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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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夏の風と星屑

作者: 桜井芳乃
掲載日:2026/10/04

向日葵の背丈が、去年より少しだけ高くなっていた。

夏の日差しをいっぱいに浴びて、黄色い花が道の両側に並んでいる。

小学生の頃は、どちらが向日葵より先に大きくなるか、二人で背比べをした。

もちろん勝てるはずなんてなかった。それでも毎年のように挑戦して、そのたびに笑った。

中学生になって、なつが遠くへ引っ越してからも、向日葵だけは変わらなかった。

そして、なつも夏になると帰ってきた。


「栞ー!」


角を曲がった先で、今年もなつが手を振っていた。

一年ぶりなのに、昨日も会っていたような笑顔だった。


「久しぶり」


「久しぶりって感じしないね」


「毎年言ってない、それ?」


「そうだっけ?」


なつが笑う。

向日葵の光の中で揺れるその笑顔が、今年はなぜか少しだけ遠く感じた。

背が伸びたからだろうか。

髪が少し長くなったからだろうか。

それとも私たちが、もう子どもではなくなってきたからだろうか。


「栞?」


「なに?」


「ぼーっとしてる」


「暑いから」


「まだ来たばっかりなのに?」


また笑う。

やっぱり、なつはなつだった。

今年も去年と同じ夏が始まる。

私はそう思っていた。

向日葵の影が伸び始めた頃、なつはふいに歩く速度を緩めた。


「ねえ、栞」

いつもより静かな声だった。


「なに?」


なつは足元へ視線を落とした。

しばらく黙ってから、小さく息を吸う。


「来年から、もうここには来られないと思うんだ」


「え?」


蝉の声だけが、急に大きくなったような気がした。


「家のことでね。たぶん、もうこっちには帰ってこない」


「……そうなんだ」


それしか言えなかった。

もっと聞けばよかったのかもしれない。

どうして、とか。

ずっと、とか。

もう会えないの、とか。

けれど、どの言葉も喉の奥で引っかかった。

なつは困ったように笑った。


「ごめんね」


「なんで、なつが謝るの」


「それもそうだね」


私は笑ったつもりだった。

ちゃんと笑えていたのかは分からない。

去年まで、別れの日には必ず言っていた。


――また来年ね。


その言葉が使えない夏が来るなんて、一度も考えたことがなかった。

それからの数日間も、私たちはいつも通りに過ごした。

昔からある駄菓子屋でアイスを買った。


「栞、またそれ?」


「好きなんだからいいでしょ」


「小学生の頃から変わってない」


「なつだって同じじゃん」


「あ、ほんとだ」


 二人で笑った。

 川べりにも行った。

 靴の先が水につきそうなところまで降りて、並んで座った。

 風が水面を滑ってくる。


「ここも変わらないね」


 なつが言った。


「うん」


「私たちも変わってなかったりして」


「それはないでしょ」


「ひどいなあ」


肩が触れた。

それだけなのに、私はなぜか少しだけ体を固くした。

今まで何度もあったことなのに。

子どもの頃には、手だって普通につないでいた。

どうして今年だけ、こんなことを気にするのだろう。

なつが帰ってこなくなるから。

きっと寂しいだけだ。

私はそう思うことにした。

最後の夜、二人で夏祭りへ行った。

待ち合わせ場所に現れたなつは、淡い色の浴衣を着ていた。


「お待たせ」


「……うん」


「なに?」


「別に」


「変なの」


なつが笑う。

私はまともに顔を見ることができなかった。

祭りは去年と同じように賑やかだった。

焼きそばの匂い。

金魚すくいの水音。

遠くから聞こえる祭囃子。

何も変わっていない。

なのに全部が、もう二度と戻ってこないもののように見えた。


「栞、こっち」


人混みの中で、なつが私の手を握った。


「はぐれちゃうよ」


「……うん」


なつの手は温かかった。

昔なら何も考えなかった。

でも今は、指先から伝わる温度ばかりが気になった。

離したくない。

そう思った瞬間、胸の奥が痛くなった。

どうして。

答えはすぐそこにある気がしたのに、私はまだ見ないふりをした。

祭りの灯りが遠くなった帰り道。

坂を上ると、空いっぱいに星が散っていた。


「わあ……」


なつが立ち止まった。


「きれい」


