生がいる。ボクたちの時代にはよくみられた光景である。触れられた先生も心得ていて、それに応えて追いかける。

 ドンがボクの脚にふれて駆けてゆく行為も、それとまったく同じなのだ。じつにやんちゃなドンである。いや、ドンは姫だから、お転婆ドンというべきか・・・。

 風呂場にはむかしながらの手押しポンプ、流し台、洗濯機がある。床はコンクリートのタタキである。ボクが夕食後の食器を洗っている間、ドンは退屈そうに風呂場をうろついている。洗い終わるのを待っているのだ。そうして、ボクが洗い終わると同時に一足先に走りだし、あちこちに身をひそめていて、不意に飛び出して来て脚にからみつく。時には、物陰に頭部だけ突っ込んでじっとしている。それで本人は隠れたつもりなのだ。ぜったいに見つからないつもりなのだ。おしり隠して尻隠さずである。いやいや、頭隠してシリ隠さずだ。ボクはあまりにも見事な隠遁の術に声を失う。頭部だけちょこんと物陰に突っ込んで、ほぼ全身はまる見えなのだ。これではかえって哀れな努力に報いてやりたくなるというものである。ボクはそっと、見えぬふりして通り抜ける。とたんに背後から脚に飛びかかって来て、

「やった、やった、大成功!」

 と、全身から歓声が噴出しているような勢いで駆けてゆく。子犬みたいなドンである。こんなことをしてみせるドンは特別なのか、それとも子ネコにとってはよくあることなのか、ネコ歴の浅いボクにはわからない。ただ一つだけ確かなことは、ドンは間違いなくネコだということである。それでもついボクは、

「おーいドン」

 と呼び、「おいドンは本当にネコかい? もしかして犬じゃないのか」

 もしかしてドンはネコの衣を借りた犬かもしれない。だから鳴かないのだ。そのうち化けの皮が破れてワン! と吠えるかもしれないぞ。

 ずっこけのドン、すっとびのドン、ドンにはいろんな名前が増えていった。起きている限りドンは飛び回っている。来た時の鈍いうごきからドンと名付けたが、あれはきっとドンの策略だったにちがいない。

「わたしおとなしい子ネコよ。ぜったい悪さしないと誓うから、かわいがってね」

 ドンは猫を被っていいネコぶっていた。ドンにまんまと騙されたボクのほうこそ間抜けな鈍である。

 眼の前にいたかと思うと一瞬にして消え、右に左にジェット機が二、三機飛びまわっているようなすさまじさである。

 その夜、寒気がして早々と布団にもぐり込み、兄に貰ったウイスキーを出した。風邪気味らしい。昨夜も室内最低気温はマイナス七・五度だった。今夜はそれ以上の厳しい冷え込みになりそうだ。石油ストーブのない我が家の窓から、ひたひたとマイナスの冷気が広がる。そんな中で、ドンはひとり飛びまわっている。

 奥行一間半の部屋は、布団を敷くと枕元から窓まで六十センチほどしかなくなる。その狭いスペースに酒瓶とポット、コップ、読みかけの本に煙草と灰皿。これでもう、ドンの小さな足の踏み場もなくなる。そんな狭いところをドンは、かすりもせずにスイスイと飛んでゆく。全身に眼が付いているようなその見事な勘と敏捷さには感嘆するばかりだが、うるさくてかなわない。うるさいけれど、これも子ネコの運動なのだと、いつも疲れて寝るまで我慢している。

 だが、今夜は寒気のせいか苛々する。そしてドンは、どういうはずみでか、コップに後ろ足を引っかけてしまった。

「あっ・・・!」

 と、ボクは叫んだ。着地寸前のドンも一瞬、こっちを振り向いた。

「うるさい奴だ! はやく寝てしまえ」

 大事な酒をふいにされて、思わず怒鳴った。

 ドンは着地した場所に留まったままじっと、流れた酒を拭くボクをみていた。それから悄悄とテーブルの下に入った。布団を敷いた右側にも南向きの窓があり、奥から本棚、テレビ、テーブルと並んでいる。

 ドンはいつまでたっても出て来なかった。テーブルの下でじっとボクばかりみている。

―ああ、これなんだ・・・―

 ボクは、新しいホットウイスキーを作りながらつぶやいていた。この命の輝く愛らしさは、ぬいぐるみの持つ単純なぬくもりとはちがう。これこそが、小さな命をまもる武器なのだと、気づかされた。

「可愛い・・・!」

 と思う感動があふれてこそ、抱きしめてみたくなる。その揺さぶられる感情は、同情をも誘う。

 ボクがドンを冬空の下へ追い出せなかったのも、なんのことはない、子ネコのドンの魅力に心のすべてを席捲されたからに違いない。もしグロテスクな相手なら、大声あげて追い払っていただろう。つまりはこれも、まだ無力な命をまもるために神さまが与えてくれた配慮なのだ。

 ドンの愛らしさに半ばうっとりと、半ば感心しながらみとれていたが、こんどは逆に、憎たらしくなってきた。少々腹が立ってきた。狛犬のように座っている姿も、おつにすましている表情も、その愛らしさのすべては、計算されつくした上での完全無欠なポーズに見えてきたのであった。

―わたしこんなに可愛いのに、どうして怒るの。こんなに可愛いんだもの、なんだってゆるされるべきじゃない―

 そんなふうに見えてきたのである。悪いことをしたら悪いことをした者らしく、それらしい反省の表情をみせればこっちの気持ちもすこしはおさまるものを、なんて奴だとカチンときた。そうは思っても可愛いものは可愛いのである。美しい花は泥の中に咲いても美しいのである。ドンの顔立ちはオードリー・ヘプバーンにそっくりである。そしてボクは、オードリーって子ネコ型の美人だったんだと、妙なところで妙なことに気づいた。

 オードリー・ヘプバーンには、ちょっとした苦い思い出がある。当時、ボクたちは、中学生になると二つ折りの定期券入れを持つ習慣があった。汽車やバスに乗るわけでもなかったから、中学生のステータスシンボルだったのだろう。入学して間もなく朝の身体検査が行われ、ボクは教壇の前に立たされ、

『これは何だ!』 

 と詰問されたそれは、いま取り上げられた定期券入れだった。男性教師が問題にしているのは、買った時から入っていた薄い紙に印刷された女性の写真だった。セピア色の美しい外国の女性だった。外国映画など見たこともないボクには、それがオードリー・ヘプバーンとわかるまではかなりの年数を要した。いまでも鮮明に覚えているその女性は、ブラウスにスカート姿だった。あの有名な《ローマの休日》の一場面だったろう。因みに、わが小さな町にポツポツとテレビが入りだすのはそれから数年後のことである。

『こんなものを持つとはけしからん』

 と、一発くらった。

 当時の学校にはこのような鉄拳教師はかならず二人、三人いて校内を引き締めていた。殴られたくらいで騒ぐ親もいなかった。逆におまえがわるいからだと叱られた。それがふつうだった。そして当時の教師は皆、教師独特のオーラを放っていて、他校の見知らぬ教師と出会っても、何処かの教師だと分かった。聖職者としての自負と誇りが漲っていた証であろう。


 いつものドンなら、十時、十一時過ぎまで跳ね回っている。棚の上のコーヒー瓶を落し、ポットをひっくり返し、あちこちで凄まじい音が破裂する。時々、我慢ならずに叫んでしまうが、怒った後はかならず気が滅入ってしまうボクの弱さだ。いまドンはどんな気持ちでいるだろうと眠れなくなってしまい、そっとコタツの中を覗いて声をかけ、撫でてやる。そうして無言で謝りながら、明日の朝は起きてこないような気がして辛くなるのだった。だが、それはいつも杞憂におわった。昨夜わるさして怒られたことも忘れたように、早朝のいつもの時間にいつものように起こされる。昨日は昨日、今日は今日、いつまでも昨日を引きずっていては新しい明日はやって来ないのよ、とでも言ってるかのように、気持ちの切りかえのはやさはボクとはえらい違いである。

 テレビ映画がはじまった。やっと酒がまわってきたらしく、この厳寒の中、寒気のする不快感もうすれてゆく。テーブルの下でカサカサと音がする。テレビにひきつけられて気づかなかったが、ドンは紙ボールを見つけて遊んでいた。手を伸ばせばなんとか届く距離である。時折、枕元にボールが転がって来ると、そのたびにドンは口にくわえてテーブルの下の狭い空間に運び、静かな音を奏でながらひっそりと遊び始める。どこまでもひそやかな遊びだった。

 見ているうちに、思わず知らず、笑みがこぼれた。ふきだしそうになりながら、その繊細でひかえめなうごきにはいたずらっ子の反省がつよく感じられて、愛おしくなる。そこには確かな知があり、情があり、意があると思えてならなかった。ボクは、ミミにもおなじようなものを感じていた。

 ミミは、呼びかけると長い尻尾の先をピッと振って返事をするネコだった。飛びまわっている時はべつだが、横になって眼を閉じている時、熟睡しているような時でも応えてくれた。

 ミミ! と呼べばピッ! と一回、二度呼べばピピッ! と二回尾の先を振って応える。尾の先を振るという表現は正確ではない。そこに間接でもあるかのように尾の先から六、七センチのところを鋭くピッ! と折り曲げて応えるのである。

 埼玉の弟たちが来た時は傑作だった。夫婦そろって愛猫家で、すぐミミの尾に夢中になって何度も、いや、何十回も呼びつづけているうちに、半ば眠りにおちていたミミは、それまでとは打って変わって尾の根本からブーンと大きく振って応えたのであった。その様はいかにもうんざりした様子で、

―わたし眠いのよ、いい加減にしてちょうだい!―

 といった感じだったので、ボクたちは腹を抱えて笑い転げてしまった。何度呼びかけても的確に返事をするそれは、条件反射の無機質な反応とは違った。その尾の先にはたしかな意思が感じられた。

 兄などは、何度も呼びかけているうちに感極まって抱きしめるか、いかつい手でギュウギュウとミミの頭部を畳に押し付けるのだった。的確で従順な尾を見ているうちに誰もが感動し、それから奇妙な苛立ちと欲求不満にとらわれた。たしかな意思が通じ合っている中で、ミミさえその気になったら、ミミの喉元でつっかえている言葉がポンと飛びだしてきそうな錯覚に陥るのだった。

 常々、これほどのネコたちがどうして芸ができないのかと、不思議に思う。同じ仲間のトラやライオンはそれなりに芸を見せているのに、ネコだけはサーカスで花形になったためしはない。集中力が散漫なわけではない。ネコが獲物を嗅ぎつけたときの集中力と忍耐力にはすごいものがある。ことにも名ハンターのミミは、静寂の達人(達描・・・?)だった。天井裏にネズミの気配を察してサッとタンスに飛び乗ると、とたんに透明な静寂につつまれた。炯々と一点を凝視している眼には生きている迷いなど寸毫もなく、身じろぎひとつない姿には真空を思わせる静寂があった。そうしてミミは五分、六分はおろか、三十分ちかくも見えない相手と対峙しているのだった。未だ人間にひれ伏すことのない唯一の家畜、それが誇り高いネコである。

 

 ボクは、昨年の秋から風呂場の横に物置小屋を作っている。やっと屋根ができたばかりだが、作業をはじめると、ドンはボクを追って飛びだしてくる。二月になってやっとドンは、自分から外へ出るようになった。この寒さで風邪をひかないかと気になるが、見る物すべてに興味を示し、ひと時もじっとしていることなく雪の上を動き回っている。さすがに家の中のように跳ね回ることはないが、雪の中のドンはまさに赤鼻のドンだった。全体の八十五パーセントは白毛で、額から下には模様がないので一層、丸い鼻先が寒さと雪で鮮やかなピンク色に染まっている。

 一日の作業を終えて、ビニールハウスに向かった。ドンも十五センチほどの雪の上をヨチヨチと歩いて来る。そして銀杏の木の下の、物置にしている白いセダンの上に上がった。ビニールハウスはその横にある。廃材を利用したわずか一坪ほどのハウスだが、暖房もないのに秋蒔きのチンゲン菜やユキナが冬の間中食べられるのだった。

