#2 少年の素朴で質素な日常
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「ふっ、わあああぁぁぁぁああぁ」
大きなあくびが一つ。
五時間目の数学の時間。おそらく下手な睡眠薬よりも、即効性で効果の強いと思われるこの時間は、僕の睡眠時間を稼ぐ時間となっている。
睡眠欲。食欲、性欲と並ぶ人間の三大欲の一種。何人たりとも逆らえない。
僕も例外ではなかった。超眠い。
前では、数学の頑固ジジイ、張本がせっせと数式の説明をしている。そして、ジジイで遊ぶ幽霊が一体。
視えるやつなら、幽霊なんてそこら中にいるもんだと分かる。例えばほら、今、数学のジジイの後ろにもいる幽霊は、さっきからずっとジジイのハゲ頭に指で角を生やして遊んでいる。ニヤニヤしながら。見えないからってやりたい放題だが、何が楽しいんだろう。
黒板には、数字と文字の羅列が並んでいる。
……僕は中二の連立方程式の段階で既に理解不能だったよ。僕の頭は既に理解することを拒否している。
僕は机にうつ伏せになって、睡眠をとる体制に移行する。
……い、……きろ、…んど……。
「おいっ、起きろ神藤っ!」
「……はぃい?…………はいっ!」
「堂々と寝るたぁなかなかの度胸だな?……放課後に職員室へ来い!」
「はい、すいませーん……」
周囲からクスクスクス……と笑い声が聞こえてくる。このやりとりも、もう数学の時間の定番となってしまった。まあ別にいいけど。
また神藤くんが怒られてる……。と私は板書を移しながら思っていた。
『やっぱり昨日の夜中に公園でバット振り回してたのと関係あるのかな……っていってもどういう関係かなんて見当付かないけど……』
授業の終わりのチャイムが鳴った。
「あー、時間か。それではここでいったん切って、続きは明日の授業で説明する。予習を忘れないようにしろよー」
気をつけー、礼ー…ありがとうございましたーと授業の終わりの挨拶が済んでひと段落。
『神藤君は……また寝てる…ここまでくると呆れすら感じなくなるなあ…』
寝ている神藤くんの下へ、友達が二人やって来る。「まーた怒られてたなお前」「いいだろ別に。人間、眠気には勝てないって」「そもそも眠気を発生させるようなお前の生活習慣が悪いんだよ」「そんな生活習慣整えられてる奴、日本人で何人いるんだよ」「知るかそんなもん」「つーかお前昨日何時に寝たの?」「んー6時」「朝じゃねえか」「ね?分かる?眠くもなるってー」「そんな遅くまで何してたんだよ」「勉強してました」「嘘つけ」「いやホントホント。三平方の定理覚えたもん」「それ中三の数学だぞ?」「……」
「気になってんのは宮原くん?滝中くん?あ、神藤くんだ!」
「!」
気づくと私の席の正面に美奈ちゃんが座っていた。彼女は私の親友だ。
「私的には宮原くんも結構なイケメンなんだけど彼女居るし……それに玲香の好みを考えるとやっぱり神藤くんのほうでしょ?当たってる?」
「そんなんじゃないって」私は笑いながら受け流す。
「そんなんじゃなきゃ、十分の休み時間七分も費やしてあの会話見てないでしょ」と美奈ちゃんは笑う。
びっくりして時計を見ると、今、一時二十二分。
授業が終わったのは一時十五分だから……嘘、私そんなに長くあれ見てボーっとしてたの?
