第四章
小刻みに揺れる馬車の中で、シェレアは憂鬱な気分に浸る羽目になっていた。
シェレアと向い合って乗っている妹のティアナと騎士ギルバートは楽しげに会話をしている。
そんな二人を横目に、シェレアは心の中でボヤく。
(なぜ我がこんな肩身の狭い思いをしなければならんのじゃ)
事の発端は二日前に遡る。ティアナが落ち着きのない様子でシェレアに頼み事をすることから始まる。
「お姉様。折り入ってお願いがあります」
「なんじゃ? ティアナから頼み事とは、珍しいではないか」
ティアナの慌ただしい様子から、シェレアは何事かと身構える。
「じつは、ギル様から明後日、湖への外遊に誘われたのですが、それに付き添ってはいただけないでしょうか!?」
「外遊? あのギルが、ティアナを遊びに誘ったのか?」
「……はい」
シェレアは一体何事なのかと気を揉んだが、言ってしまえばただのノロケ話ではないかと、落ち着きのないティアナに対してシェレアは悠長に分厚い書物に目を通しながら答える。
「折角ギルがお前を誘ったというのに、なぜ我が二人水入らずの外遊に付き添わねばならんのじゃ?」
ティアナとギルバートは、五日後に行われる初代女王の100歳を祝したパーティの催しの一つとして、ティアナがギルバートを正式な聖騎士とするための『誓いの儀』が執り行われることが決まったのであった。
だが、生真面目な性格のギルバートは騎士としての務めが多忙であった故に、ティアナと共に過ごせた時間が少ないことを気に病んでいた。儀式の前に、親睦を深めるため外遊へと誘ったのである。今までギルバートは外遊などといったことは騎士道に反すると決してすることは無かったのだが、ようやく少しは気が利くようになったかとシェレアは感心するのであった。
「ですが、二人っきりだなんて。わたくしどうしたらいいのか分からなくて」
「そんなもの、いちいちかしこまらんでも良いであろう。いつも通りでいいのじゃ。いつも通りでな」
「そうは言われましても、わたくし、今から緊張してしまって。このままだと折角のギル様のご厚意に水を差してしまいます。お願いですお姉様! お姉様がお側にいてくだされば少しは緊張も和らげられると思うのです!」
普段はシェレアよりも気品に溢れ大人びた振る舞いをするティアナであるが、まだ15に満たない少女。このように幼い少女の一面も当然残っている。
シェレアも妹の頼み事とあっては無碍に断ることもできずに、渋々ながらもその申し入れを了承したのであった。
そして日付は変わり、今日がその外遊の当日。馬車で湖へと向かっている真っ最中なのである。
「それにいたしましても、なにもこんな大勢で来られなくても良かったですのに。護衛だなんて、ギル様がお側にいるのですから、それで十分です」
ティアナは不機嫌そうに文句を言う。
ギルバートがそれを優しくなだめる。
「『誓いの儀』を間近に控えた王女の御身に万が一のことがあってはなりません。どうか、国王のお気持ちもご理解くださいませ」
ティアナは三人だけの外遊だと楽しみにしていたのだが、現実は期待とは違ってしまっていた。三人が乗る馬車の周囲には二十人余りの兵士が護衛として付いて来ているのである。シェレアの父、ルグレッド王が娘二人を心配しての計らいであった。
「兵士達には護衛などと気を張らずに、気晴らしのつもりで構わないと言ってあります。ですから、周りの者達のことはどうかお気になさらずに。それにもし万が一があろうとも、このギルバートが必ずお守り致します」
「まぁ。それは頼もしいですわ」
二人の甘いやりとりの中、シェレアは退屈そうに過ごしていた。
そんなシェレアを気遣ってか、ティアナが提案をする。
「お姉様。よろしければクナト様をここにお呼びいたしませんか? 護衛として近くに付いて来られているのでしょう?」
「それは良い考えです。ティアナ様にも彼を紹介したいと思っていたのです」
二人の気遣いに対して、シェレアは軽く手を振りながら遠慮する。
「我に構うことは無い。折角二人のための外遊であろう。我への気遣いなど無用じゃ」
シェレアは断りながらも、働き詰めとなっているクナトを遊びに連れ出すのも良い考えなのかもしれないと思いふけるのであった。
(もし誘ったら、アヤツは喜んでくれるじゃろうか?)
シェレア達を乗せた馬車から後方の離れた位置に、クナトは護衛として辺り警戒をしていた。周辺をしきりに見渡し安全の確認をする。
そのクナトに騎士団長のレオナードが声を掛ける。
「クナト殿。なにもそんな熱心にならずとも大丈夫です。この辺りは安全なのですから」
「……はい」
クナトもつい先日に遠征で通った道であり、危険が無いことは分かっていた。しかし、その時には感じられなかった僅かな異臭のようなものが、風に乗って漂っていることにクナトは気付き違和感を感じていた。
「すみませんっ。少し辺りを見回ってきます!」
「クナト殿!?」
クナトはそう言い残して林の中へと馬を走らせた。クナトは胸騒ぎを感じていた。クナトが感じ取った異臭とは、紛れもなく血の匂いであった。
馬車が目的地の湖へと到着すると、ティアナははしゃぎながらギルバートの手を引っ張って馬車から降りて行く。
シェレアは馬車の中で一人残るが、この暇な時間を無駄に持て余すつもりはない。城の図書館から持ち出した国の財政に関する書物を開いては読み進める。シェレアは王国を変えていくと決意した日から、こうして時間があれば書物に目を通している。特にここ数日は寝る時間をも惜しむ程であった。しかし、それによる寝不足と心地の良い昼の日差しに、いつの間にかシェレアは眠りに落ちてしまっていた。
ガタンッと、走る馬車の揺れにシェレアは目を覚ます。
(…………いかん。どのくらい眠ってしまっていたのじゃ?)
馬車の中にはシェレア一人であった。一人であるのにもかかわらず馬車が走っていることに疑問を覚える。
「おい! 誰が馬車を動かしているのじゃ!?」
シェレアの声に馬車はすぐに止まった。そして、黒い長髪に黒衣の服を纏った騎士が馬車の中へと乗って来る。
「御主であったか、ジル。これはなんのまねじゃ?」
ジルと呼ばれた騎士、ジルフォード・ソリッド。ギルバートと並ぶ実力を持つ騎士である。そして、シェレアの聖騎士にはジルフォードが相応しいと、囁く王族がいるほど優秀な人物でもある。
シェレアは何かしらの根端を持った上で行動しているジルフォードに、疑念を抱き警戒する。
「そんなに睨まないで頂きたい。私はただ、姫様とゆっくりお話をしたいだけであります」
「そんなもの。わざわざこのような人気の無い所に連れ出すまでもないであろう」
「いいえ、大声を出されて周りの者達に騒がれては困りますゆえ」
シェレアはジルフォードのこの不穏な発言に、更に警戒心を強くする。しかし、それは既に手遅れであった。
ジルフォードはシェレアへと両腕を押さえつけながら押し迫った。
「御主! 何をする!? 離さないか!!」
シェレアは必死に振り解こうとするが、か弱い少女が鍛えあげられた騎士の力に敵うはずはなかった。
「あなたは、自分の立場というものをまるで理解しておりません。あなたは将来、王国の頂点に立たなければならない御方。そして、それに相応しい聖騎士を選ばなければならないのです」
「それが貴様だとでも言いたいのか? 思い上がりも甚だしいぞ! ジルフォード!」
「あのような下賎な輩と悪い噂が囁かれては、あなたの名が汚れてしまいます。だからこそ、そうなる前に周りの者達にも、姫様ご自身にも、誰が聖騎士に相応しいのかを理解していただく必要があります」
歪んだジルフォードの言い分を、シェレアはこれ以上聞くに耐えなかった。周囲に助けを求めるために大声をあげる。
「無駄ですよ、姫様。今周りにいる者達は、私の息がかかった兵士達です。声をあげたところで誰も助けには来ません」
「……こんなことをして、ただで済むと思っておるのか」
「このことは、あなたのお祖母様、シルヴィア様がお望みになられたことです」
(……なるほどな。この手際の良さは、裏でお祖母様が手引しておるのか。いかにも、お祖母様がやりそう強引な手じゃ)
権力を得るためならば手段を選ばない性格であるシェレアの祖母シルヴィアが関わっていると聞かされ、事態がかなり悪いことをシェレアは理解する。
「姫様には、身を以て誰があなたに相応しいかを自覚していただかねばなりません。たとえ、それによってあなたの心に深い傷を付けることになろうとも、その刻まれた傷跡が、私という存在を永遠に忘れさせなくするのです」
ジルフォードの顔がゆっくりとシェレアへ近づけられる。シェレアは、顔を背けて目を瞑るが無駄な抵抗に過ぎなかった。
(クナトッ……!!)
