『無能な写字生は破棄する』と言われたので、婚約破棄を承りました~前世は古文書修復士、指一本汚さず偽聖女の国宝破壊を証拠だけで詰ませます。なお苦情は受け付けておりません~
「無能な写字生は破棄する。私は本物の聖女を娶るのだ」
大聖堂の広間に、司教見習いフェリクスの声が高らかに響いた。
ステンドグラスから差す光の下、婚約者の彼はまるで聖劇の主役気取り。その隣には、華やかに微笑む自称・聖女ミレーユ。
わたし――アイリス・フォン・ベルナルディアは、金泥のこびりついた右手をそっと膝の上で組み直し、静かに顔を上げた。
(ああ、始まったわ。この手の茶番)
「消えかけた金泥の写本すら、ミレーユは一瞬で蘇らせる。お前のような、何ヶ月もかけて筆を這わせるだけの女はもう不要だ」
フェリクスは金糸の刺繍が入った司祭服を翻し、指を突きつけてくる。ずいぶんと長い口上だ。
要約すれば「地味な女は捨てて派手な女に乗り換える」――たったそれだけのことを、よくもまあ神聖な場所で。
前世でこういう手合いを何と呼んだか。ああ、そうだ。
(知らんがな案件、ですわね)
わたしは元・日本の古文書修復士。命を終え、気づけばこの剣と魔法の世界で辺境伯家の令嬢に生まれ変わっていた。
紙も、顔料も、経年劣化も、贋作を見抜く目も、全部持ち越して。
だからこそ、この工房で『金泥師』として筆を執ってきた。地味だと嗤われようと、下働きと見下されようと。
「あら、そんなに睨まないで? わたくしの奇跡の前では、あなたのちまちました筆仕事なんて、もう用済みですのよ」
ミレーユが扇の陰で笑う。
「――そうですか」
わたしは立ち上がり、スカートの裾を摘んで、ごく静かに一礼した。
「では、婚約破棄、謹んでお受けします」
一瞬、フェリクスの顔がひきつった。
「……は? い、いや、待て。少しは惜しむ素振りくらい……」
(やっと解放されるわ。この男の相手をせずに済む。ようやく、心置きなく筆に向かえる)
「ありがとうございます、フェリクス様。あなたの浅慮に、心から感謝を」
「浅慮? ……ふん、負け惜しみを。せいぜい、地味な余生をお過ごしなさいな」
「ええ、そうさせていただきます」
わたしは踵を返しかけ――ふと、足を止めた。
「……ただ、ひとつだけ。あなたが『蘇らせた』という、あの聖典を。退室の前に、確かめておきたいので」
***
大聖堂の奥、ガラスケースに納められた一冊の写本。
初代国王の戴冠聖典。この国で最も貴い書物のひとつだ。
ミレーユが『聖なる光』で蘇らせたと喧伝され、消えかけていた金泥は今、まばゆい黄金色に輝いている。群衆は奇跡だと沸き立った。
だが。
わたしは一歩近づき、目を細めた。
(……これ、金じゃない)
光の反射が違う。黄金の深みがない。表面のざらつき、微かな緑がかった影。
(真鍮の粉。それを卵白で溶いて塗っただけ。しかも劣化止めの処理が一切ない)
前世で、わたしは無数の贋作と本物を見てきた。この目は誤魔化せない。
「――半年後には剥落するわ。それも、原本の文字ごと」
思わず、声が漏れた。
「何をぶつぶつ言っているの? まあいいわ、負け犬の遠吠えなんて聞きたくもないもの」
ミレーユが鼻で笑う。
だが、わたしの背筋は冷えていた。
ミレーユの『奇跡』の正体。それは修復ではない。見栄えだけを整えて、下地ごと塗り潰す破壊行為だ。
真鍮は時とともに変色し、卵白は乾いて縮み、やがて塗膜ごとぼろりと剥がれ落ちる。その時、下にあった千年の文字は――もう、どこにもない。
彼女は各地の国宝級写本を、次々に潰していた。
(この国の記憶が、消える。ギュンターさんが、リゼットが……彼らが命を注いで守ってきた頁が、この女の虚飾のために失われる。――冗談じゃない)
わたしは静かに拳を握った。
(喚くつもりはない。泣くつもりもない。わたしの流儀は、ずっと決まっている。……指一本汚さず、証拠だけで詰ませる)
幸い、切り札はもう三年前から仕込んである。
彼らは知らない。わたしが密かに、本物の金で――もう一冊を仕上げていたことを。
***
工房に戻ったわたしは、まず机の抽斗を開けた。
取り出したのは、色褪せた革表紙の手帳。前世の記憶が蘇ったあの日から、ずっと書き溜めてきた顔料分析の記録だ。
「金泥師様。……本当に、お辞めになるので」