 廃車の屋根には雪はないが、凍っている。滑落を心配してハウスから出ると、ドンは逃げるように銀杏の枝にすがりついた。太い枝が何本ものびていて、ドンはその最初の枝にすがりついた。それがじつに危なっかしい姿である。だが呼んでも下りようとはしない。もっと幹のほうへ行きたい顔色である。ドンにとっては、これだけの高さははじめての体験だ。未知の世界へ挑戦したい冒険心と怖さとが、その顔に滲み出ている。心配していたその時だった。風がサワサワと吹いたとたん、ドンの身体は他愛もなく落下した。そもそも、落ちる直前のうごきからして、妙だった。爪が枝にかからないようなもがき方をみせた瞬間、

「あっ・・・!」

 と、ボクは叫んだ。叫びながら車の前をまわって盛土の下へ下りた。ちょうど小部屋の濡れ縁の前である。日陰の雪は氷結状態で、ゴツゴツした石もむき出しになっている。地面から車の屋根まで二メートルはある。更に枝までの高さを加えると、ゆうに三メートルちかくになる。その高さから落ちたのだから、子ネコのドンなど無事で済むはずはない。もう動けずにいるだろうと大あわてに駆け下りたが、驚いたことにドンは、何事もなかったように氷のような雪の上を歩いていた。ネコはどのような姿勢で落下しても、必ず四足で着地する話は聞いていた。実際にその見事な着地を、このちっぽけなドンはやってのけた。だから怪我ひとつせずに済んだのだ。そのうえおどろいたことに、まだ遊び足りない表情をしている。

 部屋に入ってコタツの傍らに置くと、ドンはコタツにも入らずにボクを見上げてミャーと鳴いた。はじめて聞く子ネコらしい鳴き声だった。しかもその声に表情に喜びがあふれていて、ネコらしくもなく木から落ちはしたけれど、とても楽しかったと言わんばかりの感動があふれていた。

 木から落ちたのは恐怖で爪が出ないほど身がちぢんでしまったからだが、それでもドンは喜んでいる。ボクの方は、ドンの美しい鳴き声に感動し、あの高さから落ちて怪我ひとつしないそのみごとな能力に感嘆した。さすがはネコ。ネコは子ネコより芳し!


              四、箱入りムスメは日焼けがお嫌い


 ドンがきて五十日が経った。五十日目の記念というわけでもないが、兄から体重計を借りて計ってみると一・八キロあった。

「ずいぶん重くなったな!」

 兄はおどろいた。

 はたして重いのか軽いのか、あるいはこれがふつうなのかボクにはわからない。いずれにしても、ボクにはそれほど大きくなったようには見えない。どっちにしろ、ドンはすこぶる元気で、相変わらず声が出ないまま弾丸みたいに走りまわっている。そうなんです。あの時声が出たのは、木から落ちたショックのせいだったようで、その後すぐいつもの歌をわすれたドンに戻ったのです。

 いまでは寒さにもなれたみたいで、ますます活発に飛びまわっている。これで甲高い声で騒がれたら四六時中、台風とカミナリが破裂しているようなものである。それを思うと静かなドンのほうがありがたいが、やはり声の出ない哀れを感じる。木から落ちたショックとはいえ、あの時は間違いなく子ネコらしい美しい声を出したのだ。きっといつかは声が出るようになるだろう。それとも一生、声が出ないままおわるのだろうか。いまはまだ何とも言えないが、本人は精いっぱい口を開けて鳴いている。そうしていろいろとボクに語りかけ、訴えてくる。しかし、どんなに口を開いてもかすかな声しか出なかった。

 その日、煙草が切れたので、兄に留守番をたのんで近くの店に走った。二十分ほどで帰ると、ドンが玄関から走り出てきた。部屋に入ると、兄の表情に硬さが張り付いていた。出かける前ドンと遊んでいたニコニコ顔とは対照的で、何かあったことは確かだが、見当もつかなかった。ボクが訊くより先に、

「おまえが出て行ったとたん、急によそよそしくなった」

 と、兄は語り、いくら呼んでもドアのそばでじっとしてうごかず、ボクが帰ったのをみて玄関から走り出たということだった。誰が来てもすぐ甘えるドンである。まして兄とはいちばんの仲良しなのだから、意外だった。

「おまえを親だと思っているんだろうな」

 信じていた者にはぐらかされた悔しさが、色濃く浮き出ている。

 ともあれ、ドンがボクを親だと思っているのなら、ドンは自分を人間だと思っていることになる。もしそうなら、少しは親をみならってほしいものだと、ボクはボクでべつの愚痴が出る。外へ出るときは靴を履いてほしい。たまには風呂にも入ってもらいたい。ドンが外を飛び回るようになってから、その泥足に閉口しているこの頃だった。

 時々出ている目ヤニはおとなしく拭き取らせてくれるのに、足洗いだけは嫌がる。四肢を踏ん張って抵抗し、身を振りほどいて逃げようとする。ひどすぎる泥足の時はさすがに腹が立って叱ると、とたんに青菜に塩となってしまう。哀れな姿がたまらなくて、ドンの顔に頬を押し当てて静かに語りかけると、ドンはぐったりとしてしまう。逃れようのない諦めなのか安心なのか、全身の力を抜いて手も足もブラブラさせてしまうのである。このようなこともたまにはあるが、とにかく足洗いは大の苦手で、分厚い泥をつけて帰って来たのをみて抱くだけで四肢を踏ん張り、指という指を思いきりのばして抵抗の意思を示す。

 いまの時期なら、そしてドンの持つ知能なら足拭きくらいの躾は出来ると思う。そう思うけど、本気で躾たことはない。ネコは靴を履く動物ではない。足を洗う習慣もない。結局、命あるものはすべて自由であれ、ということになってしまう。

 物置小屋の作業をしていた午後、屋根の上で物音がした。子ネコのドンにしては音が重すぎる。物置を出て、すこし離れて見上げると、大きなネコが二匹いた。

―ドンは何処だ・・・!―

 ボクの視線はゆれた。

 あっ! ドンはヒバの木の中ほどでしがみついていた。ドンを追いかけていまにも二匹のネコがヒバの木に移ろうとしている。ボクが屋根に上がるまで、二匹のネコは悠然としていたが、屋根に手を掛けると同時に、慌てるふうもなく去って行った。 

 ドンは恐怖で震えているに違いないと急いで駆け寄ったが、その表情はふだんと変わりなかった。そればかりか、幹にしがみついて離れようとしない。もっと遊びたいから邪魔しないで! とまで言っている。どうやら二匹のネコには敵意がなかったらしいことが、ドンの表情でわかった。子ネコのドンと遊びたくてやって来たものらしい。いや、もうすでに彼等なりのやり方で遊んでいたのかもしれない。こうしてドンも、この辺一帯のネコたちの仲間入りをしてゆくのだろう。その儀式はもう終わったのだろうか。それともこれから始まるのだろうか。

 ミミの場合は、仲間入りの儀式を拒否して最後まで、ミミの三倍もある大ボスと張り合ったままその一生を終えた。その点では、ミミこそドンの名にふさわしいネコだったかもしれないが、どのような儀式であれ、穏やかにねがいたいものだ。

 そのドンは、いつまでもしがみついたままだった。登ろうと思えばまだまだ登れるのに、ただしがみついているだけである。どうやら本音は怖いらしい。だが、いずれはスイスイとのぼり下りするだろう。登る木もたくさんある。風呂場の横のわずか十坪ほどのここだけでも胡桃の木が二本、ヒバの木が二本、ポプラ、青木、ケヤキなどが茂っている。胡桃とポプラは直径四、五十センチの巨木で、ポプラにいたっては、その梢は上空はるかに揺れている。そんな木々の空間ぎりぎりに物置を作ったものだから、背後の左角に胡桃の木、正面の右角にヒバの木が突っ立っている。ドンはいつものぼっている胡桃の木から屋根に上がり、屋根からヒバの木にのぼったらしい。細長い我が家の北側に密生するこれらの木々は風よけのもので、夏は涼しいが梅雨の時期はうっとうしいほどになる。南側はボクとドンが寝起きしている八畳間で、とにかく、細長い家なのだ。

 ついこの間まではボクと一緒でなければ外へ出なかったドンは、この寒い中、ひとりで外出して何時間も帰らないようになった。夜も時々出歩いている。ふしぎなことに、ひとりで出歩くようになってから、声が出るようになった。昨夜も風呂場の洗い場までついて来て、外へ出たいと大声をはりあげた。地面がぬかるんでいるので出したくなかったが、そのしつこさについカチンときて、

「こんなに暗くなったのに、懐中電灯でも持ってゆくのか?」

 頭部をコツンとやった。

 しかし、ネコは夜行性である。ドンも一人前になりつつあることの証明だった。藪の中で獲物と遭遇し、仲間と出会い、声を出さずにはいられない場面に直面して声帯を鍛えたのだろうが、こうしてドンも、誇り高いネコ族であることを自覚してゆくのだ。

 とはいえ、いぜんとして不器用な鳴き方だった。うれしい時とか感動したときには韻をひく美しい声を出すが、ふだんはニャッであり、キッと短く鳴く。金属音めいた声でギーッと鳴くこともある。そのぎこちない鳴き声は、子供の頃に作った笹笛そっくりだ。長さ十センチくらいの笹竹の先端を斜めに切り、その歌口に笹の葉を付けるのだが、笹の微妙な調節がむずかしくて、一度や二度ではうまく鳴らなかった。あたかもドンの不器用な鳴き声も、調子の悪い笹笛状態だった。

 ところが、雨がつづいて二、三日出さずにいると、ドンは鳴くことをわすれた。ぬかるみが乾いて出してもしばらくは声も出ず、ボクからはなれずにまとわりついている。それから少しずつ遠出をはじめ、やがてまた声が出るようになる。一人前どころか、ドンはまだまだヨチヨチ歩きの子ネコなのだ。

 とはいえ、ぎこちない鳴き声でも、鳴こうと思えば鳴ける。外へ出たいときはわめきもする。いったいどうなっているのだろうと考えている時、ちょうどテレビで、子犬の頃の虐待が原因で一生声を失った忠犬物語が放映されて、納得した。ドンもきっと母親と引き裂かれたさみしさに声をからして声帯を傷めたのだろう。さみしがりやで甘えっ子で、かなり気弱な性格だけに、じゅうぶんあり得る推測だった。

 つい先日のことである。ふたりで春の匂いが漂う畑を一回りして風呂場に入ると、家の中から大トラが出て来た。物置の屋根に上がっていた二匹のうちの片方である。大トラは慌てもせず、ちょっぴり照れくさそうな顔でボクの足もとをすり抜けて行った。ドンはいなくなっていた。何処へ行ったのかと呼んでみると、いつ駆け込んだのか台所の物陰からすごすごと出て来た。ドンにはまったく戦う意思も怒りもなかった。じつに平和なドンである。争いごとを嫌う平和主義者といえば聞こえはいいが、弱虫は隠せない。ボクはいまだかって、ドンの怒った顔をみたことがない。ボクに叱られると部屋の片隅でシュンとして、眼をウルウルさせてしまう。その潤んだ眼でじっと見つめられると、二度と叱ってはならない思いにさせられた。

 それでもドンは、日々成長している。ふっくらとしていた身体は、ひとり歩きするようになってスマートな体型に変わった。何処まで遠征しているのか、ふと姿が見えなくなると、二時間は帰って来ない。

 それ以外は相変わらずボクから離れずについて回るが、何処で何をしようと、河原の柳のジャングルに入れば遊び場に不自由することはない。アカネズミにコマネズミ、葦の中ではヨシキリも鳴いている。そして秋には胡桃やキノコが採れる。

 

 四月になって畑仕事を始めると、ドンもほとんど一日中、畑にいるようになった。草取りの手に絡みつき、めったやたらと畑を駆け回る。

「たまにはドンも手伝って下さいよ」

 と、小言を言うと、鍬の柄によじのぼってくる。そうして、遊び疲れるとクコの林に入ってのんびりと寝ている。箱入りムスメは殊のほか日焼けがお嫌いのようだ。


              五、ドンはレイプされた・・・?