シェレアは心の奥底で強くクナトの名を叫んだ。途端、ジルフォードの動きがピタリと止まる。
「……また、あの男のことですか!」
シェレアはクナトの名を口に出したつもりはなかったのだが、ごく僅かに口から漏れ、呟いてしまっていた。そして、シェレアも我に返ると困惑してしまう。咄嗟に助けを求めたにせよ、どうして真っ先に頭を過ぎったのがクナトであったのか、シェレアにはその理由が分からなかった。
だが、ジルフォードはそのシェレアの感情を知ってなのか、嫉妬するように奥歯を噛みしめる。
「姫様。あなたはやはりあの男に……っ」
ジルフォードが言いかけた矢先、突然馬車が大きく揺れる。馬が取り乱したように暴れ始めたのである。
「くッ!? こんなときに何だというのだ!?」
シェレアは気を取られたジルフォードの隙を見て、拘束を振り解き離れる。身の危険から脱せられたことで少しだけ胸を撫で下ろすが、それも束の間の事であった。馬の暴れようが尋常ではない。馬は必死に何かから逃れようとするように旗手のいないまま、勝手に馬車を引っ張り走り出してしまう。しかし、道の悪い山道では、馬車はすぐにバランスを崩して横転してしまった。
馬車の中にいたシェレアには幸いにも怪我は無かった。
ジルフォードが身を挺してシェレアを庇ったのである。しかし、庇った代償としてジルフォードは割れたガラスで頭部を切り頭から鮮血を流していた。更に利き腕を骨折したのか痛みで顔をしかめる。ジルフォードは性格が歪んではいるが、騎士としての誇りも持っている。
シェレアは身を挺して自分を庇ってくれたジルフォードに戸惑ってしまう。心の許せる相手ではないが自分を守るために大怪我をさせてしまったことに、どう声を掛けて良いのか分からなかった。
しかし、そんな何かを言いたげなシェレアの口元を、ジルフォードはそっと手で抑える。
「どうかお静かに。……何かが、近くにいます」
ジルフォードは立ち上がると、横転し上へ向いた馬車の扉を開け這い上がる。周囲を警戒しながら音のする頭上へと視線を向ける。そして、頭上に広がる異様な光景に背筋が凍った。
遥か上空を無数の紅い生物が甲高い咆哮を上げながら飛び交っていた。その殆どは、人間よりも一回りか二回り大きい程度であろうか。そして、その中でも一際巨大な一匹にジルフォードは目を奪われる。巨大な翼に赤黒い鱗、鋭い爪と牙。それは魔界に生息すると言い伝えられている世に言うドラゴンそのものであった。
まるでこちらの様子を伺っているかのように、ドラゴンの群れは馬車を中心に旋回を続けている。そして、ジルフォードの姿に気付いてなのか、何匹かのドラゴンがこちらに向かって降下を始める。
「どうしたのじゃ? ジルフォード、何がいるというのじゃ?」
「……姫様は、どうかこの中で隠れていてください」
ジルフォードは馬車から離れ、剣を構えようとする。しかし、利き腕を痛めてしまったために、剣を握る手に力が入らない。
そうしている間にも、ドラゴンがジルフォードのすぐ頭上を飛び交う。すぐに襲いかかることはせずに、ゆっくりと相手の隙を伺うように旋回を続ける。
それならばと、ジルフォードは剣を地面に突き立て、仁王立ちのまま目を閉じる。あえて隙をつくって見せているのである。騙し討ちを得意とするジルフォードならではの戦術であった。
ドラゴンの一匹がジルフォードに喰らいつこうと背後から襲いかかった。
それをジルフォードは紙一重で避け、すれ違いざまにカウンターでドラゴンの翼をたたっ斬った。
片方の翼に深傷を負ったドラゴンは、地面へと転がるように落下し、痛みにもがき苦しむ。
ジルフォードも負傷した腕の痛みで顔をしかめる。回避行動も一歩間違えれば間違いなく噛み殺されてしまうであろう。そんな死の瀬戸際の中、たった一匹を倒すのにも神経を削る思いであった。
ドラゴンの群れは、一匹が倒されようとも怯むことは無い。二匹、三匹と立て続けにジルフォードへと襲いかかる。
ジルフォードも利き腕がまともに使えない状況では、その絶え間ない攻撃を捌き切ることはできなかった。ドラゴンの突進を喰らい、身体の上へとのしかかられ、身動きが取れなくなってしまう。
ドラゴンは魔獣の中でも高い知能を有している。人間の弱点をまるで熟知しているかのように、鋭い爪でジルフォードの両目を抉るように切り裂いた。
「があぁぁ――――!!」
ジルフォードは激痛に悶絶しのたうち回る。決死の思いでドラゴンへと剣を突き立てようとするも、その攻撃は空を切る。
ドラゴンは致命的な一撃を喰らわせると、すぐにジルフォードから離れていた。深追いはしない。時間を掛け、ゆっくりと相手を弱らせてから確実に仕留めるのである。
視力を失ったジルフォードはもはや絶望的であった。次のドラゴンの攻撃を避けることはもう適わない。ジルフォードは覚悟を決めた。
だが、辺りの様子が騒がしくなり、状況が変化したことをジルフォードは感じ取った。
「ジルフォード様! ご無事ですか!?」
仲間の兵士の声であった。兵士達が助けに駆けつけたのである。
「遅いぞ! 何をしていた!」
ジルフォードは自分の配下の兵士を二人、馬車の近くに配置していたのだが、その兵士二人はドラゴンの姿を見るとジルフォードのように立ち向かうことができずに、他の兵士達へ助けを呼びに行ったのである。
駆けつけたレオナードが離れた位置から叫ぶ。
「ジルフォード殿! シェレア姫はどこにおられますか!?」
レオナードの放つ必中の弓矢が次々にドラゴンの急所を貫いていく。
「そうだ! 俺のことはいい! 姫様をお助けしろ! 姫様は馬車の中に隠れて……」
ジルフォードの声がかき消されるように、周辺の木々が激しくざわめく。その場を強烈な突風が吹き荒れた。
はるか上空を飛んでいた一匹の巨大なドラゴンが降下して来たのである。他のドラゴンとは比べ物にならないほどの巨大さであり、その全長はゆうに20メートルをも超えていた。
その圧倒的な存在感に兵士達は誰もがたじろいでしまう。
レオナードは弓矢をその巨大なドラゴンへと狙いを定めるが、それを阻止するかのように、周囲のドラゴンが一斉にレオナードへと襲いかかる。
レオナードはたまらずに、林の中を縫うように馬を走らせ態勢を整えようとするが、迫り来るドラゴンを相手にするのが精一杯であった。
巨大なドラゴンは兵士達には目もくれずに、長い首を動かし、横転した馬車の中を真上から覗きこむ。
馬車の中で、異常な騒ぎに一人震えるシェレアは、窓の隙間からその巨大なドラゴンの瞳と目が合ってしまうと恐怖で悲鳴をあげる。
巨大なドラゴンはシェレアの存在を確認すると、足の鉤爪で馬車を鷲掴み、上空へと持ち上げる。それはまるで、シェレアを連れ去ろうとしているようであった。シェレアを乗せた馬車を鷲掴みにしたまま上空へと飛び上がる。
周囲の兵士達では、それを阻止しようにもどうすることもできなかった。
レオナードもドラゴンの群れとの戦闘で肝心な弓矢を切らしてしまっていた。ただ、シェレアの名を叫ぶことしかできない。
「シェレア姫――――!!」
そのレオナードの脇をすれ違うように馬が駆け抜ける。ドラゴンの群れを掻い潜りながら、馬の騎手は上空に持ち上げられている馬車へ鉤縄を投げつけ、車軸へと引っ掛けることに成功した。
それと同時に、巨大なドラゴンは遥か上空へと一気に羽ばたいた。
鉤縄を強く握っていた騎手も、それに引き上げられるように上空へと舞い上がる。
空の彼方へと舞い上がった騎手の姿を、レオナードはっきりと捉える。そして、その騎手の名を叫ぶのであった。
「クナト殿――!!」
もはや、遠くへと飛び去ったドラゴンを追うことさえ困難な状況であった。レオナードはクナトを信じ、すべてを託す他に術はなかった。
ドラゴンに連れられ空を飛ぶ馬車の中、シェレアは膝を抱え死の恐怖に泣きながら震えていた。このままドラゴンに食い殺されてしまうのか、もしくは馬車ごと地面へと落とされてしまうのか。そんないつ訪れるとも分からない自分の末路を想像してしまうと、恐怖で押し潰されそうになる。
シェレアは絶望しながらも、すがる思いで弱々しく囁き続ける。
「………………クナトォ、…………クナトォォ」