かすれた声。振り向くと、腰の曲がった老写字生ギュンターが立っていた。羊皮紙とインクの匂いを纏った、この工房の生き字引。
「ええ。でも、心配は要りません。辞める前に、片付けていく仕事があるので」
「金泥師様……!」
そばかす顔のリゼットが駆け込んでくる。顔にはいつも通り顔料の染み。
「あの、あたし、ミレーユ様の写本、変だと思うんです。きれいなのに……なんか、こわい感じがして」
「――正解よ、リゼット」
わたしはこの子の頭をそっと撫でた。
「あなたの目は正しい。あれは、蘇らせたんじゃない。殺したの」
「こ、殺した……? 写本を、ですか……?」
「ええ。表面だけ塗り潰して、下の千年の文字ごとね。……だから、証拠を揃えるの。数値と根拠で、覆せない形にして」
わたしは机に向かい、退職届をしたためた。そしてその横に、もう一通。
前世の科学知識を総動員した、顔料分析の鑑定書。真鍮と純金の反射率の違い。卵白媒剤の経年収縮率。金泥の剥落までの推定期間――半年。すべて数値と根拠で裏付けた、覆せない証拠の束。
「金泥師様……その、宛先は」
「王立文書院長、アルベリク様。派手な世論に流されない、この国で唯一、本質を見抜く眼を持つお方。……この鑑定書なら、必ず届くわ」
「でも……ミレーユ様のほうが、みんなに信じられていて……本物なのに、地味だから、誰も見てくれなくて……」
リゼットが俯く。
わたしは狼毛の細筆を手に取り、光にかざした。
「リゼット。ひとつだけ、教えておくわ」
細筆の穂先が、静かに光を弾く。
「本物は、静かなの。騒がない。ただ、千年先まで輝き続けて――時が来たとき、勝手に真実を語りだす」
初代国王の命日は、三日後。
大聖堂で、戴冠聖典の御開帳が行われる。
フェリクスとミレーユが、得意げに『奇跡』を掲げるその日が。
(さて――そろそろ、時が来るわね)
***
初代国王の命日。
大聖堂は、国中の貴族と聖職者で埋め尽くされた。玉座には国王その人が臨席している。
祭壇の中央、ガラスケースから恭しく取り出された戴冠聖典。
フェリクスとミレーユが、それを高々と掲げた。
「ご覧あれ! これぞミレーユの聖なる奇跡! 消えかけた初代国王の聖典、この黄金の輝きに蘇りしを!」
フェリクスの声が朗々と響く。相変わらず、長い。
「ふふ、皆さま、とくとご覧くださいませ。これが、選ばれし聖女の御業……」
ミレーユが勝ち誇った笑みで頁を開く。黄金がきらめき、群衆がどよめいた。
わたしは会衆の後方で、静かにその時を待っていた。
(三日前――いや、三年前から、この結末は決まっていた。暖炉と蝋燭と人いきれで、この広間の気温は上がりきっている。塗膜が、限界を迎える温度に)
――ぱき。
小さな音がした。
ミレーユの掲げる頁の、金の表面に、細い亀裂が走る。
「……え?」
彼女の笑みが凍りついた。
次の瞬間。
ぼろり、と。
黄金色の塗膜が、まるで枯葉のように頁から剥がれ落ちた。ぱらぱらと、金色の粉が祭壇に降り注ぐ。
剥がれた下から現れたのは――
何もない、真っ白な頁だった。
文字も、装飾も、初代国王の戴冠の記録も。すべて塗り潰され、削り取られ、完全に失われた、白紙。
「ひっ……! な、なに、これ……嘘、剥がれ……剥がれてくっ……!」
ミレーユが聖典を取り落とす。
「な……なぜだ、なぜ剥がれる、そんな、ミレーユ、これはどういう――」
フェリクスの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「ち、違うの、これは……こんなはずじゃ……わたくしの奇跡が、なんで……」
広間が、しんと静まり返り、そしてざわめきが津波のように広がっていく。
「文字が……国王陛下の御記録が……」
「消えている……!」
そのとき。
会衆の間を、白髪の老紳士が静かに歩み出た。
文書院長、アルベリク。
「静粛に」
たった一言。だが、その声には広間を鎮める重みがあった。
「今、皆が目にしたものが、ミレーユ嬢の『奇跡』の正体だ。真鍮の粉を卵白で溶いた、まがい物の金泥。劣化を止める処理は一切ない。彼女はこれを各地の国宝に塗り、下の文字を永久に葬ってきた」
「そ、そんな、わたくしは、聖なる光で……!」
「聖なる光で、真鍮が金に変わるとでも?」
アルベリクは眉ひとつ動かさず、懐から一通の書状を取り出した。