 ドンが来て四か月経った。四月下旬の川べりは菜の花で覆われ、川向の堤防の桜はまばらな開花になったが、それでも春を彩っている。

「ドンちゃんの腹に子が入ってるんじゃねえか」

 そう言ったのは、従兄弟の勝彦さんだった。

「まさか」

 ボクは、即座に否定した。

「オレもまさかと思う。まだほんの子ネコだものな」

 しかし、身籠っているようだと、勝彦さんは言った。

 ボクもドンのおなかの膨らみには気づいていたが、妊娠の思いなどさらさらなかった。最近はよく食べるようになった。外の世界にもなれて食欲が増し、それで太ったのだと思っている。まだぬいぐるみのような子ネコが妊娠するわけがない。家の中とは違って、外界にはいろんな敵がいるのだ。

 ボクは毎朝、胡桃の木の下のミミのお墓にごはんとお水をあげて拝んでいる。合掌して帰りかけると、すかさずカラスが舞い降りてごはんをくわえて飛び去ってゆく。

 その朝は、ちょうどカラスがお墓に舞い降りたところへドンが出て来て睨み合いとなった。その間合い二メートル弱。子ネコのドンなどまだカラスの敵ではないが、子ネコであってもネコは猫である。

高が子ネコ、されど猫。カラスのほうでも。気のゆるせない相手と承知している。ご馳走は食べたいがドンが気になってどうしようもない。そのじれったさが、落ち着きのない全身にあふれている。ボクは風呂場の小窓から展開の成りゆきをハラハラ、一方ではわくわくしながら見守っていた。ドンは身を沈めて果敢に攻撃体勢をとっているが、早い話、半分は怖くてうずくまっているのだ。それでも、ドンがどのような野性の片鱗を見せてくれるかと期待する。

 互いに一歩も引かない睨み合いの末、意外にもカラスのほうが根負けして飛び去った。と思う間に、ドンの背後から飛来して真上の胡桃の木の枝にとまった。ちょうどその影が、斜面に作ったミミのお墓の中央に落ちている。カラスにとっては、いつものごはんが目的である。ところが、ドンはカラスの影に向かってふたたび低い姿勢で身構えた。本物のカラスはわずか三メートルに満たない真上の枝にとまっている。冷静な状態ならすぐ気づくはずである。時折、羽ばたく音もする。苛立たしげな声さえ発する。にもかかわらず、いつまでも影に向かって身構えているのは、とほうもない緊張にふるえている証拠だった。結局、カラスは飛び去り、ドンがいなくなった後やって来て、おにぎり状のごはんをくわえていった。

 その数日後、畑でカラスを追っているドンをみた。カラスはちょいと舞い上がっては降り、飛び降りては舞い上がっている。ドンは躍起になって追いかけている。なんのことはないドンはカラスに翻弄され、カラスはドンをからかっていたのだ。それからまた何日か経ったある日、カラスが近くに飛来して来たとたん、ドンは一目散に床下に逃げ込んでしまった。ボクの見ていないところで、ドンはカラスの思いがけない逆襲を受けたのだ。

 こうしてドンは、未知なる動物たちと出会い、経験を重ね、一歩外へ出ればけっして気を緩めることのできない緊張の中で成長している。最近になってそのような生活にも慣れて、よく食べるようになって肉がつきはじめた。こんな子ネコが妊娠などできるわけがない。人間にたとえればまだ五、六歳の女の子が妊娠したようなものであろう。そのような間違いが起こるほど自然の摂理は粗雑なものではあるまい。

 しかし、思いとは裏腹に、ドンのおなかは日毎にふっくらとしてくる。兄が来たのでこのことを話すと、

「食べすぎだろ」

 と、即座に妊娠説を否定した。

「そうだよね。このところいつもの三倍は食べる。勝彦さんはおなかに子が入っているって言うけど、信じられない」

 ボクは言った。

「こんな小さな子ネコが子を産むなんて、オレも聞いたことはない」

 兄は、妊娠説には関心もなく、ハタキを手にして遊び始めた。

 そんなある日、ドンのおなかをくすぐると、いくつもの固い突起が掌に触れた。仰向けにしてみると、ドンの乳首だった。大きくなっている。長さ二・五ミリ、直径五ミリくらいはある。純白の腹の両側で整然と十個並んでいるピンク色の乳首は、最早、疑いようのない妊婦の輝きだった。ウーンとボクはうなり、

「ドンは大人になったということか。ドンにも赤ちゃんが産めるということか・・・?」

 あどけない眼をしたオードリーは、しかし何も応えてはくれない。自分が身籠っている事実すら分かっていないのだ、とボクは思ったが、

 ―いや違う、ドンはすべてを認識している―

 妊娠の事実を見せつけられて、ピンク色の乳房からあれこれと、思い当たる過去が湧きあがった。

 三月中旬、ドンは一週間ほど暴風状態になったことがある。昼も夜も駆け回り、帰って食事するとまた出て行く。箱入りムスメは野良ムスメに変身して、どろんこドンを通り越して土の塊がうごいているかのようになった。純白の毛という毛はえもいわれぬ銀色に染まり、そのすさまじさに怒りも忘れ、思わず吹き出してしまうほどだった。そしてドンは、完全に疲れ切っていた。夜帰って来てほっとしていると、ほとんどダウン状態であくびをくり返しながら、それでもまだ外の様子を気にしてソワソワしている。それから、もう我慢できないといった表情で身を起こし、玄関へと向かう。これ以上出すまいと出口を塞ぐと、ドングリまなこを三角にして七色の声を張り上げて騒いだ。海の向こうのキャリーとおなじ七色の声でも、うちのキャリーさんは百の爪でガラスを引っ掻くようなものだった。あまりの凄まじい声に驚き、これほど声が出るのにどうしてふだんは声を出さないのかとふしぎに思った。そこには静かなドンも歌をわすれたカナリヤもいなかった。

 その夜、どんなに晩くても十時頃には帰っていたドンは、夜中になっても帰らなかった。ボクは心底、ドンは何処かへ去って行ったのだと思った。もとより飼いたくて家へ入れたネコではない。可哀想なので、独り立ちできるまで面倒みようと決めただけのことだった。そう思う一方で、どうしようもない不安が押し寄せて来た。さみしがりやで甘えっ子のドンが、はたして厳しい外界で生きていけるのかと、じっとしていられなくなった。でも、ドンは自ら選んで出て行ったのだから、それなりの覚悟と自信があってのことだろうと、さまざまな思いに揺れているところへ、銀狐ならぬ銀猫キャリーさんは帰って来た。

 いまにして思えば、この狂騒の時期こそ発情期だったのである。この騒動がおわった後、家の中にいるはずのドンがふと消えてしまう現象が度々起こった。台所のほうへ行ったまま消えてしまうこともあった。玄関から出て行った様子もないまま消えてしまうのである。その夜も、出た様子もないまま忽然と消えて九時を過ぎても現れず、不審に思って探し始めた。六畳間と小部屋を覗き、台所を探して風呂場に入った。風呂場だが、畑仕事の休憩所であり洗い場でもある。ごちゃごちゃしているが、懐中電灯で隅々を探してもいなかった。

 外へ出ていないとすれば、いつも寝起きしている表側の八畳間ということになる。夜のせいもあって、不気味な感じがしないでもなかった。

 コタツの正面に整理タンス、その左側は物入れで、両端は押入である。押入はみな戸が壊れてカーテンを吊るしている。右側は本来の押入として使用しているが、左側には前住人が使っていた古いタンスやガラクタが入っている。あちこち探し、最後に左側のカーテンを開いた。開けて上段のタンスに顔を近づけたとたん、二つの眼とぶつかった。引き出しが閉まり切らず、いつも三センチほど開いている。その隙間からこっちを見ているオードリーの眼だった。ボクは一瞬、ギョッとしてのけぞった。ドンのほうでも気まずそうな眼をしている。ぜったいにみつからないと信じきっていたような眼だった。いったい何処から入ったのだ? この三センチの隙間から入れるわけはない。入ったとすれば、まさに化け猫ではないか! ちいさい頃から化け猫の話を聞かされてきたボクの背中を、ザワザワと隙間風が走りぬけた。何しろ、我が家は小ジャングルの中に建っているような、地区から離れた一軒家である。昼間こそダンプが走り、ベルトコンベアーがガラガラ唸っているが、いったん陽が沈むと陸の孤島になってしまう。真夜中の孤島を訪れる客は、山から下りて来て河原へ向かうキツネぐらいのものである。キツネは何処から来て何処へ向かっているのか、雪が積もった朝、玄関前に一直線にのびるキツネ独特の足跡でわかった。

―そんな馬鹿な・・・―

そんなことがあるものかと、裏側に手をまわしてみると、背板が一枚剥がれていて、そこを出入口にしていたのだ。ドンが出たあと中をみると、ちいさく噛みちぎられた新聞紙が敷き詰められていた。

 それから後も、そして今もよく入っているのだが、まさか産褥の準備などとは思ってもみなかった。噛みちぎられた新聞紙はネズミの仕業で、その臭いに引きつけられて入っているものとばかり思っていた。

 こうして妊娠は疑いのない事実となり、否定できない証拠を見せつけられながら、それでも尚、釈然としないものがある。こんな子ネコが妊娠するのは、きっとレイプされたからに違いないと思った。

 勝彦さんにそのことを話すと、

「馬鹿なこと言うもんじゃないです。子供がつくれる身体になったから発情期をむかえ、こうして腹に子が出来た。動物の世界はそんないい加減なものじゃないんです」

 勝彦さんは、ボクのレイプ説を真っ向から否定した。ドンの妊娠は自ら望んだ結果だと言うのである。物知りの彼が語るのだから、間違いないのだろう。

「それにしてもおませだな、ドンちゃんは・・・」

 勝彦さんは、ドンを撫でる。傍らのドンは、うっすらと眼を閉じて横になっている。いつでもそうだが、ドンは勝彦さんが来るとすり寄ってゆき、胡坐をかいた膝のあたりで寝そべる。

「ぶじに産めると思う?」

 と、ボクは訊く。

「大丈夫なんじゃないの、たぶん」

 甚だ心もとない返事が返ってきた。動物の世界はいい加減なものではないと言いながら、その実、勝彦さんもまた、小さすぎるドンの妊娠に驚き、危惧しているのだ。

 勝彦さんは物知りである。酒がまわると一層、その博識ぶりに拍車がかかるのがチョッピリ難ではあるが、いちど耳に入ったものは忘れないタイプである。彼が得意とする分野は生活の知恵ともいうべき事柄で、ボクより二歳下だが、生活に密着したものならおよその答が返って来て、いつも教えられている。


 五月になると、ドンのおなかはもう、誰が見ても妊婦そのものになった。ドンのおなかに比例するように、ボクの気苦労が増してゆく。出産はこまるのである。困るけれど、ボクが産むわけではないので、いまさらストップもかけられない。じっくり相談し合える相手でもない。思い余ってつい、

「なあ、ドンよ。予定日はいつか教えてくれないか」

 と、訊いてしまう。こっちにだっていろいろと心の準備というものがあるのだ。

 しかし、ボクの心痛などそっちのけで、オードリー妊婦は華麗に飛び回っている。畑に出ると小さな虫をみつけておどりかかり、穴をみつけては手を突っ込む。モグラの穴であれ杭の穴であれ、穴という穴に手を突っ込む癖がある。いや、これは本能だろう。とにかく、穴には目がなかった。手を突っ込み鼻先を突っ込んで夢中になるが、親に倣ったわけではないのだから、野生時代の血がいまなお色濃く流れているということだろう。まだモグラの穴と杭の穴の区別もつかないが、こうした遊びの形で修練を積み重ねながらハンターとしての素質を磨いてゆくのだろう。

 身籠ってすこしはしおらしくなるかと思ったが、じっとしていることはなかった。窓ガラスの羽虫を捕まえようとカーテンをよじのぼる。木登りとはちがって後肢の踏ん張りがきかないので、前足だけでぶら下がるようにしてよじのぼってゆく。ネコとはいえ、それがじつにみっともない姿なのだ。だらしなく伸びきった身体に突き出たおなか。