何度クナトの名を呼んだところで、遥か上空の彼方では助けに来れるはずもない。そうだと分かっていても、今のシェレアにはただ奇跡を祈ることしかできなかった。
そして、激しく風を切る音に消えてしまいそうなほどの僅かな声が、シェレアの耳に届く。幻聴などでは決してない。それは間違いなくシェレアを呼ぶ声であった。そしてその声は紛れもなくクナトが叫ぶものであった。
「姫さーん!! お姫さ―――ん!!」
クナトは強風に激しく煽られる中、ロープを手繰り寄せながらシェレアを大声で呼び続けていた。
クナトの声が届いたシェレアは、必死の思いでクナトの名を叫ぶ。
「クナト―――!! クナトォォ―――!!」
そして、シェレアのその思いが届いたのか、歪んだ馬車の扉が開け放たれる。
見間違えるはずがない。そこには、クナトの姿があった。
「お姫さん!!」
シェレアはクナトの姿を目にすると、一目散にクナトへと走り抱きついた。
「クナトォー~~!!」
クナトも無事なシェレアの姿に安堵する。そして、一人孤独で不安であったであろうシェレアを少しでも安心させるために、クナトはその小さい頭を両腕で包むように優しく撫でる。
「もう大丈夫。必ず助けるから」
クナトが来てくれただけでも、シェレアにとっては十分に救われた気持ちであった。
しかし、絶望的な状況であること変わりはなかった。空の彼方にいる限り、逃げることも、ましてやドラゴンと戦うこともできない。
それでも、クナトは諦めてはいなかった。
「お姫さん。目を瞑って、しっかりと俺に掴まっていてくれ」
シェレアはクナトを信じて、言われたままに目を閉じて力一杯にしがみ付く。
クナトはシェレアを抱えたまま、馬車の外側から上へとよじ登る。そして、ドラゴンの巨大な鉤爪の足を掴んだ。
目を閉じていたシェレアには、その後にクナトがなにをしたのかまるで分からなかった。
ただ突然として、ドラゴンは苦しそうに奇声を上げると地上へと急降下を始めた。ドラゴンが自らの意思で降下しているのではない。何かに引きずり降ろされるかのように暴れながら落ちているようであった。
このままでは地面に落下しまうのではないか。そんな不安がシェレアの頭をよぎる中、クナトがシェレアの耳元で大きく叫ぶ。
「湖へと落ちるよ! 大きく息を吸って!!」
言われた次の瞬間、ドラゴンから離れ重力に引き寄せられるままに二人は自由落下する。
シェレアは落下する恐怖に悲鳴をあげながら、湖の水面に落下すると激しい水しぶきを上げた。
シェレアは水中を無我夢中で泳ぎ、なんとか水面へと這い上がることができた。息を切らしながら辺りを見渡す。
巨大なドラゴンは、遠くへと離れるように飛び去っていた。もうシェレア達を襲う気配はない。
岸辺もすぐ近くに見える。今のシェレアでも十分に泳いでいける距離であった。シェレアは助かったのだと心の底から安堵した。
岸辺に向かい泳ぎ始めようとしたとき、クナトの姿が見えないことに気づく。間違いなく一緒に湖へと落ちたはずである。シェレアが水面へと上がってから、時間は十分に経過していた。にもかかわらず、クナトが水面へと上がって来る気配がまるでない。
「クナトォ!?」
クナトは水の中をゆっくりと沈んでいた。
(……ああ。体が重くて動かないや。やっぱり、無茶をしすぎたかな。でもいいさ、最後に、たった一人でも女の子を救うことができたのだから)
クナトは意識が薄れゆく中、ゆっくりと目を閉じるのであった。
クナトは息苦しさに目を覚ました。意識が戻ると肺に入った水を激しく咳き込みながら吐き出す。
(俺は、……生きているのか?)
湖の水中深くで死を受け入れたクナトであったが、気がつくと浜辺にあがっていた。
クナトのすぐ側で、シェレアが泣きじゃくっていた。
「……ぁぁぁ。……よかった。死んでなくて、よかったぁぁあぁ! うわぁあぁあぁ!」
シェレアは、クナトの胸元に顔を埋めて泣き続けた。
「そうか、お姫さんが助けてくれたのか。……ありがとう」
「あたり、まえじゃ。グスッ。死んだのかと、思ったのじゃぞ。この、大バカ者がぁ!」
「ああ、ごめん。ごめんな」
泣き続けるシェレアをクナトはなだめるように、優しく頭を撫でるのであった。
その後、二人は運良く日が落ちる前に探索隊の兵士達に発見され、無事に城への帰路へとつく。
馬に乗るレオナードの前に乗ったシェレアは、道行く途中でレオナードに事の詳細を尋ねる。
「今回の一件、被害はどれだけ出してしまったのじゃ?」
「……死者は、一名。負傷者もかなりの人数になります。特に、……ジルフォード殿は重症であり失明は間違いないかと」
レオナードの口は重たかった。理由はドラゴンの被害によるものだけではなかった。レオナードはジルフォードの名前を口にすると、ジルフォードの行いについてもシェレアに謝罪をする。
「それと、ジルフォード殿の件は申し訳ありませんでした。シルヴィア様のご命令とはいえ、やはり止めるべきでした」
シェレアは、ジルフォードに押し迫られたことを言っているのだろうと思い当たる。レオナードになら事前に話が通っていてもおかしくない。そして、立場上シルヴィアに逆らえないこともシェレアは十分に理解していた。
「その件についてはもう良い。ジルフォードも大きすぎる報いを受けたのじゃ。いまさら、我がとやかく言うつもりにはとてもなれん」
それでも、レオナードの思いつめた表情が晴れることは無かった。レオナードにはもう一つ、重大な事案を心の内に抱えていたのであった。
クナトがシェレアを救出しているその一方で、レオナードはドラゴンとの戦闘で、弓矢を撃ち尽くし、ドラゴンの群れから逃げるように林の中へと馬を走らせていた。どうしても最後の一匹が振り切れない。
そして、逃げ切る前に馬が木の根に足を取られ転倒してしまう。
レオナードはすぐに起き上がるが、ドラゴンに追いつかれ死の瀬戸際に立たされる。剣を巧みに使いドラゴンの攻撃を凌ぐが時間の問題であった。老いによる衰えた身体では、レオナードの攻撃はドラゴンの硬い皮膚に弾かれ刃が通らない。もはやこれまでかとレオナードは覚悟を決めた。
だが次の瞬間、ドラゴンは体中から血しぶきをあげ、バラバラに斬り裂かれてしまった。
レオナードは突然の出来事にただ呆然と立ち尽くしてしまう。そして、背後から声が発せられた。
「いやぁ。なかなかに興味深いものを見せていただきました」
レオナードは声のする方向へと振り返る。そこには、赤い甲冑姿の騎士がいた。いや、その甲冑は鉄や鋼などでできてはいない。生物としての身体の一部、硬く分厚い甲殻がまるで皮膚のように全身を覆っていた。
そして、レオナードはその異形めいた姿の相手が何者であるのか、一つの憶測が浮かぶ。
「……魔人、なのですか?」
「はい。初めまして、ご老人。私はニルキスと申します。ご察しの通り、魔人でございます」
ニルキスと名乗った魔人は、相手に敬意を払うように頭を下げて見せる。
「一つ、あなたにお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
レオナードは何も答えずに剣を構えるが、魔人からは戦う素振りや意志が全く感じられなかった。その魔人はレオナードに質問をする
「あの馬車の中には一体どのような人物が乗っていたのですか?」
「……なんだと?」
「ドラゴンに連れさらわれた人物ですよ。あの馬車の中には誰か乗っていたはずです。どのような方が乗って……」
魔人が質問をする途中、一人の兵士がレオナードのいる周辺へと近づいて来る。
「レオナード様! どちらにおられるのですか!?」
レオナードを慕う兵士であった。ドラゴンに追われたレオナードを心配して後を追って来たのである。
「近づいて来るでない! 早く離れるんだ!」
レオナードは兵士に向かって叫ぶが、その願いは届かなかった。
「レオナード様! 良かったご無事なので……」
兵士はレオナードの姿を見つけると、魔人の存在に気づかないままその場へと近づいてしまう。そして、なんの前触れもなく、兵士の身体から首が跳ね飛ばされた。まばたきのような一瞬の出来事であった。
「私が彼と話をしている最中です。静かにしていてもらえませんか?」