「三日前、私はある鑑定書を受け取った。顔料の反射率、媒剤の収縮率、剥落までの推定期間――半年。すべて数値で裏付けられていた。そして今日、その予測は寸分違わず的中した」
彼はゆっくりと会衆を見渡す。
「この聖典の、真の修復者を紹介しよう。――金泥師、アイリス・フォン・ベルナルディア嬢。彼女が三年をかけ、“本物の金”で保存処理していた控えが、こちらだ」
ざわり、と人々が振り返る。
わたしは、後方から静かに歩み出た。
右手に、一冊の写本を抱いて。
祭壇の光の下で、その頁を開く。
――黄金が、燃えた。
(偽物の安っぽい輝きとは違う。深く、静かで、吸い込まれるような本物の金の光)
初代国王の戴冠の記録が、一文字も欠けることなく、千年先まで生き続ける姿でそこにあった。
広間から、感嘆のため息が漏れる。
「あ……ああ……金泥師様、これ……これが、本物……」
リゼットが涙を頬に伝わせて写本を見上げていた。
「……この輝きを、待っておりました。何十年も……この頁を、守るために……」
ギュンターが、皺だらけの手で口を覆う。
わたしは、フェリクスを見た。
青ざめ、震え、崩れ落ちそうな元・婚約者を。
「フェリクス様」
「あ……アイリス、待て、私は……」
「何ヶ月もかけて筆を這わせるだけの女は不要、でしたね」
彼の喉が、ひゅっと鳴った。
「ち、違う、あれは、その、言葉のあやで……!」
「ええ。不要な女は、去ります。――この、千年輝く頁を残して」
「待ってくれ、頼む、私はまだ、司教への……!」
わたしは、微笑んだ。喚きもせず、ただ静かに。
「なお、苦情は受け付けておりません」
***
断罪の後、事態は速やかに動いた。
ミレーユの『奇跡』は国宝破壊の重罪と断じられ、その虚飾は一切合切、崩れ落ちた。
それを見抜けず担ぎ上げたフェリクスもまた、司教への道を永久に断たれた。彼が最後に見たのは、去っていくわたしの背中と、人々が本物の写本に向ける敬意の眼差しだったという。
(失ってから気づく、ね。まあ、あなたにはお似合いよ)
わたしは大聖堂を出て、ひとつ息をついた。
と――回廊の柱の陰に、大きな影が立っていた。
長身。精悍な顔立ちに、うっすらと浮かぶ鱗の名残。竜人だ。冷酷な武人のような、鋭い目つき。
この一件を、陰から静かに見守っていた顔料商――レオンハルト。
『竜血の顔料』を扱う、寡黙な男。社交界の誰もがわたしを侮る中、ただ一人、わたしの仕事に敬意を払ってくれていた人。
「レオンハルト様。見ていらしたのですか」
声をかけると、彼はぐっと眉を寄せ、口を開いた。
「……あなたの、金は」
低い、震える声。
「はい?」
「あなたの金は、千年後の誰かを泣かせる」
そして。
この冷酷そうな竜人の武人は――ぼろぼろと、涙をこぼしていた。
「……俺は、もう泣いているが」
「えっ」
武骨な指で、彼は目元を拭う。だが涙は止まらない。
「……良い仕事を、見ると。……止まらん。すまない」
(この冷酷そうな竜人が、ぼろぼろと……このギャップは、反則では?)
「……いえ。むしろ、光栄です」
「金泥師様!」
そこへリゼットが駆けてくる。ギュンターも、ゆっくりと後に続いた。
「あの、あたし……あたし、金泥師様みたいになりたいです! 本物を、守れる人に!」
そのまっすぐな瞳に、わたしは頷いた。
「――ええ。一緒に守りましょう。この国の記憶を、次の千年まで」
「金泥師様……いえ、工房長。……このジジイも、まだ筆が持てますぞ」
「頼りにしております、ギュンターさん」
この子たちのために。この国の記憶のために。もう、地味だと嗤われる工房ではなく――堂々と本物を守れる場所を作ろう。
数日後、わたしは新たな国立写本院の工房長として迎えられた。隣には、涙もろい竜人の顔料商。第一期生には、目を輝かせたリゼット。
レオンハルトが、赤い顔料の瓶をそっと差し出す。
「竜血の、朱だ。……あなたの金と、合うと思う」
また少し、目が潤んでいる。
「ありがとうございます。……また、目が潤んでいますよ」
「……気のせいだ」
「ふふ」
わたしは狼毛の細筆を手に取り、真新しい羊皮紙に向かった。
消えかけた頁も、失われかけた記憶も、この手でもう一度この世に呼び戻す。
「さて――」
筆先に、本物の金を含ませて。
「消えかけた頁を、もう一度この世に呼び戻しましょうか」
窓の外では、竜人がまた、こっそり涙を拭っていた。
――新しい日々は、静かに、黄金色に輝きはじめる。