「妊婦のすることじゃないぞ」

 思わず言ってしまう。

 しかし、妊婦は妊婦である。ネコの妊婦だからといって、妊娠の影響がないわけではなさそうだ。様々な変化が現れた。何日かおきに、怠くてうごきたくないといった様子をみせる。そのたびに食欲はガクッと落ち、生気をなくした気怠さに覆われてしまう。このような時は極端なまでに神経質になり、ちょっとした物音にもビクリと身を震わせる。

 さすがのオテンバ姫もこのような日は畑に出ても、クコの林の中で身を横たえている。春の陽がふりそそぐ中、林の中はそよ風が通り抜けている。いまはもうすっかり妊婦の体型になり、柔らかな曲線をみせる優美な姿で涼んでいる様は、まるで優雅な貴婦人を思わせる雰囲気である。やはり、箱入りムスメは日焼けがお嫌いなのだ。


              六、妊婦はネズミがお好き


 日が経つにつれて、ドンの気怠そうな姿が一層、眼につくようになった。それに比例して、薄いピン色だった乳房はその赤味を増し、おなかはますます大きくなってゆく。こんなちっぽけな子ネコに母体がたえられるのかと、勝彦さんに話すと、彼は言った。

「こんなに元気なんだもの、きっと大丈夫さ」

 そしてドンは、臨月が近づくにつれて食と遊びにも大きな変化を示した。これまではほとんど魚缶だった食事が、いまはカリカリのドライフードになっている。そうかと思うと、また魚缶に変わる。両方万遍なく食べるということはなく、魚缶を二、三日食べつづけるとまたドライフードに戻るといった具合で、その嗜好は極端に変化するのだった。人間でも同じものを食べると飽きてしまうが、ドンの場合は、身体がまだ成長段階での初体験だけに、妊娠の影響は大きく作用しているようだ。

 身体だけではなくて、遊びの面でも最近はもう、紙ボールに興味を示さなくなった。いくら作ってやっても、兄が来て誘いをかけてもまったく見向きもしなくなった。身体が重くてそれどころじゃないというのならわかるが、それとは違うようだ。食欲も落ちる気怠そうな一時期をすぎると、大きなおなかを抱えて軽々と跳ね回るようになり、外見的には依然としてあどけないオードリーだが、紙ボールを与えてちらっと眼を向けるしかつめらしいその表情には、大人の雰囲気が漂うのだ。紙ボールなんて子供の遊びじゃない、といった眼差しをみせる。そこには幼児から一足飛びに母親に駆け上りつつある母性の目覚めが感じられ、可憐なオードリーは、肉体ばかりではなくてその内面まで変化しているのがわかった。

 つい先日、野ネズミを捕って来たのもそのあらわれのような気がする。はじめての獲物だった。その翌日には、二時間ほどの間に二匹のモグラを捕まえてきた。ミミの場合もそうだったが、ネズミやモグラを捕ったからといって、褒めてやったことはいちどもない。被害を蒙った場合はともかくとして、そうでないかぎりはそっとしておいてほしいと、ボクはいつもねがっている。それでも食べるため、生き抜くための手段なら話は別だが、ミミがネズミを食べた現場を一度として見たことがなかった。いつでも、たっぷりと弄んで結局は、なぶり殺すだけだった。

 名ハンターミミはしょっちゅう文句を言われた。だが、何度叱られようと獲物をくわえて飛び込んできては、ボクの前ではしゃぎまわった。ボクに見せたいのである。ボクに褒めてもらいたいのである、と思っていた。これは昔からの定説といってよいだろう。だが違うのである。ボクはこの後、ドンの多くの子たちと暮らした経験から、まったく違う答えを確信した。ネコたちは飼い主に褒められたくて獲物を持ってくるのではないということである。獲物をもっとも安全な場所で存分に弄び、じっくりと味わいたいためである。犬は人に付きネコは家につくという言葉でも、これはもう、間違いないと思う。

 ボクがまだ実家に住んでいた頃の近所の話だ。新築のために一キロほど先に引っ越したその家のネコが、毎日もとの家にやって来ては、飼い主が探しまわっていたものだった。つまり、家ネコにとって家は堅牢な住み慣れた城なのである。

 オードリーがはじめてネズミを捕って来た時は、ドンにもネズミが捕れることに驚いてしばし見つめてしまった。それから、

「もうネズミは捕らないでくれ、わかったな・・・」

 言い聞かせながら、まだ生きているネズミを川岸の藪の中へ放した。

 その翌日は、モグラを捕って来た。すこし怒ったふりをしてみせた。これで少しは身に沁みるかと思ったが、ドンは台所の方へ逃げて、ショボンとして眼をうるませてしまった。ミミとはたいへんな違いである。ミミの場合は、捕って来た獲物を奪い取ろうものなら、それはあたしのネズミよ! 返してよ、こら、返せってば! と声を張り上げて奪い取ろうとするチョーネアカなお転婆だった。

 それに較べると、やはりオードリーはおとなしすぎる。ドンの気弱さはいまにはじまったことではないが、こんな性格ではたして子供をぶじに産めるのかと、また不安が大きくふくらむ。

 ところが、それから一時間もしないうちにまたしてもモグラを捕って来て、ボクの怒りは本物になった。逃げるかと思ったドンは、玄関に立つボクの足下をすり抜けて部屋に入ると、自分の食器にモグラを入れた。そうしてモグラのにおいを嗅ぎ、食べたい素振りをみせる。どうやら単純な遊びではないようだ。食料が目的で捕っているらしいことがわかった。人間の妊婦は酸っぱいものが食べたくなるように、ドンの身体もふだんとは違った食べ物を要求しているのかもしれない。

 それ以後コマネズミを一匹捕って来ただけで、ボクに叱られるので家へは持ち込まなくなった。ただし、ハンティングは一層、活発になった。畑の中でちいさなジャンプをくり返して跳ね回っている姿は、捕った獲物を弄んでいるときだった。時々は食べているのかと遠くから観察し、ドンが立ち去ったあと行ってみるが、すでに息絶えた傷ひとつないネズミやモグラが転がっているだけだった。が、だからといって食べていないことにはならない。ボクが四六時中見張っているわけではないのだ。オジの手伝いもある。自転車で街へでかけることもある。見えないところで食べているかもしれない。

 やがて妊婦は、家の中でも落ち着きを失い、いまなお産褥を決めかねずに探している。台所を物色し、古タンスに入り、物入れのなかでカサカサと音をたて、その表情には時として不安気な色が漂い、ちょっとした物音に身を震わせるほど神経過敏になった。

 そのような姿を見ていて、肉体の変化とともに初産にたいする未知の不安が、ハンティングに駆り立てていることを知った。出産が近づくにつれて、野性本来の血が色濃く蘇えっているのだ。捕って来た獲物を食べるわけでもない。新鮮な自然食にはちがいないが、ネズミやモグラよりも何倍も美味しい食べ物は、いつもたっぷりと用意されている。にもかかわらず、食べもしないネズミやモグラをにわかに捕りだした変化は、遠い昔の妊婦としての、野生時代の本能の衝動だ。腹に子が出来たら食べなくてはならないという本能であろう。ともあれ、こうして小さな妊婦は不安の中でとつぜん、ネズミを捕りだしたのだった。

 朝に追い、昼に追い、また夕方でかけてゆく。さすがに重い身体がこたえるらしく、昼間はよく箱の中で休んでいる。ダンボール箱の角に身をもたせ、四肢を投げ出して寝ている。まるで酔っ払いが座椅子にもたれて鼾をかいている姿である。大きなおなかをさらけだした無防備きわまりない姿をみていると、どこに野性の本能がといいたくなるほど滑稽きわまりないぶざまな寝姿である。大ボスの赤ネコと闘争をくり返していたミミの場合は、一度として、このような隙だらけの態度をさらしたことはなかった。裏返せば、ドンにはまだ怖い敵がいないという証でもある。

 夕方ハンティングに出かけると、十時、十一時までねばっている。おなかの子供だけでもかなりな重量だろうに、その小さな身体には実際、驚嘆すべきものがある。疲れきって帰って来て餌を掻き込んで寝るのだが、その頃にはボクはいつも布団に入っている。ドンの箱は昼間は窓際に、夜は押入と本棚の隅に置く。テレビから箱までおよそ一メートル。台に乗せた箱の高さは七十センチ位。ドンは毎晩、テレビの前から箱に向かってジャンプするのだが、ジャンプしたとたん、ドンの身体はバスケットボールに変身する。テレビの前で身を落して構える姿はあたかもフリースロースタイルであり、ふわりと空中に舞い上がった瞬間、ドンは真っ白いボールとなって箱の中におさまる。見るたびに、ボクはうっとりし、あのマイケル・ジョーダンでさえこの華麗で優雅なジャンプにはかなうまいと思った。おなかが大きくなっているので、大きなボールが飛んでゆくように見えるのである。はたしてこの華麗な跳躍はいつまでつづくのやら・・・。


             七、子ネコが子ネコを産んじゃった


「ドンよ、子供が生まれたらすぐ捨てるから、カンベンしてくれよ。ドンも知っている通りのビンボー暮し。お金があったら飼ってやれるんだが、お金がない。わかってくれ! 金持ちになったその時は、きっと飼ってやるから・・・」

 わかってくれと言い聞かせるボクの言葉は、口癖になった。捨てる場面を想像するだけで、胃が痛くなるほど辛くなった。捨てられる命にたいする辛さである。子を奪われるドンの悲しみを思う辛さである。勝彦さんは言うのである。

「生まれたらすぐ、眼が開かないうちに川へ流す。早ければ早いほど赤子の苦しみも少なくてすむ。何処の家だってそうしているじゃないか。そんなに深刻に考えることはない。たしかに惨いことだが、哀れと思ったら何もできない。それがメスネコを飼った者のさだめだ」

 彼の言葉はもっともだと納得しながら、心はゆれる。しかし、どうにかしてやりたいと思っても、ドンひとりの餌代だけで四苦八苦している状態では、無理なことだった。ネコを飼うことでこのような苦しみが発生することなど、いちども考えたことはなかった。

 ボクは、人生に落ちこぼれてこのあばら家へ来るまで、ペット専門の動物病院の存在すら知らなかった。キャットフードもドックフードも知らなかった。ペットに関しては、驚くほど無智な人間だった。

 ここへ来たばかりの頃のドンは、まだ固いドライフードは噛めず、魚缶ばかり食べていた。ある日、ボクの食器に手を出すので、ジャガイモと大根を与えてみた。食べると思わなかったドンは食べた。喜んで食べた。しめたと思った。ジャガイモと大根だけは自家製で賄える。食べたいだけ食べてくれと思った。ところが、食べた後、きまって激しくなるオナラに閉口し、いつとはなしに与えなくなり、やがてドライフードを食べるようになった。あのときジャガイモやダイコンを与えつづけていたら、きっと今頃は、ネコのベジタリアンが誕生していたかもしれない。じつに残念なことをしたものだと、今になって歯噛みしている。

 ボクの揺れる思いと同様にドンもまた、何処で産もうかと迷っている。ドンの寝床は本棚の角と、寒い夜はいつでも入れるようにとコタツの中にも小さなダンボール箱を入れている。この二つの箱がふだんのねぐらである。そのほかにも出産用に物入れに一個、台所の棚の上に一個用意した。が、ドンのお気に入りは古タンスのようだった。唯一自分でみつけた秘密の場所という思いがあるのかもしれないが、出入りが窮屈だった。だからこそ安心できるということにもなるのだが。

 しかし勝彦さんは、ネコはぜったいに人の近くでは産まないと断言する。物知りの彼が言うのだから間違いないだろう。とすれば、この部屋から最も遠い台所ということになる。勝彦さんもそのような予想を立てているが、ボクはすこし違う。さみしがりやのドンにとって、台所はあまりにも遠い産褥に思えてならなかった。そのうえまだ子ネコの初産だから層一層、神経質で不安に駆られてとうぜんだ。

 葉桜の五月中旬、兄がやって来た。大きなおなかのドンを前にして、さすがに、ハタキをふり回す気にもなれずに見守っていたその時、

「おっ・・・うごいてるぞ!」

 兄は、びっくりしたように言った。 

 眼を向けると、寝そべっているドンの腹部がピクピクッとうごいた。紛れもない生命の胎動だ。少し離れた場所でも時折、ピクリとうごく。勝彦さんは、ドンはまだ子ネコだからせいぜい三匹くらいだろうと語る。これをみると確かに、一匹でないことだけは分かる。