魔人の指先、爪の先から赤く細い糸状のなにかが伸びていた。レオナードはそれが鞭のようにしなり、刃物のように兵士の首を切断したのを魔力による高い視力で捉えることができた。その魔人特有の魔法であった。
仲間の兵士を殺されたことにレオナードは怒りで身体を震わせるが、その殺傷能力の高い攻撃を前に、身体が動かなくなってしまう。
「さて、質問に戻らせていただきましょうか。あの馬車の中には一体どのような方が乗っていたのでしょうか?」
レオナードにとって、その問いは決して答えられるものではなかった。魔人の質問の意図が全く分からない。そして、シェレアの名を口に出した場合に、シェレアの身にまたどんな危険が及ぶのか想像もつかなかった。
「どうして、私がそのようなことを尋ねるのか? そんな顔をしておりますね。では、少し事情をお話しましょう。我々魔人は、魔力が命の源であり、生きるためには魔力を供給し続けなければなりません。私は魔力を供給するため、ドラゴンを数匹ばかり狩ったのですが、最後の一匹が仲間を呼び寄せていたようでして、あのようなドラゴンの大群に追われる羽目になり、殺しても殺しても切りがなく困っていたのです」
シェレア達がドラゴンの襲撃を受ける少し前、クナトは胸騒ぎを感じて一人で隊から離れていた。そのときにクナトが気づいた血の匂いとは、ニルキスに殺されたドラゴンのものであった。匂いを辿ってドラゴンの無残な死体を発見したクナトは、事態の深刻さを察してシェレア達の元へ急ぎ駆けつけるに至ったのである。
「ドラゴンは、魔力を感じ取れる数少ない種族、本来ならば私は逃げることなど適わないのですが、どうしてなのか、ドラゴンどもはあの馬車を襲った。これは大変に興味深い。あの馬車の中には、私をも凌ぐ魔力の持ち主がいたということになるのですから」
「……貴様に答えることなど、何もない!」
レオナードはシェレアを守るためならば、ここで魔人に殺されても構わないと覚悟を決める。
「……まぁ、よろしいでしょう。おおよその検討はついています」
ヒュルヒュルと、赤い糸の鞭が蠢く。
レオナードはその鞭で兵士やドラゴンと同じように、自分の身体も切り裂かれる末路を想像したが、魔人がレオナードを攻撃することは無かった。
「長生きはするものですねぇ。私は年老いた老人の血などには興味がありませんから」
赤い鞭はドラゴンの死体へと伸びる。そして、血だまりに触れると目にはっきりと見える太さへと膨らむ。ドラゴンの血を糸を通して吸い上げているようであった。
「そうそう、ドラゴンに連れ去られた方ですが、もしかしたら助かるかもしれませんよ」
「!? なんだと!? なぜそんなことが分かる!?」
「いえ、ただの想像に過ぎません。助けに入った方が、もしも私のよく知る相手でしたらの話ですよ。私もここからでははっきりとは見えませんでしたから、確証はありません」
(この魔人が言っているのは、クナト殿のことなのか? クナト殿とこの魔人には、なにか関係があるのか? もしそうだとしたら、クナト殿、貴方は一体何者なのですか?)
クナトのことを知っているのか、それを尋ねるべきかレオナードが迷っていると、ニルキスは踵を返す。
「では、私はこれで失礼します。またの機会があればお会いしましょう」
ニルキスはそう言い残して、林の中へと静かに去って行った。
「レオナードよ。どうしたのじゃ。じっと考え事をして」
急に黙り込むレオナードをシェレアが気にかける。
「いえ、なんでもありません」
レオナードには胸騒ぎを感じていた。シェレアの身にまた危険が及ぶのではないかと。
レオナードだけではない。クナトもまた同じように危惧していた。クナトが目にした無残なドラゴンの死体。ドラゴンを殺した犯人がいるはずである。そして、それは魔人の仕業であると確信をしていた。
今、城の近くには魔人が潜んでいる。この拭い去れない不安を抱えたまま、二人は城へと戻るのであった。
ドラゴン襲撃の一件から三日が過ぎていた。
あれから、クナトとシェレアは会っていなかった。クナトはいつもと同じように、バルコニーへと足を運ぶのだが、そこにシェレアの姿は無かった。あの一件で、シェレアの体調に何かあったのではないかとクナトは心配し、侍女達にシェレアの様態を尋ねるが、その返答は意外なことに元気にしているとのことであった。実際に、クナトも忙しなく部屋から部屋へと移動する様子のシェレアの姿を何度か見かけていた。立ち直りの速さは流石お姫さんだと、クナトは関心してしまっていた。
そして、忙しそうにしているのはシェレアだけではない。今城内は誰もが慌ただしかった。重たい空気を払拭するかのように祝祭開催の準備が進められているのである。今日は初代女王のエルマが100歳を迎えるという記念すべき日。この偉業を城の関係者が総出で祝福するのである。
そして、時刻は14時。会場となる玉座の間にはほぼ全ての王族と兵士達が集まっていた。祝祭の日取りに合わせ、騎士ギルバートがティアナ王女の正式な聖騎士となるための『誓いの儀』の儀式が執り行われようとしていた。
玉座にアシェリー女王が座り、その左右にシェレアとティアナが座る。
騎士団長のレオナードが時刻を見計らい、儀式を始める挨拶をする。
「全員静粛に。これより、ティアナ・シュトレイアス王女と騎士ギルバート・レイアスの『誓いの儀』を行う」
拍手が送られる中、ティアナは椅子から立ち上がり、ゆるやかな階段を悠然と降りる。
「騎士ギルバートよ。前へ出なさい」
「はっ」
白い正装に身を包んだギルバートが、ティアナの前へと赴き跪く。
「ギルバート・レイアス。そなたは主君である私の剣となり盾となりて戦い、私を守ると誓いますか」
「この命に変えましても、必ずお守りすると誓います」
『誓いの儀』は、騎士が王女へ誓いを立てることから始まる。
「その身が朽ち果てるまでの生涯を、我が騎士として捧げると誓いますか」
「はい。我が魂をティアナ様に捧げます」
「それならば、ギルバート・レイアスよ。そなたをシュトレイアス王家の眷属として認め、シュトレイアスの名と聖騎士の称号、そして力を与えましょう」
聖騎士として認められることによる見返りは大きい。一つに、王家の一族として認められること。そして、王女から魔力を授かり魔術師としての力を得られること。地位と力、その両方を同時に手に入れられるのである。
ティアナはシュトレイアス王家の紋章が彫られた小さい短剣を手に取り鞘から抜く。
「ならば、シュトレイアス王家の紋章が刻まれたこの短剣と、王家の血をもってして、誓いの証とする」
抜いた短剣の鋭い刃を、ティアナは自らの左手の甲へと向ける。そして、手の甲の皮膚に小さな十字傷を刻んだ。十字の傷からは血がにじみ流れる。短剣を鞘へ収め、その短剣と手の甲の十字傷をギルバートへと差し出した。
ギルバートはまず、短剣を両手で受け取る。そして、ティアナの血の滲む手の甲に静かに口づけをした。
周囲からは祝福の拍手があがる。この瞬間をもって、ギルバートはティアナの正式な聖騎士となったのである。
『誓いの儀』と銘打たれ、儀式めいた手順により行われているが、形式美として定められた部分が多い。『誓いの儀』が持つ本来の意味は、王女の持つ魔力を男性へ授ける条件を満たすことにある。その条件とは互いが相手を信頼し認め合うこと。そして、王女の血を男性が口にすることである。これにより、王女が体内に宿す魔力を男性は共有することができ、共有した魔力を男性は特有の魔法として発現することが可能となるのである。
王女が魔力を授けることができるのはせ男性一人だけという制限がある。それ故に、魔力を授かる男性は、より優れた人物でなければならない。そして、優秀な騎士の中から選ばれた者が聖騎士と呼ばれるようになったのである。
儀式を終えると、ティアナは緊張の糸が切れたようによろけて倒れそうになる。
それをギルバートがやさしく両腕で受け止めた。
「大丈夫ですか? ティアナ様」
ティアナは堂々と振る舞ってこそいたが、実際は大観衆の視線の中、とても緊張をしていた。それを、表情に出すこと無く押し殺していた。更には、自らの身体に刃物で傷をつけるという行為も幼い少女にとっては相当な覚悟が求められる。倒れてもおかしくはなかった。
