恋色キャンバス
北棟四階。
僕の城はそこの片隅に、ひっそりと存在していた。
西から三つめの重く固い鉄の引き戸。その脇に掛けてある、部室の看板代わりに使用している『部員募集中』の文字が刻まれた黒板の裏から、引っかけてある鍵を探り当てた。戸の中央に据えられた、長い年月の間に歪んでしまい微妙にかみ合わなくなってしまった鍵穴を、上手い具合に合わせ、差し込む。
がちゃり、という重みのある音を響かせて開錠された戸を引くと、いろいろな画材が入り混じった独特の臭いが鼻孔をくすぐった。
ごっちゃりと部室を占拠する、やりかけの作品やら画材やらを掻き分けて、目当てのものを発掘する。そして傍らに立て掛けてあったイーゼルを片手に窓際まで寄ると、数日前と同じ位置にそれらを設置する。
大丈夫、今日も同じ場所だ
窓から見下ろす景色は数日前と大した違いはない。強いて言うなれば、校庭の端に植えられた木々たちがそれぞれの色味を深め、秋の訪れを知らせているくらいだろうか。
ここ数日で頬をなでる空気が随分変わった。窓を開けると冷たく、しかし心地良い風が吹き込んでくる。
周りに積んである画用紙が飛ばないように窓の開きを調節し、適当なパレットと油壺、絵の具、筆、と必要なものひと揃いを横の机に寄せ集めた。イーゼルの前に椅子をたぐり寄せると、窓の外では道具の準備とアップを済ませた運動部員たちが、各々自分の種目の練習場所へ散っていく。
その中に、僕の目当ての人物はいた。
所定の位置へと歩みを進め、彼女は対象物と一定の距離を保った場所で、軽くストレッチを始める。空色のユニホームからすらりと伸びる手足は、程よい筋肉が付き、健康的に艶めいていた。ふいに、腕まくりをした自分の腕に視線を移してしまい、思わずため息が漏れる。不健康な白。青味がかったそれは、登下校以外でほとんど日光に晒されることのないことを物語る色であった。
窓の外にいる彼女は、大きく深呼吸をしていた。
そして目標を見据える。
この距離ではわからないが、その真剣な瞳もきっと美しいのであろう。軽やかなステップで動き出した彼女は、己にとって最良なリズムで速度を上げてゆく。そして、片足で力強く踏み切った。
彼女は、自身の背の高さ程のバーの上を、舞った。それはまるで、人々を魅了する色鮮やかな羽が、そのしなやかな体躯を大空へと羽ばたかせているようだった。
時間にすれば一瞬かもしれないけれど、僕はその情景を、つぶさに感じ取りたかった。だから、一秒たりとも目が離すことができない。
フォスベリー・フロップ。
日本でいう背面跳びは、ハイジャンにおける彼女の魅力を最大に引き出してくれた。
僕が彼女に出会ったのは、中学一年生の春。はらはらと舞い落ちる桜の花びらの中から跳躍した彼女は、未完成ながらも人を惹きつける力があった。美術室から見ていた僕はまんまとその力に屈伏し、跳んでいる彼女を毎日のように追い続けた。
僕より一つ上だった彼女は、一年後の夏に部活を引退すると、近所の高校へと進路を決めた。彼女の演技を見ることのできなくなった僕は、翌年、同じ高校へと進学した。もちろん、自宅から徒歩十分圏内という立地と、成績の関係もあるが、またあの姿を見たいと言う気持ちが強かった。
空白の一年を経て美術部の部室から見えた彼女のジャンプは、美しさと、そして高さを増していた。
もっと高く、もっともっと高く。
部室の窓から見える彼女の背中は、そう語っているようだった。その姿は、凛々しさと力強さを兼ね備えていた。
僕はキャンバスいっぱいに、そんな彼女の姿を描き続けた。スケッチブックの被写体もその多くが彼女で占めていた。
薄紅の花びらとともに舞い上がる彼女も、真っ青な空に向かって飛ぶ彼女も、紅葉とともに落ちゆく彼女も。全部、全部、描きたかった。残しておきたかった。背景を彩る、どんな四季の情景にさえも映える、彼女の姿を。
彼女のジャンプに惚れこんだ僕は、いつしか彼女自身にも恋をしていた。
澄んだ秋晴れの空の下、色とりどりの木の葉とともに舞う、彼女。
今日も僕は、美術部の部室のこの窓から、彼女の時間のほんの一瞬、僕が知る彼女が一番きれいに見える瞬間を、秋色に染めたこのキャンバスに、切り取るのである。
いつか出逢える、その日まで。