「生まれたらすぐ捨てるんだぞ」

 兄も勝彦さんと同じことを言った。

「そうする・・・」

 ボクはこたえた。

「やっと踏ん切りがついたか」

 兄の顔に、ほっと安堵の色が浮かんだ。

「やっとね・・・」

 迷いに迷った末、最近になってやっと、ボクの心は固まりつつあった。この決意はもう、崩れることはないだろう。勝彦さんの家のウサギのように雑草を食べるなら、三匹が六匹に増えたところたいした違いはない。残念なことに、ネコは草食性ではない。生まれてくる子がたとえ三匹だとしても、そのなかの一匹がメスだとしたら半年後には子供を産み、その半年後にはその子がまた子を産む。その間にもドンと二代目はせっせせっせと子を増やしてゆく。あっという間に我が家はネコで満杯になる。その事実は自明の理なのだが・・・。

 その日の夕方、いつまでも帰らないドンを探しに出てみると、夕暮れの畑の中で薄茶色のネコと寄り添うように話し合っていた。セメント鉱山のベルトコンベアーの音もダンプカーの轟音もなく、眼の前の堰堤から落ちる水音だけが静かな夕景を彩っている。

 ボクは胡桃の木の下で眺めていた。二匹は向き合い、時折、何かしらうなずき合っているように見える。ドンが誰かとこんなに親しく接している姿は初めてだった。それだけに一層、オードリーの三倍はある薄茶色のネコが、妊婦を気遣っている夫のいたわりに見えてならなかった。ドンのおなかの子供たちの様子を見に来たに違いない。そんなことを考えているうちに、二匹ともいなくなっていた。

 その夜、モグラをくわえて帰って来た時、十時をすぎていた。モグラはすでに死んでいて、川へ流して戻って来ると、ドンはテーブルの下で長々と伸びていた。寝床へジャンプする力も尽き果ててしまったのだ。一時間ほどして、すこし力が湧いてきたらしく、ゆらりと立ち上がって箱へ飛び込んでいった。

 それから三日が経った。いつもの狩猟から帰って来ると、めずらしく毛づくろいをはじめた。概してドンは、毛づくろいをしないものぐさオードリーである。たまの毛づくろいも痒いところを掻く程度のもので、いちどとして、ミミのような毛づくろいを見たことはない。ミミは暇さえあれば毛づくろいに余念のない身だしなみの良いネコだった。ところが、この夜のオードリーの毛づくろいは、彼女の名に相応しい本格的なものになった。身をよじり、頭部を振り、全身くまなくやった後、仕上げにお尻のまわりまでやった。これが出産の準備なのだろうかと考えていたが、この夜は何も起こらなかった。

 翌日の夜、またあらたな変化が起こった。ハンティングから帰って来たのは九時過ぎで、今夜も毛づくろいかと見ていると、食事を終えてすぐ寝床へジャンプしてしまった。あんな面倒なことなんて一度やったらそれでいいのよ、といった具合だった。ミミが毎日欠かしたことのない毛づくろいも、ドンにとっては出産前の儀式だったようだ。儀式というものは、一度やればそれでいいのだ。やはりうちのオードリーは、ものぐさである。

 ボクはその時、布団に入ってテレビを観ていた。ドンは既に深い眠りで丸くなっていたその時、いきなり飛び降りてボクの枕元に来た。ひどくびっくりした様子で、眼がゆれている。

「どうした・・・」

 と訊くが、何がなんだかわからないまま、その場で寝てしまった。おなかの子に思いきり蹴飛ばされでもしたか、怖い夢でもみたのかこの夜も何も起こらず、しかし、オードリーは朝まで枕元で寝ていた。

 ボクが起きてから、オードリーは、昨夜の出来事を忘れたように、朝の散歩に出かけていった。ボクが起きないと外へ出ようとしないのは、いつものことだった。さみしいのか不安なのかそこのところはいまもって分からないが、出産間近のいまでも、ボクが起きるのを待っている。時に寝坊しようものなら、起きてよ、起きて! と、顔を叩かれて起こされる。時々、オジの手伝いで午前中留守にするが、昼に帰って来るときまってドンは寝ている。ボクの姿をみてやっと安心したように食事をして、それから出かけてゆく。街へ買い物に行っても、それはおなじだった。いまもってこんなひ弱なオードリーだから、ぶじに子が産めるのかと心配が尽きない。

 しかし、出産は間近に迫っていることだけは、間違いなかった。ドンのいろいろな変化と様子をみていると、

―いよいよの、いよいよだな・・・!―

 と思い、これ以上にない暗鬱な気分に陥る。子を捨てる苦痛と子を奪われるドンの悲しみの何ひとつ解決しないままジリジリと、底なしの焦りだけがつのってくる。

 この日の夕方、いつもより早く帰って来たドンは、何かしら苛々した様子で古タンスに入り、それから物入れに入った。ボクはコタツの傍らの石油コンロに火を点けて、夕食の味噌汁をあたためていた。いまはもう、ドンは、台所の箱に入ることはなかった。古タンスか物入れか、そのどっちにせよこの八畳間で産むことは間違いないようだ。なのに本人は、いまもって決めかねてウロウロしている。

 夕食を食べようとしたその時、ドンは物入れから出て来て、

「ミャー!」

 と、ボクに何かを訴えて、もどっていった。と思う間にまた出て来て、鳴いた。いつもとはまるで様子が違う。何事かを緊迫の眼の色で訴える。

―今度こそ、本物だ・・・!―

 入っては出る。出ては入る。そのたびにすがりつくような眼をして鳴く。そのうちに、物入れに戻る余裕もなくなったらしくて、途中で引き返して来てボクに訴える。器用な指があったらボクの手を引き脚にすがりつくような必死の表情である。

―助けて! どうしていいかわかんないの。怖いのよ・・・―

 張りつめた眼が叫んでいる。

 ネコの出産に立ち会うなんて聞いたことがない。でも、ドンは助けを求めている。ボクは甚だ困惑しながら物入れの扉を全開にして、箱に入ったドンを撫でてやった。十分ほどでドンは落ち着きを取り戻した。

 ボクは箸を手にしながら、もう産まれたろうかと、食事どころではなくなった。物入れの中はしんとしている。産み終わたった後、ドンはどのような行動を見せるのだろうと、こんな緊迫した状態でありながら、ボクのいつもの好奇心が昂ぶる。

 八時ごろになって、ドンが出て来てコタツの中に入った。そうして、寒い夜でもないのにコタツの中で寝てしまった。

―まただまされた・・・―

 妻の初産を待つ夫の気持ちも、きっとこういうものだろうと思った。ネコでさえこうなのだから、もし妻をめとって子供を産むことにでもなったらと思うと、ただの想像にすぎないのに、身が震えた。

 夜中に眼覚めて便所に立つと、ドンも出て来て水を飲みはじめた。が、

「ンッ・・・!」

 体型が変わっている。横から見る姿は相変わらず大きなおなかだが、背後から見るとほっそりしていて、よくよく見ると、おなかの横のふくらみが消えていた。

―ああ、とうとう産んだのだ・・・!―

 ドンは水を飲んだだけでコタツの中に入った。まさかコタツの中で産んだわけではないだろう。物入れの中で産んで、ゆっくり休みたくてコタツに入った。物入れを覗いてみたかったが、ドンに悪い気がして堪えた。

 朝になっても静かだった。子ネコたちの鳴き声もなくひっそりとしている。みな死んだのだろうか。そのようなこともあり得るだろう。何しろドンはあまりにも小さすぎる。母になるにはまだムリだったのだ。そう思いながら、そっと物入れの扉を開けてみたが、箱の中は空っぽだった。ここで産んだとは思えないほど、汚れひとつない佇まいだった。

 この時、ドンがコタツから出て来ると、ボクに一瞥もなく砂箱へ向かった。ボクに眼もくれないドンを見るのは、はじめてだった。

 ドンが部屋から出て行くのを確かめてから、コタツ布団に手を伸ばした。死産であれ何であれ、産んだことだけは間違いない。見てはならないものを見るようなためらいの中で、そっとコタツの中を覗いて、

「エッ・・・!」

 と、思わず声を発してしまった。

 子ネコたちが、小さな箱に折り重なるようにして輝いていた。


  子猫が子ネコを産んじゃった

  コタツの中で産んじゃった

  五匹の子供を産んじゃった

  命がいのちが輝いている


 ボクは、思わず知らず口ずさんでしまった。箱の中は触るのも嫌になるぐらい汚れていると覚悟していたのに、毛糸で作ったような子ネコたちは、なお不思議なことに、紫がかった輝きに覆われていた。紫色の毛色など一匹もいないのに、ボクは、子ネコたちをおおっている紫色の輝きをみつめながら、これが命の荘厳の輝きかと思い、その瞬間、もともと軟弱なボクの決意はくずれてしまった。一匹だけが白と黒の斑で、他の四匹は薄茶と白のトラだった。

―それにしても・・・―

 ボクは首を傾げた。ほんとうにここで産んだのかと思うほど、箱の中は汚れひとつなく清潔に乾いていた。

 午後、すっきりしたようなしないような、そんな複雑な思いで畑仕事をしていると、ドンが何かの内臓を思わせる赤味をおびた物体をくわえて来て、土を掘って埋めた。ここでもドンは、ボクには一瞥もくれずに立ち去った。その場へ行って掘ってみると、あるかなしかの薄い皮のような物だけが出て来た。くわえて来た時は大きくみえたので死産児かと思ったが、話で聞いていた後産とはこのことかと思った。胎盤なのだろう。ドンが出産したのは真夜中である。それから半日以上たってから後産が起こったということになる。それとも何処かに隠していたのだろうか。しかし、ドンがくわえていた物体はたったいま体内から出たばかりのような生々しものだった。ボクは獣医ではないのでこうした知識はない。なんとなく後産という言葉の意味だけ知っていたにすぎない。

 ともあれ、出産後どことなく顔色のすぐれなかったドンは、胎盤らしきものを埋めてから急に生気を取り戻し、すっきりした表情になった。ただ、砂箱はいつも軟便で汚れていた。


                  八、ドンの変身


 生まれた直後は頭部からお尻までほとんど同じ太さだった子猫たちは、翌日にはもう、乳首にむしゃぶりついているその腹部は膨らんでいた。子猫たちの旺盛な食欲とは対照的に、ドンの食欲はかんばしくなかった。産後疲れが抜けないのかもしれない。ドンの身体を考えるなら、いますぐ思いきって子猫たちを捨てるべきである。だが、ボクは子猫たちにチャンスを与えることに決めてしまった。ドンにも母親らしいことをさせたくなった。

 三日目、オジの手伝いをして昼に帰って来ると、ドンはコタツの中だった。大盛りにして出かけたドライフードはそのまま残っていて、子供たちに付きっきりだったことが分かる。

「ドン、ただいま」

 呼びかけると出て来たが、ソワソワして落ち着かない。掌に餌をのせて与えてみると食べ始めたが、子猫たちのかすかな鳴き声にそそくさとコタツの中にもどってしまった。慈しむように子供たちを抱いている姿はもう、一人前の立派な母親の風格が浮き立っている。しかたなくコタツの中で掌でドライフードを与えると、お乳を飲ませながらカリカリと食べはじめたが、勢いのない咀嚼だった。

 それなのに、食欲のないまましばしば外出してネズミやモグラを追いはじめた。

 ところが、この日は夕暮れ間近になっても帰らなかった。出てからすでに一時間は過ぎている。

―なにかあったな・・・―

 心配になった。

 ボクは昼食後、盛土の上で一メートルを越す蛇を捕まえた。殺すのは嫌だから、川の中州へ放そうと細い鉄の棒で運ぶ途中、落としてしまった。落ちた蛇は、クコの林に入った途端すっと掻き消えた。いくら探しても見つからなかった。そのことがあって、ドンが外へ出るたびにハラハラしていた。毒蛇ではないにしても、あれほど大きな蛇を相手にしたら、小さなドンなどぶじではいられまい。