「はい。すみません。折角の晴れ舞台だといいますのに」
「いいえ。とてもご立派でした」
「ありがとう、ございます」
シェレアがギルバートに落ち着いた様子で指示を出す。
「ギル。ティアナを部屋に連れて行って休ませてやれ」
式典が始まる前に、切迫していたティアナの様子を見ていたシェレアには、こうなるだろうと大方の想像がついていた。
「はい。かしこまりました。女王陛下、式典の最中で申し訳ありませんが、席を外させていただきます」
ギルバートはシェレアの指示に従い、ティアナを抱き上げ会場を後にする。
シェレアは二人を見届けてから式典を続ける。予定では、この時間に行われるのは『誓いの儀』のみであったのだが、急遽もう一つ式事が行われることとなっていた。
「さて、では次じゃな。クナトはここにおるか?」
シェレアが会場内に向けクナトの名を呼ぶ。
それに答えたのは侍女のアイリアだった。
「はい。こちらにお連れしております」
アイリアはクナトの襟首を掴みながら連行してきたかのように前へと出る。
「な!? なんですかいきなり。俺はまだ料理の仕込みが……」
祝祭の準備として厨房で料理の仕込みをしていたクナトは、いきなりアイリアに無理やり連れ出されたのである。
観衆からは和やかな笑い声があがる。
「いいですから。黙ってここに座ってください」
「あの、状況がよく飲み込めていないのですが」
説明を求めるクナトに対して、アイリアはそれ以上有無を言わせずに、クナトの膝関節に蹴りを入れ流れるような動きでクナトをねじ伏せた、もとい跪かせた。
「黙ってそのままでいてください。もし姫様に恥をかかせるようなことをしましたら、……覚悟しておいてくださいね」
アイリアはこれ以上のない微笑みを向ける。その笑顔の裏に秘められた殺気もいつもの五割増しであった。そんなアイリアに、クナトはまさに蛇に睨まれた蛙のように萎縮する。
「……は、はい」
アイリアは女王陛下達へ一礼をすると、その場から離れて行く。
残されてしまったクナトは、未だに状況が分からずに辺りをキョロキョロとしてしまう。すると、シェレアはクナトを一喝する。
「頭が高――――い!!」
「えっ!? あ、はっ、はい!」
クナトも慌てて頭を伏せる。
先ほどまでの格式や赴きのある雰囲気と比べてしまうと、この二人からは緊張感の欠片も感じられなかった。そんな様子に、また周りからは微かな笑いが聞こえる。
「なに、すぐに終わることじゃ。事前に教えておくと、御主は断るだろうと思って黙っておったのじゃ」
シェレアは段差を降りて、クナトの前へと歩みを進めた。
「顔を上げよ。クナトよ」
「……はい」
クナトがシェレアへと向き合う。シェレアは貴金属の装飾品を手にしていた。
「クナトよ。先日の危険をかえりみず、身を挺して我の命を救ってくれたこと、誠に大儀であった。その功績を称え、そなたに騎士の称号を与える」
シェレアが手にしていたのは騎士の称号が与えられた証となる勲章であった。
シェレアの自らの手によって、クナトの胸元へと勲章が付けられる。そして、一斉に拍手がクナトへと送られた。その拍手はとても暖かいものであった。
その拍手の雨の中、クナトは困惑する。
「俺が、騎士??」
「ああ、そうじゃ。今後も騎士の名に恥じぬ活躍を期待するぞ!」
拍手が鳴り止まない。それだけ多くの者が、王女をドラゴンから救ったというクナトの活躍を心から称えていた。
しかし、クナトは照れながらも、その表情はどこか複雑そうであった。
「どうしたのじゃ? 嬉しくないのか? 名誉あることなのだぞ?」
「うん。うれしいよ。でも、俺としては、お姫さんがこうして無事でいてくれたことの方が、ずっと良かったと思っているよ」
少し照れくさそうにしながらも、屈託の無い優しい顔であった。その言葉に嘘偽りなどありはしない。クナトは地位や名誉、そんな見返りを一切求めてなどいない。
今までシェレアは王女という立場によって、多くの者から特別な扱いを受けてきた。しかしそれは、自分が王女だからである。だが、クナトにはシェレアが王女であるからだとか、そういうことは関係無かった。たった一人の幼い少女を必死に助けようとしただけなのである。
クナトの言葉を聞いたことではっきりとシェレアには、そんなクナトの心の内が伝わってきた。そして、シェレアはある決断をする。
「……決めた」
「お姫さん?」
ポツリと、シェレアは一言小さく呟いた。そして、シェレアは会場にいる者達に向けてその思いをぶつけた。
「みなの者! どうか聞いてほしい!」
シェレアの熱の篭った声が会場全体に響き渡る。
「今日、我の妹のティアナはギルバートを聖騎士とした! しかし、姉である我は未だに聖騎士を誰とするか決めあぐねておる! それを見かねた者が裏で画策する始末じゃ! だから、我は今ここで公言しよう! ここにいる騎士クナトを……」
シェレアは、大きく息を吸い込む。
「我の聖騎士とする!!」
そのシェレアのあまりにも突然な発言に、会場内はどよめきかえる。
本来ならば、騎士の称号が与えられることでさえ、身分の無いクナトにとっては異例の処置である。だがそれは、それに見合うだけの功績を成し遂げたからである。
しかし、聖騎士では意味するところは全く違ってしまう。しかも、シェレアの聖騎士となれば尚の事問題である。もし、シェレアが次期女王となったときは、シェレアの聖騎士がシュトレイアス王国の国王となるのが決まりである。
つまり、シェレアは次期国王をクナトにすると言っているも同然なのである。
シェレアの独断で次期国王を決められるはずがない。なにより、クナトは未だに素性が定かではない。そのような人物を国王にするなど認められるはずもなかった。
教育係でもある侍女長のマイヤが一番にシェレアの身勝手な発言を叱る。
「シェレアお嬢様!? なんてことを仰るのですか!? 家来にするのならば酔狂で許されますが、聖騎士など許されるはずがありません!!」
他にも会場からは、シェレアの発言を快く思わない者達の批判と非難が飛び交う。
だが、シェレアも自分の意思を曲げるつもりなど毛頭ない。むしろ、未だにクナトに対して偏見を抱く者達に憤りさえ感じる。
「ここにいる誰もが、クナトではふさわしくないと、そう申すのか!? 確かにクナトには、貴族としての気品も地位も教養もありはしない! だが、それが何だというのじゃ!! 我はクナトとこれからの王国の在り方を散々語り合った! そして、我はクナトには国王として相応しいだけの知恵も力もあることを知ったのじゃ! 我はなにも考え無しに、ましてや酔狂などで言っておるのでは決して無い!!」
迫真であった。シェレアのその思いは十分にみなの心を打つものが込められていた。
会場が静まり返る中、最初に口を開いたのはクナトであった。
「……お姫さん。聞いてほしい」
今までに見た事が無いほど、クナトは深刻な様子であった。
「お姫さんの気持ちは痛いほど伝わってきたよ。それを裏切るつもりなんて無い。でも、俺には、そんな資格は無いんだ」
「ダメだ!! 認めはせんぞ! 王国を変えていくには御主の、クナトの力が必要なのじゃ! 我の夢のために協力すると、言ってくれたではないか!」
「ダメなんだ。……俺は」
クナトの言葉を遮るように、突然、男性の美声が会場に響き渡った。
「すっばらしい!!」
その美声は、観衆の視線を集めるのに十分であった。いつからそこにいたのか、会場の扉の前に一人の男性が佇んでいた。
「なんて、なんて無垢で一途なお姫様の愛! とても健気で、美しいではありませんか!」
その場にいる誰もが見知らぬ男であった。たった一人、クナトを除いては。
「……ニルキス、……どうしてお前がここにいる!?」
クナトは顔を引きつらせ声を荒げる。こんなにも取り乱したクナトを誰も見たことが無かった。
「これはこれは、やはりあなたでしたか、クナトさん。魔王様の下からいなくなったかとと思えば、このような場所におられたとは。あなたも魔人でありながらつくづく人間と馴れ合うのがお好きのようですね」
