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さよならの後は、ふたたび

作者: 雨尾 秋人

 1

 時計の針が西から北への敷居をまたごうとする時間帯になると、一匹の猫はきまって家の窓から脱けだし、外にでるのだった。間欠的にくだけた夜空の星からは、すこしばかり夏の薫りがした。猫は尻尾をゆるやかな弧を描くように揺らし、足音すらたたせず歩いた。住宅地の隙間を、猫はそんな四本の足でつくりあげた歩幅をならべて縫っていった。そして足を止める。生えしげるばかりの雑草を踏んだことを、自身の肉球で知った。視界は白い粒がよこたわって煙みたいになっている模様の夜空だけが見えた。風に忠誠を誓った草々が、猫の視界をいちじるしく略奪したのだ。

 最近、猫はよくここにくる。一軒家が密集したこの住宅地を、上空から俯瞰すれば一箇所だけ欠けた穴のようにも見えるこの空き地に。この場所だけはどれだけ経とうと家ができそうな気配がなく、かわいた地から立ちあがった雑草が成長する一方なのだ。当然、虫も多く、猫は案の定身体を不潔にして夜明けの頃合いに帰宅するのだ。どうしてこんな場所にくるか、それはある少女と出会うためであった。彼女は、いつも涙を瞳の裏にかくしたままこの空き地に訪れるのだ。

 

 女学生、と猫は呼んでいる。彼女の名前など知らない。そして、知ろうとは思わない。猫は女学生に伝わることのできる言葉を話せないのだ。だから、自分なりに訊ねても彼女からの返事はかならず違うものとなる。ならばそれで構わない、と猫はいつしか諦めていた。女学生の名前を猫は知らない。猫は名前という概念の存在に興味などなかった。名前などなくても、猫は女学生のことが好きなのだから。その感情――猫が女学生にいだく好意につけられた名前は、猫でも知っていた。

 「こんばんわ」女学生はそう猫に言いながら、いつからか変わった制服姿で今日も空き地にやってきた。もちろん猫は嬉しくなった。だけれど、嬉しくなかった。女学生の表情は、いつも変わらない夜のはずなのに変わってしまっていたからだ。その制服と同じように。

 最近いつもそう思う。女学生には今までなかったはずの「影」があったのだ。どうしてそんな影が彼女にただよっているのか、猫にはわからなかった。かいさぐるにしても、猫が女学生に関して知る情報がはげしく少なかった。だから猫には心配のみしか、できることはなかった。以前の女学生には、笑顔をまたたかせるのが多かった。けれど、今の女学生の笑みは口角をすこし上げて、――言ってしまえば作り物だった。そして、それが定着していた。まるで作り笑いをするということに、慣れてしまったように。そんなこと、なにも知らない猫からすれば「悲しい」の他におぼえる感情など無かった。きっと猫の気づかないうちに、女学生にとっての夜は変わってしまったのだろう。それがどういうことか分からない猫は、今日も言葉にならない鳴き声を彼女にわたすのだ。猫はそのたびに自身を悔やんだ。「どうして僕は猫なのだ」、と。


 2

 時計の針が東から南への敷居をまたごうとする時間帯に、ようやく猫は女学生の影について理解することができた。いつからか変わってしまっていた彼女のあの制服姿が、彼女が猫に送っていたそれなりの示唆だったのかもしれない。猫は朝、学校へ登校する女学生の姿をたまたま見かけたのだった。これまでにも幾度かは学校へ登校する女学生を見かけることはあった。それ自体はとくに特別なことではない。見かけていたときの女学生は、となりには友達がおり、いつも本物の名前がある笑顔を表情にはびこらせていた。それなのに、久しぶりに見た学校へ登校する女学生の背中のとなりには、誰もいなかった。あの絢爛な笑顔も、身体の成長に沿って丈が短くなっていったセーラー服のスカートも、それをやさしく揺らした風も、なにもなかったのだ。チェック柄の丈がやや長さをとり戻したスカートと、見慣れない黒のブレザーの背中だけ。それだけだった。どうして、彼女から笑顔は消えた? どうして彼女は自ら口角を上げようとする? すべて把握できたあとで猫がおぼえた感情は、なにも知らなかったときと同じものなのだと知った。「悲しい」、ひたすら、それは悲しいものだ。


 猫はその夜、またあの場所へと向かった。夜には、不確かな形をした雲が横列にて佩びられており、それによって分担した夜空には同じようにまばらに星が埋めこまれていた。雲は、なにも語ることをしない。女学生の影をどうすれば払い除けることができるのか、女学生を助けるのに、猫がなにをすればよいのか、そういったヒントすら語らず、重苦しくなった夜空にゆっくり流されていく。空き地に向かうと、女学生はすでにたたずんでいた。静かに。

「こんばんわ」

 女学生は、猫を見かけるとすぐに昨日とおなじ挨拶を言った。こんばんわ。猫は言葉を返した。きっと、女学生には伝わらない。だから瞳に模倣させた夜空を、言葉にかえて彼女につたえた。すると女学生が屈んで猫の頭を撫でた。しばらく彼女の手のひらが猫の頭上にあった。猫は嬉しくなって、彼女の手に自分をあずけた。目を瞑り、猫はそんな夜の昼へと吸い込まれていった。

 そんな体温の森にて、猫は深く考えた。深く潜ってゆくと、次第に息ができなくなるくらいの重みが圧しかかってきたような感覚になって、まるで海底だと猫は思った。どうしたら女学生は以前の笑みを思い出せるか、猫は森のなかを歩き回った。海のなかを泳ぎ回った。彼女の忘れてしまった表情は、ずっと奥にあるような気がして。彼女の手のひらが、とても温かかった。

 解決策はないか、必死になって探しまわっている反面、猫は彼女の手のひらが伝えてくれる優しさや温もりの中で「変わってしまったものなんて無い」とも思った。なにも変わっていない。頭を撫でてくれるその手で見えないけれど、女学生は笑っているようにも見えた。この手のひらが教えてくれる優しい体温も、冷めることはないのだ。  END


はい、短編でした。僕が高校生になって、初の短編です。猫視点での話でしたが、主人公は言ってしまうと女学生の方でしょう。

現在新しい長編を執筆中です。どうか、宜しくお願いします。

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