 不安に駆られて探しに出ると、ドンは盛土の上にいた。たったいま帰ったばかりの様子で、たそがれの散策といった風情で暮れなずむ夕景を眺めていた。玄関の前でドンを呼んだ。チラッとこっちを見たが、遊び足りない様子でうごこうともしない。もういちど呼ぶと、顔をそむけたまま向こうへ歩きだした。思わず、

「ミャー!」

 と、鳴いてみた。

 とたんにドンはすっ飛んで来て、コタツに入ってしまった。

 おなじことがその後、二、三度あったが、ボクの下手な鳴き真似はすぐに通じなくなった。遊びであれハンティングであれ、外出の時間と育児の時間をドンなりに会得して、母親としての自信を持ったのであろう。だからボクがいくら鳴いてみせても、

―帰る時間になったら帰るわよ!―

 そんなしかつめらしい感じで、見向きもしなくなった。

 生まれて三日目、子猫たちの発育に差が出始めた。四匹ははち切れんばかりのおなかなのに、一匹だけ小さくほっそりしている。乳房は両側に五個ずつ十個並んでいる。生まれた時はみな同じ大きさだった。

―どうしてだろう・・・―

 首を傾げた。乳の出の悪い乳房にめぐり合った結果なのか、生まれつきの虚弱体質なのか、その差があまりにも歴然としているのだった。

「やはりドンには五匹の子育ては無理だったのだろうか」

 勝彦さんに訊くと、

「生まれたからといってみな育つとはかぎらない。必ず育ちのわるいのが出るし、一、二匹死んでもふしぎはないんだ」

 獣医さんらしいことを言い、それよりもドンがコタツの中で産んだことにいたく驚いていた。ボクが毎日足を突っ込んでいるコタツの中で子を産み、育児をし、時にはコタツの中でボクの掌から餌を食べている。そのような話をすると、彼は唖然とした面持ちで聞いていた。

しかし、子供たちのおどろくほどの成長の速さを見ていると、何日もしないうちにドンの小さな身体は吸い尽くされてしまいそうで、不安になった。いたたまれぬ思いで缶詰やパウチ製品を買えるだけ買って来て、食器をコタツの傍に移した。ボクにとって大変な出費だが、ほしいものは何でも食べさせてやりたかった。だが、ドンの食欲は回復しなかった。

 四日目は、朝から雨だった。昼ちかくになって、コタツから出て来たドンは、外へ出してくれと鳴き声をあげながらせわしくなく動きまわった。しかし雨は降りつづいている。そうしているうちにドンは、走るように砂箱へゆき、荒々しく砂をかきまわして便をした。殆ど下痢に近い軟便だった。始末のわるい便だから、外でしたかったのである。出産後はほとんど外でウンチをしていたのも、ずっと軟便がつづいていたからだろうと、気づいた。

 ボクは雨の中へ自転車を走らせ、ホームセンターから下痢止めを買って来た。が、急く思いで説明書を読んでいるうちに、グワグワッと不安が湧きあがった。たしかにドンは下痢をしている。食欲も落ちている。

 けれども、いまのところ元気に走りまわっている。昨日の朝も、栗の木の下で大きなネズミを捕まえてはしゃぎまわっていた。

―薬を与えていいのか・・・・?―

 あらゆる生き物には自然治癒力がそなわっている。まして動物の能力は、知能と交換で本能を失った人間など遠く及ばないほど優れている。ネコは家畜の中で最も野性の血を色濃く持っている動物だということを思い出した。

 ボクが小学生の頃、家にフジという名のネコがいた。ある時おなかをこわした。父は、ネコにはタコはいいがスルメは毒だと言った。

スルメを食べたのだろうと言った。寒い時期だったから、母は部屋に入れて看病した。が、何遍、部屋に入れてもいつの間にか土間へ降りて、冷たい土に腹部を押し当てるようにして蹲っていた。そうして回復した。

 遊びに夢中だったボクは、フジを抱いた記憶はないほど部外者だったが、この時のことは、鮮明に覚えている。

 いま安易に薬を与えてよいものかと、ボクは思い惑う。もうすこし様子を見たほうがよいのではないか。だが、出産直後だけに悠長に見守っている余裕はない。

 副作用のない安全な薬はないものかと気を揉みながら、ミミが風邪をひいた時のことを思いだした。一粒のドライフードも食べられなくなってミミの死を覚悟した時、兄がマタタビの枝を持って来てくれた。薬になるとは知らなかったので、試にミミの鼻先に近づけると、座布団の上でぐったりしていたミミは、とつぜん立ち上がってマタタビの枝にかじりついた。ガリガリに痩せ衰えたミミには信じられないほどの荒々しさで、ボクの手からもぎ取りかねないほどの力だった。この狂気じみた状態は数分間つづいてピタリと止むと、座布団の上でまたうごかなくなった。が、三日間一滴の水も受けつけなかったのに、その翌日には眼の色が輝き、まだ満足に食事も摂れないまま外へ出るようになった。こうしてミミは、奇跡的に回復した。あれはまさしくマタタビのふしぎな効験だった。

 ドンにも同じ奇跡を期待して、小降りになった雨の中へふたたび自転車を走らせた。近くの沢に入ってやっとマタタビの木を見つけてきたが、しかしドンは、ミミほどのすさまじい反応を示すことはなかった。物憂い感じで枝をかじり、顔をこすりつけ、そのうち葉を一枚ペロリと飲みこんだ。期待したほどではなかったが、嫌がっているわけでもなかった。

 ドンの特効薬にはならなかったが、しかしボクは、この後、折につけマタタビを採って来て部屋に置くようにした。ふだん興味を示さないが、なんとなく元気がないと思っていると、必ずマタタビの枝をかじり、顔中にこすり付けている。そうして調子を取り戻す。ボクがかじってみてもまったく味もにおいもないマタタビだが、ネコにとっては特別なものらしい。

 マタタビの名の由来を知ったのは、この後のことである。

 夕方になると、ドンは古タンスに入った。昨日も入ってガサガサやっていた。子猫たちを移したいらしいと、やっとそのことに気づいた。当然であろう。離れた場所での出産は不安でコタツの中で産みはしたが、うるさくて心休まる暇もない。しょっちゅう足は入って来る。コタツの上では物音がする。兄や勝彦さんが来るたびに覗かれ、子猫たちに触られる。下痢の原因もこのせいだろうかと、ただちに物入れの中へ移した。移して何日もしないうちにあれほどの下痢はおさまり、食欲も回復した。神経性の下痢だった。

 そのドンは、兄に子供たちを抱かれても爪を立てるわけでもなく、声を荒げるわけでもなかった。少々困惑気味の表情をしているだけである。ボクの方が、また体調をくずすのではないかとハラハラ見ている。だが、やめてくれと言えない事情がある。兄はドンのご馳走を買ってくれる唯一のスポンサーなのだ。

 堆肥にする草刈りをして帰って来ると、やぶの中からドンが現れて、一緒に風呂場の戸から入った。入った途端、大トラが中から出て来た。ドンは低い唸り声をあげて身構えた。しかし大トラは、ちっぽけなドンなど意に介せず、鷹揚な足取りですり抜けて行った。それをドンが追いかける。

「ダメだ、ドン!」

 喧嘩して勝てる相手ではない。ボクの声にドンは引き返して来ると、飛ぶような勢いで子供たちの所へ駆け込んでいった。

 大トラが忍び込んだところへちょうどボクたちが帰って来たのだろう。被害はなかったが、前にも一度、これとおなじ場面を体験している。その時はドンの餌を食べられ、戸棚を荒らされ、買ったばかりのドライフードの袋を引き裂かれた。今回の目的も食べ物だったのか、それとも生まれたばかりの子供たちのお祝いに来てくれたのだろうか。 

 物入れの扉を五センチほど開けてみると、ドンはいそいそと子供たちの身体をなめながらお乳を与えていた。

―変わったものだ・・・!―

 前回の鉢合わせでは、あっという間に隠れてしまった弱虫ドンが、今回は唸り声をあげて攻撃体勢をとり、更に追撃しようとまでした。母親は必然的に強くならざるを得ないということだろう。その必然性は、可憐なオードリーを変えることになるのだが、ボクはその変貌を予想もできなかった。

―さみしがり屋の甘ったれドンが・・・― 

 変われば変わったものだと、お乳を飲ませているドンをみているうちに、その変貌に気づいた。ドンの顔立ちが変わっていた。オードリー・ヘプバーンを思わせる愛らしいあどけなさは薄れ、オードリーにかわって逞しいソフィア・ローレン型になっていた。思えば、ドンの身体も逞しくなっている。いつの間にか、あっという間にドンのすべてが変わっていたのだった。よくよく考えてみれば、ボクに甘えることもなくなった。ドンはひたすら育児に専念する逞しいおかあさんだった。そればかりか、小さなドンの身体のどこからこれほどの力が湧いてくるのかと思うほど、おどろきの連続である。小さなおかあさんは、じつによくやっている。はじめて産気づいた時、必死の眼をして縋りついて来たひ弱なドンは、ソフィア・ローレンばりの顔立ちに変わり、りっぱな母親をやっている。

―たいしたものだ!―

 妊娠、出産、子育ての一連の流れの中で、ドンはすっかり変わってしまった。肉体的にも精神的にもみごとなまでの変身ぶりである。あれほどひどかったオナラのドンも、気づいてみればオナラもしなくなっている。オナラのおかあさんなんてみっともないと反省したのかも知れない。ドンは子を産むことで体質改善された。神の摂理の偉大さを、ボクは、小さなドンによって思い知らされた。そのようなことを考えながら、

―でも、オードリーのほうがいいよなー

 と、ボクは思う。

 オードリー・ヘプバーンの映画は殆ど、NHKBS午後一時からのプレミアムを録画して観た。ソフィア・ローレンもいくつか観た。代表作ひまわりもつい最近観たばかりだ。ソフィアの逞しいイメージとは対照的に、オードリーはかぎりなく清純で清楚なところがいい。だからボクは、ドンにもいつまでもオードリ―でいてもらいたいのだったが、ソフィア・ローレンの変身は想像もしていないことだった。


               九、個性豊かな子猫たち


 子猫が生れて十日が経った。

 今日も朝から小雨が降っている。そのせいかドンは、箱に入ったきり出て来なかった。昼になって雨は上がり、ドンは午後になって外出した。と思う間に大トラに追われて逃げ込んできた。ボクは風呂場で畑仕事に出る準備をしていた。ドンを追って来た大トラも風呂場に入ろうとするが、ボクがいるので入れない。大トラはいつにない激しさで唸り声をあげた。ドンもまけずに唸り返す。本来、大トラは穏やかな性質だが、その温和な大トラが怒っている。

―何があったというのだろう・・・?―

 翌日の午後、台所の前の物置に入り、道具を探してふと顔を上げた途端、ボクは思わずぎょっとしてのけぞった。眼の前五十センチに大トラの顔があった。棚の高さは胸のあたりだから、ダンボール箱の大トラの顔はちょうどの眼の高さである。そのうえ薄暗いときているから余計、強烈な雰囲気になった。そのせいで、ボクはつい動転して声を荒げてしまった。しかし大トラは、ダンボール箱から出はしたが、逃げる様子もなくボクを見ている。ボクを見るその眼に敵意はなかった。どこか悠然とみえるその態度が気になった。静かな態度は逆に、何がなんでも箱だけは死守しようとしている感じなのだ。これが覚悟を決めた者の静寂というものだろうか。

―もしかして・・・!―

 ボクは、背伸びして素早く箱の中をのぞいた。いた! 眼もぱっちりと開いた白と黒の子猫がいた。それでまたは、他愛もなく度を失った。我が家がネコ屋敷になる恐怖に襲われたのだ。それでも大トラはうごかなかった。子を守ろうとする母親の強さである。ボクもそれ以上のことはできなかった。間近で面と向かう大トラは、やはり大きい。ドンの三倍もある大トラが牙と爪を剥きだして襲ってきたら、かすり傷程度ではすまない。