会場内にどよめきが走る。その男はクナトが魔人であると、確かにそう言ったのである。
「おやぁ? もしかしてクナトさん。あなたは自分が魔族であることを言っておられないのですか? 隠し事をなさるとは、あなたも性格が悪い」
どこの誰とも分からない突然の来訪者の言葉を、誰も信じることなどできない。一体この男は何者なのか。誰もがその疑問を持つ。
「ああ、これは申し遅れました。わたくしはニルキスと申します。そして、あなた方人間が、魔人と呼ぶ魔族でございます」
ニルキスは敬意を払うように頭を下げ、自らも魔人である名乗った。
その口調にその仕草、そしてその名前に、レオナードは覚えがあった。忘れられるはずがない。
しかし、その男はどこからどう見ても普通の人間であった。
シェレアもその男の言葉が信じられずに、クナトに事実を確認する。
「……クナトよ。あやつは一体なにを言っておるのじゃ? あやつの言っていることは、……どういう意味なのじゃ?」
クナトが魔族であるなどと信じられるはずがない。しかし、何も言い返さないクナトに対して、異様な不信感が強まるのも確かであった。
「なんとか言うのじゃ!! 何かの間違いじゃと!!」
「…………ごめん」
奥歯を噛みしめ、そして辛く悲しい声で、クナトはシェレアにそう一言だけを呟いた。たったその一言が、全ての事実を物語っていた。
「……嘘じゃ、そんなの絶対に嘘じゃ!!」
ショックを受けるシェレアを見て、ニルキスは愉悦感に浸る。
「信じられませんか? まぁ、それも無理はありませんか。我々魔人はこの姿で人間の前に出ることなど滅多にありませんから。信じられないと仰られるのでしたら、幾つか証拠をお見せいたしましょう」
ニルキスの体から赤い霧状の煙があがり始める。そして皮膚がメリメリと赤い甲冑へと変貌し全身を覆っていく。その異様な光景と人から異形な姿へと変わっていく様子に、誰もが恐怖に身悶える。
そして、その姿を見たレオナードは確信し叫んだ。
「全員、女王様をお守りしろ――!! 女王様をここからお逃がしするのだ!!」
叫びながら、レオナードは最悪なタイミングであることを嘆く。式典の最中であったために多くの兵士はまともな装備をしていないのである。警備をする者も当然外に配備はされていたが、その者達の末路も容易に想像ができてしまう。
魔人の姿へと変えたニルキスは次の行動へと移る。
「さぁ、それでは、もう一つ」
ニルキスは指先を軽く振るった。同時に、クナトの右腕からは鋭利な刃物で斬りつけられたかのように鮮血が吹き出す。そして、右肘から上を境目に腕が切り落とされたのであった。
「!? ぐぁぁ!」
クナトは痛みで小さく悲鳴をあげる。
人の腕がいとも容易く切り落とされる光景を目の当たりにしてしまったことで、会場は一気にパニックとなる。
魔人に挑むような勇敢な兵士はおらず、聖騎士たちも王女の身の安全を第一とし、その場から逃がすことを優先せざるを得なかった。
「クナトォ!」
そんな混乱の中、シェレアだけはクナトの重傷を心配して、側へと駆け寄る。
「お姫さん。離れてくれ」
気が動転し冷静さを失いつつあるシェレアに、さらに追い打ちがかけられるように、信じがたい光景がそこで起こっていた。
切り落とされたクナトの腕が、まるで透明な煙にでもなったかのように消失する。そして、クナトの右腕の傷口からも銀色の霧が発生していた。たちまち、霧は塊となり腕の形が形成されていく。しかし、その腕は人間のものとは似ても似つかない、赤い魔人と同じ、銀色をした魔族の腕であった。
その光景を目にしたシェレアは、もう疑う余地が無かった。クナトは人間ではないことを。クナトが魔人であったことを。
「……そん、な……嘘じゃ」
シェレアはクナトから二歩、三歩と離れるように後退りする。そして、力なくへたり込んでしまった。
その裏切られ、絶望するシェレアの姿を見て、ニルキスは高らかに嘲笑う。
「ふ、ふふっ、ふはははっはっは。これはいい! とても面白い見世物ですよ。さぁ、これでご理解いただけたでしょう。我々魔人は、魔王さまの魔力によって生み出された存在。限りなく人間と等しい姿、形になれたとしても、あなた方人間とは全く異質の存在なのですよ」
「ニルキス! 貴様! なにを企んでいる!?」
クナトは声を絞り上げる。腕は再生され元に戻ったのだが、明らかにクナトの様子はおかしかった。呼吸は乱れ、立ち上がることさえ困難なほどに苦しそうであった。
「企むなどとは人聞きの悪い。クナトさん。あなたもその様子ですと、魔王様の下から離れて、相当に魔力を消耗しているようですね。だからこそ、そこのお姫様に近づいたのでしょう?」
「なんの、ことだ?」
「とぼけないでいただきたい。あなたもここいる王族の魔力が目当てだったのでしょう。ここまで上手く人間に取り入るなど、到底私には真似できません。ですから私は私のやり方で、その魔力を奪わせていただきましょう」
ニルキスの指先が、シェレアへと向けられる。
「やめろぉ!! ニルキス!!」
大量の鮮血が飛散する。しかし、その血はシェレアのものではなかった。寸前のところを、アイリアがシェレアの盾となるように抱きしめて庇ったのである。アイリアがニルキスの攻撃の身代わりとなり、肩から背中を深く切り裂かれのであった。
「……アイ、リア? アイリア!?」
「……姫、様。お逃げ、くだ、さい」
アイリアは、痛みと大量の出血で意識を失う。
「無駄な足掻きですねぇ」
アイリアの決死の行動もただの一時凌ぎに過ぎない。ニルキスは再び、指先を振るう。
「ニルキスゥゥ――――!!」
ニルキスの非道な行為に、クナトは怒りで声を張り上げる。だが、弱り切った体はまるで言うことがきかない。このときクナトにはどうすることもできなかった。
だが、次の瞬間にはニルキスの腕が宙を舞っていた。
「むぅ!?」
素早い剣撃であった。その斬撃により、ニルキスの腕は跳ね飛ばされていた。
「次から次へと、邪魔が多いですねぇ」
一人の騎士がニルキスの前へと立ち塞がる。
「らしくないな。クナト。守るべきものは命懸けで守れと俺に説いたのは、お前だろう」
剣を片手に危機を救ったのは、聖騎士ギルバートであった。
「ここは、俺が引き受ける。クナトはシェレア様を逃がせ」
「……すまない。だけど、無理だけはしないでくれ」
クナトはよろけながらも、力を振り絞り、シェレアとアイリアを抱えて、会場の外へと歩みを進める。
ニルキスはそれを黙って見過ごしていた。今は逃げる者達よりも、目の前に突如として現れた騎士に対して警戒を強めていた。常人とはとても思えないほどの速さでの接近と斬撃。そして、その斬撃もただ斬られただけではなかった。斬られると同時に全身を強い電撃が襲っていた。
(雷を、操っているわけですか)
ギルバートが聖騎士となり、魔術師として発現した魔法は、電気を操る能力であった。
そして、ニルキスもその性質を瞬時に見抜く。自らの身体に電気の負荷をかけることによって圧倒的な素早い動きを可能とし、高圧の電撃により相手に深刻なダメージを与えられる。
「ティアナ様より授かったこの力。貴様で試させてもらうぞ!」
ニルキスは片腕を失ったことにより、自ら攻めはせずに相手の出方を窺う。
対して、ギルバートは攻撃主体の剣技を得意とする。相手が警戒し防御に徹すると見れば、臆さずに攻めに出た。その踏み込み、斬撃の速さは常人のものをはるかに凌ぐ。
ニルキスも防御に徹していなければ到底避けられる攻撃ではない。素早い踏み込みの剣撃を仰け反るようにギリギリで回避する。そして、鞭による反撃をギルバートへと仕掛けるのだが、剣先から放たれる激しい雷撃が先にニルキスの身体を襲った。そして、身体が電撃で硬直したところに今度は剣撃により、胸を深々と斬り裂かれる。
「がはぁっ!」
ただ剣先を避けるだけでは、ギルバートの攻撃を回避したことにはならない。接近戦において、ギルバートは圧倒的な速さと、必中の技を会得したのである。
ニルキスは攻撃を受けた反動で、倒れそうによろめきながらも踏みとどまる。
そのダメージの色が明らかに濃い相手に対して、ギルバートは攻撃の手を緩めない。
(このまま押し切る!)