「い、いつから見てたの?」
「授業中から玲香がちらちらどこか見てるから、何見てんだろうって視線追ったら神藤くんだったのよ」と言って美奈ちゃんはクスクス笑う。
「――――――っ!」
「告白するんだったら言ってねー、手伝えることは手伝うからさー」
「しないよっ!」
「あはははははは……」と笑って美奈ちゃんは席に帰っていく。
チャイムが鳴って、六時限目の古典の先生がやってきた。
……よし、また後で昨日のこと訊いてみよう。
「何よ、アイツ」
「だからさ、俺個人としてはやっぱり付き合いたい的な可愛さとアイドルの可愛さは違うと思うんだよ。だから勉強で傷ついた俺の心を癒すにはやっぱり二つが必要不可欠だと思うんだよなー」と、宮原は女子の可愛さについて当たり前のことを豪語する。腹立つ。ただし後半は宮原が調子に乗っているだけだ。
「アイドルオタクめ。その顔を違う方面に生かせよ」落ち葉を掃き集めながら僕は言う。
「アイドル好きで何が悪い」
「彼女に悪い」
「つーかお前、中三の夏から付きあってんだから、今もう交際3年目なわけ?ひゅー、モテるイケメンはこれだからもう……」と滝中が言う。
「いやアイツさ、他の女子とカラオケ行くだけでメチャクチャ怒るんだよ。それがちょっと……」
「「死ねリア充!」」滝中と僕の声が重なる。
「なんだ女子とカラオケって!お前あんな可愛い娘と付き合っといて何してんだ!俺なんかむさい男連中としかカラオケ行ったことねえよ!」
「お前本当に何なんだ!僕なんか女子と最後に話したの、一学期の調理実習の『ごめん、お皿とって』が最後だぞ!」
「いやいやいやいや、男女間の友情は存在してもいいはずだろ!カラオケぐらい普通だって!」
「「普通じゃねえよ!」」また重なった。
「男女間の友情は存在してもお前のハーレムなんか存在して良いわけねえだろうが!」
「何その理屈!筋通ってねえよ!」
「日本国憲法の第十四条知ってるか?全ての国民は法の下に平等なんだよ!」
「何が言いたいんだ?」
「俺も彼女が欲しいです!」
「そんなもん知るかぁ!」
宮原と滝中の口論はとどまるところを知らない。
「そもそもお前そんなに彼女欲しいっつってるけどそのための努力はちゃんとしてるのかよ?」
「当然だ!俺が中二の頃から何人の女子に告白してきたと思ってんだ?二十二人だぜ!二十二!」
「おお……結構告白してたんだお前」
「その結果二十人にフラれて、残る二人とも一週間もたなかったよ」
場の空気が一気にマイナスになった。
「お、おお、…………ドンマイとしか」
「同情すんなよぉ!」
「ああ、泣くなよ、泣くなって!よし、今日はカラオケに行こう!パーッとやろうぜ!」
「い……いいやつだなおまえっ!」と言う滝中の声は既に涙声だ。
掃除の時間に何やってんのやら。
「神藤、お前も行こうぜ!滝中を励ます会だ!」
「ごめん、僕金ないからパスするわ」
帰りのホームルームが終わった。
「来週には期末テストがあるからなー。勉強を怠るなよー。あと神藤は後で職員室の張本先生の所へ行くようにー」と担任が言って、号令がかかる。あ、そういや来いとか言われてたっけ。
起立、礼ー。さようならー。と帰りの挨拶を済ませて僕は鞄を持って職員室へ向かおうとする。
「ねえ、神藤君。ちょっといい?」と声が掛かった。
「?」と振り向くとそこには僕が片思い中の佐倉玲香がいた。へえ、半年振りの女子との会話がこんなハッピーなことになるとは思わなかった。
「私、昨日神藤君を見かけたんだけどね……その時、」
「玲香ー?何やってんのよ、帰ろーよー」
「あ、うん!……ごめん、また明日ね」
そう言って佐倉さんは友達と帰ってしまった。
……僕を見かけたって言ってたな。って事は!!
まさか僕がエロ本買ったのがバレたのか!?
