夏の風と星屑
向日葵の背丈が、去年より少しだけ高くなっていた。
夏の日差しをいっぱいに浴びて、黄色い花が道の両側に並んでいる。
小学生の頃は、どちらが向日葵より先に大きくなるか、二人で背比べをした。
もちろん勝てるはずなんてなかった。それでも毎年のように挑戦して、そのたびに笑った。
中学生になって、なつが遠くへ引っ越してからも、向日葵だけは変わらなかった。
そして、なつも夏になると帰ってきた。
「栞ー!」
角を曲がった先で、今年もなつが手を振っていた。
一年ぶりなのに、昨日も会っていたような笑顔だった。
「久しぶり」
「久しぶりって感じしないね」
「毎年言ってない、それ?」
「そうだっけ?」
なつが笑う。
向日葵の光の中で揺れるその笑顔が、今年はなぜか少しだけ遠く感じた。
背が伸びたからだろうか。
髪が少し長くなったからだろうか。
それとも私たちが、もう子どもではなくなってきたからだろうか。
「栞?」
「なに?」
「ぼーっとしてる」
「暑いから」
「まだ来たばっかりなのに?」
また笑う。
やっぱり、なつはなつだった。
今年も去年と同じ夏が始まる。
私はそう思っていた。
向日葵の影が伸び始めた頃、なつはふいに歩く速度を緩めた。
「ねえ、栞」
いつもより静かな声だった。
「なに?」
なつは足元へ視線を落とした。
しばらく黙ってから、小さく息を吸う。
「来年から、もうここには来られないと思うんだ」
「え?」
蝉の声だけが、急に大きくなったような気がした。
「家のことでね。たぶん、もうこっちには帰ってこない」
「……そうなんだ」
それしか言えなかった。
もっと聞けばよかったのかもしれない。
どうして、とか。
ずっと、とか。
もう会えないの、とか。
けれど、どの言葉も喉の奥で引っかかった。
なつは困ったように笑った。
「ごめんね」
「なんで、なつが謝るの」
「それもそうだね」
私は笑ったつもりだった。
ちゃんと笑えていたのかは分からない。
去年まで、別れの日には必ず言っていた。
――また来年ね。
その言葉が使えない夏が来るなんて、一度も考えたことがなかった。
それからの数日間も、私たちはいつも通りに過ごした。
昔からある駄菓子屋でアイスを買った。
「栞、またそれ?」
「好きなんだからいいでしょ」
「小学生の頃から変わってない」
「なつだって同じじゃん」
「あ、ほんとだ」
二人で笑った。
川べりにも行った。
靴の先が水につきそうなところまで降りて、並んで座った。
風が水面を滑ってくる。
「ここも変わらないね」
なつが言った。
「うん」
「私たちも変わってなかったりして」
「それはないでしょ」
「ひどいなあ」
肩が触れた。
それだけなのに、私はなぜか少しだけ体を固くした。
今まで何度もあったことなのに。
子どもの頃には、手だって普通につないでいた。
どうして今年だけ、こんなことを気にするのだろう。
なつが帰ってこなくなるから。
きっと寂しいだけだ。
私はそう思うことにした。
最後の夜、二人で夏祭りへ行った。
待ち合わせ場所に現れたなつは、淡い色の浴衣を着ていた。
「お待たせ」
「……うん」
「なに?」
「別に」
「変なの」
なつが笑う。
私はまともに顔を見ることができなかった。
祭りは去年と同じように賑やかだった。
焼きそばの匂い。
金魚すくいの水音。
遠くから聞こえる祭囃子。
何も変わっていない。
なのに全部が、もう二度と戻ってこないもののように見えた。
「栞、こっち」
人混みの中で、なつが私の手を握った。
「はぐれちゃうよ」
「……うん」
なつの手は温かかった。
昔なら何も考えなかった。
でも今は、指先から伝わる温度ばかりが気になった。
離したくない。
そう思った瞬間、胸の奥が痛くなった。
どうして。
答えはすぐそこにある気がしたのに、私はまだ見ないふりをした。
祭りの灯りが遠くなった帰り道。
坂を上ると、空いっぱいに星が散っていた。
「わあ……」
なつが立ち止まった。
「きれい」
街の灯りから離れた空には、小さな星屑が数えきれないほど瞬いている。
なつは子どものように指を伸ばした。
「取れそうなのにね」
「無理に決まってるでしょ」