しかし、このときギルバートは疑問にさえ思わなかった。もし、会場から退出することなく最初からその場に居合わせたのならば、疑問に思い警戒できたのかもしれない。クナトは腕を切り落とされたとき、すぐに元へと再生させていたのに対して、ニルキスはそれをしていなかった。
ニルキスはさらに後方へと下がり、攻撃が届かない距離まで逃げようとする。だが、ギルバートの速さには敵わない。回避行動も先の二の舞いとなるだけである。しかし、このときニルキスは甲冑の面の裏では不敵に微笑んでいた。ニルキスは足元に転がる己の右腕を自分の目の前へと蹴りあげた。その腕はちょうど二人の間、ギルバートの斬撃の軌道上に放られるのであった。
(さあ、これであなたの電撃は届きません)
ニルキスの指先から、赤い鞭がしなった。
「……降ろすのじゃ」
フラフラなクナトの脇に抱えられた状態のまま、シェレアが弱々しく呟く
「ダメだ。……今は早く、……ここから離れないと」
「離せと、言っておるのじゃ!」
シェレアは暴れて、強引にクナトから離れる。そして、強い口調でクナトを問いただした
「騙しておったのか!? 我をずっと謀っておったのじゃな!?」
「……お姫さん。話を聞いてくれ」
「黙れ! 黙れぇ!! ……もう、我を、……………………惑わすでない」
シェレアの瞳からは大量の涙が溢れていた。
シェレアのその姿に、クナトはなんて言い訳をして良いのか分からなかった。
「……姫……さま」
シェレアの声にアイリアが意識を取り戻す。意識が戻ったというよりは、朦朧とする意識の中、うわ言のようにシェレアを呼んでいた。
「アイリアさんの傷が深い。早く、医務室に連れて行かないと」
クナトはシェレアの手を掴み、一緒に連れて行こうとする。
しかし、シェレアは腕を振り解いてそれを拒む。
「我に触れるな! アイリアも離せ! 医務室になら我が連れて行く! 貴様はあの魔人の仲間じゃ! 人を殺し不幸にする、魔族じゃ!!」
シェレアは悔しさで胸が締め付けられる。クナトのことを心から信頼していた。クナトなら自分を裏切るような真似は絶対にしないと信じきっていた。だからこそ、クナトが魔人であるという事実によって、二人の間に築かれていた信頼は崩れ去ってしまった。
その二人に向けられてか拍手が通路に響く。ニルキスが拍手を送りながら二人にゆっくりと近づいて行く。
「いやいや、これは実に面白い。人間とは、本当に愚かな生き物ですねぇ」
ニルキスが逃げる二人へ追いついたのである。そこに、ギルバートの姿はない。
「クナトさん。これであなたも身を持って理解したのではないのですか? いくら人間に肩入れしたところで、我々が魔族である限り決して人間とは相容れることなど叶わないのですよ」
クナトは担ぎあげていたアイリアをシェレアへと預ける。
「早く医務室へ連れて行くんだ」
そのクナトの瞳はあまりにも儚かった。そして、クナトはニルキスの前へと立ちはだかる。クナトは命懸けで二人を守ろうとしていた。
シェレアはその場から動くことができない。クナトをきつく突き放しながらも、クナトがどこかへ行ってしまいそうになると、側を離れることができなかった。そんな矛盾だらけな自分の気持ちさえも、今のシェレアには理解することができずに、ただ立ち尽くしてしまう。
ニルキスはクナトの行動を見て呆れ果てる。
「理解できませんね。どうして、人間なんかのために命を投げ捨てるのですか?」
「…………人は大切な誰かの為に、こうして自分の命すら犠牲にさえする。あの時の俺には理解できなかった。そして知りたいと思った。だから俺は、人との関わりを持った。その中で、俺は人の優しさを知り愛情を知った。そして、人を殺してしまった自分の罪を理解したんだ。俺はその償いがしたい。いや、もっと根本的な理由は、俺は残虐な魔人になんてなりたくない。優しい心を持った人間のように、人に近づきたいんだ!」
これがクナトの紛れもない本心であり、願いでもあった。
ニルキスはこのクナトの想いを聞くと、可笑しくて笑いがでてしまう。
「はっはっはっはっ! 残念ですが、あなたは魔人です。人間になんて、決してなれないのですよ! 決して叶わない夢を抱いたまま死ぬというのは、どんな気分なのでしょうねぇ?」
ニルキスがクナトへ攻撃を仕掛けようとした瞬間。ニルキスの身体を背後から剣が貫いた。
「がはぁあっ!? これは、一体!?」
ニルキスの身体を剣で貫いたのはギルバートであった。俊足を活かし、背後からニルキスの隙を突いたのである。
「……覚えておけ。たとえ人間になれずとも、人に歩み寄ることならできると!」
ギルバートは剣を引き抜くと、そのまま力なく倒れこむ。
ニルキスは身体からは大量の血を吹き出しながらも踏み止まった。
「馬鹿な。あの深傷でなぜ動くことができたのです? なぜ出血死しないのですか!?」
ギルバートの腹部には深く切り裂かれた傷口があった。それはニルキスによって、負わされた傷であり、即死でなくとも動くことができないまま、出血で命を落とすはずであった。
しかし、その傷口は黒く焼き塞がれていた。
「気が失うほどの激痛の中、針穴に、糸を通す思いだったさ」
「自らの電撃で、傷口を焼き塞いだと言うのですか!? どうしてです? 何故そんな命を顧みないような無茶ができるのです!?」
その問いをクナトが答える。
「それが、人だからだ!!」
銀の甲冑で全身を纏ったクナトが右腕を大きく引いていた。
「!? しまっ……!!」
クナトの攻撃を構える動作は鈍く重かった。
しかし、剣撃と雷撃によるダメージを受けたことにより、身体の自由が効かないニルキスには、その攻撃を回避することができなかった。
クナトの強烈な右ストレートが、ニルキスの顔面を捉え、分厚い城の壁を破壊しながら外へと弾き飛ばした。
ニルキスの上半身はバラバラの肉片に砕け散り、下半身だけが城の中庭へと転がっていく。
クナトの身体から銀の甲冑が消える。ニルキスを殴り飛ばした衝撃で、自らの右腕も砕け散り損失していた。今度はその腕が治ることもない。クナトは満身創痍な状態で、シェレアへと振り返る。無事でいるシェレアに悲しい笑みを向けながら、気絶するように倒れた。
「…………クナト? ……クナトォ。 おい、……アイリア? ……ギル!?」
誰もシェレアの呼びかけに答えることはない。シェレアだけを残して、三人は完全に気を失っていた。
壁が破壊された轟音により、間もなく兵士達が駆けつけてくる。そして、三人は医務室へと運ばれて行くのであった。
城の中庭で、重症のニルキスが地面を這いつくばっていた。胴体と頭の再生はできたが、魔力が尽き果て両腕の再生ができない状態であった。
「身体が、治らない! 魔力が足りないぃ! このままでは、このままでは消えてしまうぅうぅ」
ニルキスは唸り声を上げながら苦しむ。魔力が命の源である魔人にとって魔力の枯渇は死を意味していた。
「苦しそうね。ニルキス」
ニルキスの前に黒いドレスを着た一人の少女が立っていた。
その少女に対して、ニルキスは激しく動揺する。
「まっ、魔王様!? どうしてここに!?」
その一見何の変哲も無い少女をニルキスは魔王と呼んだ。この少女こそが正真正銘、魔界に住む魔王の一人なのである。その魔力は無限と言われ、ニルキスのような魔人や魔獣を生み出し従えることができる。それゆえに、魔王と呼ばれる存在になるのである。
少女は背後にニルキスとは別の魔人を三人従えていた。
「貴様を見つけることなんて簡単だったわ。ドラゴンが大移動をしていたから、貴様がドラゴンを殺して追われているのだとすぐに分かったわよ。だから、その跡を追って来ただけ」
「魔王様! どうか私に、もう一度、魔力をお与えください!」
