プレプロローグ1
プレプロローグは、作者が落ち込んでいる時に書いたため、非常に暗い話になっています。
少し覚悟して、お読みください。
カタカタカタと今日もキーボードの音が鳴る。
とある片田舎の築30年を超えた平屋で木造の安アパートの角部屋、狭い風呂トイレ付きワンルームの六畳間の一室の畳の間は、足の踏み場もなく異臭の漂う魔窟と化していた。
外界と切り離された魔界の主人は、万年床の上にキノコのように腰を下ろし、今日も朝も昼も夜もなく、自己と戦っている。
無精ひげを生やしたその顔の左側は完全に潰れており、左目と左耳もなく、顔面は醜くひきつっているが、それを無視すれば年はまだ若いように見える。
だが、肌の色も不健康で、肉付きも悪く、その瞳は腐ったサバの目の様な色合いで、全く生気が感じられなかった。
こんな生活をもう2年も続けていれば当然であろう。
彼の名は、比留間健一、表向きは全てに絶望した日本人であり、生きる屍である。
彼の両親は、観光バスの転落事故に乗り合わせ死亡しており、親戚とも疎遠で天涯孤独と言ってよい。
両親の死亡保険金を使ってのFX取引で多額の利益を得た彼には、生涯に渡り、お金の心配をする必要は無かった。
そして、左足が不自由な彼には外へ出かける意思も無く、必要以外は人と触れ合うつもりも無かった。
彼の顔は、人々に恐怖感を与える。
彼の足は、人々に憐れみを与える。
人の迷惑になる事はやらない方が良いという分別を彼は持っていた。
何より恐れたのは、自身の存在が世間に肯定される事である。
いっそ消えてしまいたかったが、クリスチャンである両親の事を考え、自分自身が楽になる為に自殺する事は出来なかった。
外との唯一のつながりはネットの世界である。
後はただ朽ちて行くだけの彼には、それで充分であった。
もちろん肉体的にまだ若い彼は、性欲も食欲も旺盛で本能的に人恋しかったが、それは彼の領土である六畳間の中でも事足りるのだから。
彼の領地への訪問者は宅配便の配達人だけであるが、目出し帽をかぶって応対する彼の真の姿を知る者は皆無と言っても良いだろう。
ゴミ出しだけは困ったが、深夜にゴミ収集業者の袋を出しておくだけの労力で済むのだから贅沢は言えないだろう。
後顧の憂いを完全に断ち切った彼の今の仕事は、匿名掲示板への書き込みである。
リアル世界でなけれは、彼は普通でいられたからだ。
この不自由で醜い容姿も、活字のみの触れ合いなら相手を不快にさせる事にはならない。
見えない相手に一方的に誹謗中傷されても、リアルの姿を見られて憐れまれたりするより遥かにましである。
それだけが、彼が自らに許した娯楽であった。
人に認められたくは無かったが、孤独に負け、正気を失う事だけは避けたかった。
匿名で正論を吐く瞬間だけが、彼には生きているという実感が感じられたのだ。
深夜三時過ぎ、大手検索サイトのコメント欄に意見を書き込む。
ある時は右、ある時は左、世間に対して少しの影響も及ぼしたくなかった彼は、過激な意見に対するアンチテーゼを示すだけに終始する。
複数の捨てアカウントを使う様な事はせず、あくまでも直球勝負であるが、自らの意見に対する反応が『そう思う』でも『そう思わない』でも、例え何の反応も無くても、それには興味が無かった。
閉鎖的で仮初の仮想世界とはいえ、人間関係や自らの評価には全く興味が無かったからだ。
全くの二律背反であり、矛盾の塊である人格の根本を成すのは虚無感であり、己に対する絶望感である。
第三者から見れば、比留間健一は壊れた人間であり、排泄物を垂れ流すだけの生き物である。
そんな存在のまま生き恥をさらし続ける事こそが、彼の唯一の希望であった。
だが、彼の希望はそれすらもかなわない。
夜明け前に彼の心臓は悲鳴をあげた。
重度の心筋梗塞が彼の身を襲ったのだ。
(早すぎる!)