 物置の戸を開け放ったまま台所に入り、窓から覗いた。台所に庇をおろして造った物置だから、大トラはすぐ眼の前である。とても細長い我が家は、六畳間から台所まで庇を下して三畳間の小部屋、物置、風呂場と連なっている。

 大トラはもう、ダンボール箱に入って子供を抱いていた。その姿をみてほっとした。無意識に感情がゆれ動き、その後から理屈がやって来る。そういうことがしばしばある。いまもそうだった。そしてボクは、他愛もなく動転してしまった自分を後悔した。

部屋に戻ると、ドンが食事の最中だった。ふだん何気なく見ているドンの食事風景が、このうえなく平穏なひとときに見えてならなかった。おなじノラ出身なのに、ドンはこうしてじゅうぶんな食べ物にめぐまれ、それなりに大事にされている。一方の大トラは、餌はおろかやっと産んだ子供さえも安心して育てられる家もない。生き残った最後のいとし子を抱いて安住の地を求めてやって来たのだ。箱の中には一匹しか見えなかったので、きっとそうだ。大トラが守り抜いた最後の一匹だと思うといたたまれなくなり、子供が大きくなるまでそっとしておこうと決めて覗きに行ってみると、大トラも子供も消えていた。

 ボクにいちども怒鳴られたことのない大トラが、どんな思いで子供を連れ出し、何処へ行ったのだろう。ボクはまたしても耐えがたいほど滅入ってしまった。運のいいやつ悪いやつ。ドンは運が良かった。ボクと同様、ネコたちも持って生まれた運に翻弄されている。大トラは運がわるかった。そう思うしかなかったが、いつまでも後味のわるさが払拭できず、ドライフードを物置のちかくに置いた。安売りで買ったもので、いつもの値段で三倍の量だった。おなじドライフードだから違いはなかろうと、三キロの大袋を抱えて喜び勇んで帰ったが、ドンは臭いを嗅いだだけでそっぽを向いた。いつものドライフードに混ぜて与えてみると、どさくさ紛れに二粒三粒口に入ってゆくだけで、舌先で器用に選り分けて食べていた。それほど味に違いがあるということだった。安物は中身まで安いのだ。安物買いの銭失い。

 ところが、朝と夕に置く安物のドライフードは、いつもきれいに平らげられていた。時に魚の骨が残っていても、ドライフードだけは一粒も残っていなかった。ドンの舌に合わなかっただけだろうか。

 ともあれ、大トラがいなくなって安心したように、ドンの外出が増した。その日ひとり夕食を食べていると、子猫が鳴きだした。それがいつになく激しい鳴き声である。

―ドンよ、はやく帰ってこい!―

 じんじん響く鳴き声を聞きながら、ボクはうごかなかった。夕食がおわって尚しばらくして、やっとドンは帰って来た。既に鳴き声を聞いているドンは一直線に子供たちに向かい、右手でカーテンを開けて入っていった。古タンスの入っている押入と物入れの仕切り板が壊れているので、いつもこうして、恰も暖簾をひょいと掻き分けるような仕草で出入りしている。

 ところが、子猫の鳴き声が一段と激しさを増す。しかも悲痛の声である。やむなく扉を数センチ開けて覗くと、子猫が一匹、床の上で鳴いていた。高さ三十センチの箱から落ちたのだ。ドンは箱の中からみているだけだ。どうしてよいか分からない困惑の表情である。大トラは子供をくわえて物置の棚にジャンプしているのに、ドンは箱の中へ運び入れることさえ出来ずに困っている。それほどドンはまだ小さくて非力なネコなのだが、それでも一生懸命、母親をやっている。ボクの傍で食事をしている時でさえ、絶えず耳をそばだてて、子猫たちの動静をうかがっている。いま食べはじめようとした時でさえ、少しの鳴き声がしようものなら、いそいで引き返してしまう。箱から出て来ても、何かを聞きつけると一瞬立ち止まり、振り向き、カーテンに頭部を突っ込んで様子を確かめてから、戻ってしまうのである。

「ほら、おかあさんだぞ」

 チビを箱へ戻してやると、すかさずドンママは、恰もゴメンゴメンと囁いているような感じで全身をなめはじめた。

 

 今年は、不安定な気候がつづいている。いきなり二十度を超す暑さになったかと思うと、一気に十度ちかくに冷え込んだりする。今年の桜もまばらだった。滅多にないほど無残な開花になった。鳥被害と報道されたが、そればかりではないような気がする。春らしい長閑な日でさえも、冷気と暖気が幾重にも層をなしているような奇妙な現象を体感することがある。気候変動の兆しか。

 それでもいまのところ、我が家の作物は順調である。そろそろインゲンとサヤエンドウに手柴が必要になっている。

 いまにも雨が降りそうな肌寒さのなか、鎌を手に下流の柳の林に入った。手ごろな手柴を求めて河原藪を掻き分けていると、いきなりドンと出くわした。こんなところまで来ているとは思わなかったのでびっくりしたが、十メートル先のドンもキョトンとしている。

 嗅覚も聴覚も鋭いのだから、人間が近づいて来たことぐらいは先刻承知のはずだ。ただ、それがボクだとは思いもおよばなかったといった表情で、じっとこっちを見ている。ネコは意外にも近目という話しは知っている。ところが、ネコの視力の程度はわからないが、ボクもドンに劣らずド近眼である。相手が親しい仲ならたとえ三十メートル先でもその人物の特徴で確認できるが、それ以外は十メートル離れただけで性別と老若ぐらいしか判別できなくなる。それほどの近眼なので時々、知らんぷりしていると文句を言われる。外見ではド近眼には見えないということである。

 そのようなわけで、ボクたちはまるで、街中で不意に出会った知人同士のような具合だった。それからドンは、いつもとはまるで違った感じで、いかにもネコらしい鳴き声をあげながらミャーミャーと近づいて来た。

「おもしろい奴だな・・・」

 家の中で甘えることを忘れてしまったドンは、身体をすり寄せて甘える。外での不意の出会いは、ドンにとっても格別な思いがするらしかった。

 生まれて十日目になった。チビ丸たちは、ボクの予想をはるかにこえて大きくなってゆく。誰かは知らないが、次の飼い主のためにもトイレの躾だけはしておきたかった。逞しいソフィアお母さんが協力してくれるなら簡単だが、それはできない相談である。

 そのソフィアお母さんは、二十度を超す気温に溶けてしまったように寝そべっていたが、午後になると草取りをするボクのかたわらをトコトコと、気晴らしの足取りで歩いて行った。何処でどんな気晴らしをしているのか、ちょっぴり思慮深げな表情を見ていると、

「りっぱなお母さん、いってらっしゃい」

 と、思わず声が出た。

 夕方近くになってドンが帰って来たので、畑仕事で疲れていたが、思い切って子猫たちの箱を取り換えることにした。いまではもう、ドンが箱に入ると子猫たちが溢れるようになっていた。

 ボクの作業中、ドンは畳の上の子猫たちとじゃれ合っていた。眼はかんぜんに開き、時折じっとボクを見上げる顔はどれも幸せいっぱいの眼をしている。

「うんとうんと可愛くなってくれよな」

 ボクは声援を送る。

オードリーのようにひとめで相手を虜にしてしまうほど可愛くなってもらわないと困るのだ。ドンがそうであったように、その魅力

こそが子猫たちの運命を決するのだ。

 大きなダンボール箱にしたついでに、小さな砂箱を入れてみた。それから、物入れの他の箱類を出して最大限の空間をつくった。健康で丈夫な子猫にするには運動場も必要だろう。それから扉を取り払い、入り口の下半分にダンボール板を取り付け、その上部にバスタオルを張った。兄が来るたびに扉を開けて覗き、

「こんなに真っ暗で、ドンやチビたちは見えるのか」

 と、言うのだった。夜行性の眼をしているからその心配は不要だが、考えてみれば、薄暗いジャングルで暮らす野生とは違うのであった。いずれチビたちは、人間社会へ出て行く身である。

 ドンは、いきなり明るく広くなった空間に途惑い、落ち着を失った。予想した通りの反応だったが、一日もしないうちに落ち着きを取り戻し、大胆にも子供たちを外へ出そうとするようになった。畳の上で遊んだ喜びが忘れられないらしい。野生なら広い原っぱで戯れている時期に来ているということだろう。子供たちの中でもいちばんの元気チビ丸は、お母さんの誘いにこたえてダンボールの壁をよじ登ろうとする。よく見ると、箱から落ちて泣いていたあの子だった。

 その中で、一匹だけ発育がわるいのがいた。他の四匹は丸々と太っているのでいつかは追いつくだろうと声援を送って来たが、最初の遅れはどうしようもなかった。そればかりかここ数日、可憐な眼に目ヤニをためて一層、その発育のわるさを強調している。この調子では奇跡が起こらないかぎり兄妹たちに追いつけそうもない。

 何とかしてやりたいと思った。特別食を買って来た。もともと離乳食は早めに与えるつもりだった。ドンの負担軽減と、子猫たちを一日もはやくドンママから離す目的だった。可愛い盛りにトイレの躾も完了し、ふつう食にしておきたかった。しかし、説明書をよく読んでみると、一缶千四百円の離乳食は、わずか四日分と書いてあるのにはびっくりした。しかも一匹にたいする四日分なのだから、いまのボクには、これ以上は手も足も出ない。もうひと踏ん張り、逞しいソフィアママに頑張ってもらうしかない。

 いちど畳の上で遊ばせてからは、子猫たちも外へ出たがった。ドンまでが、いっしょに遊ぼうとして箱の隙間に手を差し込んでチビたちを誘う。いちばんの元気チビ丸は、いまにも箱を乗り越えかねない勢いである。そうして、何が目的か箱の中でダッシュしては立ち止まりダッシュしては立ち止まり、みながまだヨロヨロしている中でただ一匹だけ走りまわっている。ダンボールの壁をぶち抜いてやろうと挑戦しているのかも知れない。何とも逞しい奴だ。

 子猫用の砂箱を入れて三日目、どんな具合かと取りだしてみると、すごく汚れていた。とても子猫たちの汚れではない。ろくに毛づくろいもしないものぐさドンが、子供用トイレを使用していたのだ。

 しかたなく大きな砂箱にしてやると、元気チビ丸が入って砂を掻き回し、オシッコのポーズをとった。ドンママの真似をしているのだと思ったが、それなりの真剣な表情である。まさかと思いながら、身を乗り入れてよく見ると、砂が固まっていた。やがて、他のチビたちも次々と入ってはウンチやオシッコをやりだした。つまり、前のちいさな砂箱の汚れも、チビたちのものだったのだ。ということは、

―砂箱を入れるまでは、ドンママがすべてを掃除して、処理していたということだ・・・! 凄いな、ドンおかあさん―

 その量がどれほどのものか、古いトイレを見ればわかる。ウンチもチビ丸たちに相応しく小さなものだが、中にはボクの小指ほどの大物もある。箱の中は汚れひとつなく清潔に乾いていて、それを見ながらはボクは、子猫はオシッコもウンチもしないのだと思っていたような気がする。そんな馬鹿なことはないのだし、生れて間もないからといって排便をしない動物などいない。まだあどけないドンがここまで見事に育児できるとは思っていなかった思い込みが、途方もない錯覚を招いたのである。散歩に出たきり時には三時間くらい帰らないことがあり、その度に、

「ものぐさお母さん、チビたちが泣いてるぞ」

 そんな文句を言っていたが、ドンママはすべてを心得ていて、見事なまでの育児をしていたのだ。すべて本能といえば一言で片付くが、ネコはみなこうとは限らない。ボクはこの後、家ネコだけで一ダースのネコを抱えることになるのだが、産後一週間で育児放棄したネコがいて、残され子ネコは別のネコが育てた美談を体験している。ネコだっていろいろなのだ。

 さて、チビたちは日増しに成長して物入れでは狭くなり、となりの六畳間にベニヤ板で囲いを作って移した。ところが、ドンにとってこの引っ越しは甚だ不本意なものだったらしい。あれほど外へ出して遊びたいと言ってたくせに、子猫たちをくわえて元の物入れへ戻ろうとする。だが、くわえる行為は空回りするばかりで運べない。顎の力不足のうえに、口の大きさが決定的に小さいのだった。連れ帰りたいのにそれが出来ないドンは、とうとう苛々を募らせて騒ぎ出した。