ニルキスは今にも息絶えてしまいそうな思いで懇願する。
「なにを勘違いしているのよ。私がお前を助けに来たとでも? 飼い主から逃げた犬に罰を与えに来ただけだっていうのに。でも、その様子ならその必要もなさそうね。そのまま消えてしまうといいわ。ニルキス」
魔王はニルキスを見捨てるように踵を返す。
「お待ちください! お伝えしたいことがあります! クナトを、クナトを見つけいたしました!」
魔王の足がピタリと止まる。
「それは、本当でしょうね?」
魔王はニルキスの心の内を見透かす。仮面の下でほくそ笑むニルキスの顔が浮かんでいたが、助かりたいにしてもすぐにバレる嘘など意味は無い。詳しい話を聞き出すためにも、ニルキスの命乞いを聞き入れるしかなかった。
「運の良いやつ。その手柄に免じて、今回は許してあげるわ。けれど、次また逃げ出すようなことがあれば、絶対に許さないからね。さぁ、教えなさい! クナトは今、どこにいるの?」
城の医務室では、医師達が慌ただしく動いていた。ギルバートとアイリアは重症。そしてクナトも右腕を損失するという外傷よりも衰弱が激しかった。
王族達はみな、医務室の隅で見守ることしかできなかった。
「だから私は反対したのです! あの男を城で雇うなどと!」
クナトの尋問を担当した聖騎士アレックスが声を荒らげる。
「今日のこの被害も、全て奴が原因!」
怒りの感情をあらわにするレオナードをアシュリー女王がたしなめる。
「憶測で物事を決めつけてはなりません。アレックス。まずは、クナトさん本人から話を伺う必要があります。彼をどうするか決めるのはそれからです」
「女王陛下! まだそのような悠長なことを! もう私は我慢の限界です!」
アレックスはクナトが眠るベットへと歩みを進める。そして、剣を引き抜いた。
「魔人を、これ以上生かしておくことなどあってはなりません!」
アレックスは抜いた剣をクナトへ目掛けて突き立てようとする。
それを数名の医師が取り押さえて阻止する。
「お止めください! アレックス様!!」
「ええい! 離さないか!」
その騒ぎの中、クナトはむくりと上半身を起こした。意識が戻ったのである。しかし、その顔は衰弱している以上に、思いつめるように青ざめていた。そのまま、ベットから起き上がると、アレックスの脇をただ黙ったまま通り過ぎる。
「待て! どこへ行くつもりだ!?」
「……魔王様が、ここに来ています。おそらく、魔人も何人か連れているはずです」
「なに? 魔王、だと?」
魔人だけでなく『魔王』という言葉に、その場に居たものはみな戸惑いを隠せない。
「このままでは、みんな殺されてしまう。ここにいる人達に、もう犠牲は出したくありません。だから、行かせてください」
「……尚の事、おめおめと仲間のところになど貴様を行かせられるものか!」
「お行きなさい」
アシェリー女王が凛とした声で言った。
「女王陛下!? ご冗談でしょう!?」
アシェリー女王はさらにクナトに頭を下げた。
「魔人を相手では、私達人間では到底太刀打ちできません。ですから私達をお救いください。そしてどうか、あなたに頼ることしかできない私達を、お許し下さい」
女王陛下が頭を下げるという行為に、その場にいた者達は誰も口を出すことができなかった。
「ありがとう、ございます」
クナトは静かに医務室を後にした。
クナトは医務室から出ると、そのすぐ外の通路では膝を抱え座り込むシェレアの姿があった。
シェレアはそこで一人静かに泣いていた。
クナトは今まで何度もそうしてきたように、その儚く小さい少女の頭を撫でようと手を伸ばす。しかし、できなかった。声を掛けることさえ叶わない。魔人である自分に、今ここでシェレアのためにしてやれることは、何も無かった。
クナトはただ、黙ったままシェレアの前から立ち去って行く。
そして、シェレアは一人残され、悔しさと孤独感に泣き続けた。
そんなシェレアにある人物が近づいて声を掛ける。
「……クナトは、行ってしまったのかい?」
声を掛けたのは、車椅子に乗った初代女王のエルマであった。城で一番安全な地下の隠し部屋へとユリエと共に避難していたのだが、シェレアに話があるとユリエに頼み、医務室まで車椅子で連れて来てもらったのである。
「シェレア、魔人は憎いかい?」
シェレアは膝を抱えたまま静かに頷く。
「そうじゃろうなぁ。……なら、クナトはどうじゃ?」
この問いにシェレアは頷くことも、首を振ることもしなかった。
「わしも魔人に人が殺されるところを何度も見てきた。魔人を倒して世界を救い、名を広めようともした。そんなわしの昔話を幼いお前に何度も話したからな。魔人が憎いと思って当然じゃ。なあシェレア、覚えておるか? そんなわしの昔話で、特にシェレアが好きで何度も聞かせてくれとせがまれた話があったじゃろう。わしが命を助けられ、国を興すきっかけになった話じゃ」
エルマが言っているのは『異国の騎士』の話のことで間違いなかった。
当然、シェレアもその話はよく覚えている。その話に出てくる異国の騎士は、シェレアにとって憧れの騎士でもあった。
「シェレアにはもっと早くに、本当の事を言っても良かったのかもしれんのぉ。……その異国の騎士とは、紛れも無いクナトなのじゃ」
シェレアは顔を上げエルマへと視線を向ける。その真っ赤に腫らした目を驚きで丸くしていた。
「信じられんか? まぁ、信じなくとも良い。年寄りの言うことなんぞ真に受けるものでもないさ。でものぉ。自分のその目で見て、その耳で聞いて、なにが真実なのかは自身で答えを出すべきではないのか? その答えを出すのに、十分過ぎる時間をクナトと過ごしたのだろう? それこそ、わしなんかよりもずっとずっと長い時間じゃ」
シェレアはただ黙って、エルマの話を聞いていた。そして思い返し考える。クナトはどんな人間なのか、どんな魔人なのかを。答えを出すのに時間は掛からなかった。クナトは人間のように優しい心を持った魔人なのだと。
シェレアは、立ち上がるとすぐにクナトの後を追って駆け出していた。
エルマはシェレアを見届けると、細い腕で医務室の扉を指差した。
「ユリエちゃん。次はこっちじゃ」
「はっ、はい!」
エルマはユリエに車椅子を押されながら医務室へと入る。
エルマの容態をアシェリー女王がを心配する。
「エルマお婆様。このようなところにいては危険です」
「大丈夫じゃよ。少なくとも、ここにいて殺される心配はないさ」
エルマはシワシワな顔で笑ってみせる。
だが、医務室にいた者達は神妙な面持ちであった。クナトの語ったことが本当ならば、この王国はもう終わりだと諦めてしまっていた。
「なんだい? まったく。誰一人として、クナトのために協力してやろうとする者はおらんのか? まぁ、わし等が出て行ったところで、足手まといにしかならんじゃろうなぁ。今はクナトを信じようじゃないか」
このエルマの発言にレオナードは耳を疑った。
「クナトを信じる? エルマ様。あいつは魔人……」
「バカタレが! 人間だの魔人だのと、なにをつまらないことに囚われておるのじゃ! 今この国があるのも、お前達がこうしてここにおるのも全部、クナトのおかげじゃと言うのに」
エルマの言っている意味が誰も理解できなかった。
「エルマお婆様? それはどいうことですか? なにを仰っているのか分からないのですが?」
エルマは暫し呼吸を整える。健康そうに見えても100歳を迎えた老婆。大声を出し、話し続けることが辛くないわけがなかった。だが、エルマは語り始める。
「そうじゃな。では昔話をしようかのう。わしが国を興すきっかけとなった話。異国の…………、いや、一人の『魔界の騎士』の話じゃ」
第四章 「悲嘆の姫と心優しき魔人」-終-