「分かってるよ」
そう言いながら、なつはまだ手を伸ばしていた。
届きそうなのに、届かない。
その横顔を見ていると、なぜか胸が苦しくなった。
「私ね」
なつが空を見たまま言った。
「毎年ここに帰ってくるの、すごく楽しみだったんだ」
「この町が好きだから?」
なつは答えなかった。
しばらくして、こちらを見る。
「……それだけじゃないよ」
「え?」
「なんでもない」
なつはまた空を見上げた。
聞けばいい。
どういう意味、と。
なのに聞けない。
しばらく二人で星を見ていた。
「ねえ、栞」
「ん?」
「私が帰ってこなくなっても、忘れない?」
「忘れるわけないでしょ」
考えるより先に答えていた。
なつが目を丸くする。
それから、少しだけ寂しそうに笑った。
「……そっか。よかった」
その笑顔を見た瞬間だった。
胸の奥にあったものが、突然形を持った。
なつが帰ってこなくなるのが苦しい理由。
手を離したくなかった理由。
浴衣姿をまともに見られなかった理由。
毎年、夏が来るのを楽しみにしていた理由。
全部が一つにつながった。
――ああ。
私は、なつが好きなんだ。
今さらだった。
ずっと一緒にいたのに。
離れてからも毎年会っていたのに。
最後の夏になって、ようやく分かった。
「なつ」
「なに?」
言わなきゃ。
今日しかない。
そう思うのに、言葉が出てこない。
「私……」
なつが私を見る。
その瞳の中に、星の光が小さく揺れていた。
「……ううん。なんでもない」
「そっか」
なつはそれ以上聞かなかった。
でも一瞬だけ、何かを待っていたような気がした。
それが何だったのか、私は最後まで聞けなかった。
翌朝。
朝の光は、向日葵よりも淡くて静かだった。
なつの家の前で待っていると、玄関の扉が開いた。
なつはスーツケースを引いて出てきた。
「来てくれたんだ」
「うん」
「ありがとう」
二人とも、それ以上言えなくなった。
去年なら簡単だった。
また来年ね。
たったそれだけでよかった。
でも今年は違う。
「じゃあ、行くね」
なつがスーツケースの取っ手を握る。
「なつ」
「ん?」
今なら、まだ間に合う。
好き。
たった一言なのに。
「私――」
朝の風が吹いた。
向日葵が一斉に揺れる。
「……元気でね」
結局、違う言葉になった。
なつは少しだけ目を伏せた。
それから笑った。
「栞もね」
歩き出す。
数歩進んで、一度だけ振り返った。
小さく手を振る。
私も手を振った。
なつの姿が角の向こうに消えていく。
その瞬間、世界から鮮やかな黄色が少しだけ失われた気がした。
一年後。
向日葵はまた咲いた。
去年より、ほんの少しだけ高くなっている。
私は一人でその道を歩いていた。
角を曲がっても、手を振る人はいない。
駄菓子屋も、川も、向日葵も変わらない。
変わったのは、隣になつがいないことだけだった。
風が吹いた。
向日葵が揺れる。
私は思わず振り返った。
誰もいない。
「……いるわけないか」
自分で言って、少し笑った。
去年の私なら、それだけで泣きそうになったかもしれない。
でも今は違う。
私はもう、自分の気持ちを知っている。
なつが好きだった。
たぶん、ずっと前から。
そして今も。
会えなくなったからって、忘れなくてもいい。
好きでいたい気持ちは、止めなくていい。
なつと過ごした夏は、もう戻らない。
それでもいい。
大切な人といた時間まで、消えてしまうわけじゃない。
次にいつ会えるかは分からない。
何年も会えないのかもしれない。
それでも、不思議と心配はしていなかった。
風が、髪を揺らした。
あの夏と同じ、向日葵の匂いを運んでくる風だった。
――夏の風が吹くかぎり、きっとまた出会える。
そんな気がした。
もし、もう一度会えたなら。
今度こそ言おう。
去年、星屑の下で言えなかった言葉を。
もう、飲み込まないように。
夏風が向日葵の間を通り抜けていく。
見上げた昼の空に、星は見えない。
それでも、なくなったわけではない。
遠い空の向こうで、今もきっと光っている。
私は向日葵の道を、ゆっくりと歩き出した。
言葉にならなかったあの夏の想いを、胸の奥に残したまま。




