1話 旅立ち
近畿地方の南部に位置する片田舎で、一人の老人が天寿を全うしようとしていた。
老人の名は「中野喜三郎」、江戸時代から続く剣術道場の38代目の主であり世間では「現代の武士」等と称されている程の人物である。彼はその97年に渡る人生の幕を下ろすべく死の床についていた。
「思えば儂の人生、中々に楽しいものじゃった……
道場については孝彦、お主に任せるからの、好きにすればええわい」
喜三郎はこれまでの自分の人生を振り返り、満足そうに微笑むと、彼の孫である孝彦に声をかけた。孝彦は祖父の遺言とも取れる言葉に少し目を潤ませると、しっかりと頷き祖父へと言葉を返す。
「わかった、爺ちゃん、あっちで婆ちゃんに会ったら、よろしく言っといて」
目に涙を浮かべた孫の孝彦が答えるのを聞き、喜三郎は少し嬉しそうに微笑むと目を閉じ、ゆっくりと眠るように息を引き取った。
多くの門下生と、彼のただ一人の血縁者である孝彦は涙を堪えて、笑顔で『最後の武士』中野喜三郎の旅立ちを見送ったのだった。
「ここは、三途の河、かの…?」
喜三郎は周囲を見渡し、呟いた。
ふと気付けば、目の前には美しく大きな河があり、その周囲一面には、この世のものとは思えない程の綺麗な花畑が広がっていたのだ。
花畑には河から冷たい風が吹いていて、美しい花達は風が吹く度、ざわざわと心地良い音を響かせながら、花びらを宙空へと舞い上がらせている。
大きな河の畔には、時代劇などに出てくるような木造の渡し舟の船着場があり、その船着場には生気のない暗い顔をした人々が船に乗る順番待ちをしているようだ。
また、船着場から少し離れた所の河原には、泣きながら石を積み上げる小さな子供達の姿も見えた。
「まさしく、といった感じじゃのぅ。なら儂も船着場に行かんと。
あの河の対岸には、きっと我が愛しの婆さんが儂の事を待ってくれているじゃろうて」
一人で呟きながら周囲を観察していた喜三郎は、自身も河を渡るために、花畑の花を踏んでしまわないよう気を付けながら船着場へと歩き出したのだった。
「あのー…中野喜三郎様でしょうか?」
喜三郎が船着場に向けてゆっくりと歩いていると、背後から自らの名を呼ぶ美しい声が聞こえた。
先程、喜三郎が周囲を見渡した時には確か背後には誰もいなかった筈だ。
不思議に思った喜三郎が背後を振り返えり視線を向けると、そこには白い着物に身を包んだ銀髪の美しい少女が佇んでいた。
「うむ、いかにも儂が中野喜三郎じゃが、何か用かの?」
突然何の気配もなく背後に現れた少女に、喜三郎は少しばかり不思議そうにしていたものの、まあここは多分あの世なのだから自分の常識は通用しないものなのだろうと、早々に思考を切り替え返事をした。
少女はそんな喜三郎に深くお辞儀をすると、彼に語りかけたのだった。
「初めまして喜三郎様。私はこの『三途の河』の管理人をしている花瑠璃と申します。この度は現世での死、ご愁傷様でした。心よりお悔やみ申し上げます」
「ふぉっふぉっ、これはご丁寧に、恐れ入りますのう。
しかし、あの世で自分の死を悔やまれるとは、何とも妙な話よな」
花瑠璃の「お悔やみの言葉」に喜三郎は笑いながら言葉を返す。耳慣れた言葉ではあるのだが、その対象が自分自身であるとは、何とも可笑しなものである。
「ふむ、それで、結局何の用なのかのう? 儂は早いこと婆さんに会いに行きたいのじゃが……」
「実はですね、私の主が喜三郎様の生前の輝かしい功績を見込んで、お願いしたい事があるとの事なのです。宜しければ御足労願えますか?」
花瑠璃は喜三郎の言葉に一瞬だけ苦笑いを漏らし、すぐに真剣な表情で彼に用件を伝えた。
「…輝かしい功績のう、まあ構わぬよ。おぬしの主と言うならば、神とか仏とかそういった存在なのであろう? 流石に断るわけには行くまいて」
若干、渋い顔をした喜三郎だったが、流石に神や仏に逆らおうとは思わないし、わざわざ逆らう必要もないのだ。
「有難うございます。それでは私の船でご案内しますね」
そうして、花瑠璃と名乗る少女について行く事を決めた喜三郎は少女に手を引かれ、先程見えていた船着き場の更に上流にある船着き場へと案内されたのだった。