01 幽霊屋敷と少女
通称、没落貴族のなれの果て。
わたしはこの屋敷が何と噂されているか知っている。花の都とうたわれる王都リースブルーム、その貴族街である北区にそのオンボロ屋敷はある。
むかしはさぞかし立派な建物だったのだろう。
いつの時代に建てられたのか、周囲のタウンハウスと比べるとかなり古めかしい造りをしていた。でも趣や情緒があるという表現は逆立ちしても出てこない。
長い間、まともに手入れをする者がいなかったせいで、窓には蜘蛛の巣が、壁には蔦が思い思いにはいまわり……、古びた門の向こうには、色がまだらに抜けた木の重い扉と、蔦が深く絡みついた石壁が見える。長い年月を風雨にさらされ続けたせいか、石壁はすっかり不揃いになってガタガタだ。門にしろ、壁にしろ、下手に押したら崩れるんじゃないだろうか。そう思うと、試してみる気にもなれない。屋根は屋根で、すっかり痛んでしまったために、天候が悪いと雨漏りがする。
なのに夜な夜なひとりでに証明は灯り、家具は好き勝手に宙を舞い、まるで本当に幽霊が棲んでいるようだ。何も知らなければ、近づくのはぜひご遠慮しますという雰囲気だった。
ひどい。ひどすぎる。
これではまるで、物語の悪い魔法使いかなにかの本拠地だ。リースブルームの噂好きな人々が【幽霊屋敷】だとか、【人喰いが棲んでいる】だなんて言っても、仕方がないのかもしれない。
そして何よりも残念なことは、それがわたしの家だということだ。
この場合は“居候先”と言ったほうが正しいだろう。この屋敷の主と、わたしとの間には、まったく血の繋がりがないのだから。
この崩壊寸前な屋敷の主は、ある魔術師の青年だ。
水の魔術師ヴェイド・クラート・ルド・フロディス――それが彼の名前。
◆・◆・◆
「しんっじられない!!」
陽の光が顔をのぞかせたばかりの爽やかな朝は、わたしのそんな第一声で始まった。
わたしは今、猛烈に怒っていた。
別に、屋敷がどうしようもなく汚いことや、花瓶や本、調理器具が激昂したわたしを避けるように遠巻きに浮かんでいることは何の関係もない。ええ、関係なんてありませんとも。
すべてはあの魔術師が悪いの。
だから、だから――。
「ヴェイドさん、いい加減に起きなさい!」
わたしはさっきからウンともスンとも言わない魔術師の青年の顔を、思いきりひっぱたいた。
「あああ、嬢ちゃんそんなことしたらあぶねえって」
「お、オルディスさん!?食堂で待っててって言ったのに……」
慌てて振り返ると、彼の仕事仲間だというオルディスさんが、引きつった顔で後ずさっていた。まるで、わたしが爆発物にとびかかろうとするのを、うっかり目撃したみたいな顔をしていた。
わたしは思わず顔が熱くなった。
年頃の娘として、こんな暴挙を見られるとは不覚だったわ……。一方のオルディスさんは、わたしがヴェイドさんから報復をくらうことを心配していたようだけど、そんなことはないない。彼は反撃するよりも惰眠をむさぼりたいタイプなのだ。
「オルディスさん、あっちでお待ちください。もうすぐ起きてきますので」
というか文字どおり叩き起こしますので、ほほほ。
わたしがそう言うと、「フロディス家は凄まじいな……」と、彼はわたしに胸ぐらを捕まれたヴェイドさんを気の毒そうに見つめながら、部屋を後にした。
というか、ヴェイドさんそろそろ本当に、
「お き な さ ぁ ぁ い !」
びたーーん!
わたしの名前はフィオナ。精霊の母と人間の父を両親に持つ、半精霊の娘である。ある事件がきっかけで天涯孤独の身になったわたしは、魔術師ヴェイドのもとに引き取られた。
非常識な彼のもとで過ごす日々は驚きの連続だったが、こうして早、一ヶ月が過ぎようとしていた……。
「叩くなんて酷いじゃないか」
むすっとした顔のヴェイドさんは、ひっぱたかれて赤くなった頬を抑えながら言った。
場所は彼の寝室から変わって食堂である。テーブルでわたしが作った朝食をフォークでいじりながら、彼はわたしに抗議の目を向けていた。
「知りません」
「女の子がそんなふうに暴力をふるっちゃダメだよ、フィオナ」
誰のせいだと思ってるの?