「おーい!何してんだ神藤!早く職員室へ行け!」
結局、僕は数学の張本に進路についての説教を延々聞かされた後、雑巾がけをして帰った。
……本当にバレてたらどうしよう。
帰りだしたのは六時半ぐらい。秋も暮れてきたか、六時半でも辺りは完全に真っ暗だった。この道をいつも四十分掛けて、僕は歩いて帰っている。
そんなに時間掛かるなら自転車で来ればいいのに……と思った人もいるかもしれない。でも、自転車なんか使ったら、この人と話せなくなってしまう。
何の気遣いも気がかりも無く相談できるので、この時間はかなり重宝してる。
「と、いうわけなんですが……何処で見つかったと思います?姉さん」僕は佐倉さんの言ったことがまだ気になっている。
ちなみに僕に姉はいない。
「ふーん……って私が知るわけないだろう。君がそのエロ本を買ってた頃、私は知り合いとチェスをしていたよ」と、半透明の女性は言う。
「相変わらず洒落た趣味してますね」
「君の幽霊退治のほうが洒落ているさ」
「幽霊退治にお洒落も何もないですよ」
「そうかな?」
「そうですよ」
平凡な問答を繰り返す。
「というか君、その……エロ本を買った際に周囲の確認をちゃんと行ったのかい?同級生が、特に女子がいないかどうかを確認するのは基本中の基本だろう?」
「なんでエロ本購入のエキスパートみたいになってんですか。……とりあえずその辺は問題ありません。コンビ二入った時に店内にいたの、知らないパートのおばちゃんと雑誌を立ち読みしてるおじいちゃんでしたから」
「心配する要素ゼロじゃないか」
「おじいちゃんは『ザ・将棋』って雑誌を読んでました」
「無駄な情報だな」
この半透明の幽霊の女性は名を西居七花という僕の頼れるお姉さんである。以前、僕が幽霊退治で助けた人で、僕の私生活面での相談事に乗ってくれる優しい人だ。
「っていうか本当に見られてたのかい?別に周囲には誰も居なかったんだろう?」
「でも彼女は確かに僕を見かけたって言ったんですよ?」
「うーん……私には見当も付かないなあ……。でも多分、見かけられてはいてもその買ってた本がエロ本だとはバレないはずだから、大丈夫なんじゃないかなぁと思うんだけどね」
「それはそうですけど……やっぱり不安が拭いきれませんよ」
「最悪、君が人間の性欲について淡々と諭してみてはどうだろうか。理屈と歴史とその他、色々なものを交えて話すと案外男子高校生の性欲なんかしょぼいもんだと思ってくれるかもしれないぞ」
「本末転倒じゃないですか。その流れだと僕開き直っちゃってるから駄目ですし」
「あれ、確かにそうだな……いやー、年取るともう頭が働かなくなるな」
「死んだとき22じゃありませんでしたっけ」
「あれ?そうだったっけ」
「前に自分で言ったじゃないですか」
「いやー、年取らなくても頭って働かなくなるな」
「…………」
とにかく人の良いお姉さんではある。
「そういう姉さんは最近何かありましたか?」
「ああ、あれだね。最近の食べ物は美味しいな。月見バーガー超美味かった」
「それは姉さんが死ぬ前からありましたよ」
「え!マジ!?死ぬ前に食べときゃよかったよ!」
「……まさか知らなかったんですか」
「いや、私はマクドナルドに行ったらチーズバーガーのハッピーセットを食べることに決めていたんだ」
「……なんでわざわざハッピーセットを?」
「だっておもちゃ付きとかお得じゃん」
「……」
幽霊だからといって、何も皆が地縛霊さんのように暴走しているわけではない。この人のように普通に、幽霊仲間と楽しく暮らしている人達も大勢いる。
これはこの人達と話すようになってから初めて知ったのだが、幽霊でも食べ物を食べることが出来るらしい。ただし、“食べるのはその食べ物の霊体”で、つまりは食べ物の幽霊を食べるということなのだ。
ちなみに幽霊に食べられた食べ物は、「食べ物としては死ぬ」ので、味が消滅して「食べ物の食感のみを維持した何か」になる。味を失った月見バーガーなんて想像も出来ないだろう。
姉さんが月見バーガーの霊体を食べて、その「死んだ」月見バーガーを僕が食べれば、マヨネーズは「水より味の無いぬるぬるした流体」になるし、ベーコンは塩味が無くなって「ヌメッとした薄い弾力のある物体」になってしまう。
……まあこの人達は自分で月見バーガーを買えないんだけど。
「という訳でだ、普段相談に乗ってあげてるお礼として私に月見バーガーをおごってくれないかな?」
「月見バーガーもう期間終わってますよ」
「嘘だろっ!?」
「本当です。それでも良いなら来年買ってきますよ」
