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どんな紫音も紫音

私は花城美咲。どこにでもいる、ごく普通の主婦。

いえ、今どき専業主婦でいさせてもらえるなんて、少し珍しい方かしら。

そこは「一流商社勤め」という看板を背負って家族を養ってくれている、愛する夫の剛志さんに感謝ね。


そつなく何でもこなす頼もしい長男の陽翔はるとに、ちょっと引っ込み思案だけど、お花のように可愛らしい自慢の娘、紫音しおん

これといった波風もなく、私たちは「平和」という名の幸せを絵に描いたような家族だった。


……あの日、紫音が階段から落ちるまでは。


病院のベッドで、ようやく目を覚ましてくれた娘。

その無事を神様に感謝したのも束の間、私の心はざわつき始めた。


「紫音。お腹、すかない? あなたの好きなメロンがあるわよ」


美咲は精一杯、明るい声を絞り出した。

けれど、返ってきたのは、見たこともないほど優雅で、それでいてどこか遠い、完璧な微笑みだった。

その微笑みに、胸が締め付けられる。


……この子は、本当に私の娘?

いけないと分かりつつ、やっぱり思ってしまう。

耐えられず、一度部屋を出てしまった。


自分の娘に他人として扱われることが、これほどまでに苦しいなんて。

でも、泣いてちゃダメ。

一番不安なのは、真っ白な世界に放り出された紫音自身なんだから。

「……大丈夫。生きていてくれた。それだけで十分じゃない」


先生から受けた説明が、頭の中で何度もリフレインしていた。

「階段から落ちたショックによる、逆行性健忘の可能性があります。

身体に異常はありませんが、記憶が抜け落ちたり、一時的に人格や言葉遣いに変化が現れるケースもあります」


部屋に戻って、何とか紫音に笑顔を向ける。

そのとき、おかしいなと感じた。

あんなにおどおどして、語尾を濁してばかりいた紫音が、今は背筋をピンと伸ばし、聖母のような慈愛に満ちた目で私を見ている。


……単なる記憶喪失?いや、違う。この違和感、何かが決定的に「ズレ」ている。


紫音が口を開く。

「美咲様、お心遣い、痛み入りますわ。

ですが……そのメロンとやら、毒見はお済みかしら?」

「……はい?」

「あら、失礼かとは存じますが、さすがにねえ。

わたくしも、最低限の警戒心はございますわ」


優雅に笑う娘。……いや、毒見って。

ここ、総合病院の病室なんだけど。

それからというもの、紫音との会話は平行線をたどるばかりだった。


私が「スマホに友達から連絡きてるわよ」と教えれば、紫音は「この魔導具は、中に小人が住んでいるのかしら?」と液晶を裏返して真剣に観察しはじめる。


さらに、看護師さんが検温に来れば「自身で服を捲るのは……専属の侍女をお願いできないのなら致し方ありませんね」と頬を染めながらも、決死の覚悟を決めたような顔で袖をまくり上げるのだ。


深刻な状況なのはわかっている。

記憶喪失という診断も出ている。

なのに、紫音のおかしな振る舞いがいちいち「中世の貴族」を全力で演じているコスプレイヤーにしか見えず、私の脳がエラーを起こしそうになる。


ベッドの上の紫音は今、飽きずに自分の顔を鏡で不思議そうに見つめている。

その瞳には、かつての紫音が持っていたおどおどした色はなく、凛とした、それでいてどこか困惑したような光が宿っていた。


剛志さんは海外出張ですぐには戻れない。陽翔も仕事で忙しい。

今、この子を支えられるのは私しかいないのだ。


たとえ、これまでの思い出をすべて忘れてしまっていたとしても。

私が彼女の母親であるという事実は、何一つ変わらない。


「好きなもの? それは、誰の記憶かしら」


そんな寂しいことを言わないで、紫音。

あなたが忘れてしまったなら、私が全部、もう一度教えてあげる。

あなたの好きな食べ物のこと。

あなたが大切にしていたぬいぐるみのこと。

そして、あなたがどれほど愛されて育ってきたかということ。


「……さあ、美咲。しっかりしなさい」


私は頬を両手で軽く叩いて、気合を入れ直した。

その時だった。


「美咲様。わたくしの身体は心配ありませんわ。

例の『エムアールアイ』なる拷問器具の試練も耐えて、異常がなかったということでしたし。

公爵令嬢の誇りにかけて、さらなる拷問があっても耐え抜きますわ!」

大真面目な顔で、グッと拳を握る紫音。


その瞬間、私の何かがプツリと切れた。

「……ぷっ……あは、あはははは!」

堪えきれず、私は吹き出した。

「拷問器具って。まあ確かに拷問みたいなもんか?」

「あら、お母様?わたくし、至極真面目に……でも良かったですわ。

少し元気が出たみたいで」

「……!」


涙を拭いながら笑う私を、娘は困ったような、でもどこか安心したような顔で見つめている。

そう、言葉遣いが変わっても、記憶がなくても、目の前にいるのは紛れもなく私が産んだ紫音だ。

この真っ直ぐで、一生懸命で、いつも家族に優しい瞳は変わっていない。


この子が「わたくしは公爵令嬢ですわ」と言い張るなら、付き合うしかないじゃない。

私はこの子の母親。

上等、どんと来いよ。


「いいわ、紫音。その公爵令嬢?

私はいつでも紫音の一番のファンよ」

「……? よくわかりませんが、お母様が元気になられたなら、それが一番ですわ」

そう言って微笑む娘に、私は今日もメロンを差し出す。


紫音は紫音。

たとえ中身が公爵令嬢になっていても、この子が私の愛する娘であることに、変わりはないのだから。

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