今日はせっかくパンがうまく焼けてご機嫌だったのに、朝からあれでは台無しよ。ぎろっと睨みかえしてやると、すぐ隣に座っていたオルディスさんが「まあまあ」と、なだめるように手を振った。
「事前に連絡してこなかった俺も悪かった。嬢ちゃん、あんまり怒らねえでやってくれんか?」
「オルディスさんは甘いんですよ。だいたいヴェイドさん、今日は王城に呼び出されてるって、昨日の時点で分かってたんですよね? だったら普通、早起きしません?」
なのにヴェイドさんは、夜中まで魔術書をよみふけっていたらしい。いい大人がすることではない。
「うるさいなあ、まるでモリュニグ草の大合唱みたいだ」と、ヴェイドさんはうんざり顔で言った。
「わたしをあんな雑草と一緒にしないでください!」
モリュニグ草というのは、春に鈴のような花を咲かせてけたたましい音を鳴らすという珍しい薬草の一種だった。ピナス月のはた迷惑な風物詩という扱いだ。
「失敬な、モリュニグ草はスープと煮込むと美味しいんだよ」
「馬鹿にしてるのなら、さっさと朝食を食べてくれません?」
「魔術師ヴェイドも、嬢ちゃんには敵わねえな」
オルディスさんは楽そうに笑った。
◆・◆・◆
「さて、と」
無事にヴェイドさんを王城に送り出した後、わたしは残された洗い物の山をみて気合を入れていた。
言い訳しておくと、洗い物をなまけたわけじゃない。はからずとも落ちた皿、カップ、変なところに突っ込まれて放置されていたスプーン、フォーク、ナイフ、エトセトラ。不幸にもまた今日、それらを発見してしまっただけだ。
なんせこのお化け屋敷ことフロディス邸には、彼の魔力に惹かれてやってきた精霊たちが、そこかしこに潜んでいるのだ。
物や食べ物が勝手に浮かぶぐらいならかわいいものだ。なかには水の精や火の精といったものもおり、彼らの気まぐれで蛇口が洪水になったり、火炉が燃え上がって食材を燃やしたりなど、この一ヶ月でわたしはすでに散々な目にあっていた。だから今朝みたいに上手にパンが焼けるというのはめったにないことだったのに。
それでも彼に引き取られた当初よりはマシなのだった。
最初は彼らも警戒していたのか、わたしの様子をうかがうように周囲を飛び回り、わたしが何かしようとする度に頭上にタライを落としたり、足もとに本を積み上げたりなどイタズラを仕掛けてきた。
いまはわたしもすっかり、彼らの“同居人”に落ち着いている。
ヴェイドさんは王宮魔術師という職業柄、屋敷を空けていることが多いのだが、わたしは彼ら精霊たちのおかげで全く寂しい思いをすることがなかった。それだけは救いなんだけど……。
「あんまり髪はいじらないで欲しいわ」
わたしは髪にまとわりつく小さな光を手で追い払い、ぼさぼさになってしまった髪をなでつけた。物に宿ることに飽きた精霊たちが、好き勝手にわたしの黒髪をひっぱっていくのだった。
わたしの髪はからすの濡れ羽色、真っ黒な色だった。おなじく瞳の色も真っ黒だったのだが、とくに黒髪は魔力が強く宿る証なのだと以前ヴェイドさんが言っていた。わたしは水の大精霊だった母親の血を引いているため、ヴェイドさんと同じように精霊たちはわたしにも惹かれて寄ってくるようだ。
もっとも、彼らにとってわたしはほとんど彼らの仲間のようなものみたいで、ヴェイドさんに対する態度とは違って遠慮なしである。
無事に汚れた食器を洗い終えたわたしは、はたはたとまといつく精霊を追い払いながら、次に屋敷の掃除に乗り出した。
屋敷の掃除をするという約束でここに居ついたわたしだったが、この屋敷無駄に広いものだから、実はまだ半分も片付いていない。彼は人を招くことがないので、わたしも最低限の場所しか綺麗にしていない。
玄関ホールからはじめ、大広間、応接間、広間、画廊、書斎、食堂、寝室などなど……とにかくフロディス家のタウンハウスは立派だった。別の土地には国から与えられた彼の領地があるというが、もう百年以上は帰っていないそうだ。百年って、もう家の使用人さんたちも代替わりしてるんじゃないかしら。恐ろしくてわたしは「帰ってみたら」なんてことも言いだせない。