「んー…………よし、じゃあ仕方ないからダブルチーズバーガーを今度買ってきてくれ。ドリンクは必ずコーラだぞ」
「はいはい」
「あ、でも待ってくれ!ビックマックも捨て難いっ!」
優柔不断な人。
「…………両方買ってきますよ」
「おお、マジか!君は良い奴だな!」
「…………」
食べ物で人の性格を判断する女性も如何なものか。
時々、この人が本当に大学生だったのか疑問に思う。
「まあとにかく、君のエロ本に関してはそんなに心配する必要は無いと思うぞ?というか、君の場合は幽霊退治の方が隠さないといけないんじゃないか?」
「んー、それも隠さないといけませんけれど……それでもエロ本の二の次です」
「エロ本が最優先か・・・・・・」
姉さんは呆れたように僕を見る。
「君はなんと言うか……道端を歩いている幽霊のお姉さんにいきなりエロ本の話を振るとは、なかなかのセンスレスだと思うぞ」
「それ褒めてませんよね?」
「当然だ」
ちょっとしょげた僕。
「そんじゃあそろそろ帰ります。また明日も放課後適当にウロチョロしといてください」
「ダブルチーズバーガー、ドリンクはコーラだぞ」
「はいはい」
また明日買って来ないとな。
その日の夜、深夜一時。
僕はまた幽霊退治に出かけていた。
今日のバトルフィールドは、とある川の河川敷。
僕の霊感は悪い幽霊を探知する機能まで付いている。超便利。
本日は浮遊霊さんが相手のようだった。何体も何体も、鋭い牙をむき出しにしている。
「ウギアァァイイイイイィィィィ!!」
僕はいつも深夜に幽霊退治をしている。ただし、退治するのは悪霊だ。姉さんみたいに良い霊を僕はバットでぶん殴ったりはしない。
悪霊。「悪い」霊。名前のとおり、奴らは僕達に害しか与えない。
さっき放課後、姉さんと一緒に帰ったときに、幽霊は食べ物(の霊体)を食べられる事について触れた。
食べ物を美味しく食べている霊は良い霊だ。
人間の魂を美味しく喰らっているのは悪い霊だ。
悪霊は、人間のその魂を捕食対象とする。
自然で。
流れで。
本能で。
魂を喰らう。それが悪霊。
それが、僕の憎むべき宿敵。
だから僕はバットを振るう。
奴らを倒すために。
倒すために。
殺すために。
殺すために。
根絶するために。
殲滅するために。
殺戮するために。
僕は渾身の力でバットを悪霊に叩きつける。ドグシャッっという、おそらく普通の人間を殴ったのと変わらない感触。手が痺れる。
僕は霊を見たり触ったり、する事が出来て本当によかったと思う。
だって奴らを殴れるから。
だって奴らを殺せるから。
もしかしたら本当は、成仏できているのかもしれないが、別にそんなものは関係ない。
倒せるならそれでいい。
そう思って、僕はバットを振るうだけ。
悪霊を殴るだけ。
殺すだけ。
あとは正面の一匹だけだ!
「うおおおおぉぉらああぁぁっっ!」
幽霊退治が終了し、僕は河原のベンチに座ってコーヒーを啜っている。眠いし寒い。分厚いジャンバーも防寒対策には物足りなかった。
幽霊退治自体は3年前からやってきているけど、やっぱり冬場は気候的に辛いものがある。なんといっても寒さがヤバイ。逆に夏は熱中症で倒れそうになる。
某ゲームのようにホットドリンクでも飲んで寒さを緩和できれば良いけど、そんな便利なもんは世界中を探しても転がってないのでコーヒーで妥協。
と、幽霊退治をしてコーヒーを飲むまでは普段どおり、なのだがここで困ったことが一つ。
それは僕の横に転がっている、折れたバット(の霊体)だった。
僕は実際にはバットではなく、「バットの霊体」を振り回して幽霊と戦っている。物品の霊体の「元々の物の再現度(堅さ、質感、重さなど)」は霊体使用者の霊力に比例する。要は、「霊力が強いほど、使っている武器の霊体は本来の物体に近くなる」ということ。
逆に霊力が弱いと再現度は低くなる。バットの霊体はプリンかってぐらい柔らかくなったりプリンは醤油せんべいぐらい堅かったり(食べ物の場合、味に変動は無い)。
そして霊体といっても、食べ物は食べ物。物は物なので、消耗もする。そして僕の木製バットは3年に及ぶ消耗の結果、芯の部分からバキリと折れてしまった。
幽霊退治は僕の日課なので明日の晩までに代替品か新しい武器(もともとバットは武器ではないけど)を用意しなければならない。木刀?角材?ホッケースティック?鉄パイプ?とにかく何でも良いから攻撃可能なものだ。
ちなみにこのバット、現実で見るなら原形をとどめたまま立て掛けられているのだが、当然「バットとしては死んでいる」ので、多分現物の方も振るえば簡単に折れてしまうのだろう。
明日の放課後に早速買いに行かなきゃならない。