街の灯りから離れた空には、小さな星屑が数えきれないほど瞬いている。

なつは子どものように指を伸ばした。


「取れそうなのにね」


「無理に決まってるでしょ」


「分かってるよ」

そう言いながら、なつはまだ手を伸ばしていた。

届きそうなのに、届かない。

その横顔を見ていると、なぜか胸が苦しくなった。


「私ね」


なつが空を見たまま言った。


「毎年ここに帰ってくるの、すごく楽しみだったんだ」


「この町が好きだから?」


なつは答えなかった。

しばらくして、こちらを見る。


「……それだけじゃないよ」


「え?」


「なんでもない」


なつはまた空を見上げた。

聞けばいい。

どういう意味、と。

なのに聞けない。

しばらく二人で星を見ていた。


「ねえ、栞」


「ん?」


「私が帰ってこなくなっても、忘れない?」


「忘れるわけないでしょ」


考えるより先に答えていた。

なつが目を丸くする。

それから、少しだけ寂しそうに笑った。


「……そっか。よかった」

その笑顔を見た瞬間だった。

胸の奥にあったものが、突然形を持った。

なつが帰ってこなくなるのが苦しい理由。

手を離したくなかった理由。

浴衣姿をまともに見られなかった理由。

毎年、夏が来るのを楽しみにしていた理由。

全部が一つにつながった。

――ああ。

私は、なつが好きなんだ。

今さらだった。

ずっと一緒にいたのに。

離れてからも毎年会っていたのに。

最後の夏になって、ようやく分かった。


「なつ」


「なに?」


言わなきゃ。

今日しかない。

そう思うのに、言葉が出てこない。


「私……」


なつが私を見る。

その瞳の中に、星の光が小さく揺れていた。


「……ううん。なんでもない」


「そっか」


なつはそれ以上聞かなかった。

でも一瞬だけ、何かを待っていたような気がした。

それが何だったのか、私は最後まで聞けなかった。

翌朝。

朝の光は、向日葵よりも淡くて静かだった。

なつの家の前で待っていると、玄関の扉が開いた。

なつはスーツケースを引いて出てきた。


「来てくれたんだ」


「うん」


「ありがとう」

二人とも、それ以上言えなくなった。

去年なら簡単だった。

また来年ね。

たったそれだけでよかった。

でも今年は違う。


「じゃあ、行くね」

なつがスーツケースの取っ手を握る。


「なつ」


「ん?」


今なら、まだ間に合う。

好き。

たった一言なのに。


「私――」


朝の風が吹いた。

向日葵が一斉に揺れる。


「……元気でね」


結局、違う言葉になった。

なつは少しだけ目を伏せた。

それから笑った。


「栞もね」


歩き出す。

数歩進んで、一度だけ振り返った。

小さく手を振る。

私も手を振った。

なつの姿が角の向こうに消えていく。

その瞬間、世界から鮮やかな黄色が少しだけ失われた気がした。



一年後。

向日葵はまた咲いた。

去年より、ほんの少しだけ高くなっている。

私は一人でその道を歩いていた。

角を曲がっても、手を振る人はいない。

駄菓子屋も、川も、向日葵も変わらない。

変わったのは、隣になつがいないことだけだった。

風が吹いた。

向日葵が揺れる。

私は思わず振り返った。

誰もいない。


「……いるわけないか」


自分で言って、少し笑った。

去年の私なら、それだけで泣きそうになったかもしれない。

でも今は違う。

私はもう、自分の気持ちを知っている。

なつが好きだった。

たぶん、ずっと前から。

そして今も。

会えなくなったからって、忘れなくてもいい。

好きでいたい気持ちは、止めなくていい。

なつと過ごした夏は、もう戻らない。

それでもいい。

大切な人といた時間まで、消えてしまうわけじゃない。

次にいつ会えるかは分からない。

何年も会えないのかもしれない。

それでも、不思議と心配はしていなかった。

風が、髪を揺らした。

あの夏と同じ、向日葵の匂いを運んでくる風だった。

――夏の風が吹くかぎり、きっとまた出会える。

そんな気がした。

もし、もう一度会えたなら。

今度こそ言おう。

去年、星屑の下で言えなかった言葉を。

もう、飲み込まないように。

夏風が向日葵の間を通り抜けていく。

見上げた昼の空に、星は見えない。

それでも、なくなったわけではない。

遠い空の向こうで、今もきっと光っている。

私は向日葵の道を、ゆっくりと歩き出した。

言葉にならなかったあの夏の想いを、胸の奥に残したまま。

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