自らの身に何が起こったかを理解し、苦しみにのたうつ彼が思った事は一見普通だが、その実は、都合のいい結末に対する怒りだった。
(これが神の慈悲だというつもりか? 僕の希望は、結局何一つもかなわないのか?)
確かにこのまま死んでも、たいして悲しむ人はいない。
そして、彼は苦しみから解放される。
遺言書も作成済で、残った資産は死後に係るもろもろの経費を差し引いた後、半分は2年半前に亡くなった最愛の彼女の両親へ、もう半分は、交通遺児育英会へ寄付する旨をしたためてある。
大家には迷惑をかけるだろうが、その分も含め、一千万円の迷惑料を支払う事まで記載しているので最低でも金銭的な被害は出さなくて済むだろう。
元々住人などほとんどいない田舎のボロアパートなのだから。
しばらくは文字通り、死の苦しみが彼を襲うが、逆にそれが心地よい。
こんな早く決着が着くのだから、もっともっと苦しめばいいと彼は考える。
次第に感覚が遠のき、体が動かなくなった彼が最後した事は、この二年間で初めて見せる、ひきつった笑顔を無理にでも作る事であった。
比留間健一は、この世の生を終えた。
まだ、25歳であった。
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比留間健一の物語は終わらない。
彼の意識が覚醒したのは、真っ黒い岩肌の様な物質に囲まれた洞窟の中のホールを思わせる場所であった。
大きさは、小学校の体育館を一回り小さくした位のスペースだろうか。
床に横たわったまま、意味不明な状況について思考を巡らす。
(死ねなかったのか? それとも死後の世界だとでも言うのか?)
その割には、三途の川も無ければお花畑もないこの無機質な空間は、彼の知る生前の知識とは合わない。
もっとも無神論者である彼は、死後の世界など信じていなかったので、困惑しているだけであると言える。
そして違和感に気付く。
彼は恐る恐る両手で自身の顔面に触れる。
ぺたぺたと触り何度も確認すると、驚き立ち上がって、辺りを歩き回った後に一人納得をして立ちすくむ。
(ははは、どうやら現実の僕は今、寝ているようだ。まだ死にきれてないのか。なんて都合のいい夢だ。足も動くし、顔には傷一つない。左目も見えるし耳もある)
彼の推測通り、今の姿は普通で十人並みの容姿を持つ中肉中背の日本人だ。
皮肉げな表情でじっと左足を見つめるその姿は2年半前に負った交通事故の怪我が無ければ現在はそうであったろう、彼の自我が形造った容姿である。
だが、もちろんこれは夢ではない。
その証拠が、彼の目の前にまるで魔法のように現れた。
「わっ!」
思わず声を上げる健一に、この世の物とは思えない一つ目のピエロに似た怪物が話しかける。
「やあ、君の名前は何かな?」
口が耳まで裂け鼻もなく、真っ白い肌を持ち道化の恰好をした怪物は、かん高い声を発する。
(夢にしてはリアル過ぎる。本当に死後の世界とでも言うのか?)
「名前だよ、な・ま・え。別にしゃべらなくてもいいよ。思うだけで僕には伝わるよ」
混乱して、つい自分の名前を思い浮かべる。
「なるほど、健一君か。僕は神魔プルルク、よろしくね」
恐怖に耐えられなくなり、健一は回れ右して一目散に逃げ出した。
「はふへへ(助けて!)」
二年近く喋っていない彼の口は上手く動かず、情けない叫び声がもれる。
だが、近くに見える岩肌はいくら走っても一向に近づいて来る気配が無い。
混乱のあまり転倒し、腰が抜けてガタガタ震え床をはいずりまわる。
だが、己の情けない姿をさらして、ようやく我に返る。
全身の震えは止まらないが、頬を両手でピシャっと叩き気合を入れる。
口の周りをマッサージして、簡単に発声練習する。
そうしていると、さすがに落ち着いて来た。
そうだ、今更恐怖に怯える道理など彼には無い。
一息つくと、彼は振り返る。
そこには直立不動のまま、怪物が立ちつくしていた。
健一は「ゴホン」と咳払いして、無意識に手を組み話しかける。
「何の用ですか? それと名前をもう一度言ってもらえますか?」
善でも悪でもない神魔は、何事もなかったようにニコリと笑う。
その無垢な表情は、健一を更に落ち着かせる事に成功した。
「プルルクだよ。まあ、短い付き合いになるから名前なんて覚えなくていいよ」
この異常な状況に、健一は己の精神を保つだけで精一杯で一言もしゃべる事が出来ず、ただ不安そうな瞳でプルルクを見つめる。
「そんなに不安がらなくても大丈夫さ。僕は魂の案内人プルルクだよ。用件は簡単さ、君の絶望を取り払ってあげるよ」
(全く訳が解らないが、悪意は感じない。もちろん信用は出来ないけど。それに、僕の絶望を取り払うだって? 大きなお世話だ!)