「もう、髪の毛に埃が付くじゃない。ちょっとあっち行っててよ」
さすがに天井からハタキをかけるときぐらい、精霊たちも放っておいて欲しいものだ。ひとつ結びにした髪も、いまやぐちゃぐちゃにされている。
わたしは髪の毛を結びなおした。
「黒いのがいけないのかしら。いっそヴェイドさんに頼んで染めてもらおうかな……」
「染めちゃうのか、せっかく綺麗な髪なのに」
「ひっ!?」
さらり、と髪をさらう感触にわたしは思わず飛びあがった。振りかえると、出かけたはずのヴェイドさんがそこに居てわたしは肝をつぶした。
「ちょ、ちょっと!? ヴェイドさんなんでこんな所にいるの?」
お城はどうしたのよ、お城は。
「昼のお茶の時間だから帰ってきたんだ」
ヴェイドさんは何の変哲もないことのように言った。
たぶん転移陣を使ってきたのだろうと思う。だって王城とヴェイドさんの屋敷はほとんど反対方向にあるのだから。それにしても、転移陣なんて中級魔術を一日にぽんぽん使うなんて、彼ぐらいなものだ。
「……お城でもお茶は出るんでしょう?」
「家にいるほうが楽なんだ」
そりゃ誰だってそうでしょう。
でも見てわからない? 庶民のわたし的には時刻はまだお昼前だし、いま掃除中なの。あからさまに嫌な顔をしてみせると、彼は得意げに言った。
「仕事中はちゃんと休憩を取りなさいと言ったのは、たしかきみだったはずだけどなあ、ぼくの記憶違いかなあ?」
うっ。
そういえばそんなことを言った覚えがある。わたしは反論の言葉をなくし、彼のご意向どおり昼食を兼ねたお茶を提供するしかなくなったのであった。
「ねえ、フィオナ。その本どうしたの?」
お茶を飲んでひと息ついた頃、おもむろに彼は言いだした。
彼の視線をたどってみると、台所のカウンターに乗せたままになっていた本に行きついた。分厚い装丁には“魔術薬学入門 第一編”と書かれている。本の山のなかから発掘した魔術書の一種だった。
「書斎を片付けたら出てきたんです。これだけ種類が違うみたいなので置き場所に困って……って、ヴェイドさん?」
わたしは思わずヴェイドさんの顔を見た。というのも、彼の顔がえらく強張っていたからだった。
「書斎……?」
どこか茫然としたように彼はつぶやいた。
「ええ、書斎」
「書斎を片付けたの?」
「あなたどこから帰ってきたんですか」
「フィオナの真後ろ」
あらそう。
「「…………」」
そして次の瞬間、ヴェイドさんはガチャンとカップを置いたかと思うと、書斎に向かって走りだした。
「え、え?」
わたしは慌てて彼を追った。やせ気味で運動全般が苦手な彼だが、こういうときは素早やかった。
ようやく追いついたときには、彼は書斎の入り口の前で崩れおち、何かをひどく嘆いていた。彼の前では、いまやきれいに整頓され、床が見えるようになった書斎が広がっている。
「ああ、なんてことをしてくれたんだ……」
「そんなに落ち込むようなことかしら」
「落ち込むことだ!」
彼は悲壮な顔でわたしに振り向いた。
「ぼくがせっかく、使う本をまとめて置いといたのに、これじゃ分からなくなったじゃないか。ふせん貼っておいた魔術理論の本はどこにやったんだ」
あんなに埃をかぶせておいて、よく言えたものである。
「そんなに大事なものなら、ちゃんと管理しておいてください」
わたしは苛っとしながら、本棚から十冊ほど本を引き抜くと、どさりと彼に押し付けた。
「入り口に積んであった魔術理論の本はこれで全部です。満足ですか?」
「……記憶力がいいのも考えものだな」
腕にかかえた本の山を見おろしながら、ヴェイドさんは苦ったらしい顔で言った。悪かったわね、記憶力がよくって。
もう少し仲よく暮らしたいのに、最近いつもこんな感じだった。
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ピナス月=四月