 しかしチビ丸たちは、ドンママの不満などそっちのけで、広くなった囲いの中ではしゃぎまわった。離乳食を与えてみると、真っ先に育ちのわるいチビチビが飛びついた。それを見て、他のチビ丸たちも集まって来た。そして眼のわるいチビチビは、他愛もなく羽毛の如く跳ね飛ばされた。非力な者は生き残れないということである。なぜか優しいドンお母さんまでが、このチビチビにたいして特別な育児や愛情をそそぐようなことはしない。出来の悪い子ほど溺愛してしまう情愛は、人間だけに与えられた慈悲なのだろうか。知情意すら感じたあの繊細なオードリーは何処へ行ったのだ。強者だけが生き残って弱者は消えてゆくのみの非情が、眼の前で展開される。しかし、自然淘汰や優勝劣敗の法則からすればそれでよいのかも知れない。そうでなければ、無限の増殖となる。その結果どうなるか。

 いま、ある意味で無限の増殖の頂点に君臨しているのは、我ら人類である。恐竜は一億年もの長きにわたってこの星の王者として君臨したが、地球そのものを破壊することはなかった。だが、我ら人類は最悪の破壊者である。産業革命以来わずか二百年余であらゆる資源を貪り、地球内部をスカスカにし、いまなお欲望のままに浪費して倦むことを知らない。これまでどれだけの空洞を作り、一日にどれだけの空洞が広がっているのだろうかと考えてゾッとするのは、ボクだけではあるまい。その空洞に海水が入ったらどうなるのか? 学者先生たちは、内部の圧力が強いのでそのようなことは起こりえないと仰っているが、もし崩壊したどうなるのか?  3・11で原発神話は崩壊した。もはや想定外では済まされぬ時代になっている。文明の利器にどっぷりと浸かっている現代人が、その間違いに気づくのは、大自然の怒りが玄関の扉を突き破る時でしかないのだろう。だが、それではもう、遅い。世界じゅうで走っている自動車の台数。一日にどれだけの油が消費されているのか。ネットで調べると、眼がまわるような勢いでカウントアップされていた。それを見たら、誰もが身震いするだろう。ボクもゾッとした。化石燃料はいずれ枯渇する。その時どうするのか。誰かが何とかしてくれるだろうと貪っていたら、柱をスカスカにしてしまうシロアリのレベルと何ら変わりない。

 そのようなことを考えるでもなく考えながら、虚弱なチビチビを案じている。優勝劣敗は自然界の掟であっても、こうしてボクと生活しているからには、黙って見ているわけにはいかない。哀れと思えばなおさら気持ちが傾いてゆく。

 兄がやって来るたびに、先ず手に取るのは、チビチビだった。

「おまえはいつまで経っても小さいけど、だいじょうぶか。生きていけるのか」

 そのような言葉を投げかける。ある日、

「おい! 見ろよ」

 チビチビのシッポの先が折れていると言った。

 先天性のものか、兄妹たちに揉みくちゃにされて折れたのか、尻尾の先が直角に折れ曲がっているのである。その折れ曲がった尻尾が一層、チビチビの哀れをさそう。

 ボクは、チビチビ専用の食器を用意した。身体は小さいが、食欲だけはいたって旺盛である。発育不振の原因は、出のわるい乳房にあるのではないかと推測した。ドンの十個の乳房はみなおなじようにお乳が出るとはかぎらないようだ。

 離乳食に群がるチビ丸たちを見ながら、これでドンの負担もすこしは軽くなるだろうとほっとしたが、チビ丸たちが去ったあとよく見ると、そっくりそのまま残っていた。粉末の離乳食は水で練って与えるのだが、チビ丸たちは水分だけ啜っていた。それに再び水を入れて掻き混ぜても、一匹として口にしなかった。いったい水分だけで栄養が摂れるのかと心配していると、いちどは狂喜して飛びついた離乳食なのに、作りなおした新しい離乳食にも見向きもしなくなった。更にドンまでが、新しい囲いに馴染めずに食欲をおとしている。

 さいわい、翌日になると、ドンの食欲は回復した。物入れに戻ることを諦めたのか、母親のつとめとして無理に食べているのか、子供たちとも遊びはじめた。

 しかし、六畳間に移したことで、ボクは、いやでもドン親子の日常を見ることになった。これまでは眼を塞ぎ心を閉ざしてきたが、子供たちと戯れる光景を目の当たりにして、ボクの心は揺れ動いた。皆がやっているように、生れてすぐ捨てるべきだったと後悔の念が疼くその一方では、いつまでもこの平和な生活を守ってやりたいと思った。

 ドンはチビたちと遊び、授乳をおえると、外出しない時はいつもボクのそばに来て休んでいる。この幸せを守ってやりたいと思いながら、ボクの心はそれとは真逆の思いに掻き立てられる。はやく大きくなれと急いでいる。牛乳を与えてみたが、だれも飲まなかった。ネコは牛乳を飲まないのかと思うほど、ドンも飲まなかった。母親ゆずりというものかも知れない。

 離乳食も失敗したので、魚缶を与えてみた。すると、予想を凌ぐ勢いで、チビたちは貪り食った。そうして、ますます活発になっていった。

―もっともっと可愛くなれ!―

 ボクはひたすら声援を送る。

 いちばんの元気チビ丸は、とうとう高さ五十センチの囲いをよじ登って脱出に成功した。それに触発されたチビたちも騒ぎながら挑戦するが、みなよじ登っては落ちてゆく。あまりにもうるさいので、囲いを取りのぞいた。ところが、あれほど出たいと騒いでいたのだから欣喜雀躍の光景を予想していたが、それとは逆に、途惑いの様子でウロウロしてから二組のグループにわかれ、それぞれ気に入った片隅に固まってしまった。

 三匹対二匹のグループは、日によって変わった。時には二対二で一匹だけがのけ者にされたりする。誰かが好かれ、誰かが嫌われる。誰かと誰かがふざけあっている。そこには既に好みと仲間意識があり、自己確立の萌芽といったものを感じた。それを示すように、その動きにその表情にはっきりとした個性の違いを見ることができた。

 奇妙なことだが、なぜかボクは、その中の一匹に何もかも洞察されているような怖さを感じた。奸智にたけた老獪なネコならともかく、生れて一月とたたないその子猫のじっと見つめる眼の色は深く、ボクの本心を見すかされているような気がするのだった。鋭い眼光を放っているわけではない。凶暴な性格でもなければ怖い顔付をしているわけでもない。このただ一匹だけ白黒の子猫はどことなくノラクロに似ていて、生れた時から一際目立つ存在だった。気品さえ感じる美しいネコである。それがボクをじっと見つめる時、すべてを心得ているかのような眼の色をするのである。ボク自身の後ろめたさの反映だとしても、一種奇妙な底の深さを感じるネコだった。

 同様に、ボクをじっと見つめるチビ丸がいる。こっちはノラクロとは対照的に、じっと見つめるその眼の色は茫洋としていて、とらえどころがない。ノラクロの眼は、たとえば懐中電灯の焦点をカチッと合わせたような確かな意識を感じるのにたいして、こちらは何を考えているのかさっぱり分からない眼の色をしている。いちばん大柄で穏やかで、まわりで何が起ころうとわれ関せずといった顔をしているネコである。

 三匹目は、元気チビ丸だ。これはもう、スポーツ選手か探検家を約束されているようなもので、好奇心の塊である。先頭を切って塀を乗り越えたのもこの元気チビ丸である。いつも部屋中を探索していて、きっと将来は、ネコ版インディ・ジョーンズになるに違いない。

 四匹目は、無色透明である。ボクの眼を引きつけるほどの特色がないということである。個性がないのも個性といえるだろうが、逆にいえば優等生といえるのかもしれない。その希薄な存在は、心配のタネは何一つないという証になるからである。そういう点では、やはり、育ちのわるいチビチビがボクの眼を引きつけて離さない。 

 チビチビの眼は、すこしも良くならなかった。ドンがひとり横になっている時、チビチビをそのおなかに押し付けたりするが、積極的にお乳を飲ませようとしないばかりか、チビチビも飲もうとはしない。それを見ていると、人間と同様、食事時が決まっているようだ。食事時以外はお乳を飲もうとしない子供たちの態度も、ドンママの躾なのだろうか。

 幸いチビチビの食欲はいまなお旺盛だった。缶詰を開けるとわれ先に走って来るのもチビチビだが、チビ丸たちに弾き飛ばせれるのも変わりなかった。その後、チビチビ専用の食器で与えているが、そのうごきは活発でありながら、全体からうけるひ弱な印象はどうしようもなかった。

 野良仕事も一段落したその日、こんな眼をしていては貰い手もないだろうと、いろいろ買って来てまず牛乳を与えてみた。以前と同様二、三度なめただけで見向きもしなくなった。ドンも大の牛乳嫌いだが、ミミもおなじだった。牛とネコの大きな違いは草食性と肉食性である。犬のお乳なら飲むだろうか・・・? それともネコ族の母乳か・・・? トラかライオンのお乳だったらチビチビの眼は一気によくなるかもしれない。そんなことを夢想しながらチーズを与えてみるとむしゃむしゃと食べた。驚いたことに、チーズを食べ始めてからわずか三日で、その眼はきれいに治った。食べるとは思わなかった。治るとも思わなかった。若い生命力の奇跡としかいいようがなかった。

 ところが、他の四匹のうち二匹はチーズを食べるが、あとの二匹はまったく食べなかった。おなじ兄妹でも人間と同様、食の好みは違うのだ。因みに、おなじ牛乳からつくっているバターは、みな嫌った。

 

 ジャガイモ畑の草取りをした。花が咲き乱れるジャガイモは、いまのところ順調だった。大雨で冠水しないかぎり、後一月で新ジャガが食べられる。

 草取りで喉が渇き、家に入った。六畳間へ行くと、子猫たちが跳ね回っていた。コーヒーを淹れるボクの視線は、眼のわるかったチビチビを追っている。

―すこし太ったかな・・・―

 うん、太っている。チビ丸たちと較べると大いに劣ってはいるが、そのか弱さはむしろ、兄が来るたびに真っ先にチビチビを抱くように、蒲柳の魅力にもなっている。

―この子たちにとって今がいちばん、幸せな時期だろうな・・・―

 この子たちの未来は、誰にもわからない。この子たち自身にも、わからない。しかし、いまがいちばん幸せであることだけは、間違いない。

 ボクはよく、畑仕事で疲れきってうごけなくなると、銀杏の木の下の濡れ縁に座ってぼーっとしている。この無意識の空間が好きだった。が、落ちぶれたとはいえ、まだ思い出を杖にする歳ではない。しかし、浮かんでくるのはいま尚、過去であって未来像はなかった。

―いちばん幸せだった時期は・・・?―

 いったいいつだったろうかと、ボクはいつの間にか過去を追っている。

 儚くも一瞬の輝きを放った青春時代もあるにはあった。悪友たちと遊んだ高校時代もそれなりに楽しかった。腕を競い合った職場での日々・・・。みなそれなりに幸せだった。しかし、童謡や唱歌のように慰藉する時期は、振り返ってみれば、両親に守られて一番星が光るまで遊んでいた時期だったような気がする。つまり、ゆりかごの時代である。ちょうど眼の前のチビたちと同じ時期だろう。この子たちが今の幸せを自覚できないように、ボクも人生で最も幸せな時期をそれと知らずに通り抜けた。幸せとはそういうものだろう。後からほのぼのと思いだすしかないのだろう。

 ドンが横になって、子供たちが集まった。授乳の時間だ。はやく乳離れをと願ってふつう食にしたが、完全な乳離れは母乳が出るかぎり無理だということが、やっとわかった。つまり、ピンク色の乳房がパンパンに張る時が、授乳の時間なのだ。それを抑えることは、誰にもできない。

 乳を飲ませるドンの顔は、至福の時間でもある。もうその顔にはオードリーのあどけなさの片鱗もなかった。ただただ目尻の引き締まった逞しいソフィア・ローレンがいるだけだった。


                          完

 

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