その思考が伝わったのだろう。
無表情のまま、ぺろりと舌を出したプルルクは、急に腕をパタパタと動かし始め、どうやら困惑しているように見える。
「想定外だよ、困るよ困る。君が納得しないと、絶望は取り払えないよ! そうしたら、君は転生出来ない。消滅するのも良いし、はじけ飛ぶのも良いけど、このままこの場所にずっといられると、魂が案内出来ない僕は役立たずになっちゃうよ」
あたふたするプルルクとは対照的に、二の腕にグッと爪を食いこませ、絞り出すように健一は意見を述べる。
「何がしたいのか知らないが、僕だけ救われようなんて気は起きない。それが好意でも悪意でも同じだ。僕に関わるな! このままほっといてくれよ!」
「そんな訳にはいかないのさ。君の事情を調べさせてもらうよ」
そう言うと、プルルクは健一に近づいて来る。
再び逃げようとする健一だが、体がピクリとも動かない。
プルルクの右手が健一の額に伸びる。
その3本しかない指が、アイアンクローのようにがっちりと健一の頭を固定する。
(触るな! やめてくれ!)
「痛くしないからね。怖がらなくていいからね」
体感時間で10秒ほどだろうか、プルルクの右腕が離されると、体の自由が効くようになった健一は、「ギャー!」と叫び声をあげ、頭を抱えその場にへたり込む。
「大げさだね、君の記憶を読み取っただけで痛くはしてないよ」
その言葉に、驚愕の表情でプルルクを見つめる健一。
「僕の記憶を覗いたのか? 人権蹂躙だぞ!」
「僕は人じゃないから人権なんて知らないよ。それに読み取ったのは記憶だけじゃないよ。健一君の感情そのものさ。…何これ? 馬鹿じゃないの。君の両親が死んだのも、恋人が死んだのも、君のせいじゃないじゃない。それなのに、こんな絶望感を抱えるなんて、人間って解らないよね」
「やめろ! お前に何が解る!」
「だから、僕は人間じゃないから解らないよ。でも本当に困った。こんなにおいしい絶望を食べられないなんて」
「食うのかよ! お前は夢を食うバクの親戚か何かかよ!」
その言葉に、恐らく人指し指を健一の鼻先に突きだし、不快そうな顔で反論するプルルク。
「あんな下等な夢魔と一緒にしないでよ。僕はもっと高位の存在さ」
「お前みたいな気味の悪い奴の言う事が信じられるか!」
プルルクは、突然不思議なダンスを踊り出す。
MPを吸い取っていると言われても納得するほどの不快さだ。
「そんなこと言っていいのかな? 僕は君の絶望を取り払える方法を思い付いたよ」
「気色悪いから無表情で変なダンスを踊るな! 第一、そんな都合のいい話が信じられるか! 過去に戻れるならともかく」
健一の言葉に反応して踊りを止めたプルルクは、一つ目を半眼にして笑い、一本指を立てて左右にリズミカルに振る。
「…出来るよ。君が全てを捨てる覚悟があるならね」
そう言ったプルルクの表情は、何と形容したらいいのか。
神の慈悲と悪魔の狡猾さを足した表情と表現するのが適当だろうか?
健一は思わず息をのみ、初めて目の前の怪物の話を真剣に聞くつもりになった。
そうだ、今から2年半前の悪夢、健一の人生が全て変わった日の出来事。
それが防げるのであれば、彼は何を捨てても構わないのだから。
異世界で孤児になった男を読まれた方にのみ、ご報告します。
この物語の地球は、管理者が治めている世界では無くパラレルワールドという設定です。